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古代史 邪馬台国 神話 建国コミュのエーベルさんの動画を議論する

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エーベルバッハさんが動画配信を最近やっておられて、これまで書いた記事の総集編のようなことをやっておられるので、何か意見があればぜひ教えてほしいというご本人の希望があり、トピだてすることにしました。

しゃべっているので結構間違ったことも言ってますが(笑)あんまり忌憚なく語り合えるといいなと思います。

コメント(31)

よろしくお願いします。エーベルバッハです。本名名乗っていますが(笑)ミクシー内ではエーベルバッハ少佐です。
ブログを1000記事分くらい書いてきましてそれを動画で話してみようと思いました
動画のほうがぼくの地図を使う説明には向いていると思いました。

帯方郡から邪馬台国までは12000里だという。

では地図でその距離を確かめてみよう
>>[2]
結局一里の長さ次第では奈良でも九州でも可能となる話ですね。
12000里というのが、魏の中で別に記録されてる国はあるでしょうか。
チベットに合わせた話でしょうか
>>[2]

全然関係ありませんが・・・・・
動画の中に出てくる男性は
「エーベルバッハ少佐さん 」ですか(笑)?
>>[3]

一里の長さをどのぐらいで見積もるにしても、帯方郡から狗邪韓国までの距離:狗邪韓国から邪馬台国までの距離=7:5
の割合は変わりませんから奈良は厳しいと思います。
>>[2]

帯方郡から狗邪韓国までは海路だったんじゃないかと僕は思います。
造船技術と航海術が未熟な日本から帯方郡まで行くのなら海路よりは朝鮮半島内の河川を遡上した方が安全だと思いますが、漢の時代既に帆船をもっていてベトナムまで海軍で遠征していた中国にとっては、朝鮮半島内を通って狗邪韓国まで移動し現地の人が使う丸木舟を改造したボートで命がけの渡海をするよりは、帆船で狗邪韓国まで航海しそのまま対馬海峡を渡った方が速くて安全だったと思います。
そうなると一里はもう少し長くなり、フミ国から南に1300里は熊本県北部ぐらいになるのですが、考古学的な裏付けは十分であるにもかかわらず、そこは狗奴国があった場所とされあまり賛同は得られません。
しかし、個人的には狗奴国は九州のなかでも瀬戸内や近畿の文化的な影響が強くて九州のなかでも異質な宮崎にあったのではないかと思ってます。
>>[5]

やはりそうでしたか(笑)
それでは遅ればせながら・・・・

「よぉっ!いい男!」(笑)
>>[7] ベトナムとやりとりしていたのは、魏の時代は呉であり、魏は中原の国で内陸民だと思うのです。
>>[8] ありがとうございます。お世辞でも気持ちいいで言葉です(笑)
>>[9]

ベトナムに10万の水軍を送ったのは魏ではなくその前の漢です。
そしてその時の造船技術は魏に引き継がれたと思います。
もし引き継がれてなかったら魏の後継の晋の時代に呉に勝る水軍を編成し呉を征することはできなかったと思います。
魏は呉のように艦隊を編成して軍事行動するには至らなかったかもしれませんが、外交の為に帆船一隻を送るくらいの事はできたと思いますよ。
>>[6] 女王国までの12000里というのが書かれた場所が思い切り距離に無縁な中途半端なところでしたね。
女王国の首都までの距離なのか、女王国の国境までの距離なのかでも違ってくるかと思っています。
>>[11] 中国世界は南北で完全に分かれます、古代では。だから漢といってもその技術は長江にあったと考えます。だからそれは呉には継承されても魏にはいかない、魏はそもそも水軍が不要です
>>[13]

北側の国が造船技術を持ちえないのだとしたら、呉と対立していた晋もまた北側の国ですよね。実際は呉に勝る水軍を作って呉を滅ぼしてますよ。

魏に水軍が必要だったかについては三国を統一する為には必要でしたよ。
そして一度はその水軍を持ちつつあったのですが赤壁の戦いで大打撃をこうむりそこから再建できなかったわけですが、無かったのは技術ではなく軍事予算だったのでしょう。蜀が滅び、呉に集中できるようになったことで水軍を再建できるようになったのだと思います。
もっともそれを実現したのは魏の後継の晋ですが
>>[12]

女王が都とするのが邪馬台国。帯方郡から女王国まで12000里と書かれているので、女王国は倭国の首都が置かれている邪馬台国を指していると思います。
こんなのありますよw

はたして卑弥呼の時代にgoogleアースのごとく倭の位置を認識いていたのか疑わしいですね。

(参考url http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/528021/page/83113)


こちらは朝鮮側の古地図

同じ地図のようですが倭の部分が違います

(参考url https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/022100158/?P=10)
>>[16]

これ、両方とも李氏朝鮮が作った「混一疆理歴代国都之図」ですね。
李氏朝鮮の朝鮮人が元代の中国の地図を入手し、朝鮮半島と日本列島を書き加えてます。そして日本の部分は日本の行基図か日本扶桑国之図を入手してコピペしていると思います。
日本は地図を掛け軸?にしたがるのかどちらも縦長で九州を上に書く為、上が北ではなく西になりますね。
古代の中国人の日本列島の方角に対する認識が90度ずれている証拠とされてますが、中国人は無関係ですし、方角に対する認識が90度ずれているのは日本人だと思います。(北を上にする常識が無い)
二枚目はそのずれに気が付き修正したのでしょうね。
>>[20]

混一疆理歴代国都之図の一世紀程前に作られた「東南海夷図」だと当時の中国人の認識に近いと思います。
それだと日本は東西に連なる3つの島で構成されていて、朝鮮半島の南西にあり、揚子江の河口から真東に行くと九州の南端に着く位置関係は正確ですね。
ただ3つの島の形はラフなもので、一番西の島は書かれている地名から九州なんだろうなとわかるのですが、真ん中の島は中国地方と四国がくっついた感じで、一番東の島は近畿、東海、中部地方で一つの島になってる感じですね。
そして真ん中の島には徐福の文字があり、九州、四国、本州を認識していたというよりは徐福が伝えた東方の三神山「蓬莱・方丈・瀛州」をあてているように思えます。

西暦230年、呉の孫権は、徐福の子孫が時々亶州から交易に来る。嵐に合うと亶州に流されることがある。亶州は会稽の東にある。という民間からの情報を元に一万の水軍を亶州に送りました。幸い亶州にたどり着けづに失敗に終わりましたが、3世紀の中国人の認識も「東南海夷図」に近かったんじゃないかと思います。
それにそもそも揚子江の河口から黒潮に乗って和歌山あたりまで航海すると、霧島連山、四国山地、紀伊山地とほとんど山ばかりの島が3つあるよに見えますよね。
中国人の視点を考えた場合、朝鮮半島経由の使者の視点とは別に揚子江の河口あたりからの民間の視点もあるように思えますね。
>>[21] なるほど。山ばかりの風景。
南から来た時の風景。それは面白い着想ですね。一方、日本海は沿岸部は割と平らかのような気がしますね
>>[22]

漢書地理志、燕地「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」
この記述は邪馬台国以前の倭国の記述として有名ですが、それと対をなすように書かれている
漢書地理志、呉地「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」
の記述は無視されがちですね。

楽浪郡とは別に会稽の方に朝貢していた日本人がいたことを示唆していますが、吉田武彦氏は「会稽海中」ではなく「会稽海外」なのは東シナ海のさらに先から来ているからで、東鯷人という呼称も東の端の人の意味で、日本の銅鐸文化圏から来ていた人達だったのではないかと推測してますね。

どことなく日本とかぶる東方の三神山をはじめとする東方のユートピア的な中国の伝承は、中国人と東鯷人の交流の中で話が盛られてできてるように思えますね。
>>[2]
動画拝見しました。とても面白い内容でした。
当時の有明海は現在よりかなり内陸に位置していたようですので、当時に照らし合わせたGoogleアースができればより楽しめそうですね。
>>[24] ありがとうございます。これからもチャレンジしたいと思っています。よろしくお願いします
実証的でもなく、比較研究的でもなく、聞きかじったことを地図を眺めながら想像したことを話しています
>>[27]

最終的に残った近畿側(分家)の歴史を正とすると九州側(本家)から乗り込んだぽい応神天皇の正当性はかなり怪しくなりますから、そしてそこが怪しくなると応神天皇の子孫であることだけを正当性の根拠とする継体天皇の正当性が怪しくなりますから、そもそも九州側の血の方が正当であることを強調するストーリーが考えられた可能性はありますね。
なるほど、応神天皇はずっと大和の血筋だけど、先祖は九州だということ、そうすることが神武東征と考えるとひとつのつじつまがあいますね

継体天皇はこの流れでいくと、九州から大和に向かった応神天皇のほかに
九州から日本海を東へ向かって越、富山と福井を支配した同族の子孫という海人族の子孫という木がしてきますね。

次は継体天皇への空想を考えて見たいものです
>>[29]

最近、瀬戸内海は潮の流れが複雑で、古代の手漕ぎボートで横断するのは不可能だったのではないかとの説が有力ですね。
手漕ぎボートで横断できたのは、潮の流れを知り尽くした吉備の海人族か中世の村上水軍ぐらいって事なんでしょうね。
となると当時東方移民に使われる海路は日本海ルート一本。
そして、日本海ルートで当時の水田適地である湿地帯が平野全体に広がり、多くの人口を抱えられそうな福井平野を得て発展したのが邪馬台国ではないかとの説を唱える学者もいますね。
まあ、邪馬台国があったかどうかは定かでは無いですが、地政学的に下手したら近畿以上に発展の可能性がある場所で、後世、継体天皇を輩出したのもうなずける感じですね。


新羅本記を年表にするとこうなるそうです。
この年代は高句麗好太王の碑とある意味一致しています
400年ごろ倭人の大軍が来たと両方書かれています

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