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哲学 Φιλοσοφιαコミュの善(と悪)について2

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前回はwikiから引用したので今回はコトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%96%84-87958
AIのまとめ
「コトバンクにおける「善(ぜん)」は、「よいこと」「道義にかなっていること」「道徳的に正しいこと」を指し、「悪」の対義語として使われ、「善行」「善を積む」のように使われますが、古語では「巧みに」「十分に」といった副詞的な意味や、「よくする(上手にする、念入りにする)」という動詞としても用いられ、仏教では「この世も未来も幸せにする種まき」というニュアンスも持ちます。」
善は悪の対概念で悪がなければないわけです。
キリスト教では基本は一元論ですが、そうなると善悪はないということになりますが。。。
実際には悪も悪魔もある。。
参考:西田幾多郎
「善の研究」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946_74853.html

コメント(33)

『善の研究』の最終的なねらいは、「善とは何か」という問いに答えることでこのトピに関係が深い気がします。
倫理の教科書にはその西田のいう「善とは、一言にていえば人格の実現である」とされていたりする。
そして、善は人間の中に「可能性」として伏在しており、いかにしてそれを開花させていくかが重要であるとしめる。
性善説に立つことは明らかである。

キリスト教思想では性悪説でそもそも人は生まれつき悪いという(創世記「失楽園」「ノアの方舟」の物語辺りに描かれる)。
「善悪」という概念そのものが倫理道徳価値概念だから、その外側に出た議論は出来ない。だから、善悪の地面を深掘りしてゆくわけだが、価値概念である限り、その認識と判断において、事実のそれとは確実に分離して考えなければならないという注意点を忘れてはいけない。
二元論の功罪で言うと、善悪という二値主義でしか物事を考えられないことの不幸は深刻だ。生活、ひいては人生のスケールで言って、何事にも、never や must を自他問わず強いると、物事の限界が近い。 逆に、常に逃げ道を探し続ける臆病も問題だが、生活や人生には余裕(あそび)があったほうが、いざというときの対処は出来るものだ。 
"哲学が好き"コミュニティの「物語を求める理由」に書き込みましたが、こちらで叩いて貰うのが良いかと(これルールに抵触してませんよね)
この思索は、非常に思慮深い"善""悪"の象徴からスタートです。

「アリシア・エッドア仮説」

善のアリシア人、悪のエッドア人、両者はE・E・スミスのレンズマンシリーズで描かれた宇宙の二大種族、両者とも、種族として宇宙の歴史の半分にも及ぶ非常に古い歴史を持つ。
個人の寿命もほぼ無限(数億年単位に)に及び、その思考能力はラプラスの魔に比肩できる程。

前提
アリシア人は調和と平和を好み、エッドア人は闘争とその結果の序列による支配を好む
アリシア人は宇宙の平和を好むが、自分たち自身の幸福も犠牲にはしないと仮定する。
エッドア人を利己的遺伝子に突き動かされて行動すると仮定する。
両者の行動は、十分な思考能力を使った思索の結果であり、それぞれ意図を満足する最適な行動に限りなく近い。

結論
両者の行動は、外部からは区別できない。

結論からの推論
「善」と「悪」は十分な思索の結果の行動としては、同一のものである。


などと考えました。何か粒子と波動の二重性を思わせる、不確定な結論に達しましたが、妥当性を考えてみて下さい。

その後、進化的に安定な戦略(evolutionarily stable strategy、ESS)を合わせて考えると、両者は等価:アリシア人はエッドア人のなれの果て となります。
先に挙げたアリシア・エッドア仮説の検討で、
十分思慮深い行為者の行為は意図の"善意""悪意"はあっても、その行為を「善」と「悪」に分離不可能な例を挙げて、それの一般化が妥当かどうか、考察してください。

例として、柚月裕子「盤上の向日葵」を援用する、映画化もされたのでその登場人物・東明重慶(映画では渡辺謙が演じていた)。彼は市中の真剣師(賭け将棋のプロ)である、作中では最強の将棋の実力者として描かれている。

A:東明が、金に困り、市中の将棋自慢から、賭け将棋で金を巻き上げてやろうと"悪意"で放った一手(というかこの対局全体)。
B:東明が、見所があると認め、この男上条桂介(演:坂口健太郎)を鍛えてやろうと"善意"で放った一手(というかこの対局全体)。
 (ここでは“善意/悪意”を評価ではなく“意図の種類”として使う)

この"十分な思慮(差し手の応酬の検討)"の結果のA,Bに「悪」「善」の区別をつけられるか?

これを「一般化する」のは容易。よって「善」と「悪」は、行為者の意図では判別できない→意図とは独立である。

好き/嫌い、とは評価ではなく、出会いによって立ち上がる生成的運動である。 という定義が一つある。
 好き嫌い、と良し悪し、善悪、はそれぞれ違うディメンションの概念ではあるが、人間の感情に非常に強く関わる価値概念であることには違いない。 善悪という概念は、二値主義的に対照概念と見るか、ある事象に対する人間の認識と判断の意識の生成の過程や結論と見るかによって現実事象での様相としての意味付けが変わって来るのではないか? ニーチェの『善悪の彼岸』と対照的に見るとどうなるのだろう?
西田幾多郎『善の研究』には、行為者の内面的構造や自己の在り方から
「善」を捉えようとする力強い試みがありますが、
あれから100年を経て私たちが置かれている状況は大きく変わっているようにも思えます。

たとえばアリシア・エッドア仮説を前提にすると、
「善」「悪」は行為者の意図そのものより、
 “その行為を観測する側の立ち位置”に大きく依存しているのではないか?
という問いが自然に生まれてきます。

この観測者依存性を認めると、
行為者の意図が“善意”でも“悪意”でも、
観測者の構造・情報量・力関係によって評価は反転し得る。

もしこれが一般化できるのだとすれば、
西田の時代とは異なる“善悪の成立条件”を
私たちは生きていることになるのかもしれません。

皆さんは
善悪はどの程度まで「観測者の位置」によって規定される
と考えますか?
あるいは、行為者の意図にこそ本質があるのでしょうか。

ご意見を伺いたいです。
「善」「悪」は行為者の行為とは独立に、観測者がその行為について評価したモノ。というのがアリシア・エッドア仮説からの推論です。
これが妥当かどうか、例を挙げて考察しましょう。

イランアメリカ大使館人質事件におけるアメリカの軍事作戦「イーグルクロー作戦」これは実際にはヘリコプターのトラブルで作戦中止となった。この状況を、固有名を外し、構造だけ見ていこう。

I国内にあるA国の大使館をI国革命政府とそのシンパが占拠し、大使館員を人質にした。それをA国の政府の軍事ミッションで、大使館に拘束されている自国大使館員をI国外へ移動させようとした。この作戦のために精鋭部隊が準備され、このミッションの妨害をする勢力を武力で排除することも想定された。そしてこの作戦は遂行された。と考えよう。

I国革命政府とそのシンパから見ると、これは「侵略」である。A国大使館員から見ると、これは「救出」である。そして第三者であるB・C・D・・・の「政府」「報道機関」「市民」から見ると・・・・・それぞれの立場のグラデーションをもつ「評価」が成される。

「侵略」「救出」や「逡巡の末の決行」「軍事的優位の誇示」「世紀の愚行」・・・・などこの行為に様々な評価が付くでしょうが、評価をするのは行為の当事者ではなく、行為の対象となる者、行為を直接受けない第三者、この両者がこの行為を評価する。
ここに行為者の意図は、その評価と無関係つまり独立、と考えます。
この一例だけでなく、世の行為に「善」「悪」ここまで極端でなくとも、「肯定的評価」と「否定的評価」を下すのは、行為者ではなく観測者であると言うこと。観測者が存在しない、無人の海へ石を投げる行為は「善」でも「悪」でもないと言うのが私の考えです。
これが、妥当か考えて下さい。

そして、[7]で愛嬌食堂さんが指摘された「善/悪」と「好き/嫌い」の関係についてですが、私は次のように考えます。
ある行為者が繰り返し示してきた行為に対し、観測者が積み上げてきた肯定的評価の総体が「好き」という感情を生み、反対に否定的評価の蓄積が「嫌い」という感情につながるのだろう、ということです。

ここまでの私の「善と悪についての考え」をまとめると
行為は主体の意図に関わらず評価を生む。評価には観測者が必要。観測者のみが行為の評価のグラデーションをもつ。そのグラデーションをある閾値で二つに分類したモノが「善」と「悪」である。

◎善と悪について考える補遺 −観測者と行為者について−

○観測も行為であるので“善悪の作用”を持ちうる
「観測する」も行為であるから、観測される者から見ると、その行為に「評価」(肯定的or否定的)が生じる。

例 強烈な悪意や違和感・恐怖を感じる観測 心の観測者「サトリ」
  夜の山中、サトリに出会った旅人。「オマエ今、変なやつが来たと思ったな」「オマエ今、こいつはサトリに違いないと思ったな」・・・・・
  これは一次行為としての観測、サトリによる思考の観測でしたが、もっとも多いのは

ある行為が対象に成された、AがBに○○した。その行為を観測する第三者Cの行為がBに評価される。

例 AがBに外道な行為(例えばレイプ)に及んだとする。事件化した後には警察など司法Cが行う観測(事情聴取)がなされる。被行為者Bから   
  この観測はしばしば"セカンドレイプ"として受け取られる。警察でなく、報道機関がBに行う観察も、同じように受け止められるだろう。

これは、Cの意図が善意(社会正義の遂行)であっても、行為者の意図には依らず、被行為者Bに精神的被害を与える。この調査は、一次行為による「悪」を減らすために、必要で欠いてはならないモノだが慎重であるべきなのは、この理由による。

○「行為者」の定義は、基本は「意図をもつ者」であるが、拡張することも可能。

宇宙の徹底的な破壊と解体。これを行為する者として「幻魔」(SF作家平井和正の作品中の存在)ならば、「絶対悪」と評価できる。しかし・・・・
これをもたらすのが、「ビッグリップ」(宇宙論でダークエネルギーが宇宙を加速膨張させ続けたときの宇宙の終焉。原子・素粒子ですら引き裂かれる)という現象であるなら、これに「善⇔悪」という評価をつける事は出来ない(意味が無い)。

ただこれも、地震と津波、火山噴火など、ネガティブな自然災害についてだけではなく、ちょうど良い積雪(スキー客にとって)、豊作をもたらす天候(農業従事者にとって)など、ポジティブな評価が可能なモノもある。
これらを評価する事を無理矢理することも、可能は可能。
これは工学者の安全設計、最大規模の地震にも耐え抜く建築物(ビルや橋)の設計で、彼らは「自然(宇宙)の悪意は最大値を取る」と表現する。これは、善悪の定義域を、自然や宇宙にまで拡張した、数学で言う「解析接続」に相当する。
行為を観測し、その善悪のグラデーションをある閾値で分類する、という私の善悪論には弱点がある。
それは、観測の裏をかいて行為そのものを演ずる者、すなわち擬態者がいる場合である。

通常の行為者なら、長期的で注意深い観測によって、ある程度は善悪の傾向を分離できるかもしれない。
しかし高度な擬態者は、観測者の評価基準を読み、観測条件そのものを操作・回避する。

そのとき最も危険な悪は、最も観測されにくい悪として現れる。
具体例として私が考えたのは、ハンニバル・レクターである。

つまりこれは、善悪そのものの問題であると同時に、善悪の観測可能性の問題でもある。
ウィトの論考によれば倫理は語りえぬものであるから、彼にとっては「沈黙せねばならぬ」ものになる。

ついさっき思いついたのだが・・・
言葉があるから倫理が生まれることもあるのではないか、ということ。

例えば、
上司が部下を𠮟りつける、という場面。
数十年前なら、指導というフレームで問題にならなかったであろう。
今は「パワハラ」という言葉があって倫理的に非難されたりする。

これなどは言葉が倫理を生み出す一例とは言えないだろうか。
「セクハラ」にしても今の時代、倫理の大量生産の時代かもしれない。

「言葉がなければ倫理は存在しない」とも言いたいが、言っちゃうとウィトゲンシュタインへの反論になってしまうな。

ウィトゲンシュタインって、ホント、真面目な人だったんだなと思うよ。
真面目な人だから「沈黙せねばならぬ」と言わなければならなかった。
カントの道徳論は、
定言命法:無条件に「〜せよ」と命じる道徳法則。
と呼ばれ、
仮言命法(「もし〜なら、〜せよ」)とは異なり、いかなる場合も例外なく従うべき義務である。
ということだ。

これはウィトの言う、
「倫理は語りえず、ただ示される」
と同じ匂いがする。

カントもウィトも倫理の絶対性を信じてたようだ。
「言葉がなければ倫理は存在しない」と書いたのは私だが、
「言葉がないところに本当の倫理は示される」
とカントもウィトも言うのだろう。
ある特定の立ち場から考える「善悪」と、全く立地点を設けずに同定する「概念的善悪」には当然違いがある。
更には、観念としての「善悪」を掘ろうとすれば、底なし沼に嵌ってしまう。だから、その考え方の枠組みの混濁だけは、先ずは避けてわきまえていきたいものだとは思うのです。
ところがしかし。 ここ数日で閃いた思念なのだが、観念、あるいは意識そのものには「引力」があるのではないかという仮説を立ててみようか?と思っている。
 もしも観念や意識そのものに引力のようなものがあるとすれば、観念同士や意識同士で“引きあう”というか磁石の両極間の引き合いのような作用があっても論理的には何も問題ないと思うのだが、、、、。
>>[20]

それが「言語ゲーム」なんだろ?
>>[22]

まあROMはいいけど。

かつて世界大会やオリンピックで優勝した女子サッカー「なでしこジャパン」の選手がバラエティ番組に出て、「わたし、サッカーのルールあんまりよく知らないんですよね」と言い出してスタジオを唖然とさせたことがあったんた。
周囲に合わせてれば何とかなるらしいんだよね。

この話どっかでしたら、Uさんが「それは言語ゲームそのまんまだ」という意味のことを言った。
後期ウィトゲンシュタインでは言語ゲームと並び重要な「規則性」をめぐる議論は、『哲学探究』にあった気がします。が、一応ここのテーマは善と悪なのでそちらをと思います。

例えば、ウィトゲンシュタインにとって、善と悪といった倫理的な価値は、客観的な事実として世界の中に存在するものではなく、世界の外側にある「意志する主体*」のあり方、すなわち世界に対する向き合い方そのものと読んだ気がします。
まぁ、外的なものでなく内的なものとしてある世界に対する態度とか。

*私とか。
話をテーマに何とか。 

善と悪といった倫理は、言葉で語ることができない、超越的存在だから彼の論理では沈黙しなければならないわけだが、一応語ってたかもしれない。
世界には事実しかなく、価値や善悪は科学や論理の対象外だというわけですが、
一応は語る訳ですね。何分、ヴィトゲンシュタインは素人なので・・このくらいで。
このあたりは「論理哲学論考」だと思います。
ここでオイラが掘り下げていくべき領域は、「意識」ということにならざるを得ない。
「意識」というものはなんだろうか? 意識は、その意識主体のどこまでを“守備範囲”としているのか? 当然、意識は、常識的には、外側に向いているというイメージだろう。しかしながら、意識の根底には、確固とした自意識、自我意識という地盤があってのそこに重なる、というかそこに加算される観念群の複合体として、連続的に記憶意識が生成されるのではないだろうか、という想像が可能だと思う。その辺をオイラは論理的に攻めていきたい。
>>[27]
>>[27] 愛嬌食堂さん

意識と「善と悪」を関係付けます。

GoogleAIを使いました。
「意識における「善と悪」とは、人間が社会で生きるために作り上げた心の中の物差しです。何が正しく、何が良くないかを決める判断のことであ」る。
意識における物差から善と悪を考えることになりそうですが。
>>[27]
意識のものさしというのはよく言われるようです。
つまり見えない意識のレベルや状態、価値観を客観的または主観的に測定・数値化するための概念を指すらしい。

一般に我々にとっては道徳の教科書とか、宗教の聖典(聖書の十戒、仏典の戒律)の概念かも知れないですね。
>>[24]
「哲学探究」
ヴィトゲンシュタインプロジェクトより
https://www.wittgensteinproject.org/w/index.php/Philosophische_Untersuchungen
>>[30]
アウグスティヌスの「告白」の言葉(ラテン語だがドイツ語訳付)がある。
別スレで前期の「論考」をやっているが、ウィトゲンシュタインの場合。
ウィトゲンシュタインにとって善と悪は、科学的な事実や言葉で説明できる範囲の外側にある。彼は『論理哲学論考』で、世界の中には物理的な事実しかなく、善悪という絶対的な価値は事実の総体である世界の中には存在しないと考えた。
絶対的な善や価値は、科学的事実ではないため、我々の言語で正しく言い表すことができない、論理的に語ることは不可能である。沈黙すべきとなる。。
後期はまだ?
>>[29]

どもです。
いつもありがとうございます。

意識のものさし ですか。いわゆるフィクショナルなナラティブでしょうね。
「見えない意識のレベル」とは心理学でいう無意識のことでしょうか? 
『善悪』の個別具体性は、主観的なものですよね。認識して判断する主体がその自身の価値規準に従って決める二択の問題。
また、『善悪』の客観的一般性は、そのコミュニティや場面や文化や時代の意識の傾向の分布で揺れ動く流動的な制度の問題。
もっと“生きている善悪問題”を議論する場合には、今の実感を基底にした価値観を表出すべきだとオイラは思うんですが。

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