ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

アメツチの言霊現象学コミュの心の三十二面相 (2)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 ※ ここから意識領域の次元が変わります。

 (11) 沫那芸の神(アワナギ)
(12) 沫那美の神(アワナミ)

 (1)から(10)までが頭脳内でのイメージ形成ですが、主観内のことですので他者へ伝達することができません。頭脳内のイメージは完成しましたので、ここから次元が変わります。イメージ心象が言葉という物象になります。

 そこでは、ご飯を食べるでも絵を書くでも自転車に乗るでも構いません。今ある自分の存在を動かして何かしようとするときの経過を通過するには、元となる主体に左右されます。そして相手対象が人の生物生理状態の基準内になければ、作用を与えられません。

 これから造られていく言葉も同様です。イメージが載ることのできない物象ではイメージを表現できません。心象イメージそのものが捉えどころの無い無限に拡がってしまうものなのに、そんなものを載せることのできる物象があるのでしょうか。

 それが言葉です。言葉はどのような極小微細なイメージも、あるいは極大や大法螺や嘘や、ただ喋るだけのものであろうと、どのようなイメージでも載せることができます。また、載せただけのものがイメージの内容です。通常はイメージを語る喋るということで、イメージと語ることが同じ事として扱われますが、別のことです。しかし、そこではどんなイメージでも載せることができるというのがミソで、言葉という形に現われます。
 そのためには、言葉によるイメージへの対応がなければなりませんので、その対応を産んでいくことになります。

 次の様な経過を辿ります。速秋津日子と速秋津比売によって頭脳内にはイメージが完成されていますので、それが言葉に結ばれ伝わっていく段階でそれが言葉の生成となります。
 ではその言葉の産まれる元はどこにあるのかというと、先天にあるという形で、と同時に現に成りつつあるというこのアワナギ(11)から形成されます。

 頭脳内のイメージはまず自身が現われる地盤を造ります。
 イメージ内の各要素と言葉の各要素が対応しているか確認します。イメージに言霊アの世界があるように言葉にもアの世界を現わすことがなければなりません。

(11) 沫那芸の神(アワナギ) ・ イメージの主体側が言葉に始めから終わりまで全部宣(の)る領域があることを確認します。イメージの主体側が言葉の主体側に組まれ、それによって言葉内の主体側が言葉の客体側と結ばれます。
(12) 沫那美の神(アワナミ) ・ イメージの客体側が言葉に始めから終わりまで全部宣(の)る領域があることを確認します。イメージの客体側が言葉の客体側に組まれ、それによって言葉内の客体側が言葉の主体側と結ばれます。
 両者によってアレ(吾)とワレ(我)、結ぶ自我と結ばれる自我、が成立します。
 ここで成立した実体を働きによって組み合わし結ぶのが次にきます。

 イメージが言葉に組まれると同時に、言葉内に実体が立ち、立たせられる、始めと終りができました。
 (13) 頬那芸(ツラナギ)の神
 (14) 頬那美の神
 頬ツラは頬骨で噛み砕き噛み結ぶ働き、その働きを持って、自と他、ア(吾)とワ(我、汝)、霊と体、心と身体、言葉の内容と言葉の形を貫きます。両者間を貫く行為が働くのを、主体側をツラナギといい、客体側をツラナミと言いました。

 ここに実体があって働く行為があります。次に来るのは持続のエネルギーが配分されていることです。それによって実体と働きと行為の持続連続(時の流れ)が起きていきます。
 (15) 天の水分(ミクマリ)の神。 霊的エネルギーを現わします。
 (16) 国の水分の神。 体的エネルギーを現わします。
 ここでは、物質の作用反作用が表立ってきます。イメージから物象・言葉になり、より物質の外観を取るようになりますから、それに応じて物理エネルギーの客観性が顕著になっています。
 イメージの内容を伝えるために言葉となってきましたが、ことばの発生には身体特性や生理条件や環境との協調や邪魔だてを排除する物理条件が発生してきます。

 こうして主体客体環境の条件等をクリアしていきますますが、その途中で、元々の意図が変化変形消滅してしまってはイメージの伝達に失敗します。そこで次です。
 物理世界となっていく先天次いでイメージ、そして言葉はその物質性を高めるに応じて、『祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからずただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ』ことになります。
 (17) 天の久比奢母智(クヒザモチ)の神。 持続のエネルギーを受けて、久しく主体側の内容が豊にモチ続けられているように、という意味。
 (18) 国の久比奢母智の神。 持続のエネルギーを受けて、久しく客体側の形式が豊にモチ続けられているように、という意味。
 こうして、言葉という物象に囲まれ霊体両面が伝達に出て行く準備ができました。

 次は物象(言葉)の移動の次元に入ります。また、新しい次元となります。


 前段の意識領域は言霊で言うと、クムスルソセホヘで、それは、
 クム ・ イメージを言葉に組(ク)んで結(ム)び、
 スル ・ スは組み結ばれて動く前の澄んで在る状態、一方ルは組み結ばれて動き流浪する状態、
 ソセ ・ そこで動くにしろ在るにしろその状態を持続させるエネルギーを注(ソ)ぎ、エネルギーを供給して消費するために堰(セ)止め溜め込みます、
 ホヘ ・ するとそこにエネルギーを吸収して穂(ホ)が出て、その廻り当たり周辺へ向う(辺・ヘ)力動を得て発展させ持続させる、
となります。

 次いで、舳(へ)先に向う穂(ホ)の動きです。フモハヌラサロレノネカマナコと続きます。
 イメージは物象化され、物として固定化されないと自他との現実の物として現実化されず、作用反作用の交流を得られないので、それが現実化され認知される段階の領域に入ります。しかし前領域まででは、主体の意識に言葉となった物象の穂(芽)ができただけで、こちら側から相手対象にまでは伝達されていません。(同一人物内でも意識構造は変わりません。)

 ここから先の意識領域が日本国古名となっている、大倭豊秋津の島 (天津御虚空豊秋津根別)です。
 ここから先を解明するのが日本人の証となります。つまり、ここまでの経過ならばどこの国、民族の人達も同じことで主体の意識を表出するだけです。日本人である場合にはその先にまだ完成すべきことがあります。

 (引用。 大倭は大和とも書きます すべてが共存調和するという意、 三十二個の言霊がこの区分の言霊の誕生によって全部で揃い、それが豊かに明らかに現われる(津)区分(島)という意味となります 。
音声が空中を飛ぶ言霊フモハヌは「神名」ともいいます 電波、光波でも同じです 。
 声は耳により入って聞いた人の頭脳内で「ああこういうことか」と了解され行動になります その後、言葉は先天宇宙に帰り、記憶として印画されて言葉の循環はここで終ります 耳から入って了解されるまでの言霊は真名です  。
 別名 天津御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)といい先天の活動(天津御虚空)が豊かに明らかな音(根−ね)となって現われる(津)区分。)



 飛翔四神。

 次の四神は風に乗って木霊が野山を飛び交う様子に譬えられています。他者に伝えたり自問自答なりがありますが、中身は同じ構造をしています。口先から言葉が出るか、頭脳内の舳先から出るかの違いです。いずれにしても心と言葉が組み合わされ言葉となって出る場面です。

 (19) 風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神を生みたまひ、(息が風となってでます。発声)
 (20) 木の神名は久久能智(くくのち)の神を生みたまひ、(空中を飛んでいる言葉は心を伝えます。伝達)
 (21) 山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神を生みたまひ、(言葉、意味内容の起伏が移動します。意味が伝わることでここで始めて言葉になります。表出側)
 (22) 野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。またの名は野槌(のづち)の神といふ。(言葉の受領側。飛んで行った言葉が相手側の受領する言葉の神の家の立つ野原・音図に降り立ちます。聞かれるということです。)


 こうして相手側が言葉を聞くところまで進みました。了解するかどうかはまだ先の話です。
 主体側の先天、イメージ、物象、言葉と変態の系列を進んできて、とうとう主体の手を離れてしまいます。
 今度は先天の意味内容を運んできた体側が物質の形をとっていますので、物質の作用反作用に載らねばなりません。

 まずは、この大山津見の神、野槌(のづち)の神の二柱(ふたはしら)、表出側と受領側とが接触(マグアイ)して出てくるものがあります。

 (23)天の狭土(さづち)の神。 (受け入れ側の耳(受容器官)で聞かれます。到着してうろつく様子。)
 (24)国の狭土の神。 (次いで受領される一定の方向に向かわされます。)
 (25)天の狭霧(さぎり)の神。 (次いで進み導かれますがまだ意味内容を分別していません。)
 (26)国の狭霧の神。 (次いで組分け選別が行なわれます。)
 (27)天の闇戸(くらど)の神。 (次いで暗黒の通路内で点呼復誦が行なわれるよううながします。)
 (28)国の闇戸の神。 (次いで送られて来た言葉が了解可能かどうか審査されます。)
 (29)大戸惑子(おおとまどひこ)の神。 (次いで受領側に掻き回され煮詰められます。)
 (30)大戸惑女(め)の神。 (次いで了解されるものが選択され発出側のものとされます。)

 以上を言霊で表現するように繰り返すと。フモハヌ・ラサロレノネカマナコ。

 (19) 言霊フ。
 表現者が発音して表出する言霊。言葉の場合は空気の濃淡による音波。言霊フだからといって発音のフを指すのではなく、意識の表出者の志(こころざし・シ)の内容である言葉がことごとく(那)言葉(都・つ・霊屋子・みやこ)として活動しているその心を指します。心を物質に託して飛び出させます。

 (20) 言霊モ。
 飛び出した心は物質として出ていますからそのままでは減衰します。そうならないようにまた久しく久しく霊と体が継続するように茂り繁茂する智恵が必要です。燃え続け盛られるもの。

 (21) 言霊ハで言葉のハです。
 発出し飛んでいく心の全体は萌え続けて行く中で、心の意図するものが突出して伝わる必要があります。心の意図は八父韻のどれかとなっていますから、フッと吐き出した発音の正確な突出先を相手に与えなくてはなりません。その山頂の頂きのように、多くの枝の葉先のように、物事の意図を示す端の端(は)、言葉の葉のように、です。こうして山の先端を受け入れてハとなります。

 (22) 言霊ヌ。
 次いで尖端との接触は他の尖端を呼び起こし、尖端自身が全体との協調位置関係を求めるようになり、自ら縫い繋がれ連関の拘束を受けるようになります。次々と来るハの連関が縫い繋がれていきます。

 (23) 言霊ラ。
 次々と来るハの尖端は縫い綴られて相手側の感覚受容器官を訪ねます。耳ならば耳道を求めあっちこっちウロウロくるくる探します廻ります。螺旋運動で譬えられます。

 (24) 言霊サ。
 外耳道が見つかればそれが目指すところです。声は音波ですからその特性に左右されます。主体側が音波を発しても客体側に受容性がなければ成立しません。音は空気圧の濃淡ですから本来音はありません。受領側の機能次第です。指す相手を目指すところまできました。

 (25) 言霊ロ。
 目指す相手が受容器官という物質ですから、必ず進入に対する反作用を受けますが、先ずは、目指された相手内に対峙します。口腔であるか耳道であるか眼球であるか鼻道であるか、どこのどの穴かははっきりしていないが、開かれる路、炉を探ります。ぐるぐる巡ったりいじったりする様子です。
 (26) 言霊レ。
 もっぱら話が生理器官のことになっていますが、直接に生理作用を語っているのではありません。もしそうであるなら生物学なり物理学に任せればいいのです。またお中元の品物に心を載せたり、賄賂にしたりすることとも違います。恣意的に意図を載せるのではありません。意識の形が現われるときの物質性、物象の形をとって現われた意識をいっています。
 この言霊レの次元では目指された相手に進入していきますが、主体側の意図を始めとして創生された主体側全体が進入していきます。しかしそれでは大きすぎ余計なものもあり相手に不要で理解できないものもあります。そこで、意図の重要性の順列をなし必要なものだけを与えるように、目指された言霊サの尖端部分だけを切り取り進入させます。これが列の先を斬る、サキリ、で狭霧という謎々用語になっています。
 こうして意識の列(レツ)が組まれ必要な尖端先頭が切り取られ先ず入ります。

 (27) 言霊ノ。
 闇戸(クラド)という神名ですが、現代で言えば鼓膜でしょうか。暗い外耳道を突き当たって戸があるという感じですが、数千年前に外科の知識はありません。暗室の眼球で網膜に触れ、暗い咽喉で声帯を振るわし、鼻腔の奥で嗅覚が働く等、全て同じ構造の闇戸・くらどです。
 自分の生理がこういう状態であるなら当然意識もそれに従うでしょう。頭脳内の意識のまだ表現されていない暗い脳室の戸に突き当たったのです。
 進んできて戸・戸板に突き当たりました。暗闇の中ですから一か八かそれに載るしかありません。意識も同様です。押しても引いても、祝詞の宣(の)るです。

 (28) 言霊ネ。
 眼を開ければ光が入るように、息を吸い込めば香がするように、耳を澄ませば音が聞こえます。こちらから話しかけた言葉は相手に伝わり、また、同時に自問自答のように頭を駆けめぐります。つまり各受容器官に宣(の)った上で進んでいくので、それの特性に応じて機能していきます。見る聞く嗅ぐ等々に成るわけです。古事記では受容器官に載った意図が目覚めて働くことを言霊ネとしました。それぞれ特有のネが起こり、ネが生え、耳ならば音(ネ)が鳴り、木々なら根(ネ)が張る、希望の起こりは願(ネ)がうであり、価値があれば値(ネ)が付き、意識が休息に付けば眠(ネ)むることとなり、疲れればネをあげます。
 全て意識の宣(の)った状態を現わしています。

 (29) 言霊カ。
 いよいよ言霊カです。神・カミのカです。後残る言霊はマ、ナ、コの三つで、ということは言霊カにはマ・ナ・コが欠如しているということです。言い換えれば神にはマ・ナ・コの意識が欠如していて、全智全能ではありません。
 感覚が受容する始めの一瞬にはいつも焦点のボケができます。閉じた眼を開けて見て確認するまでの一瞬間焦点が合いません。聞いて意識する場合もその瞬間にはまず一瞬戸惑った挙げ句、その後受け入れるという時間間隔があります。他の感覚も同様です。病的には受容までに瞬間にとは到底言えない時間のかかるときもあります。意識の尖端が宣(の)り、載ったというネが張りそれぞれの特徴あるネが現われます。言葉を扱うのなら聴覚を刺激する音です。
 こうして宣(の)った意識のネを内容とする言霊カが出てきます。

 ここでは主体側の意識の内容たる言霊ネが宣(の)りましたが、その内容通りに客体側が受け取るか保障されていません。受け取ったものは受け手においてどういうものであるのか発表され、受け手の確認においてそこに有るものとして現象させられるのです。
 従って主体側の意図は用意されている客体側との照合を受けねばならず、そのために主体側は自らを撹拌して客体側との整合を求めます。
 この客体側との間に生じる一瞬の疑惑と不安が、ことを成す直前によく顔を出すものです。古事記は言霊カの神名を何ということか大戸惑(おほとまどひ)と名付けました。
 最後の確認を得る大きな戸を開ける戸惑いです。
 それはまた同時に、大いなる(オホ)開けるべき戸(ト)の間取り(マ)を決断する問い(トイ・働き)、でもあります。

 (30) 言霊マ。
 言霊は前承する循環をしています。ここではマは、ウアワヲオエヱチイキミシリヒニイヰ・タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホ・フモハヌ・ラサロレノネカの全部を含んでマとなります。
 ですので、マとはこれら言霊達の鎮座している各居間(五十音図と見立てて)のことです。その間を選んで名(ナ)を付ければ表現された子(コ)がここに産まれます。

 さて、カとマは同じ神名で大戸惑子(おおとまどひこ)と大戸惑女(め)の神です。主体側が惑いつつ選択していくのに対して、客体側が五十音図の各居間を用意して受け入れを準備しています。両者のカとマで釜となり、両者の整合する時処位を見出すために掻き回し合っていき、調理調合されて煮詰まります。主体の意図内容が丁度良い物象の形をとり現われます。
 惑うのはもっぱら主体側ですが、マトイ(惑)付くのは客体側で、この間の両者を晴らそうと掻き回します。

 ところがここに、掻き回して居間を見出すのに(わずかな)時間差が出来ることに気付きます。ここに現象を産むための必然的に生じる時間差をマ(間)といいます。巻く、混ぜる、丸める、まとめる等の現象結果を産む直前の間合いです。間は渡り切らないと埋まりません。
 何がマを渡り、マは何になるのでしょうか。

 言葉で現わせば五十音図の各音達を指す直前ですが、その音達が言霊であるのではありません。煮詰まって現われてきた音の形をとった意識が言霊です。マを渡ったのはマに成った以前の一連のマに至る言霊達の全体で、その現れが五十音図のどれかの一単音を取ります。その一言霊には以前の全言霊が包含されています。
 そしてこのマが言霊ナになります。

 (31) 言霊ナ。
 言霊マは「間」で実体的に見れば五十音図の一つ一つの間、五十の間、ですが、働きとしてみればどれかの間を選ぶことです。どれか一つを選んで指定すればそれが特定され、全体及び他とは区分され、それが浮きでてそれを示す名が与えられます。名前は以前の一連の言霊によって用意されていて、名が付くことで当初の意図の実相を現わし、それが同時に全体での位置付けを現わします。
 名を付けることで体を現わし自己の実相と他者との相違を示し、自らの意図の時処位を示し、そこで名を発することで現象子音の子(こ)が産まれます。古事記は子事記で子の事を記したものです。とうとう自己の意図に名を付けるところまできました。

 言霊ナの神名は鳥 (とり)の石楠船(いわくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)といふ、今までの経過全体を示す名前です。
 鳥はトリ、十里、いままでの述べてきた全てのことわり(理)で、個別的にはア〜ワへ渡る父韻の働き、それによって石(イハ・五十葉)、五十の言霊を、楠(ク・ス )、組(ク)んで旅立ちのエネルギーの巣(ス)とすることです。
 こうしてここでエネルギーの組まれた形となり雛、ヒナ・霊名、となりました。自分にとっても相手にとっても確認了解できる(物的な)形が確定したのです。両者にとって確認が出来るということは、両者を離れた第三者(子)が成立したということです。

 ここではまたの名に天(アメ)の、と付いていますが、先天のということではなく現象としての吾の眼、イマココに在る吾の眼である私の意識ということです。

 ところが、私という主体の吾の眼として物的な形を取りましたが、次いで現象(子・コ)となって存在が確立して主体側の手を離れる(言霊ンとなる)や否や、またもや先天に戻ります。

 (32) 言霊コ。 
 大宜都比売(オホゲツヒメ)の神 (大気津比売の神)
 大いに宜しき(よろしき)言葉の都(ミヤコ・霊屋子)を秘めて(比売)いる、または、
 大いなる言葉の心(気)に渡す(津)ことを秘めている、というい意味で先天に渡す準備。

 とうとう内容を持った名が付きました。吾の眼が付いて智に成るで言霊子音の子現象が成ります。私が言っても貴方が言っても誰が言っても共有できる名です。しかしそれは出来上がった名前から見た場合ですので、総仕上げの意味で言霊ナからコへ渡ってみましょう。
 常にイザナギ・イザナミの御柱が出発点です。
 ギミの先天の力動が考えにまとまりましたが言葉には組まれていません。そこで先天が言葉に渡っていきます。そこでは霊と体の双方の働きを実際の言葉として創造されていきます。しかし、言葉として創造はされましたが、発音され他者に届き復誦検討され了解されてはいません。

 さて、確認了解される意図を持った言葉がここにあります。それがフッと口から飛び出します。
 前段の言霊の内容を持っています。
 それは、
 ク・意図と言葉を組む、
 ム・意図と音を結ぶ、
 ス・クムが整うとエネルギーの充満した巣になり、
 ル・流れ動くことになり、
 ソ・そこにエネルギーが注がれて、
 セ・塞き止め溜め込まれて、
 ホ・それを吸収した言葉の穂が出来て、
 ヘ・目的相手に舳先を向けて、口から(音源等から)飛びだします。
 主体の物質性から離れた物象、ここでは言葉、を創造しました。

 フ・は息とも取れますが主体から離れた物象の働きです。フッと離れたり付いたりを示します。吹く、伏す、踏む等心の内容のことです。心の内容もことごとく同時に移動います。
 モ・は移動する心の内容が盛られ続けることを示します。
 ハ・そこで現われるのが、心の内容と目標相手である両者を繋ぐ両端(ハ)の出会いです。ここで起伏のある両者の端(ハ)が同調共感していれば、相手に主体の心を渡し伝えることができます。
 ヌ・そこで両者が縫われ、聞かれ、相手に達し疎通が起こります。
 達したのは他人の耳、または自分の耳にです。ここで相手の領域、自分の場合は自分が聞き手になります。

 ラ・まずはころがり入り込み、指し示す探し求める相手に付こう近づき、
 サ・相手を指し取り入れ、相手の受容に取り入り、
 ロ・受容性の形態性質に迎合してその路に嵌まり込み、
 レ・指し示された相手の受容形態と作用を個別化して切り(霧)離して、そこに、
 ノ・主体側の意図内容を宣(の)せ、
 ネ・客体側の意図内容の五十音図の言葉の倉の戸を叩いて音を出し(同調共感を求めということ)、
 カ・主体側にははっきりしているが、客体側と感応を得るには不安や惑いのあるまま、
 マ・そのまとい付く惑いを掻き回して、多くの間である選択先を煮詰め、
 ナ・抽出された名前を呼びます。
 コ・ここで主客の合一が確認されると現象子音が産まれます。


 (33) 言霊ン。 先天回帰。
 主客を離れた第三者として言霊コが誕生して瞬間にここに、言葉(実体)としての蛭子と淡島が成立します。現代的に言えば一般的にとか共有抽象的とかになり、世間に流布されていきます。その一般性のため子の数には入りませんが、子の全体を背負っています。
 私たちの使う言葉は実質的にここから始まります。

 私たちの創造したものには多くの名が与えられています。
火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神。 一般性となってしまっていますが、そこには全ての言霊の隠れた技能が直ちに現われるように準備されています。
 火(ほ)の輝毘古(かがやびこ)の神。 表現されたものは火のように輝いて見えますが、輝いているのは脳裏に甦る主客のそれぞれの意味です。
 火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神。 書かれたもの表現されたものはそれ独自の運動を始めます。
 というようにこれらの全体が言霊ンで、ンが脳裏・先天間を運びます。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

アメツチの言霊現象学 更新情報

アメツチの言霊現象学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。