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アメツチの言霊現象学コミュの心の三十二面相 (1)

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はじめに

 後天の言霊要素。子音を産む 

 古事記は先天の構造から始まり、
 次に先天を運用する主体自我が形成され、
 主体の活動場を得てから、
 次に後天の現象が形成される構成です。

 物質世界では力の作用反作用で物の変形として現われますが、意識が現象するとはどういうことになるでしょうか。意識の世界では頭脳内の意識が個々の言葉として現わされます。先天の世界が言葉の世界、広くは表現の世界となって意識されます。

まず、先天が意識されなくてはなりません。
 そこでは物質世界でのように直接的な形の変化としてではなく、生物の変態よろしく意識の変態を経過します。


 言霊イヰの御柱から出る

 ややこしい言い方になりますが。
 先天のイザナギ・イザナミが、自身を表出させます。これは先天十七神を率いて行なわれます。
 そこで自身の高天原という先天の活動場に、自身となるイザナギ・ミの柱を立てます。ここで始めて自我の芽となるもの(柱)が芽生えます。

 先天のイザナギが自我のイザナギに宣(の)ります。
 自我の芽が芽生えました。しかしこれはまだ自我ではないし、自我ではない先天十七の力動に従っています。

 先天の内容である力動が意識を捉えます。
 各人の頭脳の中枢にあるおのれの心の島(オノコロ島)にたっている、言霊イヰの御柱から発す力動が自らを現わしてきます。力動はそれ自体では見えず、自らに起きたことを確認するのには物質的な形をとろうとしますが、頭脳内で力動を伝えるのは意識です。脳内科学では働いている部位を特定できますが、力動の内容が解明されるのではありません。
 ここも物的な現象という形となる一つの経過をとります。

 自我という言葉を使用しますと自分独りという意味合いが強くなりますが、実は自我などありません。そもそも自我の依って立つ各自の心の御柱は、循環のための一般性の上に立てられています。全てが心の御柱へと回帰されることとなり、一般性へと回帰します。

 自分が発した言葉という現象は、どのような形にしろ質問が消えるにしろ生まれるにしろ、全く同じ三十二の経過をたどります。
 古事記という偉大な精神のあんちょこがありますから、意識の運用手順は真似るだけでいいので、自分の思っていること考えていることなど余計なものは持ち込む必要はありません。

 それじゃ訓練もやる必要がないのか、いい加減なことを書くな、と文句が出そうですが、手順は決まっていてもその内容の扱い方は各人各様です。
 私も始めてのことでどうなるか分かりません。出来るところまで、です。


(0) 始めの時。

 現象(子)の、産まれるあるいは消える時の、始めがあります。(消えるではなく、産まれるの方が書きやすいので産まれる話にしていきます。)
 その時の現象は三十二のどれかの時点のものですが、ここではまず全体を通して検討していきます。ですので始まりの前の状態(0)から始まります。
 古事記では始めは大事忍男(1)ですから、それ以前の天地(あめつち)の初発の時(0)からです。

 問題は何故どのように(0)が(1)になるかです。そして(1)が(2)になるかです。(1)は(0)でなく(2)でなく、連続していながら独立しています。通常は単なる連続と見えますが、古事記はここに飛躍変態脱皮創造の連続を見せてくれます。

 どのように始めての現象が産まれるのかです。
 その秘密の謎々がマグワイ(間の喰い合い)です。
 要点は蛭子と淡島を生むことで、この両者がいないと、次に進めません。(蛭子は不具の子ではなく、意識活動の絶対的な前提となる一般性と共有の地盤の発生の話です。)
 そしてそれは、いつもギ・ミ(気(霊)・身(実体))の命から始まります。


 (1) 大事忍男(オオゴトオシヲ)
 先天のお膳立てが整い最初に出てくる現象神です。頭脳内の先天が頭脳内の物となる始めです。古事記の説明ではたった一言「大事忍男の神、次に」というだけです。全編を通じてこんな調子ですから、根幹のところで要所を押さえられていないと全て外れとなります。

 頭脳内の先天活動は自分でも見えず有る無しも分かりません。それが考えにまとまり相手に伝わり了解されるまでの経過を通過する最初の形である大事忍男の形をとります。イメージの始めの全体がギミの命の力動によって(0)から出てきます。
 先天が心象イメージの形を取り、次に物象になり、次に物質となって相手に伝わり、次に相手内で物象に戻され、次に相手内での心象に還元され、次いで一般性として巷へ放たれます。

 何故これが現象といえるのか。手にとって触れてこね回せる物質ではないけど、精神意識に取り上げられ触れ回し変形創造できる最初の形となっているからです。
大事忍男は先天の全部がイメージの全体となって現われます。ですのでその取り扱われ方も全体として扱われます。この段階ではそれしかありませんから。つまり心象が有るか無いか、それだけで詳細はありません。

 逆に言えば、先天に含まれていないものは現われようがないことになり、同じテーマを扱っているのに話が噛み合わないということも起きます。
よく言われる直観閃きのイメージのはじめに相当する部分に近いでしょう。

 言霊タ(T/A)です。タの発音は気道の息を舌を使って口蓋を全面的に塞ぐところから始めます。呼気全体が塞がれ出口がありません。腹と胸に溜まる心の内容が出てこようにも出られないので、息が出るときには呼気の全体が一度に出てきます。こうして意識の始まりが全体を示す言霊タ(T/A)ではじまります。
 一遍に出てきた呼気ですから詳細は他の言霊に割り振りられます。ですので、全体イメージとして出てきながら、イメージがあると言われるようになるまでにはまだまだこの後があります。

 (2) 石土毘古(イハツチヒコ)
 意識は超スピードで活動します。立ち上げられたイメージまずは全体像としてあります。次いでただちにその内容は何だかんだと規定し合い、頭脳内のイメージに向い、その形を現そうとします。最初は全体というだけのものでした。こうして、おおごとが押し出されて(オオゴトオシヲ)きました。
オオゴトが押し出されてくると自分の頭の中で誰がそんなことを成したのかと探し出されます。つまりイメージを先天から引き出した主体を確定していきます。

 実際、誰が先天からイメージを引きずり出したのでしょうか。突然カレーが食べたくなったり、五六年前に訪ねた町の景色が出てきたり、幾ら考えても思い出せなかったのがひょっと解決したり、どう見ても自我の成せる技ではありません。しかし現象としては自分のものです。

 普通は何事もなく「私が、私が」といいますが、実は先天十七神の活動に依って現われた、イヰの御柱のことです。先天のイヰがオオゴトオシヲになり、オオゴトオシヲのイヰがイハツチヒコになっていきます。以下同様に続きます。

 イハツチヒコは、主体(ヒコ)の活動は相手対象に向い落ち着き(ツチ)ます。その向う(ツチ・付く)相手が五つの意識次元です(イハ・五葉)。イハに付く主体です。
 これは言霊トです。
 向う相手は五つの次元世界ですが、向う行動主体は八つの父韻とその動因となるイヰの計十(ト)です。行為の立ち上がる全体に向う時のその自分の選択、どの戸を開けて前進するかの違いなります。

 全体のイメージが出ると、直ちに意識の五つの実在世界と、十の働き世界に分かれます。
 言霊タとして発現した全体が、その実意識の実在世界と意識の働き世界の結合(マグワイ)行為で現われたということです。
 そして次に示されるのは、イハツチヒコで出てくるものはイメージの次元世界であり、そのことでこの世の全てがイメージで推し量られることです。こうして父韻と母音との掛け合わせの全てが秘められていることになります。


 (3) 石巣比売(イハスヒメ)

 ここまでで既に(1)(2)の神を通過しましたので、現象の産まれる形や消える形の二つも出たことになります。
 (1)は全体として産まれていますから、消えるときもそのまま全体として消えます。言霊タ。
 (2)は主体働きが選択行動として現われたり消える印象になります。次いで、言霊ト。
 (3)は言霊ヨで、客体側の実在が現われたり消える印象になります。
 というように意識の個々の次元を経過することが具体化することになるように、三十二まで続きます。

 各神は各言霊単音に該当しています。単音というと一つというイメージですが、個々となった一つの事象を指すのではありません。イハスヒメの言霊ヨは、ヨという一つの音を示すのではなく、精神意識の心持ちが≪ヨ≫に該当するもの全部を現わします。心の次元世界とか宇宙次元とかの意味になります。

 これは他の言霊でも同じことで、タトヨツテヤ・・・と言ってもそれぞれの単音を指しているわけではありません。そのような現象発音と成る意識の現れの総体を指します。ですので、トの説明が八になったり十になったり、ヨが四になったりしますが、十とか四を指しているのではありません。(日月神示の数字を直接受け取った解釈はそのほとんどが感心しません。)

 ということでイハスヒメはある次元の全体に係わりますと同時に、父母因の組み合わせによる個別化も秘められています。四つの次元の内、関心の示された次元だけが出たり消えるようになりますが、他の次元にもまだ何かあるように思われていることもあります。

 ここでは何かの心象イメージが個別化される方向へ向うことが隠されていて、後段で明瞭化し自己主張となるでしょう。
 それには言霊父韻と言霊母音が結ばれことが必要です。

 (4) 大戸日別(オホトヒワケ) 言霊ツ

 言霊タの世界が主体の働き(ト、10の戸)と客体の実在(ヨ、4つの世)に分かれました。
これを現象として追体験しなくてはなりません。現象であるとはいっても意識内のことですので物をつかむようには行きません。瞑想でイメージします。

 オオゴトが意識内のイメージに立ち上げられました。始めの全体の印象のようなもので、こうこうこういったものという具体性はありません。しかし心象イメージという形の実在に気付かされています。イメージの芽ばえです。(1)
 次に、心象印象がそこにあるということに気付くとは、印象を持っている自分がそこにあり、その相手となっている対象がそこにあるということです。(2・3)
 次に(4)、そこで印象を得ていることは自分と相手との間に関係が結ばれていることになり、ツーッと相手に向う動因が確認されます。(4)
 そして相手に向う動因が確認されるとそこでの働きも確認されます。相手のどれに向い、主体のどのような向い方をするのかの具体性個別性へと向います。

 古事記は個別性を解説していながら同時に個別性の生成をも示しています。ここでは、頭脳内の見えない先天が、心象イメージとなる経過も示されています。
 イメージと言ってしまうと出来上がったイメージがそこにあることになりますが、古事記の説明は全て何々に・成り・立つという経過の成立を含んでいますから、成り立ってしまったものを指すだけではありません。

 オホトヒワケ・言霊ツは付く・着く等の意識の心持ちの全体です。その内容は言霊タトヨの全体がタの中でトがヨに着くことになります。付くことは元の場所を離れて相手対象に現われ出ることで、そのような意識の心持ちが言霊ツとなります。

 (5) 天の吹男(アメノフキオ)

 向う相手が分かり、自身の向い方が分かるようになると、活動の具体性が出てきます。
 吹くは吹き付けることですが、吹くという選択、付けるという選択、吹き付けるという選択等が具体化してきます。ここの次元では頭脳内のイメージの生成次元で、(その完成まで後五段階あります)、具体化されるといっても最初の芽に含まれていなければ成長しません。しかし成長するといっても、風船が膨らむようにではなく、一段一段独自の現象を産んで形にするという経過を取ります。

 吹男の言霊はテですが、吹く行為とテではイメージが一致しないように感じられると思います。しかしここでは男という主体を現わす言葉が付いていて、男が、吹き・付ける・主体側の行為を示しています。
 最初のオホゴトオシオの内容はここでは、相手に吹き・付けるという選択がされて実行されているところです。この選択の働きが手が働くときと同じというわけです。

 吹き付ける内容は、常に前段です。つまり1から4の全体です。意識の働きは超スピードなので、吹き付けるといえばこうこうこういう風にこうして吹き付けるというように具体性があるようにみえますが、それは完成された後の形です。

 同様にここで注意するところは、選択は自分でするので自分が選択しているように思われますが、天の・吹男と言われる通り自らの選択を吹き付けるのではありません。ここまでの経過では選択を構築中なので選択が現象となっているのではありません。それでもその選択の内容がでてきます。


 (6) 大屋毘古(オホヤヒコ) 言霊ヤ。

 大屋は大きな家屋で、この時点で一応のイメージとなります。1〜5までの全部の要素が結ばれ出てきました。ここで出来た形が先天から産まれたものとしてありますが、未だ頭脳内のイメージですから他者に通じる形とはなっていません。

 主体側が相手対象に向って吹き付けました。そこでは相手対象側の反作用が起き、主体側がそれを感じ取ります。つまりこれがイメージが湧くということです。それを古事記では大屋と呼び、イメージの全体であり、今後の発祥源であり、動き廻る源であり、それ自体が動き迫ってくるものとしています。大屋の屋は家屋であると同時に放たれる矢でもあるのです。

 頭脳内に≪イメージ≫を持つことと、それを『イメージ』と言うこととは全く別のことです。ここの大屋は頭脳内のイメージで、他の人に「イメージ」と伝えるだけの物象となった形はまだ持っていません。先天の各要素が押し出されて心象としての形が作り出されてきました。先天の実在と先天の働きと先天の結び付きによって、心の表出となる元のイメージが形成されていきます。そして構造物としての心象像が飛ばされ出てくるイメージです。


 (7) 風木津別の忍男(カザモツワケノオシヲ)

 こうして頭脳内でのイメージは出来ました。しかし物的な形を取っていないので、相手に知らせようにも知らせようがありません。そこでイメージ(心象)を自他ともに共有できる物象としなくてはなりません。その物象と結ばれる過程が次にきます。自他共に共有できる物象の形成にかかります。それが表現表徴、言語等の創造物へとなっていきます。

 将来的には主体と客体とになりますが、ここでは頭脳内での主客が明瞭化していきます。
 ここで面白いのは、イメージが家屋となって矢のように飛び出してくるのですが、それが連続してくるということです。温泉湯が途切れなく湧くようにです。

 心象が構造物として矢のように出てきては形成されます。ここでは自身の意志の力で出てくるものではなく、地中から湧き出る湯水のようにイメージがでてきます。物の形を伴っていないので、定形はなく自由奔放であって手に負えないけれど、それなりの主体側の要素の現れと客体側の要素の現れが分別できます。分別できるとは言っても一つまとまりを持っている奇妙なものです。

 言霊はユが配当されていて、夢のユを構成し、夢の中で自分が主体であったり客体であったり同体であったりする状態とよく似ています。
 神名は風木津別の忍男です。霊・内容・主観(風)、体・客体・客観(木)、それぞれの各方向へ(津)、同体でありながら分かれる(別)、という意味で、それを押し出す(忍)主体の言霊となります。

 古事記を出発点でアニミズムとか自然崇拝とか八百万の神霊とかにしてしいますと、表記された漢語の意味に捕らわれてしまいます。言霊学は最初から意識の学のことです。

 ( ところで湯水のごとく湧き出る原動力は何でしょう。多くの場合後には創造力想像力となって個人のものとされてしまいがちです。)



 (8) 海の神名は大綿津御の神(ワタノカミナハオホワタツミ)

 イメージが物象を求める過程となります。イメージがイメージを出て変態脱皮します。イメージを受け継ぐ表現・言葉を探します。 (6)でイメージが構造体となり、その構造体には霊側と体側が区別されつつ区別を失うことなく統合体として湧き出して物象の形に付いていきます。(7)

 渡す相手は最終的には物質で、物質の形をとります。そして創造された物質のやりとりになります。先天世界には物質世界は含まれていません。そこで先天の意味内容、霊、意志等を組んで似せ固めることが必要です。そのために累積していく国を造ることですが、先天から物質へは一足飛びには行けません。そこでまずイメージを半分霊半分体として物象を創造していきます。

 ここはイメージの変身を扱うところです。頭脳内の狭いところに成ったイメージから、広い世間一般へと船出をするイメージが取られているので海を用いました。
 その為には世間一般に通じて共有し合える姿(言葉に成る)を取らねば成りません。その変態脱皮を説明しているので、海の神様の話ではありません。

 神名の解釈は次のようです。海の神名は大綿津御の神で始めの「海の神名」とあるのは「わたのかみな」で、渡(ワタ)して噛み(カミ)結ばれ現われる(ナ)のはと読み直します。
イメージを言葉に渡(海)す噛み(神)名は、大いなるイメージを海(綿)に渡(津)して明かになる(見)神、ということで、海の守護神主宰神のことではなく、イメージが世間一般相手対象客体側、あるいは自分の頭脳内で納得確認できるものとすることです。

 ここではや行エが配当されていて、選択前に現われる存在への一瞬の躊躇が現われます。イメージを言葉に渡してしまっていいものかどうか立ち止まる場、突然広い視界が開けたときの戸惑い、全てを新規の状況に任せてもいいものかどうかの優柔不断さができます。ですのでここで大いなる決断がくだされることになります。

 さて、出て行く先は広い広い世間・海です。言葉の一般概念に載るところです。


 (9) 水戸の神名は速秋津日子(ミナトのカミナはハヤアキツヒコ)の神。
 (10) 妹(いも)速秋津比売の神。

 妹背の二神が来ます。
 イメージが物象に渡されて噛み結ばれ言葉に組まれて行く前の、先天の最終段階です。
 次いで、水戸はミナトで港、出港です。また、ミ・ナ・トは御名の十、実名の十でもあります。渡されるイメージは十の内実を持っているとなります。こうだという自己主張は往々まだ十分の九の他の主張が隠されているということになるでしょうか。
 いずれにしろそれらが、速やかに明か(秋)に渡される(津)、ということです。
 渡される霊側主体がヒコ、体側客体がヒメです。

 ここで面白いのは、配当されている言霊はそれぞれケ、メで、ケは髪の毛一本、メは出始めのちっちゃな芽ですが、大屋ヒコの大構造体の上に載っていて、更に世間一般、海世界全体を相手に出てくるということです。どの人のどの意見も仰々しく大げさに成り易いものです。出てきたイメージに捕らわれこだわり居つくとそうなります。

 こうしてイメージが完成し、こんどはイメージを表現する段階へ移ります。表現は言葉をもってします。
 他者に到達できないイメージはイメージではなく、頭脳内の思いに過ぎません。イメージの形成中は時間経過としては先天内・頭脳内のその人だけの考えで、イメージといえるものではありません。しかし実際には相手に伝えようとイメージを自己主張することもありますが、この時点ではまだ言葉に組まれていないので、伝える言葉はありません。

水戸の神名は速秋津日子(ミナトのカミナはハヤアキツヒコ)の神と妹(いも)速秋津比売の神の二神が次段の佐渡の島の領域を采配します。
 つまり、ウアワヲオエヱチイキミシリヒニイヰ・タトヨツテヤユエケメの全体を内容として、先天からイメージへ、イメージから言葉という物象へ、宣(の)り移ろうとするところです。言葉は五感に訴える物象という形で表現されますから、それの創造へ向います。

 先天の霊と体を受け継ぎ、イメージの霊と体を受け継いで、言葉に於ける霊と体を創造していくところとなります。イメージ内のミナ(実名)という体と、トという十の働きがマグワイをするということです。

 (『夢』 目覚めてしまってから語る夢は記憶に残った夢で、本来の夢を見ているときの夢とは別の次元の夢です。これが混同されがちです。)

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