半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六十一回　JONY作　『スマホを落としただけなのに』　　（テーマ選択『ボタン』）

　俺は恋を失った。　タクシーの中でスマホを落としたばかりに。

　契約に遅れそうで急いでいたのがいけなかった。タクシーを降りて5秒でスマホが無いのに気付いたが、すでにタクシーは銀座の雑踏に走り去った後だった。手元のレシートで車両は特定できる。しかし、公衆電話なるものがどこにあるのかと周りを見回して、ホテルの看板を見つけて、飛び込んだ。タクシー会社から、俺の乗った車両に、無線で連絡してもらうと、幸いなことに運転手がスマホを見つけて保管してくれているという。その車を銀座まで呼ぶことができないかときけば、調布で予約が入っていて出来ないという。車が営業所に帰ってくるのは4時間後の午後5時になるという。タクシーの営業所は新橋。今は午後１時５分前。あと4時間の間、俺は携帯の無い状態に置かれることになった。
　1時の契約には何とか遅刻することもなく無事調印が終わり、俺は昼過ぎの陽光降り注ぐ銀座中央通りを、約束してあったイタリアンの店に足取りも軽く歩いて行った。たった今、無事に成立した契約で入ってくる手数料の7桁の数字を思うと頬が緩まざるを得なかった。契約を成立させてナンボの世界。来るはずの当事者がトンビに油揚げさらわれて別の相手に乗り換えられたら、俺は入ってくるはずの金も、信用も失い、依頼主の関係者から、胸倉掴まれ灰皿を投げつけられることなりかねなかったのだが。
　イタリアンのウェイティングバーに約束の時間２時の５分前に着き、グラスでシェリーを飲みながら彼女が来るのを待った。今日は彼女の誕生日だ。ポケットには誕生日プレゼントのダイヤのピアスを忍ばせていた。しかし、彼女は、約束の時間を10分過ぎても、20分過ぎても現れなかった。店の電話で彼女に連絡しようとして、電話番号を記憶してないことに気づいた。タクシー会社に再度連絡すると、俺のスマホを乗せたタクシーは横浜にいて磯子に向かっているそうだ。俺のガッカリした声をきいた電話口の男は、必ず戻りますから大丈夫です、と慰めてくれた。仕方がないので、ロンバルディアのゴルゴンゾーラチーズをクラッカーにのせたものをつまみながら、ピエモンテのバローロというフルボディの赤をちびちび飲み、文芸部Aに書く文章を、スマホにメモれないので、ペーパーナプキンに書いて時間を潰した。思いのほか、すらすらとはかどり、気がつくと1時間がたっていた。
　さすがに、俺も心配になってきた。食事の予約をキャンセルし、俺は家に飛んで帰った。PCに彼女から何らかの連絡が入っているかも知れない。しかし、結果は何にも得るものはなかった。PCにダウンロードしてあったLineのアプリは、しばらく利用してないと、スマホでＰＣ画面の二次元バーコードを認証しないと使えない仕組みになっていた。本来なら、今頃、彼女と二人で、銀座の裏通りに面したパリのアパルトマンのようなホテルの部屋で、冷えたモエ・シャンドンで乾杯しているはずなのに。恋人との繋がりが、スマホを落としただけで、危機に晒されている。
　俺がタクシー営業所に着いたのは、午後４時３０分。午後５時に帰ってくるはずの車を待った。営業所の事務員は、俺に茶をだしてくれて、「運転手がネコババすることはないから大丈夫ですよ」と愛想を言った。スマホのハードの価値なんてネコババされてもたいしたことない。中身の情報さえ戻ればいい。
　車は、５時２０分に戻ってきて、俺のスマホは、俺のもとに戻った。近くのスタバの二階で、スマホの画面を覗く俺の顔からさーっと血が引いていくのが、自分でわかった。中身の情報が今さら戻っても意味がないことを俺は悟った。
　Lineを開くと、彼女からのメッセージが続けて入っていた。

　『今、自宅マンションのエレベータの中です。６階と７階の間で停まってしまいました。非常『ボタン』を押したら、エレベーター会社の人がすぐ来てくれるそうです。こんなこと初めて。誕生日なのにツイてない。待ち合わせに少し遅れてしまうかも。ごめんなさい。待っていてね』（13：30）
　（音声通話受信　応答なし　13：31　）
　（音声通話受信　応答なし　13：33　）
　（音声通話受信　応答なし　13：35　）
　『なんで、既読にならないの？　もしかして、ブロック？　何かK（註：俺のこと）の気に障ることした？したのなら謝るから声聞かせて。今、とっても怖いよ』（13：40）
　『エレベータ-会社ちっとも来ない。また、エレベーターの非常ボタン押したら、道が混んでいるので、少しかかるかも知れませんが、そちらに向かっていますので、もう少し待ってください、自分で脱出しようとしないで下さい、だって』（13：45）
　『ぜんぜん既読にならないKにメッセ送ってるってバカみたいだから、Lineのほかの人を見ていたら、読書会のF男から何回もメッセきているのに未読なのをつい開いちゃったよ。そしたら、F男からすぐに、メッセ来たので、今エレベーターに閉じ込められて修理待っているところって知らせたらすぐに来るって。どうしよう』（13：55）
　（音声通話受信　応答なし　14：05　）
　（音声通話受信　応答なし　14：07　）
　『約束の時間過ぎたのに、私はエレベーターの中だよ。未読のままだけど、ひょっとして奥さんにバレたとか？私、奥さんと、やり合うの嫌だからね』（14:15）
『エレベーターの非常ボタンの上に通話の穴の開いているところから作業員さんの声がいきなりして、これから故障の原因調べて動かしますからそのままちょっと待ってください、だって』（14:25）
『F男がこのマンションの近くまできちゃったよ。音声通話でF男が心から私のことを心配してくれる声聞いたら、今まで閉じ込められて怖かったのが一気に押し寄せてきて電話しながら泣いちゃった。そしたらF男優しく慰めてくれて、彼の誠実さが伝わってきた。この人本当に私のこと好きでいてくれたことがわかったって言うか』（14：55）
『エレベーターようやく動いて、脱出できた。当分、エレベーターに乗りたくない。疲労困憊。泣いて顔も崩れちゃったから、部屋に戻った。念のため今日約束していた銀座のイタリアンの店に、Kの名前で予約入っているか聞いたら、「ｷｬﾝｾﾙになっております」だって。やっぱり、何かあったんだね。奥さんのある人とつきあっちゃいけないというのは本当だね』（15：30）
『インターホン鳴ったので、画面を見たらF男がバラの花束持って、１階に来ていた。誕生日のお祝いをどこかでしようと誘われた。疲れているから出るのは嫌だ、と言ったら、ウーバーイーツでぼくに奢らせてくださいだって。誕生日一人で過ごすのも嫌だからOKしちゃったよ』（15：55）
『K。ごめんね。このメッセージがあなたに読まれることがあるかわかりませんが、けじめとして、書いておきます。あなたとはお別れしなければなりません。F男さんとこれからお付き合いすることになりました。彼から、結婚を前提として付き合って欲しいと申し込まれました。K。あなたといて楽しかった。でも、私もいい歳だし、エレベーターに閉じ込められたのも、F男さんにLineしたのも、きっと神様の御心だったのでしょう。このメッセージを最後に、あなたからの着信は拒否に設定させてもらいます。いままで幸福な時間をありがとうございました。』（17：00）
（終わり）