一
街灯の青白い光が、湿ったアスファルトを憂鬱に照らしていた。走るたびに光の尾が視界の脇へと残像になって流れていく。短く息を吐くたびに、白い気体が生まれては消え生まれては消えていくのが見えた。走っても走っても、梢の白い後ろ姿が掴めそうにない。
「まっ…待てっ………」
息切れの中で言葉はうまく発音されない。両手に握りしめた梢のハイヒールが、汗で湿って気持ち悪かった。上がらなくなった足が、育ちすぎてアスファルトを割り地表に伸びてきた、木の根につまづく。
もう限界だ。走れない。全身が心臓になったみたいだ。立ち止まり体を折って地面を見た。下を向いた瞬間に、酔いが回って頭がぐわんぐわんと揺れる。吐きそうになるのは、久しぶりの全力疾走のせいか飲みすぎた酒のせいかだろうか。街灯に照らされる、黒々と光ったアスファルト。汚れた白いコンバースを見つめながら、「最近靴の漂白をしていないな」とどうでもいいことを考えてしまう。視界に梢の裸足の足が入ってきた。青白い小さな足に真っ赤な爪。
「りっちゃんて足が遅いのね」
頭上で梢の声が気怠く響く。やっとの事で体を起こす。梢の顔を見てどきりとした。あの、蔑むような誘うような、そして憂いを含んだ、蠱惑的な目が僕を捉えていた。街灯の元に照らされる白い肌は、まるで内側から発光しているようだ。僕は梢以外にこんなに赤い口紅が似合う女を知らない。
死ぬような息の僕と対照的に、梢は息切れひとつしない。そして二月の夜に、白いワンピースにダウンコートを羽織っただけで、裸足で立っている。寒くないのだろうか。まるで幽霊のようだが、まぎれもない現実だ。そうだ、梢はいつも、こんな風に突拍子がなく、ちっとも現実味を持ち合わせていない。
「いい加減にしろよ、僕の鞄返せよ」
絞り出すようにした声は我ながら情けない。梢は無視して、道路の脇にある用水路の柵に手をかけた。そのそばにある桜の木に登り出す。
「やめてくれ、酔っ払いすぎだよ！」
「ねえ見て、この桜、二月なのに、もう満開なのよ」
言われてみれば、確かに桜は満開だった。市街地と住宅地を割るように、長く街を横切っている用水路、それに沿って桜は何十本と植えられていた。その中で、梢が登ろうとしているこの一本が、春を待たずにフライングで咲いている。
「桜なんていいから、降りてくれよ」
「りっちゃん知らなかったの？ りっちゃんの家この近くなんでしょう？」
ぎくりとする。梢はこの近くに僕の家があるのを知っているのか？ ああ、家では妻が待っている。連絡をしないで出てきてしまったから、心配して夕食も食べずに待っているかもしれない。散歩のつもりで出てきただけなのに、夕飯時はとうに過ぎてしまった。電話をしようにもスマートフォンは梢に取り上げられてしまっている。
「ねえ、頼む、勘弁して。ほんとに、帰らなきゃ」
僕は枝に体を預けた梢の腰に手をかけた。薄いワンピース越しに、ひんやりと湿った肌の感触が伝わってくる。慌てて手を離す。木が揺れて、季節外れの桜吹雪が舞った。
梢は「ふふ」と笑みを漏らして、僕の頬に手を触れた。それだけで、心臓が飛び出しそうになる。動揺して後ずさった僕は、背後の柵に腰を派手にぶつけた。
「やめてくれ！」
「りっちゃんたら、うぶなお嬢さんみたいね」
梢はさらに身を乗り出して、もう一度僕の頬に手を伸ばす、バランスを崩す、落ちそうになる、慌てて僕は駆け寄る。梢が僕の上に落ちてきた。受け止め切れず、僕は思い切り尻餅をついた。
「いってぇ・・・」
骨に響く痛みだった。僕は一体何をやっているんだ。当の梢は僕に跨りながら、まだ「くふふ」と笑っている。膝を擦りむいていないだろうか？ 梢のむき出しの足を慌てて確認したが、梢は構わない。
「りっちゃん、どもらなくなったね。初めて会った時はしゃべるだけで顔を真っ赤にしてたのに。それに、なんだか雰囲気変わった」
そう言われただけで僕は反射的に顔を赤らめた。夜空の下で、よく見えなくてよかった。
「は、二十歳の頃とは違うんだ、僕なんてもう人の親だぜ。正直言って、こんなことしてる場合じゃないんだ」
「そうかな？ りっちゃんはいつまでも学生さんみたいよ」
そうじゃない、梢が僕を二十歳の頃に引き戻してしまうのだ。気怠くもたれかかってくる梢の下で、下半身が脈打つのを感じた。最悪だ。平常心を保って、なんとか梢を立ち上がらせる。梢を柵にもたれかからせて、靴を履かせてやった。
「相変わらず優しいのね」
「優しくないよ、僕は。早く帰りたいだけなんだ」
「ねえ、りっちゃんの奥さんてさ、可愛いよね」
背中に冷水を引っ掛けられたかのように、胸がしゅんと痛んだ。梢はなぜ僕の妻を知っているんだ？ 会ったことがあるのか？
「梢、なんで…」
「なんかさ、リスに似てるよね」
「………」
「小さくて、エクボが可愛くて」
美しい梢が僕の妻を褒めると、まるで馬鹿にしているようにしか聞こえない。しかし、考えてみれば僕の妻はリスに似ている。目が丸くて、頬がぷっくりしていて、前歯が妙に大きいからだ。梢が僕の妻をリスに似ていて可愛いと褒める…それだけで、僕は妻がどうしようもなくつまらない女に思えてきた。
だから、僕は梢に追いつきたくなかったのだ。
しかしなぜ梢は僕の妻を知っているのか。いつから？ まさか妻は今日のことを知っているのか？ 僕の妻…妻はつまらない女…妻だけに。全然笑えない。
赤くなった僕の顔は、さっと白くなったことだろう、梢があっさりと言う。
「りっちゃんの奥さんね、ヨガ教室で一緒なのよ。友達になったの。本当に偶然なんだけどね。奥さんから聞いてないの？」
言われてみれば、妻がヨガ教室に通いだしたと去年嬉しそうに話していたのを思い出した。この近くにある川を越えると東京だ。妻が憧れていた街、電車に乗って、少し遠いけど通うという……
「Jにあるヨガ教室か？」
「そう、私ね、その近くに住んでるの。実は結婚してね。りっちゃんの奥さんがこの街から通ってるって言ってたから。私たちほんとに近くに住んでたのね。つい来ちゃったの」
梢が結婚した………誰と、いつ、なぜ？ 疑問はたくさん湧いてきたのに、何一つ声にならなかった。僕の思考は混乱して何一つまともに考えられなかった。やっと口に出た言葉はこうだった。
「もう…もう、いい加減にしてくれ。妻が家で待ってるんだ」
梢は「そう」と言って微笑んだ。優しい笑顔。
「この桜ね、なんか私みたいだなって思ったの。タイミングが悪く咲いちゃって、きっと春には散ってるわね。それを律に見せたかっただだけなのよ」
梢はそう言って笑った。そして僕に鞄を返して、翻して足早に道路に駆け出し、さっと手を上げてタクシーを止めて、こちらを振り返った。「じゃあね」それだけ言って、乗り込んでさっさと行ってしまった。
まるですべて予め用意されていたかのように、一瞬で去って行ってしまった。ただ梢の揺れる白いワンピースの裾だけが、残像のように残った。季節外れの桜の花吹雪が僕の頭に散る。何もかもが馬鹿みたいだ。
なんだかひどく疲れた。重たい足取りで家までの道を歩く。妻と梢が同じヨガ教室だって？ なんていうことだ。なぜまた梢は僕の人生に現れたのだろう。もう忘れたはずだと思ったのに。
自宅のドアノブに手をかけたが、そのまま僕はしばらく佇んでいた。マンションの廊下に面した、台所の小さな窓から夕食の匂いが漂ってくる。頭上で「じじじ」と音がした。電灯に飛び込んで感電する虫を見て、「僕の人生って一体なんなんだろう」と虚しくなる。いや、こんなこと今まで考えたこともなかった。大学も、仕事も、結婚も、特に不満を感じたことはなかったはずだ。僕の人生の中で、梢だけがただ異様な光なのだった。
意を決してドアを開ける。廊下の奥から、パタパタと妻のスリッパの音が聞こえてくる。
「パパおかえりなさい」
妻は僕の顔を見て一瞬真顔になったが、すぐににっこり微笑んでそう言った。「晩ごはん出来てるよ」と。確かに、妻はリスに似ている。うんざりする。これから妻の顔を見る度にリスを思い出して、その度に梢を思い出さないといけないのだろうか。
妻はそれきり何も言わず、台所に戻って料理を盛り付け始めた。僕は何と言ったらいいのかわからなかった。コートをかけて手を洗いうがいをして、リビングに入ると、息子がプレイマットの上で絵を描いている。テレビがつけっぱなしだ。
「まーちゃん、ただいま。まだ起きてるの？ 何描いてるんだ」
「ママ描いてるの」
「おっ、上手だな。でもそろそろ寝ような。お風呂入ったか？」
リモコンに手を伸ばしテレビを消すと、やっと息子が顔を上げて僕を見た。
「パパお服にクレヨンがついてるよ。まーちゃんのかな」
そう言って、息子は握りしめた赤いクレヨンの先をじっと見つめた。僕は白いシャツの胸元に、赤い口紅がべったりとついているのに気づいた。
背後から妻がお盆に乗せて料理を運んできた。そして言った。きっと、笑顔で。柔らかい声だ。
「パパのシャツについてるのは、クレヨンじゃないよ。まーちゃんのせいじゃないよ」
妻は僕の顔も見ずに、食卓に夕食を並べ始めた。その瞬間、僕は全てを悟った気がした。
僕はもうきっと、何からも逃げられない。食器がカチャカチャと並べられる音だけが、リビングに響いていた。
二
二十歳の頃と三十歳の今では、きっと守りたいものは違う。それでも僕は、特に何かを疑うことなく生きてきた。だけど梢は？ と考える。
「鴨志田くん？ へえ、律っていうの。じゃありっちゃんね」
十年前初めて会った時、そう言って笑った顔にどきっとした。だけど、もう一生こんな美しい笑顔が僕に向けられることはないだろう、同時にそうも思った。大学の初回のゼミで隣になった、それ以上に僕らの仲が進展するなんて考えも及ばなかったのだ。
「りっちゃんはね、絶対童貞ね」
梢が酒に頬を上気させて僕にしなだれかかってくる、確かに当時二十歳の僕には、初めて感じる女の重さだった。僕は自分の顔が真っ赤になるのがわかる。喧騒と煙が充満したチェーンの安い居酒屋店で、その音も匂いもチカチカ光る蛍光灯も、同級生たちの視線も梢自身も、すべてが僕を圧倒していた。「ど、ど…」と僕はうまく言葉を繋げられない。
「当たり前だろ。鴨志田お前、女いたことないだろ？」
「ど、ど…じゃねぇよ！」
目の前に座った男たちが攻撃的だったのは、梢がなぜこんな冴えない僕の隣に座っているのだという抗議の意味もあったのだろう。同じゼミ生だった三人の男たちと、僕は誰一人気が合いそうもなかった。それでも男たちの誰もが梢と寝たいと考えていて、僕にまで攻撃してくるのを知っていた。そしてそれを梢自身充分わかっていたのだと思う。
梢は僕に耳打ちした。
「私が奪ってあげましょうか」
動揺した僕はテーブルにぶつかってジョッキのビールをこぼした。
「おい、鴨志田何やってんだよ、勃起してんじゃねぇの！」
隣のテーブルに分かれて固まった女子たちが、非難の目で僕たちを見ているのがわかる。僕はおしぼりで畳に溢れたビールを拭いた。「僕は大学にこんなことをしに来たんじゃない」そう思うと情けなくなって、今すぐ家に帰って寝てしまいたかった。
居た堪れなくなって、僕はトイレに立つ。「りっちゃんどこいくの？」と言う梢の声が聞こえたが、僕は無視する。「トイレでオナるんだろ」と、男どもが下品に笑った。
このままもう抜けてしまいたい……居酒屋の狭い通路を歩きながら考えたが、荷物を置いてきてしまった。特に考えもなく、新鮮な空気が吸いたくて外に出た。
夜の繁華街の、生ぬるい風。店は商店街から一本裏に入った、狭い路地に面していた。僕はその場に座り込む。数十メートル先の賑やかな通りから、若者たちの嬌声が聴こえる。この暗い路地から見ると、向こうの通りは随分明るく見えた。
どうしよう、もう荷物なんていいから帰ってしまおうか。そう思った時、頭に柔らかいものが当たる衝撃を感じて、びっくりして後ろを見た。梢が立っていた。
「帰りたいんでしょ？鞄持ってきてあげたのよ」
僕は慌てて立ち上がって鞄を受け取ろうとする、しかし梢はひらりとかわして、商店街のほうに向かって走って行ってしまった。
「ま、待ってっ…」
「返してあげないよーん」
おどけて鞄を頭上に持ち上げてくるりと梢がまわる、が、脚がもつれてその場にかくっと座り込んでしまった。
「あぁっ」
僕はつい声をあげて、慌てて梢に歩み寄る。だけど梢はへらへら笑っていた。
「くふふ、酔っちゃった。歩けなーい」
「だ、大丈夫ですか？」
「おんぶして」
「無理ですよ！」
「なに？ 嫌なの？」
嫌だとかそういう問題じゃない。梢は僕の襟元を掴んで顔を寄せた。街灯の下で、照らされた梢の肌は白いを通り越して青く見える。黒い黒い目だ、と思った。その目に見られると、僕はなにを言ったらいいのかわからなくなる。
「おんぶよ。運ぶのよ、私を！」
どうすればいいかわからない僕にはお構いなしで、梢は躊躇いなく後ろから抱きついてくる。梢の吐息が耳元にあたり、背中に柔らかい乳房を感じる。自分の顔が耳まで真っ赤になるのがわかった。
「どうしたの？ 立って。私もう歩けないの」
僕は言われるがままに、梢を背負い立ち上がった。梢は満足したようで、
「まっすぐね。それであの商店街を右。すぐそこだから」
前方を指差し言った。
五分ほどそのまま歩いたが、ずっと背負っていると、いくら体重の軽い梢でもさすがにだんだん辛くなってくる。梢は背中から降りて、僕の手を引いて歩いた。
「どこ行くんですか？ 帰るんですよね？」
梢は駅とは逆方向に歩いていた。その僕の疑問には答えず、
「なんで敬語なの？ 同い年よね」
「そうですけど…」
「ねえ、りっちゃんって本当に童貞なの？」
僕は答えに困る。どうしてそんなこと、答えなきゃいけないんだ。人の前でごく個人的な領域に踏み込まれて、僕は少しムッとしていた。
「そんなこと、なんで答えなきゃいけないんですか？ デリカシーがないと思う」
「デリカシーねぇ…」
梢はそう言ってとぼけた。僕には確かにその時女性経験がなかった。それでも梢が、そんな卑猥な話をすれば男がみんな喜ぶと考えている気がして、不愉快だった。僕にだって、触れられたくないことはたくさんある。
「ただの好奇心よ。でも童貞かどうか知られたくないなら、適当に嘘つけばいいのにね。そうやって自分で主張することないのに」
吐き捨てるように梢は言った。
「りっちゃんの触れられたくない領域なんて、私は知ったこっちゃないわ。そんなに自分を大切にしたいなら自衛すればいいのよ。それなのに、過剰反応してみたり、急に食ってかかったり。私もそういうの嫌い」
そう言った梢の横顔からは、いまいち表情が読み取れない。「じゃあ僕帰ります」と腕を振りほどこうとしても離してはくれなかった。
「でもりっちゃんのことは好きなのよ。少しでいいから付き合ってよ。それにもう着いたわ」
梢はにっこりと笑った。そして目の前の雑居ビルを示す。一階には飲食店、その上にはオフィスが入っているような、どこにでもある雑居ビルだ。梢はさっさと古びたエレベーターに乗り、行き先ボタンを押す。三階につきドアが開いた。梢の後ろについてベージュのリノリウムを歩くと、茶色くて重々しいドアに行き着く。五メートルほどに伸びた廊下にあるのは、そのドア一つだった。なんの店だろう？ 廊下に面して分厚い壁があるだけで、その向こうの様子は全くわからない。梢はドアの横のインターフォンを押した。
「梢です。友達連れてきたんだけど」
男が返事する声が聞こえ、ほどなくしてドアが開いた。バーテンダーの格好をしたの若い男が応対する。
「お、梢さん。こんばんは」
「誰かいる？」
「金曜の夜にしては、珍しく空いてますよ」
「ふーん」と言いながら、梢が僕の手を引いて中に入った。照明が随分と薄暗く、三段ほど下る階段につまずきそうになった。入ってみると、思った以上に中はこじんまりしている。大学の小さい講義室くらいの広さに、五人ほど座れるこじんまりとしたバーカウンター、L字型のソファを誂えたテーブルが二つ。そしてただでさえ小さな店内なのに、フロアの三分の一がレースのカーテンで仕切られた座敷のようなスペースで占められていた。まず僕は「あれも席だろうか？」と疑問に思う。黒を基調にした店内で、赤いマットと赤い壁で作られたそのスペースは妙に目立つ。仕切りのないその赤い部屋は、照明まで赤いようだった。
カウンターに一番奥の席はスーツ姿のサラリーマン、真ん中の席に僕たちと同じくらいの年齢の女の子が座っていた。
「お客様、当店のご利用は初めてですか？」
バーテンが僕に訊いたが、
「私の連れだから大丈夫。お会計一緒にしちゃうから」
と梢がいくらか払った。僕は梢に導かれるままに、カウンターに座る。
「おっ、梢ちゃん。お疲れ。新しい彼氏？」
気安い口調でスーツの男が話しかけた。
「彼氏じゃないわ。同じ大学なの」
今度は梢の隣の女の子が、
「梢！久しぶり！全然うちに泊まりに来てくれないんだもの」
と梢の腕を掴んで拗ねた口調で言った。梢は彼女の額に唇を寄せる。
「ごめんね、大学が忙しくて」
二人とも顔見知りのようだ。彼らはただ、そのまま酒を飲みながらしばらく世間話をした。もっとも僕は飲めないので、ずっとウーロン茶をすすって黙り込んでいた。僕の知らない人たちが、僕の知らない会話で梢と盛り上がっている。梢はその間僕を見向きもしなかった。誰もが、まるで僕のことがちっとも見えないようにふるまっている。僕は耐えられなくなってきた。
「あの……僕帰ります」
そう言って席を立ったが、梢がくるりとこちらを向いて、僕の手を掴んだ。
「まだ帰らないで。ここにいてよ」
しばらく僕を放っておいて、今更引き止めるなんて勝手なんじゃないか。僕はいまいち梢にどう接したらいいかわからない。しかし梢は席を立ち、僕の手を掴んでずんずんと店の奥へ引っ張っていく。あの例の赤い部屋のカーテンを引き、僕の体をそこに押し込めた。
思いの外強く押され、赤いマットの上に尻餅をつく。梢が手早く僕の靴を脱がせてそのへんに放った。赤い床に赤い壁に赤い天井に赤い照明。不思議な臭い。ふと、部屋の隅にある棚に、ティッシュと手錠、コンドームの箱があるのが目に入った。その時僕は初めて、この部屋が何をするところか理解した。
「帰ります」
立ち上がろうとしたが、構わず梢は僕の上に跨る。そして慣れた手つきで僕の腕に手錠をはめてしまった。
「何してるんですか？」
「まだしてないじゃない」
「……何言ってるんだよ、外してください！」
そう言う僕を無視して、梢は僕の腕を持ち上げ手錠を壁のフックのようなものに固定してしまった。腕を動かしてもがちゃがちゃ言うだけで、僕は身動きがとれない。
「何してんだよ、頭おかしいんじゃないか？ 外せよ」
「なんで？ ダメなの？」
「なんでって……」
無表情にズボンのベルトに手をかけ外しにかかる、僕は梢が恐ろしくなった。
「何やってんだよ、やめろよ」
梢から逃れようと足を動かすと、膝が梢の胸のあたりに思い切りぶつかった。梢は「いたっ」と小さく叫んで胸を押さえる。
「あ、ごめんなさい……でも、ほんとにやめて。外して」
「そんなに嫌？ りっちゃんは私に興味ないの？」
「興味ないっていうか……そういうことじゃなくて、いろんな意味で犯罪でしょ？ こういうの、おかしいよ、ありえないよ」
「ありえないってどういう意味？」
梢は構わず僕のズボンと下着を脱がせた。
「ここではなんでもありなのよ」
もう駄目だ。この人に何を言っても聞いてくれない。手錠は外せそうもない。他の客に人々に助けを求めたかったが、レースのカーテンの向こうで、彼らが無言でこちらを見ているのがわかった。梢を蹴り飛ばしてなんとか阻止する？ この状況は嫌でも、それをする勇気はなかった。僕はされるがまま。最悪だ。
梢はさっさと着ているものを脱いで、裸になった。
「いや、駄目だよ、それは。服着てよ」
いくら言っても僕は身体の自由がきかない。せめて壁のフックから手錠を外したかったが、金属ががちゃがちゃと当たって痛いだけで、なす術もなかった。せめて僕は目をつぶって顔を背け、梢を見ないようにする。梢が僕の頬を両手でつかんで、無理矢理に顔を自分の方に向かせる。つい見てしまう。
赤い照明に照らされていても、梢の肌が非常にきめ細かく陶器のように美しいことがわかった。つい胸を見てしまう。完璧な曲線を抱いた乳房は、触るととても柔らかそうに見えた。こんな状況で悲しいけれど、間近に見る女性の体ってなんて美しいんだろう？と僕は感動する。
「りっちゃんはやっぱり初めてなのね」
梢がかがみこんで、僕の性器を口に咥える。それは、僕が感じたことのない感覚だった。梢が僕の性器を吸うたびに、電流のように下半身に快感が走る。それは僕の腹の底から背中を伝って、頭の先まで駆け巡った。自然と体がのけぞる。
僕は昨日の夜からシャワーを浴びていない。さっきトイレにも行った。性器は汚れている。それを梢が激しく舐め上げている。カーテンの向こうで僕たちを見る、いつの間にか人の数が増えたようだ。カーテンの裾に何本もの足を見た。きっとまた、ニヤニヤと僕たちをいやらしい目で見ているのだ。だけど何よりもいやらしいのは僕だ。
「いやだ、こんなのは嫌だ」
「でも硬くなってるわ」
そう言って梢は僕の上に跨った。
「舐めて」
僕の口先に自分の乳首を当てる。僕は絶対に口を開けてやるもんか、と思った。
「触りたいでしょ？」
柔らかい乳房が頬にあたる、それと同時に僕の目から涙が伝った。それはほとんど無意識に流れた涙だった。
「泣いてるの？ ごめんね」
そう言って梢は僕にキスをした。柔らかい唇だ。舌が僕の口の中に割って入ってきた。僕は顔を背ける。
「そんなに嫌なの？ じゃあさっさと終わらせましょう」
梢が自分の性器を僕にあてがう。僕が梢の中にずぶずぶと入っていくのがわかった。生まれて初めての感触。梢の温かくて柔らかい膣の中で、僕の性器はさらに大きく膨らんで、もうどこにも隙間がない。全身が性器になって、丸ごと梢の中に飲み込まれていってしまう、そんな錯覚を覚えた。僕は怖かった。
体中を突き抜けるような快感だ。口がだらしなく開いてしまう。声が漏れる。梢が腰を動かして、「あっ」と吐息を漏らした。
体中が総毛立つ。どこまでも登っていってしまいそうな、それとも、落ちていってしまいそうな。僕の体の、心の、皮膚一枚内側の、すべてに手を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにされているような。
僕は悲しくなった。できれば、ここから全力で逃げ出したい。それなのに、梢を押しのけることができない。身をよじると手首の手錠ががちゃがちゃ鳴った。火照った体に、それは無機質に硬く冷たく、皮膚に食い込んで痛む。
「もうやめて、やめてよ」
自ずと口から出た言葉だった。梢は僕を、蔑むような目で見下ろしている。
「本当にやめてほしいの？」
「やめて…」
やめてくれ。僕の尊厳を、そうやって奪うのは。
梢が僕の口を塞いで、僕の体に自分の体をこすりつけるように、激しく前後した。
やめてくれ。そう思う気持ちは置いてきぼりに、僕の性器は強く脈打ち射精した。
街灯の青白い光が、湿ったアスファルトを憂鬱に照らしていた。走るたびに光の尾が視界の脇へと残像になって流れていく。短く息を吐くたびに、白い気体が生まれては消え生まれては消えていくのが見えた。走っても走っても、梢の白い後ろ姿が掴めそうにない。
「まっ…待てっ………」
息切れの中で言葉はうまく発音されない。両手に握りしめた梢のハイヒールが、汗で湿って気持ち悪かった。上がらなくなった足が、育ちすぎてアスファルトを割り地表に伸びてきた、木の根につまづく。
もう限界だ。走れない。全身が心臓になったみたいだ。立ち止まり体を折って地面を見た。下を向いた瞬間に、酔いが回って頭がぐわんぐわんと揺れる。吐きそうになるのは、久しぶりの全力疾走のせいか飲みすぎた酒のせいかだろうか。街灯に照らされる、黒々と光ったアスファルト。汚れた白いコンバースを見つめながら、「最近靴の漂白をしていないな」とどうでもいいことを考えてしまう。視界に梢の裸足の足が入ってきた。青白い小さな足に真っ赤な爪。
「りっちゃんて足が遅いのね」
頭上で梢の声が気怠く響く。やっとの事で体を起こす。梢の顔を見てどきりとした。あの、蔑むような誘うような、そして憂いを含んだ、蠱惑的な目が僕を捉えていた。街灯の元に照らされる白い肌は、まるで内側から発光しているようだ。僕は梢以外にこんなに赤い口紅が似合う女を知らない。
死ぬような息の僕と対照的に、梢は息切れひとつしない。そして二月の夜に、白いワンピースにダウンコートを羽織っただけで、裸足で立っている。寒くないのだろうか。まるで幽霊のようだが、まぎれもない現実だ。そうだ、梢はいつも、こんな風に突拍子がなく、ちっとも現実味を持ち合わせていない。
「いい加減にしろよ、僕の鞄返せよ」
絞り出すようにした声は我ながら情けない。梢は無視して、道路の脇にある用水路の柵に手をかけた。そのそばにある桜の木に登り出す。
「やめてくれ、酔っ払いすぎだよ！」
「ねえ見て、この桜、二月なのに、もう満開なのよ」
言われてみれば、確かに桜は満開だった。市街地と住宅地を割るように、長く街を横切っている用水路、それに沿って桜は何十本と植えられていた。その中で、梢が登ろうとしているこの一本が、春を待たずにフライングで咲いている。
「桜なんていいから、降りてくれよ」
「りっちゃん知らなかったの？ りっちゃんの家この近くなんでしょう？」
ぎくりとする。梢はこの近くに僕の家があるのを知っているのか？ ああ、家では妻が待っている。連絡をしないで出てきてしまったから、心配して夕食も食べずに待っているかもしれない。散歩のつもりで出てきただけなのに、夕飯時はとうに過ぎてしまった。電話をしようにもスマートフォンは梢に取り上げられてしまっている。
「ねえ、頼む、勘弁して。ほんとに、帰らなきゃ」
僕は枝に体を預けた梢の腰に手をかけた。薄いワンピース越しに、ひんやりと湿った肌の感触が伝わってくる。慌てて手を離す。木が揺れて、季節外れの桜吹雪が舞った。
梢は「ふふ」と笑みを漏らして、僕の頬に手を触れた。それだけで、心臓が飛び出しそうになる。動揺して後ずさった僕は、背後の柵に腰を派手にぶつけた。
「やめてくれ！」
「りっちゃんたら、うぶなお嬢さんみたいね」
梢はさらに身を乗り出して、もう一度僕の頬に手を伸ばす、バランスを崩す、落ちそうになる、慌てて僕は駆け寄る。梢が僕の上に落ちてきた。受け止め切れず、僕は思い切り尻餅をついた。
「いってぇ・・・」
骨に響く痛みだった。僕は一体何をやっているんだ。当の梢は僕に跨りながら、まだ「くふふ」と笑っている。膝を擦りむいていないだろうか？ 梢のむき出しの足を慌てて確認したが、梢は構わない。
「りっちゃん、どもらなくなったね。初めて会った時はしゃべるだけで顔を真っ赤にしてたのに。それに、なんだか雰囲気変わった」
そう言われただけで僕は反射的に顔を赤らめた。夜空の下で、よく見えなくてよかった。
「は、二十歳の頃とは違うんだ、僕なんてもう人の親だぜ。正直言って、こんなことしてる場合じゃないんだ」
「そうかな？ りっちゃんはいつまでも学生さんみたいよ」
そうじゃない、梢が僕を二十歳の頃に引き戻してしまうのだ。気怠くもたれかかってくる梢の下で、下半身が脈打つのを感じた。最悪だ。平常心を保って、なんとか梢を立ち上がらせる。梢を柵にもたれかからせて、靴を履かせてやった。
「相変わらず優しいのね」
「優しくないよ、僕は。早く帰りたいだけなんだ」
「ねえ、りっちゃんの奥さんてさ、可愛いよね」
背中に冷水を引っ掛けられたかのように、胸がしゅんと痛んだ。梢はなぜ僕の妻を知っているんだ？ 会ったことがあるのか？
「梢、なんで…」
「なんかさ、リスに似てるよね」
「………」
「小さくて、エクボが可愛くて」
美しい梢が僕の妻を褒めると、まるで馬鹿にしているようにしか聞こえない。しかし、考えてみれば僕の妻はリスに似ている。目が丸くて、頬がぷっくりしていて、前歯が妙に大きいからだ。梢が僕の妻をリスに似ていて可愛いと褒める…それだけで、僕は妻がどうしようもなくつまらない女に思えてきた。
だから、僕は梢に追いつきたくなかったのだ。
しかしなぜ梢は僕の妻を知っているのか。いつから？ まさか妻は今日のことを知っているのか？ 僕の妻…妻はつまらない女…妻だけに。全然笑えない。
赤くなった僕の顔は、さっと白くなったことだろう、梢があっさりと言う。
「りっちゃんの奥さんね、ヨガ教室で一緒なのよ。友達になったの。本当に偶然なんだけどね。奥さんから聞いてないの？」
言われてみれば、妻がヨガ教室に通いだしたと去年嬉しそうに話していたのを思い出した。この近くにある川を越えると東京だ。妻が憧れていた街、電車に乗って、少し遠いけど通うという……
「Jにあるヨガ教室か？」
「そう、私ね、その近くに住んでるの。実は結婚してね。りっちゃんの奥さんがこの街から通ってるって言ってたから。私たちほんとに近くに住んでたのね。つい来ちゃったの」
梢が結婚した………誰と、いつ、なぜ？ 疑問はたくさん湧いてきたのに、何一つ声にならなかった。僕の思考は混乱して何一つまともに考えられなかった。やっと口に出た言葉はこうだった。
「もう…もう、いい加減にしてくれ。妻が家で待ってるんだ」
梢は「そう」と言って微笑んだ。優しい笑顔。
「この桜ね、なんか私みたいだなって思ったの。タイミングが悪く咲いちゃって、きっと春には散ってるわね。それを律に見せたかっただだけなのよ」
梢はそう言って笑った。そして僕に鞄を返して、翻して足早に道路に駆け出し、さっと手を上げてタクシーを止めて、こちらを振り返った。「じゃあね」それだけ言って、乗り込んでさっさと行ってしまった。
まるですべて予め用意されていたかのように、一瞬で去って行ってしまった。ただ梢の揺れる白いワンピースの裾だけが、残像のように残った。季節外れの桜の花吹雪が僕の頭に散る。何もかもが馬鹿みたいだ。
なんだかひどく疲れた。重たい足取りで家までの道を歩く。妻と梢が同じヨガ教室だって？ なんていうことだ。なぜまた梢は僕の人生に現れたのだろう。もう忘れたはずだと思ったのに。
自宅のドアノブに手をかけたが、そのまま僕はしばらく佇んでいた。マンションの廊下に面した、台所の小さな窓から夕食の匂いが漂ってくる。頭上で「じじじ」と音がした。電灯に飛び込んで感電する虫を見て、「僕の人生って一体なんなんだろう」と虚しくなる。いや、こんなこと今まで考えたこともなかった。大学も、仕事も、結婚も、特に不満を感じたことはなかったはずだ。僕の人生の中で、梢だけがただ異様な光なのだった。
意を決してドアを開ける。廊下の奥から、パタパタと妻のスリッパの音が聞こえてくる。
「パパおかえりなさい」
妻は僕の顔を見て一瞬真顔になったが、すぐににっこり微笑んでそう言った。「晩ごはん出来てるよ」と。確かに、妻はリスに似ている。うんざりする。これから妻の顔を見る度にリスを思い出して、その度に梢を思い出さないといけないのだろうか。
妻はそれきり何も言わず、台所に戻って料理を盛り付け始めた。僕は何と言ったらいいのかわからなかった。コートをかけて手を洗いうがいをして、リビングに入ると、息子がプレイマットの上で絵を描いている。テレビがつけっぱなしだ。
「まーちゃん、ただいま。まだ起きてるの？ 何描いてるんだ」
「ママ描いてるの」
「おっ、上手だな。でもそろそろ寝ような。お風呂入ったか？」
リモコンに手を伸ばしテレビを消すと、やっと息子が顔を上げて僕を見た。
「パパお服にクレヨンがついてるよ。まーちゃんのかな」
そう言って、息子は握りしめた赤いクレヨンの先をじっと見つめた。僕は白いシャツの胸元に、赤い口紅がべったりとついているのに気づいた。
背後から妻がお盆に乗せて料理を運んできた。そして言った。きっと、笑顔で。柔らかい声だ。
「パパのシャツについてるのは、クレヨンじゃないよ。まーちゃんのせいじゃないよ」
妻は僕の顔も見ずに、食卓に夕食を並べ始めた。その瞬間、僕は全てを悟った気がした。
僕はもうきっと、何からも逃げられない。食器がカチャカチャと並べられる音だけが、リビングに響いていた。
二
二十歳の頃と三十歳の今では、きっと守りたいものは違う。それでも僕は、特に何かを疑うことなく生きてきた。だけど梢は？ と考える。
「鴨志田くん？ へえ、律っていうの。じゃありっちゃんね」
十年前初めて会った時、そう言って笑った顔にどきっとした。だけど、もう一生こんな美しい笑顔が僕に向けられることはないだろう、同時にそうも思った。大学の初回のゼミで隣になった、それ以上に僕らの仲が進展するなんて考えも及ばなかったのだ。
「りっちゃんはね、絶対童貞ね」
梢が酒に頬を上気させて僕にしなだれかかってくる、確かに当時二十歳の僕には、初めて感じる女の重さだった。僕は自分の顔が真っ赤になるのがわかる。喧騒と煙が充満したチェーンの安い居酒屋店で、その音も匂いもチカチカ光る蛍光灯も、同級生たちの視線も梢自身も、すべてが僕を圧倒していた。「ど、ど…」と僕はうまく言葉を繋げられない。
「当たり前だろ。鴨志田お前、女いたことないだろ？」
「ど、ど…じゃねぇよ！」
目の前に座った男たちが攻撃的だったのは、梢がなぜこんな冴えない僕の隣に座っているのだという抗議の意味もあったのだろう。同じゼミ生だった三人の男たちと、僕は誰一人気が合いそうもなかった。それでも男たちの誰もが梢と寝たいと考えていて、僕にまで攻撃してくるのを知っていた。そしてそれを梢自身充分わかっていたのだと思う。
梢は僕に耳打ちした。
「私が奪ってあげましょうか」
動揺した僕はテーブルにぶつかってジョッキのビールをこぼした。
「おい、鴨志田何やってんだよ、勃起してんじゃねぇの！」
隣のテーブルに分かれて固まった女子たちが、非難の目で僕たちを見ているのがわかる。僕はおしぼりで畳に溢れたビールを拭いた。「僕は大学にこんなことをしに来たんじゃない」そう思うと情けなくなって、今すぐ家に帰って寝てしまいたかった。
居た堪れなくなって、僕はトイレに立つ。「りっちゃんどこいくの？」と言う梢の声が聞こえたが、僕は無視する。「トイレでオナるんだろ」と、男どもが下品に笑った。
このままもう抜けてしまいたい……居酒屋の狭い通路を歩きながら考えたが、荷物を置いてきてしまった。特に考えもなく、新鮮な空気が吸いたくて外に出た。
夜の繁華街の、生ぬるい風。店は商店街から一本裏に入った、狭い路地に面していた。僕はその場に座り込む。数十メートル先の賑やかな通りから、若者たちの嬌声が聴こえる。この暗い路地から見ると、向こうの通りは随分明るく見えた。
どうしよう、もう荷物なんていいから帰ってしまおうか。そう思った時、頭に柔らかいものが当たる衝撃を感じて、びっくりして後ろを見た。梢が立っていた。
「帰りたいんでしょ？鞄持ってきてあげたのよ」
僕は慌てて立ち上がって鞄を受け取ろうとする、しかし梢はひらりとかわして、商店街のほうに向かって走って行ってしまった。
「ま、待ってっ…」
「返してあげないよーん」
おどけて鞄を頭上に持ち上げてくるりと梢がまわる、が、脚がもつれてその場にかくっと座り込んでしまった。
「あぁっ」
僕はつい声をあげて、慌てて梢に歩み寄る。だけど梢はへらへら笑っていた。
「くふふ、酔っちゃった。歩けなーい」
「だ、大丈夫ですか？」
「おんぶして」
「無理ですよ！」
「なに？ 嫌なの？」
嫌だとかそういう問題じゃない。梢は僕の襟元を掴んで顔を寄せた。街灯の下で、照らされた梢の肌は白いを通り越して青く見える。黒い黒い目だ、と思った。その目に見られると、僕はなにを言ったらいいのかわからなくなる。
「おんぶよ。運ぶのよ、私を！」
どうすればいいかわからない僕にはお構いなしで、梢は躊躇いなく後ろから抱きついてくる。梢の吐息が耳元にあたり、背中に柔らかい乳房を感じる。自分の顔が耳まで真っ赤になるのがわかった。
「どうしたの？ 立って。私もう歩けないの」
僕は言われるがままに、梢を背負い立ち上がった。梢は満足したようで、
「まっすぐね。それであの商店街を右。すぐそこだから」
前方を指差し言った。
五分ほどそのまま歩いたが、ずっと背負っていると、いくら体重の軽い梢でもさすがにだんだん辛くなってくる。梢は背中から降りて、僕の手を引いて歩いた。
「どこ行くんですか？ 帰るんですよね？」
梢は駅とは逆方向に歩いていた。その僕の疑問には答えず、
「なんで敬語なの？ 同い年よね」
「そうですけど…」
「ねえ、りっちゃんって本当に童貞なの？」
僕は答えに困る。どうしてそんなこと、答えなきゃいけないんだ。人の前でごく個人的な領域に踏み込まれて、僕は少しムッとしていた。
「そんなこと、なんで答えなきゃいけないんですか？ デリカシーがないと思う」
「デリカシーねぇ…」
梢はそう言ってとぼけた。僕には確かにその時女性経験がなかった。それでも梢が、そんな卑猥な話をすれば男がみんな喜ぶと考えている気がして、不愉快だった。僕にだって、触れられたくないことはたくさんある。
「ただの好奇心よ。でも童貞かどうか知られたくないなら、適当に嘘つけばいいのにね。そうやって自分で主張することないのに」
吐き捨てるように梢は言った。
「りっちゃんの触れられたくない領域なんて、私は知ったこっちゃないわ。そんなに自分を大切にしたいなら自衛すればいいのよ。それなのに、過剰反応してみたり、急に食ってかかったり。私もそういうの嫌い」
そう言った梢の横顔からは、いまいち表情が読み取れない。「じゃあ僕帰ります」と腕を振りほどこうとしても離してはくれなかった。
「でもりっちゃんのことは好きなのよ。少しでいいから付き合ってよ。それにもう着いたわ」
梢はにっこりと笑った。そして目の前の雑居ビルを示す。一階には飲食店、その上にはオフィスが入っているような、どこにでもある雑居ビルだ。梢はさっさと古びたエレベーターに乗り、行き先ボタンを押す。三階につきドアが開いた。梢の後ろについてベージュのリノリウムを歩くと、茶色くて重々しいドアに行き着く。五メートルほどに伸びた廊下にあるのは、そのドア一つだった。なんの店だろう？ 廊下に面して分厚い壁があるだけで、その向こうの様子は全くわからない。梢はドアの横のインターフォンを押した。
「梢です。友達連れてきたんだけど」
男が返事する声が聞こえ、ほどなくしてドアが開いた。バーテンダーの格好をしたの若い男が応対する。
「お、梢さん。こんばんは」
「誰かいる？」
「金曜の夜にしては、珍しく空いてますよ」
「ふーん」と言いながら、梢が僕の手を引いて中に入った。照明が随分と薄暗く、三段ほど下る階段につまずきそうになった。入ってみると、思った以上に中はこじんまりしている。大学の小さい講義室くらいの広さに、五人ほど座れるこじんまりとしたバーカウンター、L字型のソファを誂えたテーブルが二つ。そしてただでさえ小さな店内なのに、フロアの三分の一がレースのカーテンで仕切られた座敷のようなスペースで占められていた。まず僕は「あれも席だろうか？」と疑問に思う。黒を基調にした店内で、赤いマットと赤い壁で作られたそのスペースは妙に目立つ。仕切りのないその赤い部屋は、照明まで赤いようだった。
カウンターに一番奥の席はスーツ姿のサラリーマン、真ん中の席に僕たちと同じくらいの年齢の女の子が座っていた。
「お客様、当店のご利用は初めてですか？」
バーテンが僕に訊いたが、
「私の連れだから大丈夫。お会計一緒にしちゃうから」
と梢がいくらか払った。僕は梢に導かれるままに、カウンターに座る。
「おっ、梢ちゃん。お疲れ。新しい彼氏？」
気安い口調でスーツの男が話しかけた。
「彼氏じゃないわ。同じ大学なの」
今度は梢の隣の女の子が、
「梢！久しぶり！全然うちに泊まりに来てくれないんだもの」
と梢の腕を掴んで拗ねた口調で言った。梢は彼女の額に唇を寄せる。
「ごめんね、大学が忙しくて」
二人とも顔見知りのようだ。彼らはただ、そのまま酒を飲みながらしばらく世間話をした。もっとも僕は飲めないので、ずっとウーロン茶をすすって黙り込んでいた。僕の知らない人たちが、僕の知らない会話で梢と盛り上がっている。梢はその間僕を見向きもしなかった。誰もが、まるで僕のことがちっとも見えないようにふるまっている。僕は耐えられなくなってきた。
「あの……僕帰ります」
そう言って席を立ったが、梢がくるりとこちらを向いて、僕の手を掴んだ。
「まだ帰らないで。ここにいてよ」
しばらく僕を放っておいて、今更引き止めるなんて勝手なんじゃないか。僕はいまいち梢にどう接したらいいかわからない。しかし梢は席を立ち、僕の手を掴んでずんずんと店の奥へ引っ張っていく。あの例の赤い部屋のカーテンを引き、僕の体をそこに押し込めた。
思いの外強く押され、赤いマットの上に尻餅をつく。梢が手早く僕の靴を脱がせてそのへんに放った。赤い床に赤い壁に赤い天井に赤い照明。不思議な臭い。ふと、部屋の隅にある棚に、ティッシュと手錠、コンドームの箱があるのが目に入った。その時僕は初めて、この部屋が何をするところか理解した。
「帰ります」
立ち上がろうとしたが、構わず梢は僕の上に跨る。そして慣れた手つきで僕の腕に手錠をはめてしまった。
「何してるんですか？」
「まだしてないじゃない」
「……何言ってるんだよ、外してください！」
そう言う僕を無視して、梢は僕の腕を持ち上げ手錠を壁のフックのようなものに固定してしまった。腕を動かしてもがちゃがちゃ言うだけで、僕は身動きがとれない。
「何してんだよ、頭おかしいんじゃないか？ 外せよ」
「なんで？ ダメなの？」
「なんでって……」
無表情にズボンのベルトに手をかけ外しにかかる、僕は梢が恐ろしくなった。
「何やってんだよ、やめろよ」
梢から逃れようと足を動かすと、膝が梢の胸のあたりに思い切りぶつかった。梢は「いたっ」と小さく叫んで胸を押さえる。
「あ、ごめんなさい……でも、ほんとにやめて。外して」
「そんなに嫌？ りっちゃんは私に興味ないの？」
「興味ないっていうか……そういうことじゃなくて、いろんな意味で犯罪でしょ？ こういうの、おかしいよ、ありえないよ」
「ありえないってどういう意味？」
梢は構わず僕のズボンと下着を脱がせた。
「ここではなんでもありなのよ」
もう駄目だ。この人に何を言っても聞いてくれない。手錠は外せそうもない。他の客に人々に助けを求めたかったが、レースのカーテンの向こうで、彼らが無言でこちらを見ているのがわかった。梢を蹴り飛ばしてなんとか阻止する？ この状況は嫌でも、それをする勇気はなかった。僕はされるがまま。最悪だ。
梢はさっさと着ているものを脱いで、裸になった。
「いや、駄目だよ、それは。服着てよ」
いくら言っても僕は身体の自由がきかない。せめて壁のフックから手錠を外したかったが、金属ががちゃがちゃと当たって痛いだけで、なす術もなかった。せめて僕は目をつぶって顔を背け、梢を見ないようにする。梢が僕の頬を両手でつかんで、無理矢理に顔を自分の方に向かせる。つい見てしまう。
赤い照明に照らされていても、梢の肌が非常にきめ細かく陶器のように美しいことがわかった。つい胸を見てしまう。完璧な曲線を抱いた乳房は、触るととても柔らかそうに見えた。こんな状況で悲しいけれど、間近に見る女性の体ってなんて美しいんだろう？と僕は感動する。
「りっちゃんはやっぱり初めてなのね」
梢がかがみこんで、僕の性器を口に咥える。それは、僕が感じたことのない感覚だった。梢が僕の性器を吸うたびに、電流のように下半身に快感が走る。それは僕の腹の底から背中を伝って、頭の先まで駆け巡った。自然と体がのけぞる。
僕は昨日の夜からシャワーを浴びていない。さっきトイレにも行った。性器は汚れている。それを梢が激しく舐め上げている。カーテンの向こうで僕たちを見る、いつの間にか人の数が増えたようだ。カーテンの裾に何本もの足を見た。きっとまた、ニヤニヤと僕たちをいやらしい目で見ているのだ。だけど何よりもいやらしいのは僕だ。
「いやだ、こんなのは嫌だ」
「でも硬くなってるわ」
そう言って梢は僕の上に跨った。
「舐めて」
僕の口先に自分の乳首を当てる。僕は絶対に口を開けてやるもんか、と思った。
「触りたいでしょ？」
柔らかい乳房が頬にあたる、それと同時に僕の目から涙が伝った。それはほとんど無意識に流れた涙だった。
「泣いてるの？ ごめんね」
そう言って梢は僕にキスをした。柔らかい唇だ。舌が僕の口の中に割って入ってきた。僕は顔を背ける。
「そんなに嫌なの？ じゃあさっさと終わらせましょう」
梢が自分の性器を僕にあてがう。僕が梢の中にずぶずぶと入っていくのがわかった。生まれて初めての感触。梢の温かくて柔らかい膣の中で、僕の性器はさらに大きく膨らんで、もうどこにも隙間がない。全身が性器になって、丸ごと梢の中に飲み込まれていってしまう、そんな錯覚を覚えた。僕は怖かった。
体中を突き抜けるような快感だ。口がだらしなく開いてしまう。声が漏れる。梢が腰を動かして、「あっ」と吐息を漏らした。
体中が総毛立つ。どこまでも登っていってしまいそうな、それとも、落ちていってしまいそうな。僕の体の、心の、皮膚一枚内側の、すべてに手を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにされているような。
僕は悲しくなった。できれば、ここから全力で逃げ出したい。それなのに、梢を押しのけることができない。身をよじると手首の手錠ががちゃがちゃ鳴った。火照った体に、それは無機質に硬く冷たく、皮膚に食い込んで痛む。
「もうやめて、やめてよ」
自ずと口から出た言葉だった。梢は僕を、蔑むような目で見下ろしている。
「本当にやめてほしいの？」
「やめて…」
やめてくれ。僕の尊厳を、そうやって奪うのは。
梢が僕の口を塞いで、僕の体に自分の体をこすりつけるように、激しく前後した。
やめてくれ。そう思う気持ちは置いてきぼりに、僕の性器は強く脈打ち射精した。
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コメント(7)
涙が目の端を伝って、耳の中に入る。そのひどく不快な感じで目が覚めた。僕は夢を見ながら泣いていた。それに、股間の湿った感触が気持ち悪い。梢の中で果てたと思ったら、実際には夢精していたようだ。絶望的な気分で僕は体を起こす。幸い妻はこちらに背を向けて寝ていた。
そろそろとベッドから抜け出して、洗面所に向かう。下着を脱ぎ、腹にべったりとついた精液をぬぐい、汚れた下着を脱いで水ですすいだ。
ふと鏡の中の自分を見る。洗面台の青白い光の下で、僕の顔はひどくくすんで見えた。クマが濃い。いつのまにか歳相応にシミも出始めた。もう30年この顔に付き合っているのに、鏡の中の自分がたまに他人に見える時がある。
それにしても、なんて生々しい夢だったのだろう。あれから10年経つが、あの時の感触がいつまでたっても忘れられない。僕が知っている女は、梢と妻だけだ。梢に関しては、大学卒業するまで、もう何回寝たかわからない。本当はなるべく関わりたくなかった。それなのに、大学のキャンパスでも街中でも、「寝たいんでしょう？」そう梢に耳元で言われると、抗えなかった。自棄になった僕はがむしゃらに彼女を貪った。お互いを食い尽くすようなセックスで、後には何も残らなかった。
そして、大学卒業とともに梢は僕の前から姿を消した。梢との物語はそれだけだ。つまらない話なのだ。
寝室に戻ると、妻が起き上がってベッドに腰掛けていた。
「起きちゃったの？」
「うん。ごめん」
ベッドに入ると、妻が僕にキスをした。ほとんど反射的に妻の上に跨り、パジャマの裾をめくりあげる。もう何年も、こんな風に夜中に目覚めてからセックスするのが習慣だ。妻の唇の動きから、今夜も彼女がそれを求めているのがわかる。でも夢精してしまった後で、僕はどう性欲をかき集めても、どうしても行為に入り込めそうにない。自分を奮い立たせて妻の乳首にかじりつく。妻が呻いた。妻のだらしなく左右に流れた黄色い乳房をつかみあげる。息子に母乳をあげ続けたせいか、出産前よりも肥大したように見える妻の赤黒い乳首。僕にはその乳房が、女のものというよりも母親のそれに見えてしまう。
「ごめん、やっぱり疲れてるから無理だ」
暗がりの中で、シルエットで妻が笑うのが見えた。
「ううん、いいの。寝ましょう」
目を閉じても、夢の中の梢の白い肌が、漏れる吐息が、僕を見下ろす目が、意識を捉えて離さない。考えないようにと思っても無駄だった。そのうちに妻が眠りにつき鼾をかき始める。それを聞いているうちに僕はいつの間にか眠っていた。
そろそろとベッドから抜け出して、洗面所に向かう。下着を脱ぎ、腹にべったりとついた精液をぬぐい、汚れた下着を脱いで水ですすいだ。
ふと鏡の中の自分を見る。洗面台の青白い光の下で、僕の顔はひどくくすんで見えた。クマが濃い。いつのまにか歳相応にシミも出始めた。もう30年この顔に付き合っているのに、鏡の中の自分がたまに他人に見える時がある。
それにしても、なんて生々しい夢だったのだろう。あれから10年経つが、あの時の感触がいつまでたっても忘れられない。僕が知っている女は、梢と妻だけだ。梢に関しては、大学卒業するまで、もう何回寝たかわからない。本当はなるべく関わりたくなかった。それなのに、大学のキャンパスでも街中でも、「寝たいんでしょう？」そう梢に耳元で言われると、抗えなかった。自棄になった僕はがむしゃらに彼女を貪った。お互いを食い尽くすようなセックスで、後には何も残らなかった。
そして、大学卒業とともに梢は僕の前から姿を消した。梢との物語はそれだけだ。つまらない話なのだ。
寝室に戻ると、妻が起き上がってベッドに腰掛けていた。
「起きちゃったの？」
「うん。ごめん」
ベッドに入ると、妻が僕にキスをした。ほとんど反射的に妻の上に跨り、パジャマの裾をめくりあげる。もう何年も、こんな風に夜中に目覚めてからセックスするのが習慣だ。妻の唇の動きから、今夜も彼女がそれを求めているのがわかる。でも夢精してしまった後で、僕はどう性欲をかき集めても、どうしても行為に入り込めそうにない。自分を奮い立たせて妻の乳首にかじりつく。妻が呻いた。妻のだらしなく左右に流れた黄色い乳房をつかみあげる。息子に母乳をあげ続けたせいか、出産前よりも肥大したように見える妻の赤黒い乳首。僕にはその乳房が、女のものというよりも母親のそれに見えてしまう。
「ごめん、やっぱり疲れてるから無理だ」
暗がりの中で、シルエットで妻が笑うのが見えた。
「ううん、いいの。寝ましょう」
目を閉じても、夢の中の梢の白い肌が、漏れる吐息が、僕を見下ろす目が、意識を捉えて離さない。考えないようにと思っても無駄だった。そのうちに妻が眠りにつき鼾をかき始める。それを聞いているうちに僕はいつの間にか眠っていた。
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