半蔵門かきもの倶楽部コミュの第10回　uri作「わたしの骨」　※第４稿ＵＰ

イエローのトランクを引きながら、２番ホームにある待合室に入った。硬い木のベンチに座り、コートのポッケの中でカイロを握りしめる。まだ９月だと思って着てきたステンカラーコートはコットンで、身体をまるめないと温まらない。卵色のマフラーをぐるぐる巻きにして寒さをしのぐ。電車が来るまであと30分。売店にあるツナおにぎりや長期保存パン、明治チョコやグリコのキャラメルを眺めた。食べたら血糖値が急上昇しそうなものばかりである。アンチエイジングと血糖値のため、食べるわけにはいかない。温かいコーヒーだけでがまん。

父の葬儀が終わってすぐ、母は予約していた施設に入った。本当なら父と２人で入るはずだったのだが、１人で入所することになってしまった。
１人娘の私は婿養子を取ったものの、ほとんど形だけ。佐崎という名字を残しただけで、夫は普通のサラリーマン。夫が家に入ってマスオさんになる予定だったが、転勤で別世帯になってしまった。
父も母も私の好きにしていいと言ってくれたが…親不孝な娘だ。主がいなくなった実家をどうするか。「あなたの好きにしていい」と言われるだろうと思いながらも、母に相談した。そして「好きにしていい」と、予想通りに母は言ったのだった。好きにしてもいいと言われても、まだ何も決めていない。整理して売ってしまえばさっぱりするが、生まれ育った家がなくなる寂しさもある。ひとまず、少しずつ片付けながら考えよう。

黄色い田圃から、グリーンと黄色の車両が入ってきた。正面には右手を振り上げた仮面ライダーが赤い目を光らせている。さるとびエッちゃん、秘密戦隊ゴレンジャー、千の目先生、ジュン、サイボーグ009が緑の車体に踊っていた。黄色い２両目にがんばれロボコン、原始少年リュウも「Welcome to TOHOKU!!」だ。石ノ森のキャラクターに迎えられると、ほんの少し帰省した実感が湧く。
ドア近くにある【開】ボタンを押して、グリーンの車両に乗った。古びた紫色の２人席に座る。向い合せの４人席に座ってもいいのだが、なんとなく遠慮してしまった。列車が動くまで15分ある。これから帰りの人たちが増えるかもしれない。
グレーの制服をきた男子高校生たちが乗り込んできた頃、マンガッタンライナーは動き出した。窓に映る私の顔は色を失って、実年齢より老けてみえる。ガラスに映る高校生の肌のキメは荒いが、色を失ってもハリがあった。頭を垂れている稲穂は収穫間近で、夕陽に照らされ揺れている。子供の頃とさして変わらない景色。ガラスに映る私だけが年老いていた。
無人になっているＷ駅で降り、タクシー乗り場に行く。タクシーが１台もいないので、仕方なく歩き出した。ゆるやかな坂をのぼると、２本の橋が出現する。古い赤い橋と新しい水色の橋（といっても私が小学生の頃にできた）。左手にＷ城跡を見ながら、赤い橋を渡る。楕円形の葉っぱをつけた木が、風の形にしなっていた。橋を渡り、なだらかな下り坂を5分歩く。黒瓦葺きの数奇屋門が左手に見えてきた。黒い切妻屋根は大きく、私の帰省を阻んでいるようだった。
平屋建ての母屋に荷物を置き、まずは物置から整理することにした。酒蔵を移築した物置は、母屋と変わらない大きさだ。本瓦に土壁でできた物置は骨董でもありそうな雰囲気だが、捨てられない性分の父のガラクタがほとんどだった。黒・白の市松模様のガラスがはめ込まれた蔵戸を開ける。蔵内はひんやりと涼しい。格子窓から漏れる光線に、細かい塵が舞う。
私の赤いランドセルを小さく加工した置物、祖父が使った軍刀、父が返還前の香港で買込んできた白い磁器、黄表紙の本は江戸時代のものだろうか。小学生の頃に私が欲しがったウェッジウッドのティーセットまである。柄は「ワイルドストロベリー」で、苺柄に目が無かった私が父にねだったのだった。ティーセットの右隣にレースの布が掛かったモノがあった。ホコリ除けであろうレースの布を取ると、ホコリが舞い上がる。中身は赤いテレビデオ。ＶＨＳからＤＶＤに変わった頃に仕舞われたものなのだろう。
「1976年8月　プール」
「1985年3月　お誕生日会」
「1986年9月　運動会」
「1988年11月　キノコ狩り」…。
ＶＨＳテープは家族の記録だった。父はＶＨＳテープをＤＶＤにコピーしなかったらしい。消毒用アルコールを雑巾にスプレーして、テレビデオを拭く。茶色いホコリが取れると、朱色のプラスチックが濡れて光った。テープも一個一個、ブロアーでホコリを飛ばし、アルコールで拭いた。きれいになったテレビデオとテープを母屋に運ぶ。

ぱぁん！
ピストルの音と同時に、ショートカットの女児が飛び出した。小学1年の私だ。膝上までの紺ジャージに白のポロシャツで走っていく。
お昼には２０代の母が重箱を広げていた。母がキンピラと卵焼きを紙皿に取り分けると、胸元のブルーダイヤが揺れる。卵焼きの甘さが舌によみがえった。

苺が乗った生クリームケーキに赤や黄色、ピンクのロウソクが５本立っている。紺のワンピースにレースのエプロンをつけた母が、ひとつひとつ火を灯していく。ズームアウトされると、５歳の私と４０代後半の祖父母がいた。
ハピバースデーツーユーハピバースデーツーユー…。
次々とテープを替えて、私は見入った。
金宝樹と金木犀がある庭に、黄色い向日葵と緑の大葉が生い茂っている。プランターには濃紺の朝顔が咲いていた。子供の頭よりも大きな向日葵の下に、水色のビニールプールを出している。１歳のわたしが、水色のパンツだけで遊んでいた。奇声を出しながら、小さな手で水しぶきをあげて笑っている。
ふと、女の子の胸に目が留まった。引きつれたような、赤い15㎝ほどの傷跡。
わたしにはない。

これなに、子供の頃に手術をしてたとか？
皮膚移植か何かできれいに治った…？

高校生の頃、友達に相談されたことを思い出す。
「推薦に必要だから戸籍を取りに行ったら、『養女』って書いてあったの」
学校帰りに寄った神社の境内で、紀子はわたしにそう打ち明けた。

お母さんは子供ができないことに悩んで、妹の子どもをもらう約束をしてたんだって。
でも自分の子どもを渡したくないって言われたそうなの。
それでお婆ちゃんが「おねえちゃんが悩んでるのに」「それなら親子の縁を切る」って言ったらしくてね。
もぎ取るように獲った子供が私だったわけ。今のお母さんに色々してもらってるから、恨む気持ちはないけど…。

「実の母親とは縁が薄かったな」
結婚直前の紀子のつぶやきも聞こえてくる。
叔母が実の母親だということを、高校生の紀子は知らなかったっけ…もしかして私も？

旧家では跡取り娘が亡くなった時、妹が義兄と結婚して姉の子どもを育てることもあったらしいし。何か事情があって、私も貰われてきたんだろうか。いや、そうだとすると、あの女の子はどこにいっちゃったの？

兎にも角にも、母に尋ねないと。推論してもキリがない。母のいる「紫孝園」に出かけることに決めて、私は布団に潜り込んだ。

若い母は黄色いホットパンツにＴシャツを着て、アヒルのオモチャで女の子と遊んでいた。小柄な母は女の子の姉と言ってもおかしくはない。若い母は確かに私の母ではあるのだけれど、どこか見知らぬ女性のようにもみえた。ぽやぽやと生えている髪を濡らして、はしゃぐ１歳児は私に似てるようにも、似てないようにも思える。

ＶＨＳの映像が脳内に浮かんでは消え、なかなか眠りはやってこない。

ふわふわと眠りがやってくるたびに、女の子の奇声が聞こえてくる。
おくるみに似たピンクの服を着て、あの子が赤い橋を渡っていく。

ねえ、あなたはだあれ？

小牛田で乗り換えて、東北本線Ｋ駅で降りる。駅中のファミマで母が読めそうな雑誌を見繕った。婦人画報とホットコーヒーを手に駅を出る。広々としたロータリーのタクシー乗り場から、オレンジ色の個人タクシーに乗った。
「紫孝園にお願いします」
駅からタクシーで15分。都内なら「ちょっと遠い」と思う距離だが、車を使うのが当たり前の地域では「近い」。そして夫婦で入居することも可能な施設だったために、父母はこの施設の入所を決めたのだった。欅の街路樹が歩道に影を作っている。徳永スーパー、白木屋、ブックオフが駅前にあり、思ったよりも「街」だった。

黄金の稲穂の中に、ヨーロッパの修道院が現れた。ネオロマネスク建築というのだろうか。建物正面の６つの窓には小アーチが３つ連なり、外壁には窯変釉薬をほどこした茶色のタイルとテラコッタが用いられている。
【紫孝園　ここから100ｍ】
母がいる施設の看板が田圃から飛び出ている。紫孝園へ続くなだらかな坂の両側には銀杏があり、黄色い葉を散らしていた。銀杏の葉は坂を埋め尽くし、黄金の絨毯のようだった。
正面玄関にあたる大アーチにタクシーをつける。キリスト教系の大学にも見える建物は、老人ホームというよりも「ホスピタル」という言葉が似合いそうだった。

ガラスの自動ドアを通り、受付カウンターに軽く会釈する。紺に白のラインが入った制服を着た、２０代らしき女性職員が立ち上がる。
「佐崎さま、いらっしゃいませ」
深々と頭を下げた。
「母はいま部屋にいるかしら」
「確認いたしますので、そちらのソファでお待ちください」

白くてまるいソファに体を沈めた。
バターのように目がとろけていく。
******
「佐崎さま、佐崎さま」
遠くで声がする。
「奈津子、起きなさい！」
「ああ、お母さん。ごめんなさい、寝ちゃった」
「連絡もなしにどうしたの？」
車いすの母が訝しげに聞いた。
右足が不自由になっても、仕立てのいいベージュのワンピースを着ている。
白い髪をボブカットにした母は、引退した映画女優に似ていた。
「うん、ちょっと聞きたいことがあってね」
実家の物置を整理し始めたこと、そこで私が昔使っていたテレビデオと、父が撮ったＶＨＳテープが残っていたこと、それに映っていた女の子のことを手早く話す。

「ねえ、お母さん。あのプールに入ってた女の子は私なの？」
気が急いて、遠回しに訊く余裕はない。
母の車いすを押しながら、ずばり聞いてしまった。
「ああ、見ちゃったのね。話してもいいけど、長いわよ」
庭にあるプラタナスの木陰で、母は薄く笑い、話し始めた。

Ｍ県Ｔ郡Ｗ町には「首塚」があるの、知ってるでしょ？
むかし、京では美しい若者や姫君が次々と攫われたの。陰陽師に占わせたところ、大江山に住む酒呑童子の仕業と分かって、源頼光が討伐に出かけたのね。渡辺綱（わたなべのつな）、坂田金時（さかたのきんとき）、卜部季武（うらべのすえたけ）、碓井貞光（うすいさだみつ）など四天王と呼ばれる部下を連れてったの。坂田金時は奈津子も知ってるわよ、金太郎のモデルになった人。
酒呑童子退治、つまり鬼退治にでかけた一行は山の麓で老人と出会うの。

「あなた様方はもしや、頼光様ご一行か？わたしは妻も娘も鬼に奪われた。鬼を退治してくださいませ」
「ご主人、お察しの通り私は源頼光でございますが…」
「おお、やはり頼光様。貴殿に『神便鬼毒』を差し上げたい。これは神の方便、鬼の毒酒と呼ばれる珍酒での、鬼が飲めば毒になり、人が飲めば薬になり申す。私は妻子を失い、独り醜く老いさらばえた今も…鬼への恨みを忘れることができないのです。生きたまま喰われた妻と娘の無念を晴らしてくださりませ」
一行は酒を手に入れ、意気揚々と大江山へ向かったわ。
こんどは山のほとりの川で、若い女が泣きながら着物を洗っていたの。
「もし、そこの娘、そなたは鬼か？」
頼光がそう訊いたの、いきなり失礼な男よね。
「いいえ、私は酒呑童子に囚われております。酒呑童子は攫ってきた若者の股を裂いては生き血をすすり、娘たちを孕ませては子供ごと喰らうのです。わたしは切り裂かれた娘の着物を剥いで血潮を洗うよう命じられました。いつ私も喰らわれることか…鬼たちは犯し飽きると喰うのですから」
叫びだしたいのを堪えて娘はいったわ。
「私は源頼光と申す。帝の命を受け、酒呑童子を退治に参った」
「頼光様、どうか酒呑童子を退治してください！あなたさまが持つお酒、もしや『神便鬼毒』ではございませんか。酒呑童子は酒に目がありません。それを鬼に飲ませれば…」
眉間に皺を寄せ頼光を見上げた娘は、鬼の棲家について詳しく話し始めた。

頼光一行は女に酒呑童子の棲家を訊くと、決意もかたく歩み続けたの。
しばらくすると鉄の門が見えてきて、門番の鬼たちが群がっていたわ。

「もし、貴殿らはここが酒呑童子様のお屋敷だとご存知か」
丁寧な言葉遣いと裏腹に、青鬼はねめつけながら尋ねたの。

「手前どもは山道に迷ってしまった商人でございます。ここに来るまでに幾里も歩き通しで、もう一歩も動けません。ぜひとも一晩お泊め頂けないでしょうか」

人懐っこい笑顔で坂田金時が言うと、青鬼は頭の先から爪先まで値踏みして、手に持っているヒョウタンに目を留めたわ。

「ちょうどここに、飲めば天にも昇る心地になる美酒がございます。ぜひご主人にお目通りを」

金時が大きなヒョウタンを揺すると、嗅いだこともないような芳しい香りが辺りに漂ったんだって。
生唾を飲み込んだ青鬼は、酒呑童子に取り次いでくれたのよ。

中に通されると、人の姿をした酒呑童子が現れたわ。
「おお、よくいらっしゃいました。私はここの主人でございます。当家自慢の料理を召し上がり、遠慮なくおくつろぎ下さい」
ふっくらとした顔が福々しく、意外に感じが良かったそうよ。
「ありがとうございます。これは私どもが商っている京の美酒でございます。お礼といっては些少でございますが、どうぞお召し上がりください」
「それはありがたい、私たちの出会いを祝すと致しましょう」
これへ、と酒呑童子が召使い女を促したの。
その酒の肴っていうのがね、金と紫の彩色も鮮やかな大皿に載せられた娘の太ももの生肉、こんがり黄金色に焼けた腕だったのよ。はっきり言うと人肉ね。
金時と卜部は青ざめたけど、頼光は箸をのばしたわ。
太ももの生肉を箸でつまむと、紅い血が滴ったの。口にするとまだ温かく、脂の甘みを感じる美味しさだったそうよ。
「お味はいかがでしょうか？さきほどつぶしたばかりの新鮮な肉でございます」
糸のように目を細めて、酒呑童子がいったわ。
「これは素晴らしい、最高の美味でございますね」
舌を赤く染めながら、頼光は料理を褒めちぎったの。
「ご主人はもしや…私どもを試されたのですか。私どもは商人でございます。貧乏人の生き血を啜ることを厭うていては、商売になりません」
「あいや、申し訳ない。今度こそ祝杯をあげましょう」
頼光の残虐な口ぶりに、酒呑童子の警戒心も薄れていったのよ。
出された酒の他に、頼光が持参した酒も飲み、鬼と頼光たちは盛り上がったんだって。
すっかり酔いがまわり、身動きが取れる鬼もいなくなった頃、頼光は召使女にいったの。
「私どもは帝の命を受け、酒呑童子を成敗しに参りました」
「ああ、やはり源頼光様。ここにいる娘たちは日毎辱めを受け、その辛さは生まれてきたことを恨めしく思うほどなのです。やっと母の元に戻れるのですね」
涙を浮かべ、唇を震わせて娘は言ったわ。
「酒呑童子の寝所はどこか」
「私がご案内致します」
渡辺綱（わたなべのつな）、坂田金時（さかたのきんとき）、卜部季武（うらべのすえたけ）、碓井貞光（うすいさだみつ）は戦衣装を整え、刀を携えて向かったのよ。
寝所で横たわる酒呑童子は人の姿を解いて、鬼の本性を現していたの。口から黄色い犬歯がのぞき、群がる蛇のような髪の中に黒い角が生えてたんだって。腕は女の胴回りほどもあって、肌は赤黒く、手指は娘の脂でぬめ光っていて、それはそれは怖ろしい姿だったそうよ。
頼光らは寝所に入って寝こみを襲ったわ。酒呑童子は『神便鬼毒』で弱っていたから、簡単に切りつけることができたの。
「おのれ、貴様ら。我を騙したか」
赤黒い顔が、怒りと痛みでさらに赤く黒く、眼球は飛び出さんばかり。
頼光は酒呑童子の首を切り、渡辺綱は右腕・左腕、坂田金時は右脚・左脚を切ってね。
酒呑童子の切られた首は、鮮血を迸らせながら頼光に襲いかかったの。でも兜が頼光を守り、牙は届かなくてね、首は飛んでったんだって。
その飛んだ首が祀っているのが、Ｍ県Ｔ郡Ｗ町の「首塚」なの。
昔は双子が生まれると、１人は酒呑童子に捧げたのよ。農家が多い地域だから、口減らしに体の良く間引く理由だったのかもね。まあ、さすがに戦後は形だけになってたわ。それでも双子は不吉と言われてたから、下の子は親戚にあずける人が多かったのよ。
それであなたも妹のところに預けてたってわけ。
あなたのお姉さんは奈々子というのよ。生まれつき肺に穴があいていてね、１歳になる前から手術をしてねえ。
赤ちゃんだったから、体力が持たなかったの。
奈々子が１歳半で亡くなってから、あなたを本家に戻したのよ、１人娘としてね。

語り終えた母は大きく息を吐いて、私をみつめた。

これ、あげるわ。子供の頃に欲しがってたでしょ。

首からブルーダイヤのペンダントを外して、私の手に乗せた。
ダイヤは光を浴びてブルーの光を撒き散らす。
「これね、奈々子の骨で作ったダイヤモンドなのよ」
遺骨に含まれる炭素を使った合成ダイヤモンドがあると、ＴＶで見たことがある。
母の体温を吸ったブルーダイヤモンドを手に、私は身じろぎもできずにいた。
１つの卵のなか、母の胎内で隣にいた、もう一人のわたし。掌で青く煌めいていた。