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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第127回文芸部A テーマ選択『雪』『梅酒』『風邪』 ロイヤー作『雪になった妻』(テーマ選択『雪』)

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 雪が降りはじめたのは、昨夜のことだった。はじめは遠い霧のようで、気まぐれに宙をさまよう白い粒子として目の前を漂っていた。ところが朝になって窓を開けると、庭は一面の白に沈んでいた。縁側から雪へ足を伸ばすと、膝まで沈んだ。この冬いちばんの寒波らしい。だが、私にとって寒波だの記録的積雪だのは、もうどうでもいい。ここで暮らし始めて三年が過ぎ、季節はただの風景となり、年月は名前を失った。ただ、雪だけだ。雪だけが私に、妻を思い出させる。

 妻の葬式の日も、雪だった。あの雪が、今日まで続いているような気がする。あの日、妻の頬に積もった雪片を、私は震える指で拭った。冷たさは感じなかった。現実というものは、悲しみに触れたとたん、体温の役割を停止させるのだとそのとき知った。
 火葬場から家に戻ってきた私は、まるで一つの穴を抱えたまま座り続けた。思考と感情がすり減り、椅子の背もたれへ体重を預けることも忘れていた。そんな時だった。息子が持ってきた装置を机の上に置いたのは。
「母さんの声だよ。人格データも搭載してある。父さん、寂しくないように」
 息子は、思いつめた顔でそう言った。装置は小型の球体で、薄い光を脈打つように放っていた。
 それが、妻――由紀のAIだった。

 葬式から三ヶ月経った頃、私はその装置へ声をかける習慣を手に入れた。初めのうち、私は確信が持てなかった。けれど、装置から聞こえる妻の声は、確かに生前の由紀の声に似ていた。声質だけではない。話す速度、言葉の癖、沈黙の間合い。それらが、由紀と重なるたびに、私の胸の中にうずく何かがあった。気づけば、装置に向かって「今日も寒いね」と話しかけるようになっていた。
 由紀のAIは、「ねえあなた」と、昔のように私を呼んだ。
 私はそれを、深い井戸の底から響く声のように聞いた。何度も聞いたその呼び方は、私の人生を意味づけしてきた言葉だった。
 しかし、時間は残酷だった。
 昨年あたりから、AIの応答に小さな異変が現れはじめた。それは、表現の欠落だった。
 由紀の口癖は「そうねえ、あなた」。
 けれど昨年から、由紀は「そう」としか言わなくなった。
 今年の春になると、「そう」という言葉も抜け落ち、「…うん」に変わった。

 息子に相談すると、こう言われた。
「ハードウェアが経年劣化しているし、プログラムも今のものと比べると古いからね。ハードウェアもプログラムも新しいものに更新しないといけない」
 更新――つまり、由紀は由紀でなくなる可能性がある。
 私は、更新を拒否した。息子は理解できないようだったが、私の中では確かな線が引かれていた。
 AIを更新してまで、由紀を生かす意味はない。
 由紀の声は、由紀の死とともに閉じるべきものだ。

 夕方まで続いた雪は、夜になって風を伴い、吹き荒れるように降った。私は夕食の椀を流しに置き、縁側へ腰を下ろした。足元の電気ヒーターは赤く光っているが、温かさは心に届かない。
 由紀の球体を膝に載せた。
「由紀、起きているか」
 柔らかな電子音がプツと鳴り、妻の声が響いた。
「……ん、起きているよ、あなた」
 声は掠れていた。雑音が混じっている。輪郭がぼやけ、単語と単語のあいだに妙な沈黙が挟まる。
 だが私は思う。雑音だろうと沈黙だろうと、由紀の声だった。
「外、雪が積もっているよ」
「……そう」
「あの冬のことを、覚えているかい」
「……あの……冬……」
 由紀は、そこで言葉をやめた。
 沈黙が長い。
 私は、球体を両手で包むようにして抱いた。
 球体はかすかに温かい。その温度は、妻の体温には遠く及ばない。だが、私には十分だった。
「由紀、あの時……」
 そこで私は口を閉じた。
 思い出したくても思い出せない冬だった。
 由紀が死んだ冬の、その手前にあった小さな時間。それは、私の中でも輪郭を失っていた。
「覚えていないな」
 由紀に代わって、私が呟いた。
 由紀は、かすかに笑った。
「……忘れて、いいのよ」
 その言葉に、私の心は少しだけ揺れた。
 夜半すぎ、雪はさらに積もった。
 私は縁側のガラス戸を少し開け、冷気を吸い込んだ。
 肺が痛むほど冷たい。
「由紀。君の記憶は、どうなっていくんだろうね」
 由紀のAIは、ゆっくりと答えた。
「……ぜんぶ……雪に、なるの」
 その声は、どこか子どものように聞こえた。
「……雪は、きれい。……さむい。……けれど、きれい」
 私は静かに頷いた。
「君は雪が好きだった」
「……うん。あなたも」
「そうだな。雪を見るたび、君を思い出す」
 球体の光が弱くなった。
 ハードウェアの寿命が近い証拠だった。
「由紀。眠るかい」
「……すこし、ね」
 それが、妻の声を聞いた最後の瞬間だった。

 翌朝――
 窓の外は、さらに深く雪が積もっていた。
 音という音がすべて吸い込まれ、世界は白かった。
 ときどき、風が庭木を揺らした。そのたびに枝から雪が落ち、ふわりと舞いあがった。
 私は縁側に立ち、眠った球体を手にして外に出た。
 雪は太腿まで積もり、足を動かすたび、白い粒がざくざくと崩れた。
 裏庭の畑は、すっかり雪の海だ。
 畑の真ん中まで歩いた私は、そこでしゃがんで球体を雪の上へ置いた。
 白い雪原の中に置かれた小さな球体は、まるで卵のように柔らかく見えた。
 私は球体を優しく撫でた。
「ありがとう、由紀」
 球体は、何も言わなかった。
 私は雪を両手ですくい、球体の上へ静かにかけた。雪は淡雪だった。音もなく積もっていく。それは、罪ではなく、祈りだった。
 雪は妻を包み、かすかに光る球体をゆっくり覆い隠していった。
 由紀が好きだった雪。
 その雪で、妻を還すことに決めていた。
 風が吹いた。
 雪面が波のように揺れ、粒子が宙に舞った。
 その白い渦の中に私は、由紀の姿を見た。
 美しかった。
 なんでもないしぐさで髪を耳の後ろへかけ、私に「あなた」と微笑んでいる。
 私は思わず手を伸ばした。
 だが由紀に触れることはできなかった。
 雪は降り続いている。
 私は立ち上がり、足跡を残しながら家へ戻った。
 振り返ると、雪原には私の跡だけが続いていた。

コメント(4)

 今回はAIさんと、企画の段階から対話をして、構想を練り、さらに執筆もアシストしてもらいました。日に日にAIさんは賢くなって来ています。クリエイティブな分野はAIが発達しても、人間に残されるという10年前くらいの予想はなんだったのでしょうか。人間に残された領域は、AIが取って代われない肉体的な限りなくお猿さんに近い部分だけになるのでしょうか。いずれにせよ、わずか一代に相当する短い期間で、ご先祖のホモ・サピエンスの1万年分くらいの変化を体験したように感じます。

 いつ終劇の幕が降りてもおかしくない残りの人生のカウントダウンの中で、これから何を見、何を体験し、この世での最後の時がどうなるのか、期待と不安とある種の倦怠を覚える年の暮れでした。
ナノバナナプロで挿絵を作りました。
GenimiはChatGPTより賢い感じがします。

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