半蔵門かきもの倶楽部コミュの第百一回　大邦将猛　作　理央、私のヘルガ　前半：画家の目線（テーマ：芸術・老婆・グラス）

「この絵を見て感じることをまずは自由にはなしてみましょう」
天井から吊られたプロジェクターは教室のホワイトボードいっぱいに
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という絵を映し出している。

私が職を得たのは四ツ谷駅前の中高一貫の名門女子高で
毎年Ｔ大にも少なからぬ人数の卒業生を輩出していることで知られる。
美大をでていない画家が画壇の推薦とはいえこのような学校に教職を得たのは珍しい。
私の絵はあまり売れないが画壇の評価は高かった。そして売れないからこのような職を必要ともしていた。

私は中学１年から高校2年までにわたって美術を教えている。
ワイエスのような有名な画家の作品は年次があがるとすでに知っている生徒も多いので
この鑑賞の授業は中学一年のクラスでやることにした。
ついこの間まで小学生だった生徒たちに芸術家のモノを見つめる目を伝えたいという
私なりの教職を担うことへの矜持もあった。

「といっても・・・むずかしいでしょうから、少しなにが描かれてるかを順番に
　当てていきますので表現してみてください。
　途中で思うことがあったら誰かが発言してもらってもかまいません。」

目の前の生徒にうながす
「画面にいっぱいの枯れた草の大地が広がってます」
「そうですね。画面を大きく占めるのは大地です」
「左下にすごく痩せた女性がいます」
「うん。ほかにこの女性について思うことはありますか」と隣の生徒へ
「うーん。タイトルからこの人がクリスティーナさんですかね？」
「あはは。そりゃそうですね。でも一つ情報が増えましたね
　じゃあほかに思うことは？」またとなりの生徒に促す。発言の参加者を増やす私なりの工夫だった。
「あの・・・なんというか、島田さんが言った通り痩せてるんだけど、それ以上に体が不自然に歪んでるように見えます」
「おお、そうですね。人のこと聞きすぎたのでこのくらいにしてほかに描かれてるものは？」と隣
「遠く・・・いや、近いのかな。女性が見ている先に家があります」
「なるほど、なんで遠くとか近くがよくわからないんでしょうね」と隣に
「家は十分に大きく描かれてると思うんですけど、なんだが遠くに感じるんです」

家の前にある芝生は透視図法で遠くに視線を導く
クリスティーナの目の前の芝は克明に描かれ遠近法を無視して壁のように切り立つように
そびえている・・・
そんな意見が自由に出始めた。この絵の芝は家の手前の色の薄い部分は人の目を遠くにいざない、手前は壁のようにそびえて透視図法をあえて無視している。それは彼女らによって直ちに看破された。

いつもながらこの学校の生徒の利発な観察力に私は舌を巻く。
「どう思う？」「なぜ？」「画題からなにがわかる？」「どうしてここにこんなものが描かれてる？」
と問いかけるこのスタイルは生徒たちに素直にモノを見る力と十分な語彙がないと成り立たない。

大地、クリスティーナ、上方の地平線に見える大きな遠い家。絵に置かれたオブジェは出揃った。

「・・・その女性は体が不自由なんでしょうか？」
佐宗理央という生徒だ。職員の間でも一目置かれる成績の良い生徒だった。難問で知られる本校の入試も全科目がほぼ満点だったという。
その瞳と表情からはおちついた好奇心といったものが感じられ、醸し出す雰囲気はその年齢よりはるかに大人びていた。

「私は答えというようなものを期待してるのではないので
　みなさんにはそこを絶対に誤解してほしくないんです。だからあまり情報をださずに
　この絵の不思議なところを感じてほしかった。
　そしてみなさんは十分にそれを感じてくれてるように思えました。ありがとう。
　すこし画題に近づいてきたと思うのでいまの佐宗さんの質問に答えますね。」

この有名な絵を誰も知らないという状況で探るように優秀な学生と鑑賞できることを私は喜んだ。

「このクリスティーナという女性は小児麻痺で下半身が動かないのです」
生徒たちは得心がいったという表情を浮かべた。そのあと生徒たちの言葉が出てきた。

「遠く見えるのは、この人の目でみたら遠いのかなと感じます」
「新しい意見ですね。遠近法でも家の大きさでもない理由でこの家が遠くにあるように見えるという意見。
こころで絵を感じてる意見だと思います。ではこの遠近感の不思議は画家が意図したものだと思いますか？」

佐宗理央がそれに答えた。
「おそらく画家の意図があると思います。遠くに見えるのはクリスティーナがたぶんその家に向って体を引きずって移動してる目線で遠くて、そしてその実際の距離はたぶん近いのでそのクリスティーナさんを見つめてる画家の目線で近くで
私はこの絵がとても優しい目線でクリスティーナを見つめてるのだと感じます」
そうだ、クリスティーナにとっては無限の世界に見えるこの空間を健常者は狭く近く感じる。二つの視線を交差させる遠近感の不思議と画題が我々に画家の優しいまなざしを伝える。

「ありがとう。佐宗さん。ワイエスはこのクリスティーナが自分の体の不自由さに負けずに
　必要な距離を移動し、自分のことを自力でやり遂げようとする姿を見て勇気つけられ、それがこの作品を制作した動機だと言っています。
　絵の中のクリスティーナは少女の年齢ですが、ワイエスが画を描き始めたとき彼女はすでに55歳で当時の年齢感覚だとほとんど老婆に近い状態だったようです。老婆クリスティーナを少女として描くことで彼女のこれまで生きてきた時間を美しく讃えようとしたのかも。ちなみにクリスティーナ自身はもう体を起こすことがつらく、ワイエスの妻がポーズをとってモデルになったともいわれています。」

解説をしすぎているかもしれない。だが私は語りたくなった。

「みなさんに今日の授業のあとレポートを出してもらおうと思っています。
　短いもので構いません。期限も一か月さしあげます。”絵に真実を描くということはどういうことか”というタイトルで思うことを書いてみていただけませんか？そのテーマで参考になるような作品としてこれを今日は鑑賞してみました。
　私が理解してほしかったのは、この絵は見たままを描き写してる絵ではないということです。遠近法の不思議を逆手にとったような表現、クリスティーナ本人ではないモデルをつかい、もう存在しない若かりし日のクリスティーナを描くという創作をしています。
事実は描かれてないけど、クリスティーナの移動の苦難と彼女の生き方をたたえるような気持ちもこの上なく表現されているように思えます。その意味で絵に描かれているものは画家の見たあるいは描こうとした真実です。」

私は毎年こんなことを生徒に問いかけていた。事実と真実が違うということが絵画の本質だと思う。絵に何を描くべきかその選択に人の心があり、答えはない。あるいは無数の答えがあるともいえる。
中一の少女には難しい課題かもしれないが、意外に毎年光る視点のレポートがある。
ある年の鑑賞ではすごく人の形をゆがめたルネ・ラリックという作家のグラスアートを鑑賞してみた。屁理屈のようにそこに真実の美があると論じ切った子もいる。生徒たちの背伸びした文章を読むのが楽しくもあり、作家としての刺激にもなっている。

絵描きは孤独な人間で、常に自分の世界を表現し、理解されることを欲している。
孤独を抱えた絵描きの絵は尖りすぎていてその絵を鑑賞することが難しい。孤独な作家の思いをより柔軟に理解するには愛のような視点が必要なことが多い。描く人の数だけ真実がある。それを理解できることはきっと誰の心も豊かで優しくする。多様なものの見方のほかに絵描きが人に教えられることがあるだろうか。私はそうやって職務を全うしているつもりであった。

数日後、私が顧問を務める美術部に佐宗理央が入部してきた。
所属する生徒もほとんどは活動に参加しないような
部活で勉強よりはおしゃれに興味があるような子が暇をつぶしに来るところだ。

佐宗は先輩たちとあきらかに対照的な存在だった。
「先生、私、この間のレポート書いてきました。それとワイエスのこと調べてみました。親にお願いして画集を買ってもらいました。」
「よほど気に入ったみたいだね。入部ありがとう・・・といっても私は特に活動を指定もしてなくて、ここはのんびりしてるよ。」
「私、絵を描いてみたくなりました。教えてもらうことはできますか？」

私は面食らった。適当に描いとけとばかりに活動指示してる日々だったし、絵は教えることのできるものと思っていなかったからだ。
「うーん、もし見たものをそのまま描けるようにというデッサンのようなことならおしえられる。この部活であまりそういうこと生徒に依頼されたことがないからいままで教えたことないんだけど要望あればほかの部員さんも含めてやってもいいよ。絵の具の扱いなんかも覚えててもいいかもだけど、絵を教えるってそういうことでいいの？」

佐宗はそれ以外なにがあるんだ・・というようなことをいった。
美術教師が絵を教えるとはどういうことだと聞くのもどうだと年端もゆかぬ佐宗理央に指摘されて私は笑った。

「絵は自由に描くものだからね。私がいったのは見た通りに形をとって絵の具の色をまぜて同じに見える色を見つける方法だ。絵は画家の頭の中か心の中にある。それをどうやって描くかは教えられない…といったつもりだった。変な授業をして頭がひねくれていたのかもしれない。」
「わかりました。まずは見た通りに描く方法を教えてください」
佐宗理央は笑った。笑顔がまぶしい輝きを見せた。親に愛されて育った子なのだと感じる。愛らしい笑顔に加えて訓練されて鍛え上げられた知性を私は感じていた。

「では明日からでよければ放課後に来なさい。そんなまじめな申し出はうれしいものだ。
　いままでは気楽にスケッチなどしていたが石膏デッサンをしてみる。」
ほかの部員がついてこれないかもしれないがやってみよう。
モノを見つめる目を培わないとなにも描けないし表現できない。

家に戻り佐宗理央のレポートに目を通した。
彼女はワイエスに興味を持ちさらに作品をみてみたとつづっていた。
ワイエスはヘルガという女性モデルを使って15年にわたり作品制作していたことがある。
男性的な角ばった顔と腰回りの肉付きの良い体でヘルガはけっして美貌の女性とは言われない類の女性だった。
モデルも画家もそれぞれの配偶者を持ち、二人が密会して絵画制作をしてたことはワイエスの死後まで秘匿された
すでに名声を博していたワイエスが入魂で描いたと思われる力作で、リアリズムの極致であり、美しくないはずのヘルガを徹底して写実的に描くことで逆に神々しいほどの美を感じる絵となっている。200点を超える作品が残るがヌードの作品が特に美しい。
佐宗はその描写力とヘルガの境遇（貧しい人だった。いまでいう介護の職で家族を支えた）を理解したうえで、ワイエスは人妻ヘルガをその生きざまに触れて愛したのだろうと述べていた。
見せるためでない（死後まで秘匿された）絵画にこれだけのエネルギーが注がれていて
絵が存在していることに永遠の消えない思いが感じられるとも書かれていた。
中学生の背伸びとしては100点満点だ。もはや私より男女の愛を語る力があるかもしれない。
絵画に真実を見ている。彼女の知性は意外に情緒的だ。

翌日の私ははりきっていた。
美術の授業では、版画や彫刻、粘土などの実習もあるから、一通りのことを体験させることが精いっぱいで多くの生徒は技術を極めることもなく卒業していく。しかし美術部に入ってきて佐宗のように技術を付け、表現できるようになりたいという子が現れるとすこし事情が違う。
それが私を勇気づけた。絵画の魅力を知り、描きたいと共鳴する佐宗という生徒に絵を描くあるいはモノを見つめて表現する喜びを共有したいと思った。あるいは描くという孤独な行為を理解しあえる存在への期待があったのかもしれない。

私は埃をかぶったブルータスやらジョルジョの石膏胸像を美術室の倉庫から引っ張り出してきて、カラ拭きをしていた
木炭の芯を抜き、イーゼルに木炭紙を載せて佐宗と数名の生徒と石膏デッサンをすることにした。

「飽きてしまったらいつ辞めてもかまいません。絵は描きたい人が好きなように描くものです。石膏とイーゼルの位置はビニールテープで記録してあるので明日以降も同じ位置から描けますからのんびりでいいです。形が違うなとか、どうやったら描けるかなと悩んだらいつでも呼んでください。私もいっしょに描いてみます。私の描くのを見てるのでも構いません。」

久しぶりの石膏デッサンを私は楽しんだ。ジョルジョの端正な顔立ちを追いかけていたら
あっというまに一時間が経ってほぼ完成した。

「先生うまいじゃん・・・びっくりした」
高1の田島が声を上げる。そして佐宗は黙って私のデッサンをみていたようだ。
「そうか・・・。みんなはどうかな？」
「先生に聞こうかと思ったら声かけても反応しないし、見てたらどんどん描いてるからみちゃったよ」
「そうかごめん。つい久しぶりでのめりこんでしまった」
「こんなに描けたら楽しいだろうなぁ」
「うーんこれは見たままだから、カーボン紙で形をなぞるのと変わらない
　みんなだって初めてだとしてもたぶん4－5時間くらい丁寧に描いては修正してを繰り返せば、同じようなものが描けるよ。まずは画面に収めるための大きな位置取りしてだんだん細部に行く、違うなと思ったら目で見た通りではない。だからやり直す、それだけだよ」
皆の絵をみにいくと全く進んでない。結局それぞれの子の横に行き測り棒の持ち方から説明し、実際に線を引かせると不用意に違う位置に木炭を置くのでそれを直してみたりそういう指導をつづけた。

輪郭の位置がうまく置けたと思うようになったころに19時40分になってしまった。
中学一年の子もいるのにこれ以上学校に残したら大変だ・・・と皆を追い返すように終わりにした。
彼らもそもそも私のデッサンを一時間ちかく眺めてたのだ。私がすこし絵にのめりこみすぎた。すまないことをしたのかもしれない。

高１の田島、中３の中村、新入生の佐宗の３人は翌日も翌々日も来て手取足取りのレッスンでジョルジョを仕上げた。ほとんど私が代わりに描いてるといってもよかったがだんだんと迷いなく木炭を正しい位置に下ろしていく３人の描き方の上達ぶりは私を満足させた。

デッサンは偏見との戦いである。冷静に狂いを見つけ直していく単調作業を通じてモチーフと向き合う。ともすれば退屈で苦しいことだ。この訓練は数か月続いた。
しかしこれを経験してモノにしてから表現の世界に入ると伸びが違う。3人とも不思議とついてきた。この静寂の時間になれると人が変わる。不真面目そうに見えた上級生ももとは本校の難関を抜けてきた子だからこういう成長を味わうとなじむのかもしれない。
ことに佐宗は日を追うにつれその才能を見せた。水彩も油彩も絵の具について覚えることがたくさんあるがあっという間に理解して実践して見せたのはいつも佐宗だった。
上級生が卒業し、佐宗が高校一年になるころには佐宗の後輩も増え、彼女が部活で絵画の練習をリードした。

私は画業の個展も年に２－３回はこなしている。百貨店でも個展が開かれ、新作の発表時に必ず買ってくれる方も現れるようになった。しかしそれでもまだギャラリーの賃貸料の方が高く赤字で終わる個展も多い、画業をすすめるために教職を続けてると言っていい。

人物画が好きなのだが描いても売れない。
興味が持てて売れるものは街中の風景を油彩でじっくり描き上げたもので、それはそこそこ売れ、私の画壇での位置を安定させた。40代なったばかりだが美術展の審査員も務めることができている。

田島や佐宗もなんどか私の個展に来たことがある。おそらく彼女らは私を風景画家だと思っていることだろう。
本当のことを言えば私が一番描きたいのは女性だ。できれば裸婦がいい。それこそワイエスのヘルガのような肌の光を存分に感じて描いてみたい。
がしかし醜い容姿のせいだろうか、なかなか良いモデルに恵まれない。モデル事務所にモデルを派遣してもらうこともできるがそのモデル代を出す資金がない。

四ツ谷駅近辺にヌードモデルを毎週変えて絵を描かせてくれるアトリエがある。学校のすぐそばだ。
金曜の夜に2時間、休憩を入れて20分のポーズを4回、10分のポーズを4回合わせて8ポーズ。速く描くことをクロッキーというのでこのような会はクロッキー会というがよそのクロッキー会よりもポーズの時間が長いため水彩でじっくりと色を作ってそれなりに絵が描ける。私は金曜の夜は学校の業務を外して人目を忍んでそのアトリエに通っていた。

素人が集まるところなので私がプロの絵かきだとは誰も知らない。そしてそこにはプロよりも描ける本当の絵かきが集まっていると私は感じた。
彼らも私と同じくどこかで女性を恐れて、かつ憧れて画材をもって女性の美を讃える美のしもべだと私は感じた。
あるものはハードパステルであるものは鉛筆で、あるものは墨汁と筆でのめりこむ様にモデルに見入って静寂の中、女性モデルを描き、その陶酔の時間を私たちは共有していた。

私のために数時間ポーズをとって描かせてくれるわけではないが
私はここでなんども若い女の裸体を見つめ描き続けていた。
教師であり、画家であるという仕事への責任を外れてみれば
これが私の至福の時間であったと思う。
絵のほかに私が世界を知るすべはないのだ。

痩せている女、ふくよかな女、乳房の小ぶりな女、大ぶりな女
美術モデルはたくさんいる。年齢層も広い、あらゆる女が女神のように見え
その女神の見せる光を憑かれたように水彩紙にとどめてきた。
クロッキー会で水彩紙を使って水彩をする醜い私はその絵に真実があるからか
気味悪がられずに女神たちを見つめることを許されていた。

女の肌に踊る光を見てどれほど感動したか知れない。
影は緑や青を薄く乗せるほうがリアルに感じる。
グミ色の乳首をクリムゾンレーキの力強い赤にすることで女の存在感が増すことがある。
私は数千枚にも及ぶヌードクロッキーを自宅にため込んで
描きたい美を探していた。しかし何枚描いても
その美は私の狭い脳の中には現れてはくれない。
神の造形は被造物である女性そのものが画家の望むポーズをとらないと
簡単に人間の脳裏には形を成さないし、美しさは肌のたたえる光であって
実際にみないで描くことは不可能なのだ。

私は自分だけのモデルを求めていた。
世間でいうところの美女である必要はない。
私だけにその裸体をさらして、私の望むポーズを保って数時間描かれることを望んでくれるモデルをどこかで渇望していた。
そして夢のようだがそのモデルが私を愛してくれたならと願っていたかもしれない。
あり得ぬ夢と孤独は私をより作家として強くした。クロッキー作品は油彩の風景より商品たり得たかもしれない。しかし私は画壇にはそれを見せなかった。

遊びに出かけることもなく関係のない女性に声をかけることもできない私はほかの人物画家のように恋人や妻を描くことは一生できまい。
さらに正直に言えば私は童貞である。おそらく不能だとおもう。なんども何人もの若い女の裸をみているのに一度も女の肌に触れたことがない。拒否されることも恐れていて私は女性を自分の望む姿でポーズとらせることもそしてその肌に触れる喜びも知らずきっとそのまま人生を終えることになるだろう。

私は自分の中にどす黒い欲望が存在していることを認めないわけにいかなかった。
絵画を創造する喜びに魅せられ、人にものを教える尊い仕事を全うする日々を送りつつも
私の裸婦クロッキーは描くことが一種の性行為の代償と成り下がっていないか。
おのれを呪う気持ちもある。
自己嫌悪に陥り、そしてまた我は聖職にありとばかりに美術の授業でもっともなきれいごとを並べる（そしてそこで語ることはまた一つの私の信じる真実で、どこかで絵画の美しさがこの世の希望だとすら信じている）。
欺瞞的な自分から逃れたい気持ちも否定できずにいた。

そしてある日、四ツ谷のクロッキーアトリエに信じられない人物を見つけた。
佐宗理央である。私と同じく水彩のセットを持っている。
どこでここを知ったのだろう。
コロナの後、入会が厳しくなり最近は部外者が入れないが
普段通っている会員の紹介のみ受け付けるとなっていたはずだ。
私のほかにここに知り合いがいるのか？
女子生徒だから問題がなかろうが高校生が裸婦のクロッキーに参加することが
意外である。
「ここをどうやって知ったの？」
私がいることに驚きもせず彼女は
「先生が金曜の夜にこちらに来るのを見つけてしまい
　受付に先生の生徒で絵を長く描いてますと自己紹介したら
　描かせてもらえることになりました」
そういうことか、私が普段水彩で描いてることも受付から聞いて
同じものを持ってきたらしい。彼女の力なら10分20分のポーズで自在に描けるだろう。
石膏のような動かぬものよりよほど生きている人を描く方がおもしろい。
彼女が興味を持つのは自然だと思った。

彼女は私の隣にイーゼルを並べどのポーズも自在に描いた。
私が彼女の前で裸婦を描くことを見られることがなんとなくばつが悪かったが
私は裸婦を見つめいつものクロッキーを楽しむことにした。
絵描きは絵を描くことでしか救われない。
彼女も同じような光を見つけているのか？影を似たような色でおいてる。

以前、佐宗の水彩パレットに私のパレットにあるのと同じ色を置いたが
佐宗はそのまま自分のパレットとし使ってるようだ。
色数は１２色程度と少なめであり、水彩画は特にパレットの色が絵の雰囲気を支配するが
私と同じ色を使い私が教えた描き方で彼女は私のそれに似た光のとらえ方をした。
彼女には自由に描いてほしいと思う反面、この光り方が見えるだろうかと
確認するように彼女の絵とパレットを私はときどき確認した。
彼女もまた私の描き方を確認してたようだ。

絵を描くより私のモデルのとらえ方を探ってるような書き方が気になった
8枚すべて書き終えてかなり遅くなったが
佐宗理央はカフェで話したいと言ってきた。
帰宅時間の懸念を伝えたが
高校生となってそこまでうるさく言われない
塾に通ってる子より早いから心配はいらないという

「先生の色作りとても早くて勉強になります」
「そうだろうか？君なら自分流に描けるだろうに」
佐宗はそれには答えずに
「裸婦を描かれてるときの先生は生き生きされてました。」
「そうかな、うん。それはそうだろう。実は裸婦を描く時が一番楽しい」
認めるのが恥ずかしいような気持ちになったが認めざるを得ない。
「綺麗な絵ですね。短時間だから作為がなくて見たままで先生の風景の作品などとはあまりに違いますけど、先生の女性を見つめる気持ちが感じられました。私はクロッキーの方が好きです。」
「練習の絵だからね・・・人は描いたら形の狂いを一発で見抜けるから
　何枚も描き重ねてる。風景でもこの経験が生きてくる。これは練習かつ遊びだよ。」
…嘘だ。これを売りたいわけでもないが私が最も愛するモチーフが裸婦だった
「そうでしょうか？形、先生の絵は正確です。あっというまに形をとって、時間をほとんど色で光をとらえることに使ってらっしゃいました。
　だから、むしろ色で女性の肌の上の光をとらえることに狙いがあるように思えました。私もあとを追うように色をまねてみたら気分良くかけました。先生は女性を見る目が優しい。」
彼女は私の絵を肯定してくれている。心の中を読まれているように正確に私の狙いを理解している。
「先生はお付き合いされてる女性とかいらっしゃらないのですか？」
私は少し沈黙した。
そして「観ての通りの醜い容姿で誰からも愛されない。私は絵を描くしかできることのない人間だ」やっと吐き出すように吐露した。

佐宗は悲しそうな眼をした。私は卑屈な発言を後悔したが、生徒に哀れまれるのはさらに無様で苦しかった。
しかし佐宗はこういった。
「先生。私を描いてみませんか？望むポーズがあれば何時間でもそのポーズをとります。」