半蔵門かきもの倶楽部コミュの第七十五回　JONY作　「桜井花」（テーマ選択「泥水」）

　ねえ、して……」
　俺が、『桜井花』という名前を耳ざとくTVの臨時ニュースから聞きとったときに、すぐに頭に浮かんだのは、彼女の「ねえ、して……」という、甘い声と切羽詰まったような表情だった。
　TVのアナウンサーは、番組を中断して、日航機の墜落を報じていた。TV画面に映し出されたヘリからの映像は、奥多摩の山中を映し出していた。ここも東京だというのが信じられない鬱蒼とした森の中に１点だけ黒い煙が立ち上り、カメラがズームインしていくと、陽光を反射して機体の金属が見える。
　俺は、テレビのリモコンを掴み、次々と別の局に変え、テロップに、『桜井花　38歳　東京都狛江市』の文字を見つけると、スマホをつかみ、彼女の電話番号を探してとりあえず電話してみた。こちらから花に架電するのは初めてだった。
　それは、彼女が結婚していて、狛江市のマンションに夫と子供と一緒に住んでいると聞いていたので、こちらから電話するのは控えていたのだ。しかし今は彼女の生死の確認をしたいという欲求を抑えることはできなかった。
　呼び出し音は鳴った。電源は切れていない。しかし、いつまで待っても誰も電話には出なかった。俺は、パソコンで墜落事故を報じるニュースを検索したが、それ以上の状況は判らなかった。日航に電話した。なかなか電話がつながらなかったが、オートリダイヤル機能のおかげで２０回目のリダイヤルで、パニクっている職員の声が聞こえてきた。
「は、はい、りん、臨時対策室ですが」
「事故機の乗客の収容先を教えてください」
「あ、はい。えーと、現地のA病院、B医院、C診療所、そして八王子のD総合病院と聞いております」
「桜井花の収容先はわかりますか？」
「あ、はい。お調べしますが…。失礼ですが、あなたは？」
「家族ですよ」と俺は怒鳴ってみせた。
相手は、
「失礼しました。ええと、桜井花さんは、現地のC診療所となっております」
　日航の職員を騙したわけだが、まあ、花と俺は、家族と言ってもいいかも知れない。
　花との出会いはもう１０年前に遡る。たしか、大型書店で花が店員にある小説家の短編の題名を尋ねているのを聞き、俺はたまたま、その短編が所収されいる本を知っていたので、教えてあげたのをきっかけに、お茶を飲んだのが始まりだった。カフェを出てもなんとなく別れにくい感じがしたので、送るというと、迷いなく俺の車の助手席に乗った。車の中で彼女が結婚していて子供もいることを聞き、あまり、家の近くまで行くのを遠慮しようと、狛江の駅の近くで、車を停めると、降りようとせずに、俺の目をみて、
「ねえ、して……」
と息苦しそうな声で余裕のない表情で言った。
　それから、月に１、２度の割合で、花の都合と気分で、俺たちはデートした。それが、１０年間続くのは、身体と心の親和性が強かったのだろう。ある意味で、夫以上とも言えそうだ。俺は、海外経験の長いエリートの夫のことを彼女から聞いているが、夫は俺のことを知らない。

　奥多摩のC診療所は混乱を極めていた。何とか受付職員を捕まえて、桜井花の名前を言っただけで、その純朴そうな女性職員は気の毒そうな表情に変わった。
「桜井花さんは、先ほど、お亡くなりになりました」
　霊安室は狭かった。いや、一体の死体だけなら十分に広いのだが、その部屋に六体の死体の寝台が並ぶと人の入る隙間を見つけるのも大変だった。俺は『桜井花』と書かれた紙を抱いている焦げたプリーツスカートに『泥水』に漬かった跡のある白のニットを着た顔に白布をかけられた女性の寝台に近づき、顔の白布を取った。間違いなく、花だった。顔には傷もなく、表情も穏やかだった。改めて、綺麗な女だったことを思った。もう彼女とは永遠に会えないと思うと、自然に涙が流れて止めることができなかった。

　桜井花の葬儀に関する情報はなかなかネットやマスコミにはでてこなかった。彼女の自慢の夫や息子の顔だけでも遠くから見て、花との思い出に区切りをつけたいと思った俺は、SNSで桜井花のページを見てみた。するとそこには、何と、
「花の恋人だった男性へ。ご連絡ください』
とのメッセージと携帯の電話番号が記載されているではないか。
　これはどういうことだ。夫が、花の遺品、例えば、パソコンとかを整理し、俺の存在を知り慰謝料でも請求しようというのか？それとも、俺の存在を知って彼女について思い出を語りたいとでもいうのか？あるいは、形見分けとかをしたいとか？
　まる一日迷って、結局、おれは、その夫らしきメッセージに書かれていた携帯電話番号にかけてみた。電話はすぐにでた。
「あの、花さんのSNSのメッセージを拝見して電話したのですが」
「ありがとうございます。安心してください。私は花さんの夫ではありません」
「え？」
「花さんは、そもそも、独身で子供もいない方だったのです」
「……」
「あなたで、電話を頂いたのは４人目です」
「……」
「私も恋人でした。あ、私は佐伯といいます。新聞記者をしていまして、警視庁にも知り合いがいるものですから、彼女が亡くなってから、いろいろ、調べたら、彼女の言っていたことが作り話だとわかりました。私も、彼女は狛江に住んでいて、結婚していて子供もいると聞かされていました。全くでたらめですよ。住民票のおいてある狛江のワンルームマンションには誰も住んでいなくて、彼女の住まいは渋谷区松濤の豪邸で、家政婦を置いて暮らししていました。その豪邸は父親の会社の登記上の住所になっていて、彼女の表札は出ていません。ちなみに母親はすでに他界していて、父親はニューヨークに住んでいます」
　俺の頭は真っ白になった。こいつは何を言っているんだ。
「それで、佐伯さん、あなたは、花の恋人の男たちと連絡をとって、何をしたいんです？記事にでもするつもりですか」
　俺に話の腰を折られた佐伯はムッとするでもなく、礼儀正しく説明を始めた。
「あ、すみません。まず、それを申し上げるべきだったですね。記事になんかするつもりはありません。私は、花を愛していましたし、こんなに上手くいっている関係は奇跡だと思っていました。しかし、この事故で、彼女が私に言っていたことは嘘だったと判り、しかも、彼女が付き合っていた男は私以外に、あなたを含めて少なくとも４人。今後何人現れるかわかりません。彼女、桜井花という人間がどういう人だったのか、私と同じ恋人だった皆さんと会食でもして、彼女について語りたいのですよ」
　そこで、佐伯は一息ついた。俺は黙っていた。
「今度、席を用意しますので、来ていただけませんか。彼女について、同じ立場の者どおし、語りましょうよ」
　俺は、数秒黙ったのちに、話し出した。
「せっかくですが、佐伯さん、会食はお断りします。花について、誰とも語り合いたくありません。俺にとっても、花は大事な人だった。俺と会うときの花は、仮に夫や子供がいることが嘘であったとしても、誠実な人だった。彼女が嘘をいろいろついていたのなら、それをそのままにしておきたい」
　なおも話しかける佐伯の電話を俺は切った。
　そうか、花には夫も子供もいなかったのか。なぜ彼女がそれを偽ったのかは、資産家ということを隠したかったとか、いろいろ推測はできるが、そんな推測はどうでもよかった。花が既婚者で俺と会うことが本来許されないという状況だったから、俺たちは付き合い続けることができた。もし、彼女が独身で俺が既婚というアンバランスな状況だったら、俺は彼女をひとりにすることが辛くて、この関係を続けられなかった。
　花に恋人が俺以外に何人もの恋人がいるとしても、そのことは俺をむしろ安心させる。彼女の寂しさが紛れることを俺は彼女のために喜ぶ。俺といるよりも幸せな時間が過ごせる男がいたとしたら、それは俺にとっても幸せなことだと思えた。俺は彼女が幸せならいい。
　ＴＶでは、相変わらず、日航機の事故について、誰かがしゃべっていた。まだ当分この騒ぎは収まらないだろう。しかし、いずれ、この事故の扱いはマスコミにも人の口にも少なくなり、いつかはTVでは、事故の起こった日に年１回しか報じられなくなるだろう。
　果たして、俺にとっての花も、いつかは、この事故の日にだけ思い出すだけの存在になるのだろうか。
　終わり

コメント(2)

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[1] mixiユーザー 05月05日 22:20

面白かったです。なんというか、展開がサスペンスで、ドキドキしました……。特に、実は独身だったというくだりが、ぞくぞくしました。
そういう嘘をつく人は、私から見るとクレイジーです。でも、この作品には、ある意味クレイジーな人しか出てこない気がして、そこが作品の魅力のように思いました。
そういうクレイジーさに「ひええ」となっているところに、ラストは飛行機事故の悲しさとか個人への切ない気持ちが入り混じって、いい感じで収まっていました。
よくわからない感想ですみません。

[2] mixiユーザー 05月05日 23:26

>>[1]

本当は独身なのに、結婚しているので（重たくならないから）大丈夫だとクレイジーな嘘をつく人は現実に実在します。

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