半蔵門かきもの倶楽部コミュの第６３回　たかーき作　積み重ねること（１）

何かを目指して頑張ってきたつもりだった。
でも、「何か」って何だろう？そんな疑問は考えなくても何とかなってきた。
僕は楽観的な性格ではないけれど、「そういう事はいつか考える時が来るんだろう」と思える程度には忙しかったし、僕の根底に潜んでるはずのその「何か」ではなく、見えている事に反応し、聞こえてくる声に応えている事が、当面の僕が存在している理由になっていた。だから僕は、仕事を頑張ってこれた。

「……そうですか、本当に残念です。承知しました」
僕は今、室内で、PCの画面越しに何とか声を振り絞っている。与えられた仕事を通じて、僕は人や社会の動き方を見ていた。そうして見てるものたちが「世界」なんだって信じていた。
「また、機会がありましたら、是非、よろしくお願いいたします」
と、僕がマイクに向かって挨拶したところで、通話の声は途切れた。
即座にその相手からは、チャットで、手短に『森田様　ありがとうございました失礼いたします』という文字列が、僕に送信されてきた。その顧客は、普段はまめな方で、丁寧な文章をいただくのに、その文字列は短かった。句読点すら、正しく使われていなかった。
反射的に、僕はキーボードに打鍵する。
『はい。こちらこそ、貴重なお時間をいただきまして、』
誠にありがとうございました、と、続きを打ち込もうとするかしないかのところで、しかし、一方的に相手はそのオンライン会議から退席していた。

窓の外から入ってくる、４月の心地よい空気に似合わず、僕は淀んだ気持ちになっていた。
仕事から、世界を学べると思っていた。今でも思ってる。しかし……。
少しでも気持ちを明るくしようと、軽く背伸びをして、もう一度PCの画面を立ち上げて間もなく、別の顧客からの通話が入ってきた。
「え？御社もですか？そんな……」
立て続けに、長年の付き合いだったお客様から予定のキャンセル、契約解消の連絡を受け続ける。それが僕の、今の仕事だった。今、僕は泣きそうになりながら、目の前で起きている出来事によって、ある事に気づかされつつあった。
僕の見えている事だけが、全てでなかった事。世界なんて、思っていたようなものではなかったって事。ただ、そんな気づきに向き合っている時間は僕にはない。今はただ、忙殺されていよう。この現実に。

４月。僕の会社から、在宅勤務をするよう命じられて半月が経つ。
２月までは、こんな事になるなんて思わなかった。今年は国際的なスポーツイベントの招致をはじめ、国中が好景気に沸くはずだと見通していた。今年はこの数年の仕事の集大成。そう考えていた矢先だった。
３月からこの４月にかけ、僕の部署は忙しかった。今日、９時に終わったのは楽な方だったくらいだ。最近は、在宅勤務なのに顧客とオンライン会議を遅くまで行う場合も多かった。明日はまたそんな感じで、忙しくなるだろう。
しかし、わかっていた。この急に発生した事態……それは、この月末で終わる。違約金の発生や、確保していた人員のキャンセルに伴う処置や、そういった仕事はこの月末で一旦片付きそうになっていた。
（……でも、その後は？その後はどうなる？）
僕の頭には疑念が浮かんで来る。しかし、その思いを払しょくしようと、リビングに通じる仕事部屋の扉を開けた。
「沙智さん、お疲れ様です。今日の仕事終わりましたよ」
僕がそう挨拶した相手は、リビングのテーブルに突っ伏している。今、彼女……僕の配偶者の事なんだが、彼女もまたひどく気疲れしているようだ。
「お疲れ様……」
彼女は顔をテーブルにつけた状態のまま、声を絞り出してそう言ってくれたが、僕の顔は見てくれなかった。
仕方がない。彼女も今在宅勤務中で、色々追い詰められている事は聞いてるから。ただ……、こういう状況だからこそ彼女の顔を、できれば笑顔を見させてほしかった。いや、泣き顔でもいい。お互いに顔を見せないと、死んでるみたいじゃないか。楽しい話なんてしなくても、せめてもっと、こう、最近あったいい事を話すとか……。
「今、森田君の口座にいくら入ってる？」
彼女から発せられた言葉は、現実的なお金の話だった。
「ほら、今月だけカードの支払いが２５万あるでしょ。家具を買いなおした分」
彼女の口調は、買った事に対する後悔が混じっていた。確かに、２月まで、今年１年は仕事が繁忙期で収入も増えるだろうと見越していた。今のうちに買えるものは買っておこう、と話をして、３月初頭にはまとまった買い物をしていた。
「普段使いの口座は３０くらいしか入れてなかったです。貯蓄の口座から、移さないと」と僕は答えた。
こんなことになるくらいなら、と僕は思った。家具の買い替えはやめておいた方が良かった。いや、もとはと言えば２年前、この新生活を始めた時だってそうだ。僕たち二人が買った、この都内の２ＬＤＫのマンション。僕たちの収入に対し、少し高い購入額だった。ローンの支払い額は、子供のいない共働きの僕たちでも、それなりに厳しかった。払えたのは、仕事が軌道に乗っていたから。でもこの先？直近、３月と、今４月は、会社から残業代は多く支給される。だが、状況が状況だけに、もはや今月の残業代がどうとか言うのは馬鹿馬鹿しい事だった。その先、会社は従業員に給料を、今まで通り払い続ける事ができるのか？
でも、僕は考えるのをそこでやめる。今となっては結果論だ。二人で言っても仕方ない事を言い始めた途端、お互いに色々な懸念や、不安、あるいは不満が、堰を切ったように出てしまうから、僕は、思いを押し殺した。
僕はよく、思いや、感情を、押し殺すようにしている。「自分だけが辛いわけじゃない」って。僕は普段から周囲を見て、世界を見て、自分より大変な人がいると思うたびに感情を殺してきた。そういう時は、何も言わず、黙って頑張ろうと。それにまして今は、目の前にとても気疲れしている彼女がいるのだから。

「私のお仕事も、森田君と同じで、かなり減るのは確実かな。去年転職して、今の会社で働くのを選んだのは私だから、結局、こういう事も含めて自己責任だと思ってるよ。いつまでこの状況続くのかなあ」
彼女の言葉を聞いて、僕は、何も返す言葉がなかった。そうして彼女はずっと顔を上げてくれない。
僕は今、沈黙の中、自分の気持ちがわからなかった。これは気まずさなのか？申し訳なさなのか？お互いに生活の見通しが甘過ぎた事の、後悔もあるだろうか。僕は意味もわからないまま、時間の重さを彼女と一緒に感じているだけだった。蛍光灯だけが、状況に不釣り合いなほど煌々と輝いていた。そういえば、もう２１時になのに夕食を食べてない。でも、僕は食欲はない。彼女もご飯を食べたいなんて言わないし、その様子もない。

会社は、最近の急な情勢の変化で、上得意先の顧客を含め、立て続けに「契約更新できない」「夏までの予定をすべてキャンセルしたい」といった申し出を受けていた。
僕の今の仕事はその対応。つまり、対応が終わった途端、会社の経営は悪化する。大幅に。
それが現実。その現実と、僕が長年信じていたとの世界のイメージとの間に、絶望的なまでの隔絶が発生しつつある事を、しかし、僕は認めたくなかった。今はまだ、忙しさに集中して周りを見ないでいられるが、それは現実逃避と呼ばざるを得ないものだろう。その後の事が、何もかも見えないのに。
人生について、あるはずだと心のどこかで信じていた物語。
それはどんな、結末を迎える事になっていただろう？
いや、結末なんて、そんな事今考えるのは縁起でもないかもしれない。僕がいま置かれている状況は、人生の終局なんかじゃないだろう。会社がなくなるわけじゃない。収入が、ゼロになるわけじゃない……。しかし、どんなに否定しても、僕は僕の頭上から降り注いでくるかのような妄想を、払しょくする事ができなかった。まるでそれは、黒い雲で、タールのような雨を僕にだけ降らせているかのように思えた。水の雨なら、木々は生き返るだろうが、その黒い雨は、僕の脳をしおれさせ、委縮させるものだった。
重い気持ちを抱えながら、僕は人生を考えずにいられない。人生というのは、例えるなら、積み木のように、一段ずつ一段ずつ、積み重ねていって大きなものを作る事だと思っていた。１年かけて仕事を頑張れば、一つのブロックになり、その積み木のブロックを８０年なら８０段積み重ねて、そうしてできたものを人生って呼ぶと……。
（あれ？いつ頃から、そんなイメージができたんだっけ？）
子供のころからそう思っていたような気もするし、そうでもない気もする。
人は無意識に、人生について、世界について、こうだというイメージを作り、身近な親しみやすい何かに結び付けて捉えようとするんだろう。僕は無意識のうちに、人生を積み木のように積み重ねるものという事にしていた。そうすると、人生なんて簡単だって思えてくるから。でも、イメージがそもそも間違っていたとしたらどうだろう？もしかして僕は、見たいものだけを都合よく見るために、人生をイメージに当てはめ、それ以外から逃げようとしてたのか？僕は信じていた。自分は強いから堅実に頑張れば人生は大丈夫だって。しかしその物語は、逆に、僕の弱さを隠すためにあったというのか？

その月の、下旬の事。
その日は金曜日で、一通りの仕事の作業に区切りがつきそうになっていた。契約書に捺印をする関係上、どうしても朝から出社が必要で、マスクをつけた僕は人のいない電車の中の座席に座り、会社へ向かっていた。
久しぶりに朝から外出し、太陽の光や４月の穏やかな気候を全身で浴びられる事に、僕の体は喜びのようなものを感じていたかもしれないが、反面、僕の脳は、何も考えていなかった。僕はその日、ロボットになった。仕事以外は、一旦、考える事も感じる事も拒絶した。わかっていたのは、その日で一旦、忙しさから解放される事。それだけ。他は、何も。
僕だけじゃなく、社内の誰もが五里霧中を彷徨っていた。いや、社会の誰もが、というべきか。誰も彼もが、日本の春が毎年のようにもたらしてくれるこの幸せな気分と、世界を取り巻く重い雰囲気の狭間でで、どういう感情の持ち方をするべきか、この気持ちに付ける名前は何なのか、よくわからないまま目の前の現実に従うだけなんだ。

契約書類を一通り仕上げたあと、部長から呼び止められた。
「森田、ちょっと……いいか」
「はい、大丈夫です」
僕は即答したが、部長の顔を見ると、そこに全く笑顔はなかった。
「……実は、今後の事について今日、出席している全社員に説明をする事になった。このあと１６時から、終業まで、会議室へ頼む」

……その日、会議が終わって、仕事は終業した。

その時、時刻はまだ１８時前だった。
何も言わずに、一人会社を出ると、僕は、文字通り寂寞感の漂う、人影のない街を歩いていた。
その時点での僕は、まだロボットだった。しかし、だんだんと気持ちが人間のそれになっていくのには、帰宅するまでの時間で十分だろう。そして、今の状況で人間の気持ちを取り戻す事は、今の僕にはきつい事だった。

交差点があった。
交差点には信号が取り付けられ、歩行者信号には赤いランプに止まった人が、緑のランプに歩く人の姿がある。
その交差点を渡る。通りを歩く。誰も歩いていない通り道。そこは百貨店がある通り道。
つい今年の２月まで、僕と彼女が仲良く入った百貨店。ショーウインドーを見ると小綺麗で高級な服を着たマネキンがある。女性の。
今はもちろん閉店している。だから入れない。

ああ、空はすっかり暗い。
春だから、花が咲いている木があるようだが、そんな事どうでもいい。

その百貨店に、以前に彼女と入った時の事を思い出してしまう。
……あれは結婚前だ。お互いに仕事が忙しい合間を縫って、彼女は服を試着するから、僕に見てほしいと言ってきて、一緒にこの店に入った。僕は女性の服選びなど自信がなかったけど、彼女にとても参考になったと言ってもらえたな。
二人でこの百貨店の屋上で食事をし、話をした。僕はむしろ繊細な性格だが、僕の彼女の沙智さんは、僕より年上で、仕事一筋で、彼女は仕事に対する情熱はとても強く、責任感があり、収入はムラがあるとはいえ、僕より稼ぎが上の事が多かった。僕は彼女のような仕事ができる女性を心から尊敬し、そして悔しくて、追いつきたいと思っていた。彼女もまた僕に対して、自分にはない側面を持っていると思ってくれていて、お互いに相手を尊重していた。彼女との会話は、とても楽しかったなあ。

……しかし、今、会話の少ない日々が続くようになった。
僕らが、たった２か月前に味わっていた日常は、違う国の事に思える。

駅までの道のりを、もう少し歩いた。
玩具屋さんがあって、そこには幼児向けの、カラフルな積み木の玩具があるのが見えた。
そういえば僕も幼少のころ、親からもらった、同じような積み木の玩具で遊んだ記憶がある。子供のころ、僕は、積み木をひたすら重ねて何段まで積み重ねる事ができたよ、なんて親に聞いてもらうのが好きだった。たしかその積み木の玩具は、実家から今の家に持ってきていたはずだ。
「……」
でも、それを考えたところで白けた気持ち以外は湧いてこなかった。

地下鉄の入り口を、通り過ぎて、もう少しブラブラ歩いた。
まだ家に帰れる気分じゃなかった。まだ急に全てと向き合えば、壊れてしまいそうだ。
（ああ、まだ家ではやる事がある。在宅勤務で会社に借りていたＰＣ、会社に返却するため、データのクリーンアップをしないと）
僕に少し人間の部分が戻ってきたのか、現実的な事が頭に浮かんでくる。でも今はそれを考えるだけでもきつい。もう少し、ロボットでいさせてほしい。時間稼ぎのために、そのまま歩いた。

普段歩いた事のない物静かな一角に入った。今の僕の感情には合っている場所かもしれない。
面積の小さいコンビニが、営業しているのが見えた。
「そういえば僕はコンビニでペットボトルを買う事が多かったけど、今後はスーパーで安い紙パックを買わなきゃいけないな」と思った。お弁当も、洗剤やティッシュなんかも、コンビニで済ませていた今までの生活は、もう、改めなきゃいけないな。
その向こうには、定食屋さんがあった。
でもこのご時世か、誰も入ってなかった。僕は今まで自分の眼鏡を通してしか世界を見てなかったけど、今の現実はこれなんだ。ニュースで、保証金がもらえないから営業するしかないって言っていた人を思い出す。彼らの気持ちはどんなだろう。今、その定食屋のテーブルの前にまじめに立って、来客を待ち続けている店員さん。彼女のマスク越しに、泣きたいような表情が、浮かんで来るような気がした。きっと今の僕と同じかもしれない。いや、僕はまだ幸せな方なのかもしれないが。
彼らは人生をどうイメージし、どんな物語で仕事を頑張っているんだろう？彼らには、子供がいる人もいるだろう。その彼らの人生の物語は、これから、どうなっちゃうの？
そして、僕の人生も。

その先に日用品や大工道具を取り扱っている、金物屋といったらいいのか、昭和から営業しているような古いお店があった。
そこには鍋とか、包丁とか、カッターとか、ハンマーとか、ロープとかいったものが清潔感のない棚に置かれていた。
営業しているようにも見えるが、店員の姿は見えない。
何を思ったか、僕は無表情のままそれらの品物の前に立ち、じっと凝視していた。ロープはかなり太く、重いものもぶら下げられるだろうという事が分かった。
切れにくそうなロープだ。
そういえば、全く関係ない事だが、昔聞いた事がある。
ロープというものは、重いものを吊るす場合、ロープ自体の強度に加え、結び目にもコツがあるそうだ。
また、ロープを固定する場所が壊れてしまっても、上手くいかない。「それ」を成功させるには、力学的な知識をちゃんと理解している必要があるそうだ。
人間の体の１か所、例えば首としよう。首を１本のロープで吊るし、「それ」を成功させるには、全体重が首に正しい角度でかかる必要がある。だから「それ」は、綿密な計画の上に行うべきなんだ。そこまでやって初めて、それ、「クビツリ」は成功し、人は少ない苦しみで逝く事が……。
「……はっ。駄目だ。僕は何を考えてるんだ！」
我に返って、僕は反射的に自分の頬を右手で叩いた。