国分寺駅界隈も随分変わった。長い間再開発が謳われていて、それでも何年も駅周りの交通整備は改善されず、まあこのままなんでしょうと思っていても、ある時から急に工事が始まり、みるみるうちに真新しい駅ビルができる。大きいパチンコ屋は撤退せず抜かりなく、駅ビルの地下に店舗を移した。
バスに揺られて久しぶりに、妙子は国分寺で降りた。離婚を機に都下に越してようやく一年ほどが過ぎようとしている。殆ど身一つで小さなアパートの一室を住居に決め、冷蔵庫やプロパン用のガスレンジを買うところから一人暮らしを始めた。子供は初めからいない。実家の父母も既に他界して、妙子の兄弟たちもそれぞれ家庭を持ち、仕事やら子育てやらに一番力を注いでいる時期である。妙子のことを気にかけたり、頻繁に連絡してくるものは誰もいない。自分の城の六畳間に座り、窓から覗く柿の木の枝と青空を見て、妙子はほっと溜息をついたものだ、やっと一人になれた、と。
仕事もアパートから自転車で通える場所に決め、とにかく仕事を覚えるのにこの一年は費やした。介護の仕事は体力がいる。休みの日はよく寝た。半年過ぎたあたりで人心地つき、仙人のように一人になれた安心から、少し物足りなさを感じるようになった。
それにしてもこの解放感はどうだろう。これからは何をしてもいい。妙子はクラシックギターを始めた。
いつもはアパートと仕事場との往復、そして食材などを買い出しに行く、郊外型の大きいスーパーマーケットにしか妙子は移動しないのだが、ある日その軌道上にギター教室の看板を見つけ、そのままその教室に入会してしまった。クラシックギターというものを何一つ知らず、ギターに触れるのもその日が初めてだったにも関わらず。
「禁じられた遊び」、「アルハンブラの思い出」こんな楽曲を弾ける日がいつか来るのだろうか？四十の手習いという言葉があるが妙子はもっと年かさである。レッスンは若い男性教師が妙子の手を取ってフォームを直し、極々簡単な単音メロディーを奏でる。「ハッピーバースデイ」とか、「きらきら星」とか。
妙子の右手の爪が短すぎると、教師はインスタントのつけ爪まで施してくれた。指先まで若い男性が触ってくれる。なるほど、こりゃ年輩女性にとっては堪らんサーヴィスだわね、と妙子は納得する。あー、だからこの教室、年輩女性が多いのねー、と自分も既に年輩女性の一員である自覚もなく妙子は思う。
ある日、ギター教室の掲示板にチラシが貼ってあるのを妙子は見つけた。近くの市民文化センターで、ギターサークルの発表会があるという。入場料は無料とのことなので早速聴きに行くことにした。
会場は視聴覚室で、10人程の演奏者が、それぞれ自分の楽器とケースを携え、パイプ椅子に座っている。舞台はフラットで、やはりパイプイスが対面に一脚と譜面台、クラシックギターにつきものの足台があるのみである。
場違いなとこに着ちゃったかな、と一瞬妙子は思ったが、すかさず会の主催者らしき60代くらいの男性が妙子に見学者なのかということを訊いた。この会はＳＮＳで集まった演奏者の発表会で、皆様々なギター遍歴をしてきた奏者だ、どうぞ最後までごゆっくり、と言われ、妙子もパイプイスに座った。
持ち時間はひとり15分程度で、どんどんプログラムが消化されていく。60代後半の男性ばかり、一体彼らは何年、いや何十年クラシックギターを弾いてきたのだろうか？みんな、上手い。なかには途中で進行を忘れて手が止まってしまう奏者もいたが、それでもすごおく、上手い。あと、楽器によってなのか、音がひとりひとり全然違う。私はまだ音も出せてないのに・・・。
新しい奏者が、舞台の席に着いた。この人は四十代前半だろうか？皆カジュアルな格好をしているのに、この人は長身、細身のスーツ姿だ。関西弁で、出張から直接ここに来たこと、従って本日は誰それさんから借りたギターであることを言って、演奏を始めた。
ほかの人と全然違う。気迫のある演奏だった。役者が違うよ、と妙子は思った。凄い、このひと。
演奏が終わって、妙子は大きく拍手をした。
休憩時間の時に、出張土産だと言って、その、役者の違う演奏者はお菓子を配り、妙子にもお菓子と共に、彼が今度やるというコンサートのチラシを渡した。
バスから降りて駅に向かった妙子は、駅周辺のきらきらしさに目を奪われた。まだ時間はある。新しい駅ビルのエスカレーターに乗り、新しい複合商業施設のガラス扉を開ける。数歩も歩かないうちに、可愛らしい小物が売られている雑貨屋で足をとめた。ラインストーンが全面に貼ってある万華鏡や、水引で作られたイヤリング、革製の、様々な動物をデザインしたポーチ、壊れやすくて少女趣味で、実用性があまりないような小さい品々が、一番素敵に見えるディスプレイで店頭に飾られている。
「あら。」すぐ手に取れる高さの、鏡面の飾り台に、妙子は土で出来た小さい達磨たちを見つけた。マットな絵の具で、赤、黄色、緑、青、白と五色に彩色された中から、赤いのを選んで掌に載せた。握ったら隠れてしまうくらい小さく、軽い。両眼は描かれていなかった。
なんだか、ふっと笑顔になった。値段もごく安い。つやのない素朴さと、はっきりした色が良くて店員を呼ぶ。「はい、おみくじだるまですね。」えっ、と思ったが、どうやら底にシールが貼ってあり、それを剥がすと内部は空洞で、その中におみくじが入っているらしい。買ってすぐに駅の改札へ向かった。
国分寺から市ヶ谷まで、ＪＲ中央線で一本だが、結構な乗車時間だ。行儀が悪いと知りつつ、車両に乗り込むとすぐに包みを開けてみた。達磨の底の白いシールを剥がして、巻いてある紙片を取り出す。
「凶」おお。ウセモノ、あきらむべし。マチビト、道に妨げあり。ガンボウ、のんびりと待つべし、と書いてあった。チープな小物なのに、おみくじは本格的な書き方だった。
勿論、なくしたものは、ぜひなくしたいものだったし、待っている人なんかいない。それよりも、私もまだ、のんびりと待ったり、期待することがあっていいんだ、と妙子は思った。おみくじは小さく折ってひと結びして、座席の隙間に押し込んでやった。市ヶ谷で下車するときに、おみくじに向かって心の中でバイバーイ、と言う。悪いことは全部ＪＲ中央線の車両に置いてきた。逆にすっきりした気分である。
市ヶ谷の、コンサート会場は初めて行く場所だ。彼は今日はソロ演奏ではなくて、マンドリン4本との室内楽ユニットとして演奏するらしい。どんな演奏だろうか？どんな楽曲をやるのだろう？私もいつか、アルハンブラやラグリマを聴かせられるように、なるかもしれない。のんびりと、待つべし待つべし。
妙子は丹下団平のように自分に茶々を入れた。
バスに揺られて久しぶりに、妙子は国分寺で降りた。離婚を機に都下に越してようやく一年ほどが過ぎようとしている。殆ど身一つで小さなアパートの一室を住居に決め、冷蔵庫やプロパン用のガスレンジを買うところから一人暮らしを始めた。子供は初めからいない。実家の父母も既に他界して、妙子の兄弟たちもそれぞれ家庭を持ち、仕事やら子育てやらに一番力を注いでいる時期である。妙子のことを気にかけたり、頻繁に連絡してくるものは誰もいない。自分の城の六畳間に座り、窓から覗く柿の木の枝と青空を見て、妙子はほっと溜息をついたものだ、やっと一人になれた、と。
仕事もアパートから自転車で通える場所に決め、とにかく仕事を覚えるのにこの一年は費やした。介護の仕事は体力がいる。休みの日はよく寝た。半年過ぎたあたりで人心地つき、仙人のように一人になれた安心から、少し物足りなさを感じるようになった。
それにしてもこの解放感はどうだろう。これからは何をしてもいい。妙子はクラシックギターを始めた。
いつもはアパートと仕事場との往復、そして食材などを買い出しに行く、郊外型の大きいスーパーマーケットにしか妙子は移動しないのだが、ある日その軌道上にギター教室の看板を見つけ、そのままその教室に入会してしまった。クラシックギターというものを何一つ知らず、ギターに触れるのもその日が初めてだったにも関わらず。
「禁じられた遊び」、「アルハンブラの思い出」こんな楽曲を弾ける日がいつか来るのだろうか？四十の手習いという言葉があるが妙子はもっと年かさである。レッスンは若い男性教師が妙子の手を取ってフォームを直し、極々簡単な単音メロディーを奏でる。「ハッピーバースデイ」とか、「きらきら星」とか。
妙子の右手の爪が短すぎると、教師はインスタントのつけ爪まで施してくれた。指先まで若い男性が触ってくれる。なるほど、こりゃ年輩女性にとっては堪らんサーヴィスだわね、と妙子は納得する。あー、だからこの教室、年輩女性が多いのねー、と自分も既に年輩女性の一員である自覚もなく妙子は思う。
ある日、ギター教室の掲示板にチラシが貼ってあるのを妙子は見つけた。近くの市民文化センターで、ギターサークルの発表会があるという。入場料は無料とのことなので早速聴きに行くことにした。
会場は視聴覚室で、10人程の演奏者が、それぞれ自分の楽器とケースを携え、パイプ椅子に座っている。舞台はフラットで、やはりパイプイスが対面に一脚と譜面台、クラシックギターにつきものの足台があるのみである。
場違いなとこに着ちゃったかな、と一瞬妙子は思ったが、すかさず会の主催者らしき60代くらいの男性が妙子に見学者なのかということを訊いた。この会はＳＮＳで集まった演奏者の発表会で、皆様々なギター遍歴をしてきた奏者だ、どうぞ最後までごゆっくり、と言われ、妙子もパイプイスに座った。
持ち時間はひとり15分程度で、どんどんプログラムが消化されていく。60代後半の男性ばかり、一体彼らは何年、いや何十年クラシックギターを弾いてきたのだろうか？みんな、上手い。なかには途中で進行を忘れて手が止まってしまう奏者もいたが、それでもすごおく、上手い。あと、楽器によってなのか、音がひとりひとり全然違う。私はまだ音も出せてないのに・・・。
新しい奏者が、舞台の席に着いた。この人は四十代前半だろうか？皆カジュアルな格好をしているのに、この人は長身、細身のスーツ姿だ。関西弁で、出張から直接ここに来たこと、従って本日は誰それさんから借りたギターであることを言って、演奏を始めた。
ほかの人と全然違う。気迫のある演奏だった。役者が違うよ、と妙子は思った。凄い、このひと。
演奏が終わって、妙子は大きく拍手をした。
休憩時間の時に、出張土産だと言って、その、役者の違う演奏者はお菓子を配り、妙子にもお菓子と共に、彼が今度やるというコンサートのチラシを渡した。
バスから降りて駅に向かった妙子は、駅周辺のきらきらしさに目を奪われた。まだ時間はある。新しい駅ビルのエスカレーターに乗り、新しい複合商業施設のガラス扉を開ける。数歩も歩かないうちに、可愛らしい小物が売られている雑貨屋で足をとめた。ラインストーンが全面に貼ってある万華鏡や、水引で作られたイヤリング、革製の、様々な動物をデザインしたポーチ、壊れやすくて少女趣味で、実用性があまりないような小さい品々が、一番素敵に見えるディスプレイで店頭に飾られている。
「あら。」すぐ手に取れる高さの、鏡面の飾り台に、妙子は土で出来た小さい達磨たちを見つけた。マットな絵の具で、赤、黄色、緑、青、白と五色に彩色された中から、赤いのを選んで掌に載せた。握ったら隠れてしまうくらい小さく、軽い。両眼は描かれていなかった。
なんだか、ふっと笑顔になった。値段もごく安い。つやのない素朴さと、はっきりした色が良くて店員を呼ぶ。「はい、おみくじだるまですね。」えっ、と思ったが、どうやら底にシールが貼ってあり、それを剥がすと内部は空洞で、その中におみくじが入っているらしい。買ってすぐに駅の改札へ向かった。
国分寺から市ヶ谷まで、ＪＲ中央線で一本だが、結構な乗車時間だ。行儀が悪いと知りつつ、車両に乗り込むとすぐに包みを開けてみた。達磨の底の白いシールを剥がして、巻いてある紙片を取り出す。
「凶」おお。ウセモノ、あきらむべし。マチビト、道に妨げあり。ガンボウ、のんびりと待つべし、と書いてあった。チープな小物なのに、おみくじは本格的な書き方だった。
勿論、なくしたものは、ぜひなくしたいものだったし、待っている人なんかいない。それよりも、私もまだ、のんびりと待ったり、期待することがあっていいんだ、と妙子は思った。おみくじは小さく折ってひと結びして、座席の隙間に押し込んでやった。市ヶ谷で下車するときに、おみくじに向かって心の中でバイバーイ、と言う。悪いことは全部ＪＲ中央線の車両に置いてきた。逆にすっきりした気分である。
市ヶ谷の、コンサート会場は初めて行く場所だ。彼は今日はソロ演奏ではなくて、マンドリン4本との室内楽ユニットとして演奏するらしい。どんな演奏だろうか？どんな楽曲をやるのだろう？私もいつか、アルハンブラやラグリマを聴かせられるように、なるかもしれない。のんびりと、待つべし待つべし。
妙子は丹下団平のように自分に茶々を入れた。
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