半蔵門かきもの倶楽部コミュの第四十五回　みけねこ作『暗闇の椅子』

　駅に着いたときには、雨が降っていた。今日は、購入した椅子を受け取るために、仕事を早く切り上げてきたのだった。家までは歩いて十分ほどの距離なので、雨の中を走ることにした。今日に限って、かかとの高いパンプスを履いてきてしまったことを後悔した。靴の中に押し込まれた指が痛い。
　一人暮らしをしていると、宅配の荷物を受け取るのは、休日か平日の夜間に限られてしまう。夜間の受け取りは、定時にあがれば間に合う１９時から２１時を指定した。休日に受け取るという手もあったが、早くこの椅子を部屋に置きたかったので、運送業者に夜間受け取りを希望したのだった。
　最近、私は、家具を揃えることが趣味になっていた。社会人になって五年が過ぎ、仕事には慣れてきたが、家と会社の往復で生活が単調になっていた。しかし、部屋のインテリアに凝ることによって、潤いのある暮らしに変わっていったのだ。

　その椅子は、池袋のアンティークショップに立ち寄ったときに見つけた。一目惚れとでもいうものだろうか。一点しかないと書かれているその椅子に私は心を奪われた。艶のある、あめ色の椅子は木製で、背もたれのカーブが美しかった。色々な角度から眺めていると、女性店員がやってきて言った。
「このチャペルチェアは、１９３０年代イギリスの教会で使われていたものなんですよ」
「そんなに古いんですか？」
　私は驚いた。シンプルなデザインながら機能的で、椅子の下には、荷物置きもある。
「教会が解体されると、こうやってたくさんの椅子が海を渡ってくるんです。でも、ほとんどがカフェなどお店に行ってしまうので、個人で使うことができるのは貴重ですよ」
「パソコンデスクにちょうどいいですよね」
「はい。ご家庭で使われると、とても素敵だと思いますよ」
１９３０年代のイギリスの教会で使われていた椅子ということにも魅力を感じた私は、購入することにした。長い時間をかけ、遠い海を渡って、出会えたということに感動を覚えた。店員は、優しい笑みを浮かべながら言った。
「お客様に引き取られて、この椅子もとても喜んでいると思いますよ」

　私は、アンティークの椅子の到着を待ちながら、夕食を作り、洗濯機を回した。いつも、忘れがちな観葉植物の水やりもした。デスクの周りを掃除しながら、この場所に椅子を置いたらどうなるだろうと想像することは楽しかった。あっという間に時間はたち、２１時を回った。まだ椅子は届かない。私は不安になり、運送業者に電話をした。しかし、何度かけても留守電に切り替わって、繋がらない。もう、営業時間は過ぎてしまったようだ。私は、そのために急いで時間を作ったというのに。憤りを覚えながらも、この気持ちをどこに持っていけばいいのか分らなかった。
仕方なく、明日の朝一番に再度電話することにした。早く帰ってきたことによって、部屋の片づけが捗って良かったと、無理に気持ちを静めた。

　翌朝、９時になるとすぐに運送業者に電話をかけた。
「おそれいります。昨日、再配達をお願いした荷物が届かないんですけど」
「あ、すいません。あのう、申し訳ないです。こちらの手違いで、配送日を間違えたらしくて。本当にすみません」
電話口に出た担当者は、拍子抜けするほど暢気な口調だった。
「私、昨日は、会社から急いで帰って来たんですよ。雨の中を走って。こういう手違いは困るんですけど」
「本当に申し訳ないです。お客様のご都合のいい日時を教えてくだされば、ありがたいです」
　丁寧な口調でひたすら謝る声を聞いていると、理不尽ながら、怒っている自分が恥ずかしく思えてきた。
「わかりました。では、再配達の日時をお伝えします。今度は、よろしくお願いします」
　次の配達日は焦って帰宅しなくてもいいように、休日の午前中を指定した。

　その日はいい天気だった。私は、朝から掃除をし、椅子が届くのを待っていた。午前中に受け取り、午後は、家具屋めぐりをしようかと計画を立てていた。しかし、１２時を過ぎても荷物は届かない。嫌な予感がした。また手違いで忘れているのだろうか？　私は、運送業者に電話をした。
「すみません。今日の午前中に届くはずの荷物がまだ届かないのですが……」
「先日は、本当に申し訳なかったです。ちゃんとドライバーが向っていますので、もう少しお待ちいただけますでしょうか？」
　前回、電話をしたときと同じ担当のようだ。気弱そうな声で丁寧に謝ってくるので、怒る気が失せてしまう。それでも今回は、さすがに私も苛立っていた。
「あの、時間指定は守っていただかないと、こちらも予定があるんです」
「はい。すみません。これから気をつけますので、もう少し待ってもらえますか？」
「わかりました。今度、来なかったら、お客様センターに電話しようかと……」
　そう話しているとインターフォンが鳴った。「あ、届いたようです」。そう言うと私は電話を切った。待ち望んでいた椅子が届くと、晴れやかな気持ちになった。配送のドライバーに一言文句でも言おうかと考えていたが、そんなことはどうでもよくなった。それより一刻も早く、部屋に椅子を置いてみたいという気持ちのほうが勝っていた。

　梱包は丁寧にされていて、緩衝材を解くのに時間がかかった。椅子を取りだすと、デスクの前に置いてみた。木材の色が、床と合っていて、満足度は高かった。ふと、椅子の足を見ると、購入するときにはなかったはずの傷があった。しかも新しい傷ではなく、古い傷のようだ。裂けた部分から錆びた釘が見えている。一点しかないということだったが、他にも在庫があり、間違えて発送したのだろうか？　ショックを受けた私は、すぐにアンティークショップに電話をした。
「先日、チャペルチェアを購入した者ですが、椅子に傷がありまして……。購入前に、お店の人と傷がないのを確認したので、配送のときにできた傷でしょうか？」
「申し訳ございません。すぐに修理に出しますので、お手数ですけど、着払いでこちらに配送してもらえますか？」
アンティークショップの店員は、丁寧だった。
　私は、この椅子と出会えたことに運命を感じていたので、修理をお願いすることにした。緩衝材を再び巻き付け、すぐに着払いで発送した。
　そのあと午後から家具屋巡りをしようと思っていたが、一日ゆっくり家で過ごすことにした。待ち望んだ椅子に傷があったことで、かなり気持ちが沈んでいた。一点しか残っていなかったため、交換ができず、修理になるのだろうか。どれくらいの時間がかかるのだろう。年季の入った椅子なので仕方ないのかも知れない。朝から、椅子のことで神経を使い、疲れた私は、早めの夕飯をとって休むことにした。

　突然、聞いたことのない異音がして、目が覚めた。木と木が擦れ合うような音が続いている。外から聴こえてくるのだろうかと思ったが、どうやら部屋の中から聴こえるようだ。ワンルームの部屋のどこからこんな音がするのだろう。時計を見ると、夜中の三時だった。
　私は、照明をつけ、部屋を見まわし、悲鳴をあげた。昼間、送ったはずの椅子が部屋の中にあるのだ。椅子の足からは、黒い液体が血液のように流れ出ていた。釘の錆が水分を含んで流れているのかも知れない。私は、恐怖で体が震えた。着払いでお店に発送をしたことは鮮明に覚えているが、私の夢だったのだろうか？
無我夢中で椅子をごみ袋で包み、玄関の外に運んだ。鍵を閉め、部屋に戻ると、全身ががくがくと震えていた。照明をつけたまま、布団を頭から被って眠った。

　翌朝、玄関を開けると、夜中に出した椅子の姿はなかった。私はほっと胸をなでおろした。悪い夢でも見たのかも知れない。そう思ったのは、アンティークショップから椅子の受け取り確認の電話がかかってきたからだった。
「無事にチャペルチェア、受け取りました。しかし、お客様のおっしゃるような傷はありませんでした」
「そんなはずはないです。画像も撮ってあるので送りましょうか？」
「はい。お願いします」
　けれども私には、もう、この椅子の存在が怖かった。
「あの、すみません、チャペルチェア、返品することはできますか？　傷は大きいし、錆びた釘が傷に挟まっているんです」
「お客様には、配送のときにたいへんご迷惑をおかけしたとお聞きしています。修理ではなく返品ということでお預かりいたします」
「よろしくお願いします」
「了解いたしました。返品ですので、傷の画像は送っていただかなくても大丈夫です」
　アンティークショップの店員は、丁寧で感じはいいのだが、どこか冷めた雰囲気を漂わせていた。

その夜、寝ていると、また異音で目が覚めた。昨夜と同じ木の擦れる音だ。心臓の鼓動が速くなる。部屋の真ん中に、送ったはずの椅子があった。また戻ってきたのだ。足からは、負傷したように血液のようなものが流れていた。私は包帯を持ってくると、足の部分に巻き付けた。今度は、マンションのゴミステーションに置いた。走って家に戻ると一晩中、お気に入りの曲を流して、タオルケットにくるまって朝が来るのを待った。私は、あの椅子に取り憑かれてしまったのだろうか。
今から考えると、運送業者の手違いなどで、なかなか届かなかったことにも意味があり、実は、椅子に取り憑かれないように守ってくれていたのかもしれない。

　私は、会社の帰り道、アンティークショップを訪ねてみた。お店のあった場所は、広いパチンコ屋だった。スマホで位置をチェックしてもこの場所で間違いなかった。私は、パチンコ屋に入って店員に聞いて見た。
「すみません。この辺に家具屋さんはありますか？」
「家具屋さん？　この辺では見たことがないね」
「えっと、この店は、何年前から営業してますか？」
「もう、三年になるかね」
「ありがとうございます」
　私は、ぞっとして、体の震えが止まらなくなった。次に、何度も配送を間違えた運送業者にも電話をかけてみた。
「この電話は現在使われておりません」というアナウンスが繰り返し流れるだけだった。