半蔵門かきもの倶楽部コミュの第四十四回　みけねこ作　『月の箱』

九月に入ると、海水浴場にも人がまばらになる。波に光る太陽の輝きも穏やかになっていた。とうもろこしの芯や割り箸が砂にまみれて転がっている。
　私は、青井周太（あおい　しゅうた）と砂浜に座って海を眺めていた。周太とは、年明けに結婚することになっている。私は、折れ曲がった枝で砂を掘り、中の湿った砂をかき出すことに夢中になっていた。
「あっという間に夏も終わっちゃったね」
「これから、式の準備で忙しくなるね。里穂（りほ）も困ったことがあれば早めに言うんだぞ」
「ありがとう」
　私は、父と二人暮らしで、その父も八月に病気で亡くしたばかりだった。母は、幼い頃に離婚していたそうで、顔も覚えていなかった。
「とりあえず、今の家は、そのままにして引っ越して、ゆっくり片付けることにするよ」
　周太は、足元にある貝殻を手に取り、砂をはらった。
「それがいいね。片付けも俺が手伝うから」
「ありがとう」私は言葉を続けた。「こうして人のいない海を見てると、『うらしまたろう』の亀がやってくるような気がするよ」
「ああ、大きな亀がやってきそうだな」
「玉手箱を開けたらいけません、って言われたら、周太はどうする？開ける？」
「うーん、禁止されると開けたくなるよな」
　私は、下を向いて、砂をかきまぜながら言った。
「私、玉手箱を開けたことがあるんだ」
　周太は、驚いて、手にしていた貝殻を落とした。
「え？　玉手箱？」
「うん。ちょっと、歩く？」

　私たちは、立ち上がり、砂浜の後方にある松林の方角に向った。サンダルの中に容赦なく砂が侵入してくる。
　小さな足洗い場では、赤いビキニを着た五歳くらいの女の子が足を洗いながら水遊びをしていた。
「私が小さい頃に、お母さんが出て行ったという話はしたでしょ」
「うん」
「お母さんの記憶はないんだけど、出て行ったときのことは、よく覚えてるんだよね」
　周太は気遣うように頷いた。
「そうなんだ」
「玄関で『どうしても悲しくなったらこの箱を開けなさい』って、小さな箱を渡されたの」
「え、それが玉手箱？」
「そう。なんだろうって思うよね」
「何が入ってた？」
「それがね……。何にも入ってなかった」
「そっか。おまじないみたいなものだったのかな」
「ね、がっかりでしょ。今度、その箱を見せるね」
　周太は、箱に興味をしめしたようだった。
「今日、見たいな。玉手箱」
「じゃ、今日、これから私の家に来る？」
「うん、見てみたい」

　海から自宅までは、電車で二時間もかからない。電車のボックス席で周太の肩にもたれて眠っていると、幸福感と安心感で心が満たされた。周太とは、大学のサークルが一緒で知り合った。しばらく友達付き合いだったが、お互いに社会人になった頃から意識し始めて付き合うようになった。

　駅に着くと、綺麗な満月が出ていた。
　築三十年の古い一軒家が、私の家だった。誰もいない玄関の鍵を開けると、古い家独特の匂いがした。私は、周太をリビングのソファに案内し、二階にある自分の部屋に駆け上がった。

　その箱は、丈夫な厚紙でできていた。手のひらに乗るほどの小さな箱で、周りはカラフルな千代紙で包まれていた。市販されていたものではなさそうだ。
　周太は、手のひらで転がしながら言った。
「玉手箱というより、手作りの宝箱だな」
「ね、カラフルでかわいいでしょ」
　周太は、箱をくるくると回し、底を覗き込んでいた。
「何か、紙がはさまってる」
　私は、驚いた。
「出してみて」
　彼は、爪で底に貼られている赤い紙を引っ掻いていた。
「出したら、少し破れるけど、大丈夫？」
「大丈夫。あとで貼りなおすから」
　周太は、用心深く箱の底から小さな紙を取り出した。
　レシートほどの大きさの白い紙は、黄ばみ、ところどころ茶色の染みができていた。
　二十数年の時を経て、ようやく取り出された紙には、鉛筆書きで住所が書いてあった。

「三浦市三崎７－７－１」

　ベージュのコートを着た母の背中が思い出された。玄関で、あわただしくこの箱を渡されたときの声も聞こえてくるようだ。母は、何があって、どういう気持ちで出て行ったのだろう。周太を見ると、はらはらと涙をこぼしていた。私は、おどけたように彼の肩を軽くたたいた。
「もう、どうして周太が泣いてるのよ」
「だって、里穂のお母さんの気持ちを考えるとさ」
「ありがとう」
「里穂が良ければだけど……。ここに行ってみない？」
「うん、私も思ってた」
「じゃ、明日、日曜だし、行こうか」
「一緒に来てくれると心強いわ」

　その夜はなかなか寝付けなかった。隣で軽い寝息をたてて眠る周太を起こさないようにそっと寝返りをうった。枕元の時計を見ると、三時だった。母は、どうして家を去っていったのか、父も親戚の誰もが話してくれなかった。一度だけ父の口から、お母さんは、決しておまえのことが嫌いになったんじゃないから。ということを聞いたことがある。
　三浦市三崎の住所に、母のことが分かる情報があるのだろうか？知りたいという気持ちと知らないほうがいいのではないかという気持ちが交錯していた。

　翌日、周太と京浜急行に乗り、三浦海岸に向かった。天気は秋晴れで電車に並んで座っていると遠足のような気分になる。私は、冷たい麦茶を周太に手渡した
「ついてきてくれてありがとう。昨日は、逗子で、今日が三浦海岸。海三昧だね」
「俺は、海が好きだから、毎日でも大丈夫」
　私たちは、三浦口駅からバスに乗り、住所に一番近い場所まで移動した。
「このあたりだけど」
「ここだ」
　住所にある店では、海で獲れた魚を店頭で干して売っていた。
　干物の前には、真っ黒に日焼けをしたおばさんが立っている。社交的で、観光客と楽しそうに話をしている。
　彼は、言いにくそうに私に言った。
「どうする？　聞く？」
　私は、頷いた。　
　彼は、深呼吸をすると、おばさんに向って歩いていった。
「あの、すみません、遠山博子（とおやま　ひろこ）っていう人をご存じないでしょうか？」
　遠山博子は、私の母の名前である。干物屋のおばさんは、驚いた顔をした。
「博子ちゃんのこと知ってる人？」
　私は、どきどきして言葉を発することができなかった。母親は、ここに住んでいたのだろうか。周太と一緒に来ていて良かったと思った。
　彼も、急展開に驚き、どこまで話せばいいのか悩んだようだが、正直に話すことを選択した。
「彼女は、遠山里穂さん。博子さんの娘さんです」
　干物屋のおばさんは少し考えて言った。
「あんた、博子ちゃんの娘さん？　立派に育ったね。私は従姉妹だよ。ちょっと、お店の中に入って」
　私は、これから何を知ることになるのか、緊張で体が思うように動かなかった。

　おばさんは、奥から冷えた麦茶を運んできた。
「何から話そうかね。博子ちゃんは綺麗だったからもてたんだよ。それで、あんたのお父さんと結婚したんだよね」
「父は、八月に亡くなりました」
「そうだったんだね。博子ちゃんは、男性に人気があってね、悪い奴らが狙って」
　私は、ますます緊張した。
「はい」
「あんまり詳しく話すのはやめとくよ。博子ちゃんを狙ってた男性一人が死んでしまった」
　想像もつかない展開に、私は言葉が出なかった。おばさんは話を続けた。
「正当防衛だったんだよ。その後、博子ちゃんは、あんたのお父さんと結婚して東京に行ったのさ。でも、今度は、その子分たちが、東京まで追いかけてお金をゆすったりしてたらしい」
「それで、母は、家を出たんですね……」
「かわいそうに、子供さんが小さかったし、結婚した先の親戚に迷惑がかかると思ったみたいだね」
　私は、胸がつまった。
「母は、今、ここにいるんですか？」
　おばさんは、首をふった。
「今は違うところにいるよ。でも、元気にしてるから、いつか会えるようにって連絡するよ」
「私、彼と結婚するんです。ぜひ、出席して欲しいと伝えてください」
「まあ、お似合いの二人だこと。うん、伝えておくよ。でも、どうして急にここに来たんだい？」
「二十年前に、母が家を出るときに、悲しくなったら、開けなさいと、箱を渡されて。その箱にこの住所があることを昨日知ったんです」
「そうなんだね。博子ちゃんもあんたが小さかったから本当のことを言えなかったんだね」
「父も隠していましたから」
「そうだね、親戚の年寄りがうるさかったみたいだねぇ、あんたのお父さんも板挟みだったんだよ」
　父が色々苦労したという話は聞いていた。私たちは丁重にお礼を言って干物屋を離れた。

　帰り道、歩きながら、私は、周太の腕に手を回した。
「今日のことは、びっくりしたので、まだ心の整理がつかないけど、実は、みんな色々な事情を抱えていたんだということはわかったわ」
「玉手箱の底を探してみてよかったよ」
「ありがとう。ゆっくりと考えてみる。これからのこと」
「おばさんに僕たちの連絡先を渡したから、そのうちに連絡が来るんじゃないかな」
「お母さんと会うことができたら、周太も一緒にきてね」
「もちろん」
私は、周太の肩に頭をもたれかけた。

　昨夜と変わらぬ満月が、空高く涼しげに輝き、二人の影が長く伸びて並んでいた。

コメント(3)

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[2] mixiユーザー 09月10日 09:05

執筆お疲れさまでした。
みけねこさんの書くお話は、いつも端正というか描写が丁寧で、季節感のあるところが素敵です。「おおっ！」と思ったのは、冒頭の、シーズンを過ぎた海水浴場に、とうもろこしやら割り箸やらが転がっているという一文。
これで、ピークは過ぎたけれど、でも季節外れとまではいかない、微妙な時期の海の切なさがぶわっと再現されました。
お話も、自分を置いていった母の残した玉手箱、それを結婚を機に探っていくという展開に、引き込まれました。先を読みたい！と思わせる話が書けるのって、純粋にすごいことだと思います。

が、すみません、後半のすごい畳み掛けるような急展開に、ちょっとくすりとしてしまいました
みけねこさん、急いでたのかしら……って、ちょっと思いました笑

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