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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第三十九回作品 匿名E 『坂』

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式場から、オルガンの音が聴こえる。友人達はそろそろ集まっている頃だろうか。私は、ホテルの新婦控え室で純白のウェディングドレスに着替え、登場の合図を待っていた。
「準備はいいですか? そろそろですよ」
会場係の女性が、控え室の扉を開け、私に声をかけた。
そのとき、何気なく聴こえていたオルガンの旋律がはっきりと耳に入ってきた。
私は、急に胸が締め付けられるように苦しくなり、胸を押さえて椅子からずり落ちた。
驚いた母親や美容師が駆け寄ってきた。
「大丈夫? 緊張してるのかしら?」
「ドレスをもう少し緩めましょうか」
二人に抱きかかえられて私は椅子に座り直した。
「大丈夫です。少し疲れているだけですから」
私は、ホテルの人から冷たい水をもらうと口に含んだ。
「顔色が悪いわよ。額から汗も出てるし。大丈夫かしら」
母親が心配そうに私の額にハンカチをあてる。
「大丈夫。少し休んだら、おさまるから」
私は、椅子の背に体を預けて大きく息を吸った。



駅から長く続く坂道。彼のアパートは坂の上にあった。
「どうして、こんな坂の上のアパートにしたの? 」
「だって、家賃が安かったんだ、それに、僕の大学、さらに坂道の上だから」
大学のサークルで知り合った彼は、地方から出てきて独り暮らしをしていた。
彼の実家は、裕福だったが、受験の直前に父親を亡くし、仕送りをもらえない状況だった。
私は幼い頃に父親を亡くし、母が一人で育ててくれたので、奨学金をもらって大学に進学した。お互いに、貧乏学生だったので、デートは彼のアパートで過ごすことが多かった。映画も、DVDを借りてきて部屋で観れば充分楽しめる。
贅沢なことができなくても、二人でいれば幸せだった。

しかし、この坂道だけは、いつも私を困らせた。二人で上がっていても、いつも私は彼に追い付けず、途中で座り込んでしまうのだ。
ちょうど坂道の中間地点に自動販売機があり、私達は飲み物を買って小休止してから残りの坂道を上がっていくことが多かった。
自動販売機の向かいにある家からは、よくピアノの音が聴こえてきた。最初は、たどたどしくて曲名が分からなかったが、だんだん上達していくのが、音楽に疎い私にも分かった。

「これは、バッハの『主よ人の望みの喜びよ』だな」
幼い頃、ピアノを習っていたという彼が教えてくれた。神経質そうな細い指が、宙を動く。
「先月より、かなり上達してるね。心が洗われるような曲ね」
「この曲、お気に入りなのかな。もう、半年くらい練習しているね 」
「私、この曲、好きだな」
「もともと、教会で礼拝の時に歌う曲らしいよ」
その頃の私達は、何をしても楽しかった。

彼とは同級生で、入学以来の付き合いだったが、三年生になると就職活動が始まり、二人で会える時間は少なくなっていた。
それでも、週に一度は彼のアパートに遊びに行き、お互いの将来について話し合っていた、はずだった。少なくとも私はそう思っていた。

私がある企業の内定が決まった日、
「僕、大学やめるわ」
彼は、いらいらした様子で唐突に言った。
「辞めてどうするの? 」
私は、驚いた。
「劇団に入って、俳優になりたい」
どうやら、脚本を書くバイトをしているうちに、演劇の道に進みたくなったとのことだった。
「あなたが選んだ道だから良いけど……。大学を辞めなくてもいいんじゃない? 」
「いや、大学に行く意味はなくなってしまったから。実は、単位も足りなくて、卒業も無理なんだ」
彼はうつむいた。哀愁のこもった表情が美しかった。彼なら、俳優になれるに違いないと確信した。
「あなたが、本気で俳優を目指すなら応援する。私、就職先が決まったから、少し援助だってできる」
今から考えると、私は就職先が決まった喜びで傲慢になっていたのかも知れない。
「就職、おめでとう。僕も頑張るから応援して欲しい」
私達は、ワインを買ってきて乾杯した。
坂の上の安アパートの窓から見える夜の街の灯りも二人を祝福していた。

私は就職し、彼は大学を辞め、飲食店のバイトをしながら毎日、劇団に通っていた。そのままアパートに住み続けたので、週末は、私が彼の部屋で過ごすというパターンが定着した。
貧乏で大変だろうと、私は彼に食事をご馳走したり、食材を買ってアパートでご飯を作ってあげたりした。
「こんな美味しい夕飯を食べたのは、一週間ぶりだよ。ありがとう。君のおかげで僕は頑張れる」
そして、彼は切れ長の目で私を見つめて言った。
「ちょっと、お願いがあるんだ。少しお金を貸してもらいたいんだ」
「どれくらい? 」
私は息を飲んだ。
「十万円。駄目かな? 実は、劇団のチケットを配らないといけないんだけど、なかなか買ってもらえなくて、立て替えないといけないんだ」
「チケットなら、私が買ってあげるけど、そんな立て替えないといけないなんて、大変ね」
「ほんと、俳優になるのは、大変だよ。でも、僕が有名になったら、恩返しするから。君がいなかったら僕は生きていけないよ」
彼は、細い腕で私を強く抱きしめた。
「わかった、来週、十万円持ってくる。だから、頑張って」
私は、彼の頭をゆっくりと撫でながら、この人のためなら何でもしようと決意していた。

その週の平日のことだった。朝から頭痛がして、私は会社を休んでしまった。
平日の朝の光を浴びて、布団の中で過ごすのは幸せだった。ふと、お金に困っている彼の細い体を思い出した。

彼は、大丈夫だろうか。ちゃんと、ご飯を食べているだろうか。そうだ、これからご飯を作りに行き、チケット代もついでに渡せばいい。
頭痛もいつの間にか消え、私はアパートに向かった。
飲食店のバイトは夜だから、まだ寝ているはずだ。私は彼を起こしてはいけないと思い、メールで知らせることもしなかった。

相変わらず、この坂道は、私を困らせる。
途中の自動販売機の場所で温かい缶コーヒーを買って一息ついていると、聞きなれた声がした。
「もう、あんなバイトやってられないよな。店長、きついし、立ちっぱなしだし」
「でも、生活費とかどうするの?」
「まあ、色々、出してくれる人がいるんだ、だから君は気にしないで」

自転車を押しながら、女の子と笑いながら坂道を下ってきたのは彼だった。

「あれ、今日、会社じゃなかったの?」
彼の整った顔が私を発見した瞬間に歪んだ。
「どういうこと? 」
驚いた私の手から、缶コーヒーが滑り落ちた。
「いや、これから劇団に……」
彼は、私を避けるように自転車の向きを変えた。そのとき、彼の右足が、缶コーヒーを踏み、バランスを崩した彼は自転車と一緒に転倒してしまった。
ここは、一番坂道の傾斜が厳しいところである。
彼の体は回転しながら坂道を転がり、電信柱で強く頭を打った。彼は、気を失い、そのまま坂の一番下まで落ちてしまった。女の子は、叫びながら彼を追っていた。そして、彼の体がようやく止まったところに、合流する道から乗用車が直進してきた。
惨事は、彼のそばに駆け寄ろうとした彼女の目の前で起こった。
私はといえば、自分の手から離れた缶コーヒーの行方と、彼の姿を交互に目で追うことが精一杯で、体がすくんで動くことができなかった。


警察の現場検証にも立ち会い、私は、彼の死亡事故には何も関係がないことが証明された。
乗用車の運転手も、走行速度を守って走っていたら、突然目の前に人が倒れてきて、ブレーキを踏んだが間に合わなかったということだった。
彼が転倒する原因となった缶コーヒーは、まだ開けられていなかったため、踏まれてもそれほど凹むことなく、坂道の下に転がり落ちたあと、どこかに消えて見えなくなっていた。女の子も、自転車を挟んで彼と歩いていて、缶コーヒーの存在に気付いていなかったようだ。これで、彼の事故の原因となった物的証拠はなくなったのである。私は、運が良かったと胸を撫で下ろした。

彼と一緒にいた女の子は、劇団に所属していて、劇団では公認の仲だったらしい。そして彼女は、事故のショックのあまり、記憶を失ってしまった。

私もまた、彼を失ったことで、生きる希望をなくしていた。彼が転がり落ちる姿が目に焼き付いてしまい、何度も悪夢にうなされた。
そして、友人からは恋人を亡くした可哀想な人として扱われることに疲れ、会社も辞めた。その街を離れ、誰も知り合いのいない街に引っ越した。
私は、新しい人生を歩むことに決めたのだ。

そして、五年の月日がたち、今日、私は夫となる人と新しく人生をスタートさせようとしている。
穏やかに、静かに、幸せな日々を送りたい。


オルガンの奏でる『主よ人の望みの喜びよ』の旋律は、私に右手の温もりと恐怖を思い出させた。けれども、なぜ缶コーヒーを落としてしまったのか、その状況は、未だにはっきり覚えていない。
確実なのは、あのとき、彼は私を裏切っていたということである。私は、そんな彼から離れて幸せになってもいいはずだ。


『主よ人の望みの喜びよ』の演奏が終わり、次の曲に変わった。
「もう、大丈夫です」
額の汗を拭い、私は椅子から立ち上がった。

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