半蔵門かきもの倶楽部コミュの第36回作品匿名G 『明日も陽はのぼる』

「もう、そろそろ高校生が帰って来るころだ」
山下美沙子（やましたみさこ）は壁にかかっている時計を見た。
午後五時を過ぎると、地元の高校生達が店の前を自転車で走り抜ける。
この時間が、美沙子にとっては一番辛い時だった。
カウンターの中に座る夫の山下陽二（やましたようじ）は苦い顔をして新聞を読んでいる。
店の中には客はなく、有線のクラシックの旋律が無表情に流れている。
木目調の店内は、それなりに落ち着いた雰囲気があり、陽二のこだわりの珈琲には定評があった。

夫婦で、喫茶店「珈琲館」を始めたのは、昨年の夏だった。
陽二は、都内に勤務するサラリーマンだったが、ある出来事をきっかけに会社を辞めることとなり、地元で家業を継ぐ弟の山下勇二（やましたゆうじ）の事務所の隣に喫茶店を作り、夫婦で働いている。勇二は内装業を経営している。陽二とは仲が良く、会社を辞めて困っている夫婦のためにお店を営むことを提案してくれたのだ。

入り口のドアが開き、近所の高校に通う志村友里恵（しむらゆりえ）が入ってきた。ブレザーの制服にチェックのマフラーがよく似合う。
色白の頬を真っ赤にしてカウンター席に座った。

「友里恵ちゃん、どうしたの？目が真っ赤よ」
美沙子は、母親のような温かい声で話しかけた。
「今日も夕飯食べていくわよね。何にしようかしら」
友里恵は、答えない。制服の肩が小刻みに震えている。
「そっとしておいてやろうよ」
陽二が美沙子に呟いた。友里恵の手元に温かいミルクティーが置かれた。

友里恵は、この小さな町の商店街を通り抜けてすぐの家に住む高校生だった。幼い頃に母親を亡くし、父親と二人で暮らしている。友里恵の父親が山下勇二と親しいため、陽二が珈琲館を始めてからは、勇二の紹介で友里恵は、自分の家のようにこの店に通って来るようになった。
美沙子を母親のように慕い、進路の相談をしたり、夕飯を食べて帰ったりと、この店は、友里恵の第二の家のような存在になっている。

また、陽二、美沙子夫婦にとっても、友里恵の存在が自分達の心を満たしてくれるものとなっていたのだった。

一昨年の夏のことだった。陽二は、突然盲腸で入院することとなった。子どものような病気だね、と美沙子や一人娘の梨花（りか）は笑ったけれど、陽二にとっては、生まれて初めて経験する激痛だった。
命には別状がないと医者にも言われ、簡単な手術をし、麻酔から覚めた時、美沙子の顔は蒼白だった。美沙子は、夫に話すか話すまいかかなり迷ったのちに、ぽつりと
「梨花が……死んでしまった」と言った。
その日、高校一年生の梨花は、陽二の手術の無事を祈るため、家から少し離れた神社に自転車で向かっていたらしい。途中、交差点でトラックと衝突をして意識不明になり、救急車で病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となったのだという。

夫婦の悲しみは周りの者がどう慰めようと、解き放たれることはなかった。陽二は、会社に行く気力がなくなり、上司に引き留められながらも、自分から会社を辞めてしまった。
しばらくは、貯金で生きていけるだろうが、この先、夫婦二人で生きていくことも考えなければと、弟の勇二が夫婦に地元に帰って来ることを提案し、内装業の事務所の隣の空き地を提供してくれたのだ。
そして、「駐車場にしていたけど、ここは場所もいいから二人でお店を出すといいんじゃないの？私も時々手伝うし」と提案したのは、勇二の妻だった。
夫婦二人の心の傷はそう簡単に癒えることはないだろうが、自分達家族がそばにいれば、安心だろうという勇二たち夫婦の配慮からだった。

午後五時過ぎに店の前を自転車に乗る高校生が通ると、二人は梨花を思い出し、引きちぎられるような胸の痛みを覚える。けれども、常に勇二は
「お兄ちゃん、逃げないであえて見るんだよ。辛いけど、必ず時間が解決してくれるんだ。いつかこれが日常の風景だと思えるようになるからね」といつも言ってくれていた。

たしかに、勇二の紹介で、毎日のように自転車に乗ってお店にやってくる友里恵を見ていると、自転車の音が少しずつ楽しみに変わってきていることを感じる。友里恵は、陽二と美沙子を必要としてくれているのだ。そして、この夫婦も友里恵を必要としている。

どれだけの時間がたったのだろうか。時計を見ると、5時30分になっていた。
友里恵は、冷めたミルクティーを口に運んだ。

「友里恵ちゃん、紅茶、熱いの入れ直すよ」
陽二が言った。
その声を聞くと、友里恵は、カウンターテーブルに突っ伏して大きな声で嗚咽した。

「おばさん、聞いて。付き合ってた山田くん、好きな人ができたって……」
「彼がそう言ったの？」
「うん。それも、私と同じクラスの子なんだよ。二人が同じディズニーランドのマスコットを鞄につけていて、なんかおかしいなと思ってたんだ」
「ひどいね」
「何も同じクラスの子と付き合わなくても……」
友里恵は、声を震わせた。
美沙子は、友里恵の隣で肩を抱きながら、一緒に涙を流していた。
「もう、死んじゃいたい」振り絞るような声で友里恵が言ったとき、美沙子ははっと我に帰った。
「駄目よ。生きてさえいれば、また必ず幸せなことがやってくるから。生きてさえいれば、何でも可能なのよ」

「友里恵ちゃん、お腹すいただろう、何か食べるかい？」
急に、陽二が場違いなほど明るい声で言った。
「じゃ、おじさんのナポリタン」
「よし、じゃ、大盛りで作ってあげるよ」
「山田くんのことは、しばらく辛いだろうけど、時間が解決するからね。そんな男なんてこっちから振ってしまえ」
美沙子は友里恵の肩を撫でた。
どんな傷でも、そう簡単に癒えることはない。でも、時間がたてば、必ず痛みは減ってくる。
これは、夫婦二人が実感していることだった。
友里恵ちゃんは、若い。まだ時間がたっぷりあるのだから。

友里恵の目の前に、大盛りのナポリタンが置かれた。
「こんなに食べられないよ」と言いながら、友里恵は乱暴にタバスコをかけた。
「怒りに任せてたら、タバスコかけすぎちゃったみたい」
彼女は、お店に来てから初めて笑顔を見せた。
「あら、大丈夫？」
美沙子の心配をよそに友里恵は、フォークでナポリタンを巻いて口に入れた。
「わ、辛い！」
友里恵は、大量の涙を流していた。
その涙は失恋のせいなのか、タバスコのせいなのか、もはや区別がつかなくなっていたが、今の友里恵にとっては、もうどうでもいいことであった。