半蔵門かきもの倶楽部コミュの第35回作品匿名A 『Alice』

他人から「お仕事は？」と聞かれて、『家主』と答えると、相手は、不思議なものを見るような顔をするので、このところは、『英語の先生』と答えることにしている。
といっても、学校の教師でも、予備校の講師でもない、ただの家庭教師だ。
しかも、知り合いの中学生の娘の英語を見てくれと頼まれて、この数カ月毎日その子の家に通っているというだけだった。
知り合いというのは、俺と半年前に、１度だけセックスをしたことのある理香という女だった。
理香とはSNSで知り合い、何度かLINEのメッセージをやり取りし、リアルに会ったその日に身体の関係を持ったのだった。不思議なのは、その直後から連絡が取れなくなり、半年ぶりにむこうからメールが来たかと思えば『今、ニューヨークに住んでいて、今度、娘が中学を卒業するので、呼び寄せたい。ついては、それまでの間、英語をなるべくできるようにして欲しい』という。
勝手な話だと思ったが、理香の娘というのを見てみたい興味があった。
中学生なら、俺の英語力でも、どうにかなるだろう。それに、時間だけはあったので、引き受けることにしたのだった。

半年前の理香との１度だけの出会いは、思い出すと本当に不思議な体験だった。
今言ったように、理香とはSNSで知り合って、画像の交換もしていなかったが、急に理香からリアルに一度会いたいと言われたのだった。
こんな知り合い方では、待ち合わせ場所に本当に来るのかどうかも半々だと思って期待せずに出かけたのだが、待ち合わせの目黒のスタバで理香をみたときその美しさに圧倒された。何かの間違いではないかと思ったほどだった。予定していた庭園美術館へ向かって歩道を歩きながら、周りの男たちの視線が理香に向けられるのを感じた。
庭園美術館の階段を下りる彼女はこの屋敷にふさわしい気品を漂わせているように見えた。上品というのはこの女のためにあると感じた。
美術館を出た後、当初は目黒駅前で焼肉を考えていたが、予定を変え目黒と反対方向の白金に歩きフレンチのレストランにした。テーブルについてからも、俺は緊張していた。いつもなら、砕けた話で女を笑わせるが、この日は彼女の気品に気圧されて、柄でもなく西洋美術の話しかしなかった。
食事したあとの歩道で「君の都合のいいところまで送るよ」と言ったら、「じゃ、高輪台あたりまで」と言われ、俺はタクシーを捕まえて一緒に乗った。

一緒に横並びに座った車の後部座席で、車が走り出すと、まっすぐ前を見ながら理香は迷うことなく俺の膝に手を伸ばしてきた。
それまで彼女とは50センチの間隔をあけて歩き、手もつないでいなかったのだが。
膝に手を置かれた俺はたぶん鳩が豆鉄砲をくらったような間抜けな顔をしたと思うが、それでも、彼女の手に俺の手を重ね、もう片方の手で、彼女の膝がしらあたりを遠慮がちにふれた。
すると、彼女は姿勢を崩さずに、
「運転手さん。品川プリンスホテルまで」
と可愛い声で運転手に指示をしたではないか。

そのときはまだ部屋に入るとは夢にも思っていなかった。たんに、
『食事だけで帰ろうとした俺が間違っていた。ホテルのバーでデートを締めくくるのは当然だ』
と思っただけだったが。
しかし、俺が口を開く前に、理香が身体を寄せてきた。
そして、何と、太ももに触れていた細い指をゆっくりと俺の股間に移動させてきたのだった。

ホテルの部屋に入ったとたんに、理香は俺にしがみつき、合わせた唇を通して、ぬるりと舌を送り込んできたのだった。
理香とのセックスは執拗で相当に変態じみていて俺の嗜好に合っていた。理香は好色そのもので俺が仕掛けるどんな行為も拒まずに予想を超えた反応を示した。彼女の上品な容姿と彼女の底なしの淫乱ぶりの対比は俺を魅了した。

理香と会ったのはそのときの１度だけだった。その日以降にLINEを送っても、いつまでたっても未読のままで、どうやら俺はブロックされたらしかった。
俺の何かが彼女の気に入って、あるいはたまたま理香の気分が昂じたときに俺が誘われ、俺的にはとても相性がいいように思えたが、俺の何かが彼女の気に障って、あるいはたまたま彼女の気分が変わってしまい、俺を捨てたということだろう。いや、捨てたというにもあたらないのかもしれない。最初から１回だけする相手を求め、俺が偶然にそれに引っかかったと言うだけなのかもしれない。
と、俺は思い、いつしか、理香のことを忘れていた。

そして、半年たって、急に理香からのメールがきて、俺は、理香の娘の家庭教師になった。
はじめて高輪にある理香の家に行ったとき、とてつもない金持ちだということを知った。
髭の軍人のトレードマークで知られた京都の旧い薬屋の創業者で、特許法の規制に守られて、いくつかの独自のヒット商品を独占的に作っていた。
理香の娘は有栖（ありす）と言った。１４歳の肌の白い天使のように可憐な美しい少女だった。
有栖のほかには、理香の母親の老婦人と、家政婦、運転手がいた。
どうも、この家庭は、女系らしかった。理香の母親は相続した会社と不動産を自ら管理運用し、夫とは死別したという話だった。理香の夫は婿養子で、有栖が生まれてすぐに彼も死んだという。理香は母親の持っている会社の仕事で米国にいるらしかった。
はじめての授業をするときに学習机に向かい座った有栖の斜め後ろに俺が座ると、少女らしい甘酸っぱい匂いがした。うなじは透き通って青い血管が見えた。
有栖は中学生らしい子供らしさを示したかと思えば、急に女の色気を感じさせることもあった。胸の膨らみは控えめだったが、女を意識させるしぐさを見せることがあった。
その日の有栖はいつにもまして色っぽく感じた。
俺が有栖のノートを覗きこんでいるときに、彼女の身体が俺の足に触れた。
偶然に間違って触れたのならば身体を離すだろうと思いながら、この少女に触れていたい誘惑に駆られて、俺は足を引くことをあえてしないでおいてみた。
すると、いつまでも有栖も身体を引かずにいる。
それどころか、次第に身体を俺に持たせかからせるように密着してきたように思えた。
俺は、母親の理香との半年前のタクシーの中でのこと思い出さないわけにはいかなかった。
有栖も理香の娘だけあって俺の何かに魅力を感じてくれているのだろうか。
急に有栖が、聞いてきた。声が若干うわずっているように感じられた。
「先生、バスルーム行ってきていい？」
俺が
「うん」
と答えると有栖は意味ありげな微笑を残して部屋を出た。
この子にとってはバスルームという言葉は普通なのか。トイレに行くことをバスルームに行くというのだろうか。
しばらく待ったが、有栖は帰ってこなかった。あるいは本当にバスに漬かっているのだろうか。
俺は所在なく有栖の部屋を見回した。
有栖のベッドの枕の下から１冊の本がページを開いて読みかけてあった。
ちらっとみた開いたページには

『大きすぎて入らない』

『私を飲んで』

などの文字が見えた。
ポルノ小説のようだ。有栖はこのベッドでこのポルノ小説を読みながら、何をしていたのだろう。
思えばこのくらいの年頃が、いちばん『性』に関心を持っているのかも知れない。

そのとき、有栖が部屋に戻ってきた。
彼女は俺の視線の先に、自分の開きっぱなしにした本の頁があるのを知って、頬を赤らめた。
「先生、見ちゃった？」
「……」
どう答えていいものか迷っていると
「恥ずかしいな。小さいときから、これがないと眠れないの」
「そ、そうなんだ」
「この本のお話知ってる？」
「知らないと思うよ」
「教えてあげるね」
「え？　ちょっと、待って」
彼女は、俺が止めるのも意に介さずベッドに近づき、枕の下に半分隠れた薄手の本を持ってきた。
「ここが好きなの。アリスが、ウサギ穴に落ち、着いた場所は、広間になっていたの。そこで金の鍵とアリスでは『大きすぎて入らない』小さな扉を見つけたの。その傍には不思議な小瓶があって、そこには
『私を飲んで』って……」

おしまい