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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第26回 ハルト作 『ギミアブレイク』

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 朝、会社に行こうとして家を出たら、ドアの前に小さな女の子が立っていた。
「あれ?」
 どこの子供だろう。 見掛けない子だ。
 と言っても、この辺りは単身者用のマンションが多く、子供自体をあまり見掛けないのだが。
「どこから来たの? お母さんは?」
 女の子はじっと私の顔を見詰めるばかりで何も言わない。 手には封筒らしき物を持っている。 
 もしかしたら訪ねる家を間違えたのかと思い、手掛かりになりそうなその封筒を見ようと屈んだ時、女の子が唐突に声を発した。
「一緒にママを探して」
「へ?」
 私は一瞬何を言われたのか理解できず、間抜けな声で聞き返してしまった。 女の子は私の目をまっすぐ見て「一緒にママを探して」ともう一度言った。
「探してって、どこではぐれちゃったの? この近く?」
 女の子は首を横に振った。
「病院で、ママがいなくなった」
 そう言ってあらぬ方向を指差す。 病院と言われても、どこにある病院なのか。
まったく要領を得ない話し方に、私はうっすらと危機感を覚えた。 
「一緒にお巡りさんの所に行こう。 そしたらママを探してもらえるよ」
 腕時計を見るといつもの電車に乗る時間を過ぎている。 
 このままでは到底自分の手には負えないと思い、とりあえず交番まで連れて行こうとした。 ただでさえ忙しい朝の時間帯に、見ず知らずの子供の相手をしている暇はなかった。
 私が女の子の手を引こうとすると、彼女は一歩後ずさった。 そしてまた首を横に振った。
「お巡りさんは駄目。 お…姉さんが一緒に探して」
 おばさん、と言い掛けて止めたのを、私は聞き逃さなかった。 彼女は、私の機嫌を損ねて自分の立場が悪くなるのを、本能的に避けたらしい。
「お姉さん、お仕事に行かなきゃいけないの。 時間がないから、ほら、行こう」
 強引に引っ張るのは嫌だったけれど、仕方なくもう一度手を引こうとした。 すると彼女は持っていた封筒を、私の手にそっと握らせた。
「なに?」
「お姉さんの会社の偉い人から」
 訳が分からなかった。 何故こんな子供が、私の上司からの手紙なんて持っているのだ。
 封筒は真っ白で、表にも裏にも、何も書いていない。
「開けて良いの?」
 女の子はゆっくりと頷いた。 
 封筒はきっちりと隙なく糊付けされていて、苛立った私は乱暴に封を破いた。 それを見ていた女の子が「ああ」という顔をしたが、構わずに大きく破いて開封する。
 封筒から出てきたのは、ペラペラの一筆箋が一枚。 そこには「詳しい話は電話で」と、一言だけ書かれていた。 差出人は「山瀬」となっている。 入社当時から一番世話になっている上司だった。
 雑に封を破いてしまったせいか、一筆箋の下の方は切れてしまっていた。 私は仕方なしに携帯電話を取り出し、会社の番号を呼び出した。
 始業時間にはまだ少し早いので出勤している人がいるかどうか分からなかったが、電話はワンコールで繋がった。
「商品開発部の笹崎ですが、山瀬部長をお願いします」
「山瀬…でしょうか?」
「はい」
 電話の向こうの女性は怪訝そうに聞き直した。 新人なのだろうか、部長クラスの名前もすぐ分からないなんて。 
「少々お待ちください」
 女性は歯切れの悪く言うと、保留も押さずそのまま電話の向こうの誰かと話し出した。
(山瀬部長って、いたかしら?)
(山瀬? 聞いたことないな)
(ああ、あの人の事よ。 何年か前に…)
 そこで会話はプツリと途切れ、思い出した様に保留音が流れて来た。
 取引先からも掛かって来る代表電話だって言うのに、保留も押さないでしゃべるなんて。 総務に言って注意しといてもらわないと。
 対応の悪さに閉口していると、またプツリと保留音が途切れ、先程の女性の声が出てきた。
「山瀬ですが、……しましたので、折り返し……するとのことです…」
 急に電波状況が悪くなり、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「あの、ちょっと!」
 向こうも良く聞こえないのか、聞き返す暇もなくブツッと回線が切れてしまった。 通話終了となっている画面を見て溜息を吐く。
 掛け直そうかと思ったが、「折り返し」という言葉は聞き取れたので、そのまま待っていることにした。
「お姉さん」
 いつまでも携帯の画面を見ている私の袖を、女の子が不安そうに引っ張った。
 折り返しの電話を待つより、やはり交番に送り届けた方が早そうだと思い直した時、携帯電話が鳴り出した。
「山瀬だが」
「ああ、部長、朝早くからすみません」
「いや、大丈夫だ。 それより、子供には会えたかね」
「は?」
 話がまったく見えなかった。 それを言うなら、押し掛けてきた、の間違いではないか。
「実はその子な、まあウチの親戚の子供なんだけど、ちょっと色々事情があって」
 山瀬は私の戸惑った様子など気にも掛けず、どんどんと話を進めて行った。 私は話を整理して理解するのに四苦八苦した。
「ウチで面倒を見てたんだが、家内が入院してしまってね」
「奥様が? どこかお悪いんですか?」
「いや、大した事はないんだ。 その子の遊び相手をしていたら、ぎっくり腰になってしまって」
「はぁ」
「で、悪いんだけど、今日だけ預かってくれないかね」
「ええ?」
 兄弟もいない私は、子供の世話なんてしたことがない。 どちらかというと苦手な方なのだ。
「そんな、何かあったら責任取れません」
「大丈夫だって。 なんでも一通りは出来る子だから」
「そういう問題じゃありませんって。 それに、何故か母親を探せって言ってるんです」
「ああ、うん、そう」
 山瀬は曖昧な返事をした。 何か事情を知っているらしいが、話すと都合が悪くなる事がある様だ。
「まあ、お遊びだと思って付き合ってやってよ。 ほら、君は有休も取ってないだろう」
「それは、そうですが…」
「会社にはもう届けておいたからさ、1週間休んで良いよ」
「ちょっと、そんな勝手な事…」
「何かあったら電話して。 じゃ」
 山瀬は一方的に電話を切ってしまった。 慌てて掛け直すが、もう既に繋がらなかった。 直接留守番電話サービスに切り替わってしまい、私は苦し紛れに「ふざけんなー!」と怒鳴り声を録音した。
 その様子を女の子は不思議そうにじっと眺めていた。 
 封筒を持っていた小さな手は寒さで赤くなっている。 それを見たらどうしようもなく不憫に思えて、まずは女の子を自分の部屋に入れてから考える事にした。
「とりあえず、中に入って。 それから作戦会議よ」
 そう言うと女の子は嬉しそうに頷いて、私がカギを開けるとすぐに部屋に入って行った。
 閉めたままのカーテンを開け、エアコンとコタツのスイッチを入れる。 朝出かける前はコタツを使わないので、中は冷え切っていた。
 子供に珈琲は飲めないか、と思い、賞味期限ギリギリの貰い物の紅茶を淹れた。
「お腹は空いてない?」
 聞いてはみたものの、今冷蔵庫に碌なものが入っていないのに気が付いた。 女の子は紅茶のカップを持ったまま「空いてない」と答えた。
 女の子からどれだけの話が聞き出せるか分からなかったが、今の状況を早急に収めるにはやってみるしかない。
「山瀬さんの家に来たのはいつ頃?」
「山瀬さん…?」
「この手紙をくれたおじさん」
「えっと、夏休みの時から」
「それまでは、ママと一緒だったの?」
「うん」
「ママ、病気か何かだったの?」
「多分…」
 何となく状況が見えてきた。 具合の悪い母親に代わって、山瀬夫婦がこの子の面倒を見ていた様だ。 
「じゃあ、病院に行ったらママに会えるんだ」
 なんだ、簡単な話じゃないかと思ってそう尋ねたら、女の子はまた首を横に振った。
「ママ、もう病院にいない」
「え、どうして?」
「分からない。 でもどこかへ行っちゃったみたい」
 子供を預けたまま失踪してしまったという事だろうか。 山瀬も事情を話したがらなかったのはこのせいか。
「そう、寂しいね」
「ママを一緒に探して」
「うーん」
 諦める様子のない女の子に、私は頭を抱えて唸った。 
 母親をきちんと探すべきなのか、それとも遊びとしてこの子に付き合えば良いのか、判断が付かなかった。 肝心な山瀬は電話が繋がらないし、「ちょっと事情があって」と言われただけでは判断の仕様もない。
 ただ、山瀬には世話になっていた。 仕事を一から教えてくれた事もそうだし、自宅に呼ばれ食事をしたりと家族ぐるみの付き合いだった。 両親を亡くして一人だった私を、何かと気遣ってくれた奥さんが入院中ともなれば、山瀬の頼み事を無下に断る訳にもいかない。
 それに、一人寒空の中放り出され、他人の家で健気に熱い紅茶を啜っている女の子を見ていると、どうも可哀想に思えてしまった。 
「わかった」
 私は断続的に山瀬に連絡を取りながら、電話が繋がるまで彼女に付き合うことにした。
「ママを探してみよう。 でも、お姉さんはママを知らないから、見付けられるかは分からないよ」
「うん」
 彼女は神妙な顔で頷いた。 
「お姉さんの名前は、ユリカ。 あなたの名前は?」
「ヒワ」
「ひわ?」
「緋色の緋に、羽根、で、ひわ」
「緋羽ちゃんか、なんか鳥の名前と一緒ね」
 緋羽はそれを聞いて、なんとも複雑そうな表情になった。 名前をからかったと思われただろうか。 私は慌てて「あ、ごめんね」と謝った。
「ううん。 お姉さんも同じね。 ユリカモメ、のユリカ」
「えっ。 ああ、そうね」
 言われて初めて気付いた。 私の名前は柚里香と書くので、鳥とは関係がないのだが、子供の着眼点は斬新だなと感心した。
「ねぇ、何かママのヒントはないの? 目が大きいとか、髪が長いとか」
「ママは鳥が好きだった」
「いや、そういう事じゃなくて、もっとこう見た目とかのね」
「公園に行ったら、ママに会えるかも知れない」
 緋羽は私の話も聞かず、急に望遠鏡とバードカウンターを手にして家を出て行こうとした。
「ちょっと待って!」
 否応なしに監督責任を負ってしまった私は、無防備に家を出ようとする緋羽を必死に押し留めた。
「行くのは良いけど、寒いからちゃんとコートを着て。 それと、お姉さん着替えるから少し待って」
 私は通勤着のスーツを脱いで、適当なセーターとジーンズに着替えた。 
 スーツを脱ぐ時、休暇の事を会社にちゃんと連絡していなかったと思い出したが、山瀬が上手くやってくれたのだろうと楽観視して連絡はしなかった。
 私が着替えている間に、緋羽はコートを着て、自分のリュックに望遠鏡を押し込んでいた。 物が当たるとカチカチと動いてしまうバードカウンターは手で持つことにしたらしい。
「じゃあ、行こうか」
 家の鍵と携帯電話、財布をポケットに入れて、外に出る。
「緋羽ちゃん、お姉さんとはぐれないように、ちゃんと手を繋いでね」
 緋羽は素直に私の手を握った。 私もその小さな手を握り返して、マンションのエレベーターに乗った。
 家から近い公園はそこそこ広く、ボート遊びが出来る池や、簡単なアスレチックなども置いてある。 山瀬の家からも近いので、もしかしたら緋羽を連れて遊びに来ていたのかも知れない。
 その証拠に緋羽は私の手を握ったまま、迷いなく公園の奥へと入って行った。
 彼女なりの観察スポットがあるらしく、池の近くまで来ると、小高くなった場所に置いてあるベンチへ向かって行く。
 ベンチに座るとリュックから望遠鏡を取り出し、慣れた手付きでカウンターを構えた。 その姿は大人顔負けで、私はおかしくなった。
「緋羽ちゃん、鳥を探すの? ママを探すの?」
「両方とも」
 すっかり野鳥の会のメンバーになった様な出で立ちだったが、彼女の小さな片手で望遠鏡を構えるのは見るからに重そうだ。 私は「三脚も持って来れば良かったな」と少し後悔した。
 この場所は木の陰になっていて日が当たらないので結構寒い。 私はチラチラと緋羽を観察しながら寒さ凌ぎに辺りを歩き回り、時々携帯電話を取り出しては山瀬に連絡した。
 何度か試しても電話はまったく繋がらなかった。
 奥さんのお見舞いに行って、電源を落としているのだろうか。 毎回暴言を録音するのは憚られたので、せめてもの意趣返しにと無言のメッセージを残した。
 緋羽が持っているカウンターが50を数えた頃、私は空腹と寒さに限界を感じて彼女に提案をした。
「ちょっと早いけど、お昼ご飯にしない?」
 緋羽は赤くなった鼻を鳴らして、少し不満そうにした。 それでもこの寒さは堪えたのか、望遠鏡をリュックに入れて立ち上がった。
 手を繋ぎ、池の畔を歩きながら「何が食べたい?」と聞いてみた。 緋羽は「あそこの喫茶店が良い」と木々の向こうを指す。 そこはレトロ仕様の喫茶店だった。 全国にチェーン展開しているらしく、いつのまにかこの公園の近くにも出来ていた。
「じゃあ、そこにしようか」
 歩いて2、3分と近い事もあって、私はそれに賛成した。 
 家から来た時とは別の出入り口から公園の外へ出ると、その喫茶店はもう目の前だった。 平日の昼間だけあって、席が空くのを待っている人はいなかったが、8割ほどは埋まっている。 4人掛けの広い席に通されると、居心地の良さに思わず寝転がってしまいたくなった。
 緋羽は早速メニューを開いて、熱心に吟味している。 私はとりあえず温かい珈琲を選び、緋羽は冷たいソーダ水を選んだ。
「冷たいので大丈夫? お腹壊しちゃうわよ」
「大丈夫」
 緋羽は譲らなかった。 
 メニューを見るとどれも量が多い。 なのでサンドイッチ一つと、フライドチキンを分け合って食べる事にした。
 注文を終えてしまうと、やる事がなくなった。 手持無沙汰だったので、先に持ってきてもらった珈琲を飲みながら、緋羽に母親の事を聞いてみる。
「ママ、見つからなかった?」
「うん」
「どこに行っちゃったんだろうね」
「分かんない」
「山瀬のおじさんは何て言ってた?」
 緋羽は軽く首を傾げて、記憶を探っている様だった。 
「ママもどこかで迷子になってるんだろうって」
「ママも迷子?」
「多分、心が迷子なんだって」
 私はそれを聞いて「なるほど」と思った。 山瀬はきっと緋羽の母親の居場所を知っているのだろう。 だが、幼い緋羽に本当の事を言うのは酷だと判断したのか、噛み砕いた言葉で言い含めたのかも知れない。
「じゃあ、パパはどこにいるか分かる?」
 当たり前の事を聞くのを忘れていた。 母親がいるなら、当然父親だっているはずだった。
「パパは最初からいないよ」
 そう言われて、ああいけないと思った。 予想していたよりも遥かに、緋羽の家庭事情は複雑なのかも知れない。 後で山瀬を問い詰めれば分かるだろうから、これ以上彼女に聞くのは止めておこう。
 そこに注文した食事が運ばれてきて、緋羽は特に遠慮することもなくフォークを持ってフライドチキンを食べ始めた。 思い詰めた表情はなく、意外にもけろりとしていた。
 フライドチキンは揚げたてで、二人でハフハフしながら食べた。 サンドイッチには沢山具が挟んであり、それを落とさない様に食べるのは至難の業だった。
 緋羽は割と上手にそれを食べながら、一つ余ったフライドチキンを見詰めていた。 私は食べたいのだろうと思い、「良いよ、食べて」と言ったら、急に手を挙げて「じゃんけん!」と言い出した。 
「最初はぐー!」
 唐突に始まったじゃんけんに気後れしながら、私は微妙に後出しして負けてあげた。
「勝った」
 緋羽は嬉しそうに言い、そしてすぐに遠慮がちに「いい?」と聞いてきた。 その様子が面白くて、私は笑いながら「いいよ、もちろん」と答えた。
 彼女は小さい体ながら沢山食べた。 これならきっと、身長も伸びてすぐに大きくなるだろう。
 食事を終え、珈琲のお代わりを貰うと、なんだかもう外へ出るのが億劫になった。 店内の席はほぼ埋まっているけれど、入れ替わりが激しく、人が並ぶような事はなかった。 この寒空に、外のテラスで珈琲を飲んでいる人もいる。 彼らのほとんどが喫煙者か、犬を連れていた。
「また公園へ行く?」
 山瀬に電話をして、まだ繋がらないのを確認してから緋羽に聞いた。 彼女は首を横に振り「今度は病院に行ってみたい」と言った。
「病院? ママが入院してた所?」
「うん」
「場所、分かるのかな?」
「だいたい…」
「病院の名前は知ってる?」
「きしんかいびょういん」
 私は聞いたままを携帯に入力し、検索を掛けた。  
 季心会病院はすぐヒットし、場所は公園を挟んだ反対側にある事が分かった。
 公園を突っ切れば早いが、緋羽の足だと20分以上は掛かりそうだ。 遠回りにはなるが、バスも出ている。
「緋羽ちゃん、病院まで歩ける? 結構ありそうだけど」
「歩ける。 歩いたことある」
「そっか、じゃあ行こうか」
 私は重い腰を上げて会計を済ませた。 出入り口の前で待っていた緋羽の手を引いて公園まで戻り、さあ歩くぞと意気込んで出た言葉が緋羽とシンクロした。
「腹ごなしだ」
 私たちはびっくりして顔を見合わせ、そして笑った。 繋いだ手を大きく振って、足を高く上げ、行進するように歩いた。 
 朝、彼女の姿を見た時からは想像できない程、穏やかに時は流れて行く。 私は一人で過ごす休日に、すっかり慣れてしまっていた事に改めて気付かされた。
「緋羽ちゃんのお蔭で、お姉さんもお休みがもらえたよ」
 感謝の意味を込めて言ったつもりだったが、笑顔だった緋羽の顔は少しずつ曇り、だんだんと何かを諦めた様な表情に変わっていった。
「ママも、お休みが欲しかったのかな」
 今の緋羽とって、母の失踪を「お休み」という言葉で表現するのは、一種の自己防衛なのだろう。 そうでもしないと、寂しさをやり過ごせなかったのかも知れない。 
「そうかも知れないね。 頑張りすぎちゃったのかな」
 必死に涙を堪えている緋羽に、きっと帰ってくると安易な事は言えなかった。 
 ソーダ水のせいか冷えていた緋羽の手が、歩いたことで温かくなった頃、病院の前にたどり着いた。
 真新しく白い壁の建物は、いかにも病院という感じだった。 出入り口の自動ドアはひっきりなしに開閉していて、院内はかなり混んでいる様子だ。
 人の往来が激しいのを見て怯んだのか、緋羽は「やっぱりいい」と言って私の手を引き、来た道を戻ろうとした。
「え、どうして?」
 客観的に見て、ここなら緋羽の母親に会える可能性が高いだろう。 すでに退院していたとしても、通院はしているかも知れないからだ。 それを見越して歩いてきたと言うのに、緋羽はもう帰るといって聞かなかった。
 何となく腑に落ちなかったが、とりあえず彼女に従い、病院を後にした。 建物の向こうでガンガンと音がしたので振り返って見ると、プレハブの建物が解体されている最中だった。 病院の壁が真新しく見えたのは、改築されたばかりだったせいだ。
 緋羽に手を引かれる形で、また公園の中を歩く。 私の手を一生懸命引っ張る緋羽の背中に、望遠鏡が入ったリュックが重そうにしがみついていた。
「緋羽ちゃん、リュックを持ってあげようか」
「大丈夫」
 緋羽は振り返りもせず答えた。 池の近くまで来ると、2人で畔に立ってしばらくその光景を眺めていた。
 早くも日が傾き始め、私はこれ以上歩き回っては緋羽に風邪を引かせるんじゃないかと心配になった。
私はぼんやりしている緋羽の手を軽く揺すりながら「寒くなって来たし、帰ろうか」と言ってみた。 緋羽は無言で頷いた。 
 家の冷蔵庫に碌なものが入っていなかったのを思い出し、私は帰りにスーパーに寄る事にした。 不本意とは言え預かった子供に二回連続して外食させるのは、流石に気が引けた。
「緋羽ちゃん、お買い物して帰るけど今夜は何を食べたい?」
買い物と聞いて、緋羽の顔がうっすらと紅潮した様な気がした。
 てっきりおかずのメニューをリクエストされるだろうと思っていたのだが、緋羽から返ってきた答えは「ごはん」という一言だった。
「ごはん? お米ってこと?」
 緋羽は何度も頷く。 私は渋い答えに驚きつつ、ご飯に合うおかずを何にしようか考えた。
 自宅から歩いてすぐの所にある中規模のスーパーに寄ると、緋羽は私の手を離し一直線に菓子のコーナーへ歩いて行った。 そんなに広い店内ではないし大丈夫だろうと思い、私は食材選びに専念する事にした。
 緋羽に好き嫌いはない様なので、おかずは定番のハンバーグに決めた。 材料を手早く選び、籠へ入れていく。 明日の朝食の事も考えて、牛乳やジャムも買っておこう。
 重くなった籠を持って菓子が置いてあるコーナーを覗く。 緋羽はしゃがみ込んで手に取った菓子の箱を熱心に見つめていた。 近づいて彼女の手元を覗き込むと、その菓子にはおまけが付いていた。 おまけを集めていくと一つの町が出来る仕組みになっているらしい。 私も子供の頃に似たような物を集めた思い出がある。 
「一つ買ってあげるよ」
 緋羽は振り返り、「うん」と頷いてから一つのパッケージを選び出した。 中身は開けてからのお楽しみだ。
 会計をした後、品物を袋に詰めるのは緋羽も手伝ってくれた。 小さい袋に入れた菓子を持たせて店を出ると、空は夕焼けだった。
 手を繋いでオレンジ色の商店街を歩く。 とても懐かしくて、それと同時に焼けつくような焦燥感で息苦しかった。
 マンションに帰り着くと、緋羽は早速菓子を開け遊び始めた。 部屋には同じシリーズのおまけが転がっている。 
私は食材を冷蔵庫に入れつつ、夕食の準備に取り掛かった。
 2DKのキッチンは広くはないけれど、使い勝手は良かった。 自分のハンバーグと、緋羽が食べ切れる様に小さめに作ったハンバーグが、フライパンの中で音を立てる。
 それがとても愛しく思えた。
「出来たよー」
 座卓の上に料理を並べ、緋羽にご飯をよそった。 子供用の短い箸を使っているが、まだ正しい持ち方は出来ない様だ。 口に運ぶ速度はゆっくりで、私もそれに付き合ってゆっくり食べ、二人でお皿を空にした。

コメント(13)

 食器を片付けてから、風呂の用意をする。 最初は緋羽だけを入浴させようかと思ったが、洗うのを手伝ったりしたらどうせ濡れてしまいそうだったので、一緒に入ってしまった。
 風呂上り、私が化粧水のシートマスクを顔に貼っていると、緋羽もそれをやりたがった。 保湿力も弾力もある緋羽の肌には必要なさそうな物だったが、私は袋から一枚出して、緋羽の顔に乗せてあげた。 彼女は満足そうにマスクを両手で押さえ、「お顔に栄養」と言った。 
「お顔に栄養?」
 私は笑いながら聞いた。 すると緋羽はごく真面目に答える。
「ママがね、いつか緋羽が大きくなったら、双子と間違われるくらい若くいる為にって。 その為の栄養なんだって」
「へぇ」
「だから緋羽も早く大きくなる為に、お顔に栄養をあげるの」
 日常の小さな出来事も、これほどまでに彼女に影響を与えていたのかと思うと切なくなった。 
「緋羽ちゃん、そんなに急いで大人にならなくても良いんだよ」
 私は自分が泣いているのに気が付いた。 
 涙はシートマスクに吸い込まれ、幸い緋羽には気付かれなかった。
 緋羽があくびをかみ殺したところで、私はベッドの用意をしに寝室へ向かった。 足元が冷えやすい彼女の為に湯たんぽを入れ、布団の中を温める。
 昼間沢山歩いたからか、用意が出来た頃には、緋羽はこくりこくりと船を漕いでいた。 私はその小さな体を抱き上げ、ベッドに横たえる。 しばらく額を撫でながら傍にいると、彼女は安心したように眠りに落ちて行った。
 丁度その時、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。 山瀬からだった。 私は緋羽を起こさない様に、寒いベランダへ出て通話ボタンを押す。
「もしもし」
「ああ、悪かったね。 家内の入院手続きに手間取ってしまって、ずっと電源を切っていたんだ」
「いえ。 無事に済みました?」
「なんとかね、お蔭様で」
「緋羽、今眠ったところです」
「そうか…」
 一時の沈黙の後、山瀬は溜息を吐いて言った。
「それで、思い出したのか」
「はい」
 記憶は静かに戻ってきた。 それはドラマの様に劇的ではなく、ダイヤル式の鍵がカチリと合わさる時の様に小さな変化だった。
「しっかりするんだぞ。 緋羽ちゃんの母親は君しかいないんだ。 私たち夫婦が後見人になるから」
 私は未婚で緋羽を生んだ。 今頃になって父親が認知をする代わりに、親権を譲れと迫ってきた。 事故に遭ったせいで、子供が出来ない体になったという理由からだった。 資産家であり、両親も健在である彼の方が、緋羽を育てるのに相応しいと言い、片親で、それも未婚ともなれば緋羽の将来に悪影響だと脅された。 
精神的に追い詰められた私は、いつからか緋羽が生まれる前の自分に戻ってしまっていた。 
「色々、有難うございました」
「明日はそちらに行くから、詳しい事はその時にな」
 山瀬は声に安堵の色を滲ませ電話を切った。 
 部屋に入ろうとして窓を開けると、その音で緋羽がうっすらと目を開けた。
「ママ?」
 私はベッドに歩み寄り「ここにいるよ」と緋羽を抱きしめる。
 笑みを浮かべながら、また眠りに落ちていく彼女の隣に滑り込んで、明日は彼女の好きなジャムをたっぷり乗せたトーストを食べようと考えた。
 大丈夫、もう二度と忘れたりしない。 
この子が、何も無かった私を母にしてくれたのだから。
今回もはみ出しておりますが、完結しています。
宜しくお願いします。
も一度最初から読み直したくなる系ですね。ラストの辺りではちょっと泣けちゃいました。
面白かったです!読みやすくて一気に読んでしまいました。ひねりがあるけれど、なんだかほのぼのする読後感もあって、優れたエンターテイメントに仕上がってると感じます!流石のクオリティですね〜(^ω^)非常に楽しく読めました。。
>>[3]

コメントありがとうございます。
コムンコヤンイさんを泣かせる事が出来たら本望です(笑)
>>[4]

コメントありがとうございます。
楽しんで頂けた様で良かったです。
素敵な感想を頂き、いつも励みになります。
>>[6]

コメントありがとうございます!

タイトルですが、「お休みが欲しかったのかな」というセリフから思いつきました。
(ちなみに、書いている途中でした)

直訳の「お休みをちょうだい」という意味で使おうと思ったのですが
本来の「Gimme a break」は「ちょ、待てよ」とか「ふざけないで」というニュアンスで
使われるようですね。
こちらの意味でも、緋羽に押しかけられた主人公の気持ちと合致していたので
良かったなと思っています。
>>[10]

はじめまして。コメントありがとうございます。
13日お会い出来るのを楽しみにしております。
すばらしい話だと思いました。ラストでなるほどと思いました。
>>[12]

コメントありがとうございます!
本日はお疲れ様でした。
たかーきさんの作品もお待ちしてます。

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