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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第22回 かとう作「二月の桜(六)」

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※連作作品です。

 男のうめき声が、便器を介してくぐもった音として狭い便所の土壁に吸い込まれていった。僕は壁にもたれかかり、シャツとネクタイについた吐瀉物の臭いをかぐ。濡れたおしぼりで必死で拭いたが、恐らくスーツについた染みはとれないだろう。僕は胃液がズボンの薄い生地を貫いて、太股の内側のごく柔らかいところを焼いているところを想像した。
「くそ」その二文字でさえうまく発音されずに、僕は自分がひどく頼りなく滑稽で不気味な存在としてこの便所にしゃがみこんでいるように思えてくる。男はまだ吐き続けていた。
 さっきから誰かが、どんどんと戸を叩き続けている。押せばがたがたと揺れる合板の木の引き戸の隙間から、酔っぱらいたちの嬌声が漏れてくる。乱暴なノックは唐突にやみ、少し間をおいてがんっと大きな音を立てた。扉どころか便所全体が揺れた気がした。酔っぱらいが戸を蹴ったのだろう。
「おい、大丈夫か?」
 それで僕は仕方なく、さっきから吐き続けている男に声をかける。男は便座を枕にしてにやにや笑っていた。僕は便所のレバーを引く。そしてペットボトルの水を彼に差し出した。
「しっかりしてくれよ」
 男は気怠そうに顔を上げ、ペットボトルの水を口に含んだ。便所に男二人が並んで座れば、かなり窮屈だ。僕は中腰になり、後ろの戸に寄りかかる。
「すいません」
 男はちっとも悪いと思っていない顔で言う。今日は隣の部署と合同の飲み会で、彼とは初めて会った。飲めないくせに飲んで最終的には潰れる男だという話は同僚から事前に聞いていた。酒癖が悪く、学歴はあるが仕事がろくにできずに部署をたらい回しにされていて、そして部長の甥だ、とも。
「先輩って」
 男が口を開いた。
「僕と同じ学部ですよね」
「そうらしいね」
 同じ大学の学部で、彼は二学年下のはずだが、見かけた覚えもない。
「そうらしいねって、冷たいなぁ。僕は先輩のことよく知ってましたよぉ」
 僕の肩を馴れ馴れしくばんばんと叩く、きっと胃液のついた汚れた手で。男の熱く酸っぱい臭いがする息がかかる。僕は後ずさろうにも背中に戸がぶつかってがたがた動く。
「僕たち、穴兄弟でしょう」
 その言葉の意味が、一瞬よくわからなかった。僕は軽く彼の肩を押して体を遠ざけた。
「梢さん、さすがに覚えてるでしょ? 先輩たち、学部内でかなり噂でしたよ。肉便器が童貞囲い込んでるって」
 全身の血管がしゅうと縮んで、血液の大部分を脳にすごい勢いで送り出していくのがわかった。顔がかっと熱くなったが、その代わりに冷えた体を脇から流れる不快な汗が伝う。手に男の粘っこい体温が伝わった。
「僕もね、一回やらせてもらおうと思ったけど。肉便器のくせに断るんですよ。金かと思ったけど、あいつんち僕より金持ちなんですよね。先輩一体いくら積んだんですか?」
「穴兄弟って、どういう意味だ?」
 男が胃液で泡だった口角をゆがめた。乱杭歯とがたがたの歯茎がむき出しになる。僕はここまで醜悪な笑顔を初めて見たように思った。
「だって、断られたから、ねぇ」
 その一言で、僕は想像した。それは現実に起こりようもない馬鹿げた妄想だ。しかし嫌に色合いが鮮やかだった。酔っぱらった、男の黄色い吐瀉物が、梢の白い裸体にぼとぼとと落ちる、苦痛に歪む梢の赤い赤い唇と、男の黒ずんだ歯茎と、そして。

 ごん、ごん、ごん

 こもった音を立てているのが、男の後頭部が便器にぶつかる音だと、僕はごく一瞬のうち把握していなかった。そして男の襟元をつかんでその頭を便器に打ち付けているのが僕なんだと、気づいた頃に白い便器が男の血で赤く染まるのが見えた。
「うわぁ、うわぁ」
 男は後頭部を押さえ、間の抜けた叫び声を上げた。僕は立ち上がって男を無意味に見下ろす。白い便器に、赤い血に、黄色い胃液。醜悪な顔。「訴えてやる、警察に訴えてやる、おじさんだっているんだからな、お前の部署の部長だろう……」男はくぐもった声で、そんなようなことを口の中で繰り返しながら、スマートフォンを取り出した。
「おい、何してるんだ、大丈夫か?」
 後ろで誰かが戸を叩きながら、そう言った。きっと彼のおじである部長だと、その時の僕にはなぜだかわかった。

 パトカーは思った以上に早くやってくる。僕は知らなかった。居酒屋の曇りガラスの向こうで煌々と光る赤いランプを見て、
「困りますね」
 と居酒屋の店員が言った。部長も課長も顔を合わせ、「警察沙汰かよ、困るなぁ」とつぶやいた。「なに、内輪もめ? まいったな」と、小太りの警察官でさえ言った。
 よくわからないが僕は部長の甥の気を治めるために、そして居合わせた客の好奇の視線を避けるために、とりあえずパトカーに乗った。「まぁたぶん悪いようにはしないから、大丈夫だよ」と直属の課長が言った。
 そしてすべてが済んだ後で、警察署に義父が迎えに来て言った。
「困るじゃないか」

 義父の運転する助手席で、僕は何を言えばいいのかわからなかった。とりあえず、
「申し訳ございません」
 そう謝るしかない。それ以外に言うことはなかった。深夜の街には乗用車は少なくトラックやタクシーばかりが流れるように走っている。酔っぱらいが電柱にしがみついているのが見えた。
「うん、まぁ、いいんだけど。相手も大した怪我じゃないようだし」
 今日関わった誰もが、僕が予想していたのとは違う反応を見せる。「何をやっているんだ、一体全体どうしたんだ、そんなことしたら駄目じゃないか、おい」そのように言いながら僕の顎をがくがくと揺らす者は誰一人いなかった。僕が何をしても、誰もさして困らないのだろうか。
 しかし義父は言った。
「娘から全部聞いたよ」
 僕は彼の横顔を見た。非常に慎重かつ滑らかに運転をする義父は、車に乗るときはいつでも背筋を伸ばしてまっすぐ前を見据える。街頭や対向車のランプが、義父の顔を青白く、時に赤く照らしている。
「でも別に、認知してくれとか養育費をくれって話じゃないんだろう?」
 僕はなんと言ったらいいのかわからない。しかし義父は僕の答えを待たず、独り言のようにぼそりと続けた。
「特に問題はないよな、今のところ。あちらさんも、わかってて育てるって言ってるんだから」
 僕は義父が、何を以て問題とするのかよくわからない。ただ確実に、彼が言っているのは梢とその子供のことだ。僕が黙っていると、
「なんだよ、離婚したいとかいうわけじゃないよな? それこそ困るよ」
「いえ、そういうつもりは」
「じゃあ問題ないな。まぁ、うまくやっておいてくれよ」
 義父と話したことはそれだけだった。
 妻はすべて知っている。義父も、恐らく義母も知っている。そして僕は、逃げられない。みんなすべて知った上で困らないのだから、僕は一生逃げられない。
 それだけが、僕がその夜にまともに理解したことだった。

コメント(6)

話がどんどん過激な方向に行って、この先どうなるのか、気になります。救いがないまま最後まで行く話だとちょっと嫌ですが(笑)

あと、申し訳ないのですが、今までのあらすじを一部忘れてしまっているところがあるので、過去作を読み直しながら読みました。
他の方向けには、過去作へのリンクを貼っておくと便利なんじゃないかと思います。
二月の桜(一)〜(五)
http://nietzsche2012.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html

今更ですが、これまでのお話をまとめてあります。
回を重ねるたびに、読者がいなくなっていくのではないかという不安がありましたが……(;´д`)でもなんとか、完結まで行きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
>>[1]
ありがとうございます!早速リンク貼りました。
確かに、私でさえ全く予想しなかった方向へ行ってますね笑。でも多分、救いのあるラストにする予定です。でも救いが生まれるかどうかは、主人公の踏ん張り次第な気がします。
>>[4]
どうもありがとうございます!そう言っていただけると、大変励みになります。
着地点は自分の中でも決まっているような決まっていないような…ということで、ちゃんと終わるのか不安もありますが笑。なんとか完結させたいなぁ、と思います。
自分が生み出した登場人物が、誰かの中で生きているなら、これ以上の喜びはありません!
素敵な感想を、ありがとうございます(^ω^)
ちなみにこの作品の今後の展開ですが、法律的な知識が足りなくてわからないことがあるので、詳しい方に伺いたいです。やはりJONYさんとモミーさんですかね!時間があればよろしくお願いいたします。

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