“特保認定！ 100人中99人が食べて元気が出た一品。今なら10ポイント加算！”
“お酒なのに、アルコールなのに、ポイント獲得！ 飲むならやっぱりグリーンハート！”
なぜ、自分が生活保護に当たらないのか。
なぜ、これだけしか払われないのか。
なぜ、隣の家の人間は働けるのに生活保護を受けているのか。お前らは、ふざけているのか。
僕は、電話でも窓口でも、多様な種類の罵詈雑言を浴びた後、残業時間中に生活保護の支給や不支給を決める為の書類を作成し、午後９時過ぎにはふらふらになるくらいに疲れ果てていたので、その日はそこで仕事を終えることにした。そして、気付くと僕は、最寄りの駅の真下にある24時間営業のスーパーにいて、今度は多様な種類のPOINT攻撃を受けていた。
しかし、よくも、まあ、大企業の人々は、これだけのキャッチコビーを考え、ラベルを貼り替えただけの商品たちを飽きずに売れるものだと感心しながら、目の前のカップラーメンを手に取ると、
“特保認定！ ユーグレナ配合の劇的麺！ ラーメンなのに食べて健康！”
ユーグレナとは、ミドリムシのことであろう。呼び方とは大事なものだ。他人を「ポチ」と呼べば怒るだろうし、飼い犬に名字を付けて呼ぶと、それはそれで怪しまれる。
僕は、心が荒んでいるせいか、ふと、人肉も呼び方を変えれば商品棚に並べられるのかもしれないと思ってしまう。
ラムではなくて、トムとか。いや、それでは人名っぽいので、オリエンタルな食べ物っぽく、ヤーキムとか。
ヤーキム、ヤーキム。いいかもしれない。
それか、皮肉な感じで、ソイレント・グリーンでも良いのかもしれない。人肉を加工して缶詰にしているソイレント社の工場の話。
そんなバカなことを考えていると、今度は、いつの間にかレジの列に並んでいた。
そこには、僕と同じく疲れきっている人々が、まるでコンビニ弁当工場の商品のように流れていた。僕は、ああ、シーチキンマヨネーズおにぎりと同じだな、と再び皮肉なことを考え、昔、冷凍食品工場で異物を混入した気の違った中年男のことを、ふと思い出す。
すると、僕は、いつの間にかユーグレナのカップ麺をご購入していて、疲れきった人々を吸い込んでは吐き出している24時間のスーパーマーケットの外に出ていた。
そこで僕は、突然ハッとなって、目の前の光景の異様さに、めまいを感じる。
なぜ、湊市にある特色の無い駅の近くで、こんなにも人だかりが出来ているのだろう。そして、みんな、スマホに釘付けなのだろう。
ああ、パケモンだ。みんな、パケモンに夢中になっているのだ。
僕は、気になって、若い女性が一生懸命に画面をタッチしている後ろからスマホを覗き込むと、画面には大きな蝶々が写っていて、それに女性は何かを投げている様子であった。
みんな何かを捕まえたいのだろう。その日、珍しい何かを捕まえれば、その日は昨日とも一昨日とも違った今日となる。もはや、多くの人はそのような方法でしか、昨日と今日と明日の区別がつかないのでは無いだろうかと、僕は疲れた思考を回転させる。
しかし、パケモンに夢中になっている間にも、遠くの国では爆弾が炸裂し、この国のある島では機動隊と住民が衝突している。
だが、知らなければ何事も無かったのと同じであり、現在、人々の全てはパケモンなのかもしれなかった。パケモンは捕まえることは出来ても、爆弾を破裂させないことは出来ないし、機動隊と島の住民との衝突も止めることは出来ない。
きっと人々は、スマホを操作して、タッチ一つでそれらを簡単に止めることができるなら、みんな通勤電車の中で、爆弾の炸裂を止め、銃の乱射を止め、黒人と白人の衝突を止めることだろう。
でも、現実に１人が与えることができる影響は限られている。そして、無力感の代償として、出来る何かに打ち込んでいる。パケモンをゲットするということの意味を、深く、深く考えると、きっと発狂して、物語工場送りとなってしまうだろう。
だが、どうだろう。もし、１人が与えられる影響が、とてつもないものになったとしたら。世界に生きる100億人近い人々が、須（すべから）く時計を所持したとしたら。そうしたら、この世界、つまり、このコンビニ弁当工場みたいな世界は、どう変わってしまうのだろうか。
そして、僕がそんなバカなことを考えて立ち止まっているうち、ポツポツと雨が降り始めてしまった。
僕は、傘が無いことに気付いた。しかし、行かなくちゃ。ユーグレナを食べなければ。
僕は、家に向かって小走りで走り出しながら、再びパケモントレーナーたちの方を見る。すると、彼らは未だに夢中になってパケモンをしていた。弱い雨に打たれながら、パケモンに夢中になる人々。
彼らが、そこまでして忘れたいものは何なのだろうかと思いながら、僕は再びユーグレナのことを思い出し、雨脚強まる帰路を急いだ。
家に着くと、まず熱いシャワーを浴びて、風邪をひかないように、ソイレント・グリーンなミドリムシのラーメンに、チューブから出したニンニクを入れてお湯を注ぐ。
ニンニクは、後で入れれば良かったのかもしれないと若干の後悔を感じながらも、僕は、数億匹のミドリムシが閉じこめられた容器を置いたテーブルで、読みかけだったボルヘスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を読み始めた。
架空の国について紹介しているその作品は、ボルヘスの代表作として有名であった。それは、まるでゲームの中の世界の設定を語るようであったが、一方で、もし、この国が実在していたとしても、僕には実在していなかった場合との区別はつかないと思った。僕にとって、ウクバールが現実に存在していようが、していなかろうが、僕の日常は変わらないのである。それは、正直、外国の空港で何人死のうが、僕の職場は通常通り午前８時30分には出勤しないといけないし、トマトもいつも通り一個100円くらいで買わなければならないのと同じだった。実に、何も変わらないのである。
しかし、虚構の力は恐ろしい。
アメリカでポーランドの歴史について教えている大学教授が、悪戯な愉しみとして、嘘のポーランド文学をでっちあげて紹介したところ、誰もそれに気付かない。彼は、その体験から、虚構の歴史が、いかなる本物の歴史とも本質的には区別されないことを確認し、不思議な幻滅を覚える。
これは、カジミェジュ・ブランディスの『三番目のヘンリク』なのだが、虚構と過ぎ去ってしまった現実とは際どい違いしか無いことの恐怖というのが、この物語では際立っている。
過ぎ去った現実の前では、虚構も大いなる力を持っているのである。そして、現実とは、今という瞬間しか無い為、突き詰めていくと１秒前でも過ぎ去った現実である。つまり、一秒前の現実と虚構とは際どい違いしか持たないのだ。
虚構の力。
その力は、パケモンを捕まえるアプリも持っているし、そのアプリの延長線上で開発された理想の彼氏をスカウトしてアイドルに育てあげるアプリもそうだ。
それに、これもそうなのかもしれないと思い、僕はカバンから財布を取り出したが、一万円札しか無く、それはもったいないので、タンスの中にしまい込んでいた海外旅行用のドル紙幣の中から、１ドル札を取り出して破いてみた。
やっぱり、ただの紙切れである。実体としては、それ以上でも、それ以下でも無いのだ。
そういえば、通貨を破壊することは罪だったかもしれないと思いつつ、そんなことは無かっただろうと思い直す。罪とは、知っている為に裁かれるものであり、ゆえに巌窟王事件は問題になったのだ。
そういえば、小学生の頃、テレビで、なぜこんなにも大量の刑事ドラマを放送しているのか考えたことがある。だが、今思えば、その答えは巌窟王にあるのかもしれない。
「あなたは、彼を殺しましたね」
「ええ、殺しました」
「殺したことは罪ですね」
「いえ、殺人は罪とは知りませんでした」
「いえ、刑事ドラマは見たことあるでしょう」
「……分かりません」
「いえ、見たことあるでしょう。見た事無いはずなんて、ありえないですから」
「……」
「つまり、殺人を罪だと知らないなんてことはありえない」
まあ、そういうことなのだろう。
僕は、これまた際どいことを考えながら、何千万ものユーグレナの死骸が練り込まれたラーメンを啜る。
そして、たまたまつけたテレビでは、たまたまニュースをやっていて、明日でもいいのに、たまたま今日起こってしまった２つ目の凶悪な事件の話をしていた。
どうも重度の痴呆症患者が住まう施設に男が乱入し、32人を１人で殺したらしい。
ニュース番組では、たまに微笑みを垣間見せながら、キャスターと有識者とかいう人たちがセキュリティーの問題やサイコパスの問題、暴走する若者の問題について語り合っているが、どうやらネットでは「津山超え」のことばかりが話題になっている。
本音と建前。
ああ、どこまでも、この国らしいな、と感じながら、僕はユーグレナを啜る。
問題は何かとテレビの人たちは語っているが、そんなものは複合的すぎて分からないだろう。だが、それを語り合うことが楽しいことは理解できる。だから、ネット上で日々、無数の議論が巻き起こっているのだろうから。
だが、地図記号事件の犯人は何かに取り憑かれているとしか思えなかった。殺人を通して何かを表現しようとする欲求に支配されているように思えた。
もしかすると、犯人は何かに影響され、それに取り憑かれているのかもしれない。
この物語という虚構が溢れかえった世界には、今日も物語という虚構にヤク中のようにヒタヒタに漬かっていた人々が無数にいて、その中の何人かは、そのうち悪逆無道のドン・キホーテに成り代わり、自分が積み上げた正義のルールの旗の下で、今まで出来なかった行為を営むのである。
ドン・キホーテは、自分の中に世界を所有している。
それは、彼だけの世界であり、その世界のルールは現実と何も関係ないが、現実に影響を及ぼしうる。
そう、夢の国の奥にある狂気じみたアトラクションは「世界は一つ」と狂ったように歌い続けるが、世界とは決して一つではない。
世界は一つというのは、みんなが心の底から「ハイル、ヒトラー」と叫ぶ世界であり、みんなが心の底から賛美歌を熱唱する世界であり、みんなが心の底から市場主義の絶対性を信じる世界である。
そして、ご存知の通り、それは実現しなかった。
だが、POINT制は、それを達成しつつあるように思える。全ての人に、共通かつ絶対的な価値。それはシステムであり、枠組みであり、何が価値があり、価値が無いのかを決めるのは、複雑な数式と、もっと複雑な人工知能の仕事とされたが、特定の会社の歯磨き粉が優遇される日もあれば、別の会社の歯ブラシが優遇される日もあるので、恣意が含まれていないはずは無かった。
それにしてもポイントの効果は凄まじい。何が食べたいかという当然の感情ではなく、何ポイントになるかという不自然な目算により買い物客たちは行動しているのである。
これは、あれよりも１ポイント高い。しかし、これはさらに２ポイント高い。これは美味しそうだけどマイナスポイントだから今日は買えないけど、明日、アレと一緒に買えばポイントは下がらなくて済む。
ポイントは確実に、思考を侵蝕している。それは、昔の人が穢れという価値観の下に、行動を制限していたみたいでもある。
マイバックは当然になっている。それを持ってくるだけで、地球環境に貢献したとして一日３回まで５ポイントも加算されるのだ。中にはマイバックを忘れたことでパニックを起こして泣き出してしまうおばちゃんもいるくらいだ。
これも、ポイントが10億を超えれば天皇陛下から白綬褒章なるものが頂けるなどというデマを信じている人がいるせいだろうか。
それとも、老後に介護施設に入るには、ポイントが高い順から優先的に入ることになるという事実を知っているからであろうか。
それとも、１億ポイントを貯めて、一生仮想現実世界で暮らす権利を購入するための権利を手に入れようとしているのであろうか。
理由は、ただ日々を過ごしている僕にとっては意味不明であった。
正直、１年前は、もはや物語工場送りになった方が良いと思い、“アバターへの質問攻撃”という社会的な自殺を試みようと思ったこともあったことを懐かしく思い出した。
POINTシステムと我々を繋ぐインターフェイスは幾つかあり、その一つが“ドジオ”のようなドローンであるのだが、彼に対してしてはいけない質問が一つある。
それは、ポイントについて「なぜ」ということであり、ドローンたちにそれを聞くだけで、100ポイントも下げられてしまう。それはポイント加算食品10個分の努力である。
何故。
その問いかけが、「日常」という儚いものに向かう時、それは容易く切り裂かれてしまう。その切り裂かれた状態が精神疾患なのだと、POINTシステム設計メンバーの１人である新進気鋭の哲学者はインタビューに答えていた。故に、問いかけが生じないように「日常」をゲーム化してくれるPOINTシステムは「正しい」のだと。
一方で、一番賢い無得点〈ゼロ〉志願者は、アバターに対して問い続ける。
なぜ、グリーンラベルは買うと２ポイント加算なのか。
なぜ、特定保健用食品は３ポイント加算なのか。
なぜ、朝、一番最初に会った人に挨拶すると１ポイント加算なのか。
なぜ、田舎から都心に引っ越すと1000ポイント以上加算されるのか。
なぜ、結婚するとポイントが加算されて、離婚すると大幅にマイナスされるのか。
なぜ、POINTは存在しているのか。
なぜ、つまらない日常なのに、POINTの為に生き続けなければならないのか。
質問をしている様子自体が狂気の様相を呈していて、矯正施設に入った方がいいのかもしれないと思ってしまうが、問うてる方としては真剣なのだ。馬鹿馬鹿しい社会から逃走することに真剣になっているのである。
そして、これらの質問に、ドジオはニコニコしながら、「そうでございますですねー。ご質問も、ごもっともでございますですよー」と言う。一見、受け入れているように見えて、彼は完全に拒絶しており、終いには招待状〈エンジェル・レター〉が届くのだ。
招待状は、幸せを約束してくれる入居契約書だ。それにサインをすれば迎えのバスが来て手軽に物語工場に入居できるし、サインしなくても迎えの護送車が来て手荒に入居できる。
施設に入ったが最後、社会不適合者として、社会適応能力を“取り戻す”まで、施設内の種々の作業場でプログラミングをしたり、仮想現実用ソフトのグラフィックを整えたり、バグチェックをしたりして働かされ続けるのだ。それはまるで、社会適応能力が人間誰しもに備わっており、途中で失った為に“取り戻す”必要があると言っているようであり、何が普通〈ノーマル〉なのかの定義を厳しく社会に求めているのである。
物語工場に入れられると、外部との接触はほとんどできない。
気が変わって外の世界で生きたいと思っても出してもらえる訳は無く、出してもらう為に裁判を受けるとしても、手続きをする窓口の職員は休みがちである。
それに、物語工場への裁判を起こしたとしても、「あなたの幸福度の位相値は常に最高近辺を推移しています」と、VR生活での幸福度の高さが裏目に出て、勝つことは不可能である。身体の自由についても、それは社会不適合性の問題があり、医師の裁量であるとされる。
こうして、物語工場への入居は不可能だと悟った僕は、仕方なく毎日を生きてきたのだ。
僕は、ユーグレナを食べ終え、カバンの中を見た。そこにはニブい銀色に栄えている時計があり、僕はそれをまるで恋人かのように胸のところで抱きしめたのだった。
僕が、ユディトというTwitterアカウントを使う“彼女”に出逢ったのは、都心の百貨店の上にある英国式庭園のテラス席だった。
この無料で入れる都心のオアシスを知ってから、僕はぼんやりとしていたい昼下がりに度々訪れており、その日も人生を回想しながら、時計をいじりつつ、ぼんやりしていた。
「素敵な時計ですね」
見ると、色白で、すらっとした体格をしており、まるで未亡人かのような黒いワンピースを着た女性が、丸い机の向こう側に立っていた。邪険にするのは悪いと思い、愛想笑いをしてから返事をしたが、向こうはそれを受けいられた合図と了解したのか、勝手に僕の反対側の席に座ってしまった。
「暑いですね」
未亡人的ファッションの女性は、僕の意など介せず話を進める。その若さと整った顔がますます僕を不安にさせた。経験上、若くて美人なのに、焦点の合わない話をする人物は、かなり危険な人物のサインである。しかし、会話を無視するのも危ないと思ったので、質問をしてあげることにした。
「時計がお好きなのですか」
未亡人はニッコリ笑い、僕の時計を、まるでショーケースに鎮座している指輪をおねだりする様な感じで指差して、
「私も、この時計を気に入ってるんです」
僕は、即座に、この人はドン・キホーテの１人だと思い、身構えた。
警備員を呼んだ方がいいだろうか。携帯電話でも警察は１１０番で呼べただろうか。
久しぶりに、パニックを起こし、恐怖を感じた。窓口で、いかにも健康体の中年男性が保護を求めるので、窓口で生活保護には該当しないと断ったら、「お前に、ガソリンをまいて火をつけてやる！」と焦点の合わない眼差しで叫ばれたとき以来だ。
すると、女性は急に真剣な顔をして、こう小さく叫んだ。
「私、頭はおかしく無いわ」
僕は吹き出しそうだった。初対面で、人の時計を気に入っているという人間のどこが正気なのだろうか。
だが、女性は真剣な感じで話を続け、
「悪いけど、私も同じのを持っているのよ」
そう言って、彼女がバッグから取り出したのは、僕が持っているのと同じ、銀色の懐中時計だった。
僕は、自分の時計がとられたのかと思って、自分の掌を見たが、果たしてそこには時計が存在していた。
落ち着いて話を聞いてみると、女性はそこまでおかしな人ではなかった。いや、おかしな人だったが、僕が思っていた方向とは異なっていたというのが正しいだろう。
彼女は、未礼瑞希。年齢は、30代後半といった感じで、元々、テレビ局でディレクター職として雇われたらしいのだが、どうも度重なる過重労働により体調を崩し、ラジオ局の方へと回されたらしく、彼女にはそれが非常に不満だったという愚痴を自己紹介代わりとして、僕は聞かされたのだった。
「だいたい、何で不快な人間を消してしまうことが悪いことなのかしら」
澄んだ顔に浮かんだ睨みつけるような眼差しで英国式庭園を見つめながら、未礼は下の階で買った珈琲をストローでマズそうに啜る。彼女曰く、その店の珈琲を多くの人は有り難がって飲んでいるが、珈琲自体は間違いなくマズいということであった。
そんな乱暴なことは吐き捨てる彼女の横顔は、研ぎすまされた剣の様で、触ると切れてしまいそうな美しさに包まれていた。僕は、暫く彼女を眺めていると、彼女は急に僕の方に向き直って、
「殺すのは罪よ。刑法違反。それは私も知ってる。でもね」
彼女は気怠そうに左手で頬杖をついてから、右手で氷の入った珈琲の容器をカラカラと回して、
「不快な人間が死んでしまうこと自体は、実際に喜ぶ人や救われる人がいるわけ。分かる？」
僕は頷く。僕の頭の中に消えて欲しい人間の顔が何人か思い浮かぶ。それらの人間は、僕が今までに幾度となく考えた結果、何の社会的意義も持っていない人物であった。
そして、彼女は僕が頷いたことに対して嬉しそうに微笑んでから、
「様は、殺したという犯罪事実を証明できなければ罪では無いってこと」
そこで少し間が空いたので、僕はすかさず彼女に質問した。
「未礼さん。今の話は、何の話なのです？」
未礼は、そこで苦笑いした。
「ごめんなさい。最近、記憶が飛ぶのよね。話ってのは、この時計の話」
「でも、不快な人間を消してしまうって…」
未礼は再び苦笑いを作り直し、
「ははっ。そうよ、消してしまうの。最初は…そうね、婆さんをホームから突き落としたわ」
彼女は、テレビ局のディレクターとして働いていた去年、いつも出勤ラッシュのときに席を独占している老婆を殺したのだと言う。
「婆さんが、出勤ラッシュの電車に乗る必要は無いわ。時間を止めて持ち物を調べたけど、明らかに病院に行っているようだったし、大した病気じゃなかったから、腹が立って殺したの」
僕は何も言えなかった。時計を手に入れた時、そういった使い方は何度も考えたが、実行する勇気が無かったのだ。
「私は毎日深夜まで働いて、年収１千万近く稼いでいた。社会に貢献していたの。でもね、そんなに貢献している私ではなく、退屈そうにしている老人やスーツも着ていない若者が電車の席を埋めて座れないのは腹立たしい。許せない」
そして、満面の笑みを浮かべて、
「それで時計の残り時間が100時間も増えたのよ。これって最高にお得じゃない？」
“お酒なのに、アルコールなのに、ポイント獲得！ 飲むならやっぱりグリーンハート！”
なぜ、自分が生活保護に当たらないのか。
なぜ、これだけしか払われないのか。
なぜ、隣の家の人間は働けるのに生活保護を受けているのか。お前らは、ふざけているのか。
僕は、電話でも窓口でも、多様な種類の罵詈雑言を浴びた後、残業時間中に生活保護の支給や不支給を決める為の書類を作成し、午後９時過ぎにはふらふらになるくらいに疲れ果てていたので、その日はそこで仕事を終えることにした。そして、気付くと僕は、最寄りの駅の真下にある24時間営業のスーパーにいて、今度は多様な種類のPOINT攻撃を受けていた。
しかし、よくも、まあ、大企業の人々は、これだけのキャッチコビーを考え、ラベルを貼り替えただけの商品たちを飽きずに売れるものだと感心しながら、目の前のカップラーメンを手に取ると、
“特保認定！ ユーグレナ配合の劇的麺！ ラーメンなのに食べて健康！”
ユーグレナとは、ミドリムシのことであろう。呼び方とは大事なものだ。他人を「ポチ」と呼べば怒るだろうし、飼い犬に名字を付けて呼ぶと、それはそれで怪しまれる。
僕は、心が荒んでいるせいか、ふと、人肉も呼び方を変えれば商品棚に並べられるのかもしれないと思ってしまう。
ラムではなくて、トムとか。いや、それでは人名っぽいので、オリエンタルな食べ物っぽく、ヤーキムとか。
ヤーキム、ヤーキム。いいかもしれない。
それか、皮肉な感じで、ソイレント・グリーンでも良いのかもしれない。人肉を加工して缶詰にしているソイレント社の工場の話。
そんなバカなことを考えていると、今度は、いつの間にかレジの列に並んでいた。
そこには、僕と同じく疲れきっている人々が、まるでコンビニ弁当工場の商品のように流れていた。僕は、ああ、シーチキンマヨネーズおにぎりと同じだな、と再び皮肉なことを考え、昔、冷凍食品工場で異物を混入した気の違った中年男のことを、ふと思い出す。
すると、僕は、いつの間にかユーグレナのカップ麺をご購入していて、疲れきった人々を吸い込んでは吐き出している24時間のスーパーマーケットの外に出ていた。
そこで僕は、突然ハッとなって、目の前の光景の異様さに、めまいを感じる。
なぜ、湊市にある特色の無い駅の近くで、こんなにも人だかりが出来ているのだろう。そして、みんな、スマホに釘付けなのだろう。
ああ、パケモンだ。みんな、パケモンに夢中になっているのだ。
僕は、気になって、若い女性が一生懸命に画面をタッチしている後ろからスマホを覗き込むと、画面には大きな蝶々が写っていて、それに女性は何かを投げている様子であった。
みんな何かを捕まえたいのだろう。その日、珍しい何かを捕まえれば、その日は昨日とも一昨日とも違った今日となる。もはや、多くの人はそのような方法でしか、昨日と今日と明日の区別がつかないのでは無いだろうかと、僕は疲れた思考を回転させる。
しかし、パケモンに夢中になっている間にも、遠くの国では爆弾が炸裂し、この国のある島では機動隊と住民が衝突している。
だが、知らなければ何事も無かったのと同じであり、現在、人々の全てはパケモンなのかもしれなかった。パケモンは捕まえることは出来ても、爆弾を破裂させないことは出来ないし、機動隊と島の住民との衝突も止めることは出来ない。
きっと人々は、スマホを操作して、タッチ一つでそれらを簡単に止めることができるなら、みんな通勤電車の中で、爆弾の炸裂を止め、銃の乱射を止め、黒人と白人の衝突を止めることだろう。
でも、現実に１人が与えることができる影響は限られている。そして、無力感の代償として、出来る何かに打ち込んでいる。パケモンをゲットするということの意味を、深く、深く考えると、きっと発狂して、物語工場送りとなってしまうだろう。
だが、どうだろう。もし、１人が与えられる影響が、とてつもないものになったとしたら。世界に生きる100億人近い人々が、須（すべから）く時計を所持したとしたら。そうしたら、この世界、つまり、このコンビニ弁当工場みたいな世界は、どう変わってしまうのだろうか。
そして、僕がそんなバカなことを考えて立ち止まっているうち、ポツポツと雨が降り始めてしまった。
僕は、傘が無いことに気付いた。しかし、行かなくちゃ。ユーグレナを食べなければ。
僕は、家に向かって小走りで走り出しながら、再びパケモントレーナーたちの方を見る。すると、彼らは未だに夢中になってパケモンをしていた。弱い雨に打たれながら、パケモンに夢中になる人々。
彼らが、そこまでして忘れたいものは何なのだろうかと思いながら、僕は再びユーグレナのことを思い出し、雨脚強まる帰路を急いだ。
家に着くと、まず熱いシャワーを浴びて、風邪をひかないように、ソイレント・グリーンなミドリムシのラーメンに、チューブから出したニンニクを入れてお湯を注ぐ。
ニンニクは、後で入れれば良かったのかもしれないと若干の後悔を感じながらも、僕は、数億匹のミドリムシが閉じこめられた容器を置いたテーブルで、読みかけだったボルヘスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を読み始めた。
架空の国について紹介しているその作品は、ボルヘスの代表作として有名であった。それは、まるでゲームの中の世界の設定を語るようであったが、一方で、もし、この国が実在していたとしても、僕には実在していなかった場合との区別はつかないと思った。僕にとって、ウクバールが現実に存在していようが、していなかろうが、僕の日常は変わらないのである。それは、正直、外国の空港で何人死のうが、僕の職場は通常通り午前８時30分には出勤しないといけないし、トマトもいつも通り一個100円くらいで買わなければならないのと同じだった。実に、何も変わらないのである。
しかし、虚構の力は恐ろしい。
アメリカでポーランドの歴史について教えている大学教授が、悪戯な愉しみとして、嘘のポーランド文学をでっちあげて紹介したところ、誰もそれに気付かない。彼は、その体験から、虚構の歴史が、いかなる本物の歴史とも本質的には区別されないことを確認し、不思議な幻滅を覚える。
これは、カジミェジュ・ブランディスの『三番目のヘンリク』なのだが、虚構と過ぎ去ってしまった現実とは際どい違いしか無いことの恐怖というのが、この物語では際立っている。
過ぎ去った現実の前では、虚構も大いなる力を持っているのである。そして、現実とは、今という瞬間しか無い為、突き詰めていくと１秒前でも過ぎ去った現実である。つまり、一秒前の現実と虚構とは際どい違いしか持たないのだ。
虚構の力。
その力は、パケモンを捕まえるアプリも持っているし、そのアプリの延長線上で開発された理想の彼氏をスカウトしてアイドルに育てあげるアプリもそうだ。
それに、これもそうなのかもしれないと思い、僕はカバンから財布を取り出したが、一万円札しか無く、それはもったいないので、タンスの中にしまい込んでいた海外旅行用のドル紙幣の中から、１ドル札を取り出して破いてみた。
やっぱり、ただの紙切れである。実体としては、それ以上でも、それ以下でも無いのだ。
そういえば、通貨を破壊することは罪だったかもしれないと思いつつ、そんなことは無かっただろうと思い直す。罪とは、知っている為に裁かれるものであり、ゆえに巌窟王事件は問題になったのだ。
そういえば、小学生の頃、テレビで、なぜこんなにも大量の刑事ドラマを放送しているのか考えたことがある。だが、今思えば、その答えは巌窟王にあるのかもしれない。
「あなたは、彼を殺しましたね」
「ええ、殺しました」
「殺したことは罪ですね」
「いえ、殺人は罪とは知りませんでした」
「いえ、刑事ドラマは見たことあるでしょう」
「……分かりません」
「いえ、見たことあるでしょう。見た事無いはずなんて、ありえないですから」
「……」
「つまり、殺人を罪だと知らないなんてことはありえない」
まあ、そういうことなのだろう。
僕は、これまた際どいことを考えながら、何千万ものユーグレナの死骸が練り込まれたラーメンを啜る。
そして、たまたまつけたテレビでは、たまたまニュースをやっていて、明日でもいいのに、たまたま今日起こってしまった２つ目の凶悪な事件の話をしていた。
どうも重度の痴呆症患者が住まう施設に男が乱入し、32人を１人で殺したらしい。
ニュース番組では、たまに微笑みを垣間見せながら、キャスターと有識者とかいう人たちがセキュリティーの問題やサイコパスの問題、暴走する若者の問題について語り合っているが、どうやらネットでは「津山超え」のことばかりが話題になっている。
本音と建前。
ああ、どこまでも、この国らしいな、と感じながら、僕はユーグレナを啜る。
問題は何かとテレビの人たちは語っているが、そんなものは複合的すぎて分からないだろう。だが、それを語り合うことが楽しいことは理解できる。だから、ネット上で日々、無数の議論が巻き起こっているのだろうから。
だが、地図記号事件の犯人は何かに取り憑かれているとしか思えなかった。殺人を通して何かを表現しようとする欲求に支配されているように思えた。
もしかすると、犯人は何かに影響され、それに取り憑かれているのかもしれない。
この物語という虚構が溢れかえった世界には、今日も物語という虚構にヤク中のようにヒタヒタに漬かっていた人々が無数にいて、その中の何人かは、そのうち悪逆無道のドン・キホーテに成り代わり、自分が積み上げた正義のルールの旗の下で、今まで出来なかった行為を営むのである。
ドン・キホーテは、自分の中に世界を所有している。
それは、彼だけの世界であり、その世界のルールは現実と何も関係ないが、現実に影響を及ぼしうる。
そう、夢の国の奥にある狂気じみたアトラクションは「世界は一つ」と狂ったように歌い続けるが、世界とは決して一つではない。
世界は一つというのは、みんなが心の底から「ハイル、ヒトラー」と叫ぶ世界であり、みんなが心の底から賛美歌を熱唱する世界であり、みんなが心の底から市場主義の絶対性を信じる世界である。
そして、ご存知の通り、それは実現しなかった。
だが、POINT制は、それを達成しつつあるように思える。全ての人に、共通かつ絶対的な価値。それはシステムであり、枠組みであり、何が価値があり、価値が無いのかを決めるのは、複雑な数式と、もっと複雑な人工知能の仕事とされたが、特定の会社の歯磨き粉が優遇される日もあれば、別の会社の歯ブラシが優遇される日もあるので、恣意が含まれていないはずは無かった。
それにしてもポイントの効果は凄まじい。何が食べたいかという当然の感情ではなく、何ポイントになるかという不自然な目算により買い物客たちは行動しているのである。
これは、あれよりも１ポイント高い。しかし、これはさらに２ポイント高い。これは美味しそうだけどマイナスポイントだから今日は買えないけど、明日、アレと一緒に買えばポイントは下がらなくて済む。
ポイントは確実に、思考を侵蝕している。それは、昔の人が穢れという価値観の下に、行動を制限していたみたいでもある。
マイバックは当然になっている。それを持ってくるだけで、地球環境に貢献したとして一日３回まで５ポイントも加算されるのだ。中にはマイバックを忘れたことでパニックを起こして泣き出してしまうおばちゃんもいるくらいだ。
これも、ポイントが10億を超えれば天皇陛下から白綬褒章なるものが頂けるなどというデマを信じている人がいるせいだろうか。
それとも、老後に介護施設に入るには、ポイントが高い順から優先的に入ることになるという事実を知っているからであろうか。
それとも、１億ポイントを貯めて、一生仮想現実世界で暮らす権利を購入するための権利を手に入れようとしているのであろうか。
理由は、ただ日々を過ごしている僕にとっては意味不明であった。
正直、１年前は、もはや物語工場送りになった方が良いと思い、“アバターへの質問攻撃”という社会的な自殺を試みようと思ったこともあったことを懐かしく思い出した。
POINTシステムと我々を繋ぐインターフェイスは幾つかあり、その一つが“ドジオ”のようなドローンであるのだが、彼に対してしてはいけない質問が一つある。
それは、ポイントについて「なぜ」ということであり、ドローンたちにそれを聞くだけで、100ポイントも下げられてしまう。それはポイント加算食品10個分の努力である。
何故。
その問いかけが、「日常」という儚いものに向かう時、それは容易く切り裂かれてしまう。その切り裂かれた状態が精神疾患なのだと、POINTシステム設計メンバーの１人である新進気鋭の哲学者はインタビューに答えていた。故に、問いかけが生じないように「日常」をゲーム化してくれるPOINTシステムは「正しい」のだと。
一方で、一番賢い無得点〈ゼロ〉志願者は、アバターに対して問い続ける。
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なぜ、朝、一番最初に会った人に挨拶すると１ポイント加算なのか。
なぜ、田舎から都心に引っ越すと1000ポイント以上加算されるのか。
なぜ、結婚するとポイントが加算されて、離婚すると大幅にマイナスされるのか。
なぜ、POINTは存在しているのか。
なぜ、つまらない日常なのに、POINTの為に生き続けなければならないのか。
質問をしている様子自体が狂気の様相を呈していて、矯正施設に入った方がいいのかもしれないと思ってしまうが、問うてる方としては真剣なのだ。馬鹿馬鹿しい社会から逃走することに真剣になっているのである。
そして、これらの質問に、ドジオはニコニコしながら、「そうでございますですねー。ご質問も、ごもっともでございますですよー」と言う。一見、受け入れているように見えて、彼は完全に拒絶しており、終いには招待状〈エンジェル・レター〉が届くのだ。
招待状は、幸せを約束してくれる入居契約書だ。それにサインをすれば迎えのバスが来て手軽に物語工場に入居できるし、サインしなくても迎えの護送車が来て手荒に入居できる。
施設に入ったが最後、社会不適合者として、社会適応能力を“取り戻す”まで、施設内の種々の作業場でプログラミングをしたり、仮想現実用ソフトのグラフィックを整えたり、バグチェックをしたりして働かされ続けるのだ。それはまるで、社会適応能力が人間誰しもに備わっており、途中で失った為に“取り戻す”必要があると言っているようであり、何が普通〈ノーマル〉なのかの定義を厳しく社会に求めているのである。
物語工場に入れられると、外部との接触はほとんどできない。
気が変わって外の世界で生きたいと思っても出してもらえる訳は無く、出してもらう為に裁判を受けるとしても、手続きをする窓口の職員は休みがちである。
それに、物語工場への裁判を起こしたとしても、「あなたの幸福度の位相値は常に最高近辺を推移しています」と、VR生活での幸福度の高さが裏目に出て、勝つことは不可能である。身体の自由についても、それは社会不適合性の問題があり、医師の裁量であるとされる。
こうして、物語工場への入居は不可能だと悟った僕は、仕方なく毎日を生きてきたのだ。
僕は、ユーグレナを食べ終え、カバンの中を見た。そこにはニブい銀色に栄えている時計があり、僕はそれをまるで恋人かのように胸のところで抱きしめたのだった。
僕が、ユディトというTwitterアカウントを使う“彼女”に出逢ったのは、都心の百貨店の上にある英国式庭園のテラス席だった。
この無料で入れる都心のオアシスを知ってから、僕はぼんやりとしていたい昼下がりに度々訪れており、その日も人生を回想しながら、時計をいじりつつ、ぼんやりしていた。
「素敵な時計ですね」
見ると、色白で、すらっとした体格をしており、まるで未亡人かのような黒いワンピースを着た女性が、丸い机の向こう側に立っていた。邪険にするのは悪いと思い、愛想笑いをしてから返事をしたが、向こうはそれを受けいられた合図と了解したのか、勝手に僕の反対側の席に座ってしまった。
「暑いですね」
未亡人的ファッションの女性は、僕の意など介せず話を進める。その若さと整った顔がますます僕を不安にさせた。経験上、若くて美人なのに、焦点の合わない話をする人物は、かなり危険な人物のサインである。しかし、会話を無視するのも危ないと思ったので、質問をしてあげることにした。
「時計がお好きなのですか」
未亡人はニッコリ笑い、僕の時計を、まるでショーケースに鎮座している指輪をおねだりする様な感じで指差して、
「私も、この時計を気に入ってるんです」
僕は、即座に、この人はドン・キホーテの１人だと思い、身構えた。
警備員を呼んだ方がいいだろうか。携帯電話でも警察は１１０番で呼べただろうか。
久しぶりに、パニックを起こし、恐怖を感じた。窓口で、いかにも健康体の中年男性が保護を求めるので、窓口で生活保護には該当しないと断ったら、「お前に、ガソリンをまいて火をつけてやる！」と焦点の合わない眼差しで叫ばれたとき以来だ。
すると、女性は急に真剣な顔をして、こう小さく叫んだ。
「私、頭はおかしく無いわ」
僕は吹き出しそうだった。初対面で、人の時計を気に入っているという人間のどこが正気なのだろうか。
だが、女性は真剣な感じで話を続け、
「悪いけど、私も同じのを持っているのよ」
そう言って、彼女がバッグから取り出したのは、僕が持っているのと同じ、銀色の懐中時計だった。
僕は、自分の時計がとられたのかと思って、自分の掌を見たが、果たしてそこには時計が存在していた。
落ち着いて話を聞いてみると、女性はそこまでおかしな人ではなかった。いや、おかしな人だったが、僕が思っていた方向とは異なっていたというのが正しいだろう。
彼女は、未礼瑞希。年齢は、30代後半といった感じで、元々、テレビ局でディレクター職として雇われたらしいのだが、どうも度重なる過重労働により体調を崩し、ラジオ局の方へと回されたらしく、彼女にはそれが非常に不満だったという愚痴を自己紹介代わりとして、僕は聞かされたのだった。
「だいたい、何で不快な人間を消してしまうことが悪いことなのかしら」
澄んだ顔に浮かんだ睨みつけるような眼差しで英国式庭園を見つめながら、未礼は下の階で買った珈琲をストローでマズそうに啜る。彼女曰く、その店の珈琲を多くの人は有り難がって飲んでいるが、珈琲自体は間違いなくマズいということであった。
そんな乱暴なことは吐き捨てる彼女の横顔は、研ぎすまされた剣の様で、触ると切れてしまいそうな美しさに包まれていた。僕は、暫く彼女を眺めていると、彼女は急に僕の方に向き直って、
「殺すのは罪よ。刑法違反。それは私も知ってる。でもね」
彼女は気怠そうに左手で頬杖をついてから、右手で氷の入った珈琲の容器をカラカラと回して、
「不快な人間が死んでしまうこと自体は、実際に喜ぶ人や救われる人がいるわけ。分かる？」
僕は頷く。僕の頭の中に消えて欲しい人間の顔が何人か思い浮かぶ。それらの人間は、僕が今までに幾度となく考えた結果、何の社会的意義も持っていない人物であった。
そして、彼女は僕が頷いたことに対して嬉しそうに微笑んでから、
「様は、殺したという犯罪事実を証明できなければ罪では無いってこと」
そこで少し間が空いたので、僕はすかさず彼女に質問した。
「未礼さん。今の話は、何の話なのです？」
未礼は、そこで苦笑いした。
「ごめんなさい。最近、記憶が飛ぶのよね。話ってのは、この時計の話」
「でも、不快な人間を消してしまうって…」
未礼は再び苦笑いを作り直し、
「ははっ。そうよ、消してしまうの。最初は…そうね、婆さんをホームから突き落としたわ」
彼女は、テレビ局のディレクターとして働いていた去年、いつも出勤ラッシュのときに席を独占している老婆を殺したのだと言う。
「婆さんが、出勤ラッシュの電車に乗る必要は無いわ。時間を止めて持ち物を調べたけど、明らかに病院に行っているようだったし、大した病気じゃなかったから、腹が立って殺したの」
僕は何も言えなかった。時計を手に入れた時、そういった使い方は何度も考えたが、実行する勇気が無かったのだ。
「私は毎日深夜まで働いて、年収１千万近く稼いでいた。社会に貢献していたの。でもね、そんなに貢献している私ではなく、退屈そうにしている老人やスーツも着ていない若者が電車の席を埋めて座れないのは腹立たしい。許せない」
そして、満面の笑みを浮かべて、
「それで時計の残り時間が100時間も増えたのよ。これって最高にお得じゃない？」
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