第一章 地図記号と２つの時計
「神が存在しないのならば、私が神である」 ドストエフスキー『悪霊』
「即ち、『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている」 ドストエフスキー『罪と罰』ラスコーリニコフの言葉
呼んでも無いのに朝がやって来た。
職場で貸し出されているスマートフォンが鳴り響いたために起こされたのだが、聞こえなかったと自分に言い聞かせ、カーテンから漏れる光の方を睨みつける。
太陽なんて、死んでしまえばいいのに。
そんな小学生みたいなことを考えながら、最近アレルギー気味の目を擦って何とか布団から這い出す。そして、惰性の力でたどり着いたダイニングテーブル用の椅子にゾンビが崩れ落ちるようにして腰掛けると、テーブルの上に打ち捨てられているリモコンを手探りで操作してテレビをつけ、これまた惰性で朝のニュースを視始めた。
アイドルの恋愛、有名人の脱税、３ヶ月前の大地震、ホームから投身自殺した女子中学生２人。
アナウンサーたちが、時に悲しげに、時に嬉しげに語る内容は、毎朝同じメロディーの歌詞を聴いているかのように、何の感動も与えず、最近の曲みたいに、ただ通り過ぎて行く。
これもボードリヤールのいう消費社会の一面なのだろうかと考えていると、例のニュースができる限り抑揚の無い声で流れ始める。
「本日未明、渋谷区円山町で女性の変死体が発見されました。警察によると、現在発見されているのは女性の頭部のみで、胴体は発見されていないとのことです。付近での不審者の目撃情報は無く…」
知りたいのは、そんなことでは無い。
僕は取り憑かれたようにスマホを取り出し、「女性 頭部 円山町」と検索エンジンに入力する。
すると、既にネット上はお祭り騒ぎだった。
ニュースサイトやブログには憶測ばかりが事実かのように飛び交っていたが、全ての情報ソースで共通していたのは、「殺されたのは帝京電力に勤める20代の女性」、「見つかった頭部は胴体に見立てた冷蔵庫（ソースによっては洗濯機とされる）の上に置かれ、足として電子レンジが下に敷かれ、手には掃除機のホースが取り付けられていた」、そして、「顔面にはやはり地図記号が描かれており、それは黄色いペンキで塗られた発電所のマークがだった」という３点だった。
地図記号殺人事件。
いつの間にか、このような名前が付けられた連続猟奇殺人事件は、既に５件起き、11人の被害者が出ていた。
１件目では、帝京都の隣県である最果（さいはて）県熊山市の地元名士である郵便局長が殺された。顔には郵便局の地図記号が記され、火傷によりポストのように真っ赤に腫れ上がった皮膚には無数の切手が貼付けられており、その遺体はポストに縛り付けられていた。だが、このときは事件名「郵便局長殺人事件」として取り上げられ、被害者は周囲からの評判が必ずしも良くは無かったことから、怨恨の線で捜査されていた。
しかし、２件目が発生すると事態は変わってしまった。犯人は、これが通り魔的な猟奇殺人であることを知らしめるためか、事件現場を熊山市からは離れた万葉県湊市に移し、殺された郵便局長とは何の繋がりも無いと考えられる梨農家の一家三代全員を惨殺し、遺体を再び“展示”した−−−樹に実る梨の果実のように、切り取った７つの生首を梨の枝にぶら下げたのだ。そして、今度は顔に地図記号が描かれるのではなく、生首の頭上にワインのコルク抜きを捻（ねじ）り刺すことで、果樹園の地図記号が表現されていたのである。
この事件が報道された辺りから一部の雑誌が「地図記号殺人事件」の名称を使い始め、警察も、そのセンセーショナルな名称で捜査本部を立ち上げたのだ。
当然だが、世間では次はどのような地図記号が描かれるのかというのが話題になりはじめていた。
多くの人には、自分が当事者だという実感が無かった。のちに指摘されることだが、彼らは悪趣味な展覧会の観客だった。
考え方はこうだ。事件は、地図記号に関連する職に就いている人を狙っているが、意外にも地図記号に関連する職業というのは少ない。多くの場合、公共施設であり、普通の会社で働いていれば標的にはならないのではないか。そういう言説が飛び交い、大多数の人が観客になった。
さらに、仮名山県縦浜市で起きた３件目の事件が、世間を沸き立たせた。被害者は、縦浜市在住の20代の美人な看護師。その全裸体が天使のような羽を背中に付けられて、ポーズをとらされた状態で、最寄りの駅の前に展示されていたのだ。その容姿を強調する為か、今度は、顔でも身体の別の部位でもなく、赤いペンキで病院の地図記号が描かれた機動隊の盾が、その像の前に置かれており、まるで宗教画のような存在感を示していた。
しかも、この遺体の写真を心ない人が撮影し、その画像はSNSを介してネット中に拡散してしまった。テレビでは遺族がそのことについて深い悲しみを訴え、世論からは写真を拡散した人間は名誉毀損をしたのだから、賠償金を数千万単位で支払うべきだという怒りの声が挙げられた。しかし、世論とは誰だか、結局、今日まで分からずじまいである。
そしてここで、犯罪心理学の専門家と名乗る人々からではなく、日曜の討論番組で１人の芸人の口から、ふとした拍子に出た言葉が話題となる。
「何だか作品みたいですよね」
それは最初、不謹慎だというバッシングからスタートしたのだが、あるサイトに、３件目の事件の遺体がとっていたポーズは「サモトラケのニケ」と寸分違わない配置で固められていたという調査結果が掲載されたのだった。しかも、その遺体は、プラスティネーションという死体に樹脂を入れて保存する方法で固められており、この事実がただの遺体ではなく「美術品」であるという言説を強める根拠とされた。
しかし、プラスティネーションに関する情報は、警察関係者にしか分からないはずである。このことにマスコミが沸き立ち、警察は世論に押されて内部調査を実施。結果、捜査に参加していた鑑識の１人が、サイトを立ち上げたことが判明したとして、彼を懲戒処分としたのだった。
こうして、また１人吊るし上げにあったことで、世間は興奮の絶頂に達した。
このようにして地図記号殺人事件は、崩壊しつつあった「お茶の間」というものを再び熱狂させることになった。
次は何が起こるのだろう。誰が死に、どのように展示され、警察はどんな失態を演じるのだろう。
退屈で死にそうだった人々は、朝はテレビにかじりつき、昼になって公園のベンチや少しオシャレなカフェに集まって、一日に何度もこの事件のことを話題にした。
ある著名な心理学者は、公共放送のニュース番組にて、「この事件に興味をもつというのは、人間の死体が冒涜されることで人間の尊厳が侵されることを喜んでいるようなもの」と警鐘を鳴らしたが、そのような意見が聞き入れられるほど、人々は聖人では無かった。
しかし、４件目は犯人にとって逆風となってしまった。犯人は、なぜか敢えて非難が集中しそうな「子ども」というものを題材に選んで殺人を犯したのだ。
それは、帝京都の私立小学校のグラウンドで起きた。その日、一番乗りの小学生たちが嬉しそうに登校してきたとき、校庭になぜか動物たちがたくさんいた。不思議に思った少年たちは、近づいて見てみると、トラやパンダや色とりどりの動物たちがいた。それらは動くことは無く、ただじっとしていた。そして、彼らが恐る恐る、動物の森を通って、奥に行くと芭蕉の葉の上に、安らかに目を閉じている遺体があったのだ。
全ては同心円状に配置されていた。
中央に配置されたのは小学４年生の男の子の半裸の遺体。その周囲には、またもやプラスティネーションで固められた犬猫やインコやハトなどの鳥類、動物園から盗まれたと話題になっていたトラやチンパンジー、水牛にパンダなどが泣いているように見える形に固められて展示された。いつの間にかニュース番組では解説者に美術大学の教授を呼ぶようになっていたのだが、彼、彼女らは口を揃えて、この作品は「涅槃図」であるとした。
この事件で問題視されたのは、なぜ用務員や教師たちは小学生よりも早く出勤していたのに、この事態に気付かなかったのかということであった。当然、職員たちは口を揃えて、「自分たちが来たときには、遺体は無かった」と主張したが、逆に何故、これらが於かれたことに気付かなかったのかと記者会見の場で質問された校長や教頭、学校法人の顧問弁護士は口をつぐむしか無かった。
事件はますます謎に包まれた。
そんな状況の中、勇気ある芸術家のひとりが、生放送のニュース番組で告発した。
「自分は地図記号と関係ないと思って、この事件を一種のイベントとして見ている人は、観客として利用されているんですよ。犯人は明らかにSNSの反響を見て、作品の出来映えの評価基準としています。きっと次の事件は大衆迎合的なものになるでしょう」
彼が語った通り、５件目は一般のウケが良さそうな展示物となった。それは、警視庁の警察官だった。しかも、地図記号殺人事件の主担当のうちの１人で、犬の着ぐるみを着させられた上に、警視庁舎の正面外壁に屋上から手錠を幾つも繋げた命綱でつり下げられていたのだった。
これは明らかに挑戦状であった。
しかし、展示方法が誰でも思いつきそうなものであったために、多くの有識者とやらから、「犯人はアイディアの枯渇に苦しんでいる」と語った。
こういった経緯から、警察も捜査に躍起になっているという話を聞いていたが、それをあざ笑うかのように出た６件目、12人目の被害者であった。
ここまで、警察は何の手がかりも掴めていないというのが、ネット上の共通認識である。その認識が嘘か真かは分からないが、犯人が逮捕されていないというのは疑いようの無い事実である。マスコミは「日本の警察は優秀だ」とことあるごとに持ち上げてきたが、今回の事件では海外メディアが日本の警察能力に疑問の声を投げかけるなど、事態は前例のない方向へと向かっていた。
そんな状況下ではあったが、ネットの盛り上がり方は今日も尋常ではなく、
「12人目の犠牲者。安定した生活を営める人間やから狙われる」
「人生謳歌した勝ち組の末路」
「どうせ、風俗街で小遣い稼ぎに妙な仕事でもしてたんだろ」
といった風に、事件について好きなことが書き込まれていた。どうもネットの住人たちの共通認識として、「犯人は恵まれていない立場の人間」だというのがあるようだが、本当にそうなのだろうか。
きっと、たくさんの〈彼・彼女〉たちは、自分たちのヒーローとして、公務員や裕福な農家、大手の正社員たちを惨殺していく犯人を崇め奉っているのだろう。しかし、こういう人たちは自分が対象とされたとき、どのような反応を見せるのだろう。国土地理院が「ネット住民の家」という地図記号でも作ってくれて、お仲間が殺されてしまえば、と思ってしまう。
そうは言っても、このような書き込みを読んでいる時点で、自分も同類である。自分もそうだが、ネットで盛り上がりを見せている人間は、えてして自分は〈彼・彼女〉の仲間では無いと思っているのだろう。
そう考えて、僕は込み上がって来る自己嫌悪の波から逃げるかのように、最速ニュースサイトのウインドウを閉じた。これも一日で何回も繰り返している“日常”であり、いくら嫌悪を感じても止めることはできなかった。
「儀法院さん、どうもおはようございますですねー。あと、３分以内に顔を洗わないと、ポイントを逃しちゃいますですよー」
僕に語りかけてきたのは、スマホの中に生きている人工知能の“ドジオ”だ。人格を持っている彼は、にゅるにゅるとした手をモミモミしながら、手持ち無沙汰になった僕にすかさず話しかけてきたのだ。その姿は、ドジョウがタキシードを着たみたいになっており、ユルさと堅さが融合したキャラとして、そこそこの人気を誇っているらしい。キャラ設定としては、ドジだが憎めない中年オヤジが自殺をして、その魂がドジョウに乗り移ったという社会はな設定なのは、あまり有名ではないが、要はウケれば何でも良いのだろう。ドジョウでも、死体でも。
「あらら、こんな暗いニュースを見たら社会適合性が疑われて、ポイントが下がっちゃいますですねー。結婚が遠のきますですよぉお」
ポイントが足りないと役所は婚姻届を受理しない、なんてことは無いのだが、相手を選ぶときにポイントを見ない人間なんていない。ポイントが低い人間がパートナーだと保育所の優先順位も下がるし、医療費の補償も受けられない。それに家のローンも組んでもらうのは難しくなるだろう。
就職する時だって、企業側は「ポイントは選考対象にしていません」と口ではいうが、ポイントなんて興信所に照会すればすぐに分かるのだから、少なくとも最終選考の手前あたりでは情報として使っているに決まっている。聞いた話だと、出身大学だけでなく、就活サイトの個人情報登録欄に書いた自己申告のポイント数で、就職説明会が幹部候補の学生ばかりが集まっている回と、使い捨ての兵隊ばかりの回に区分けしているらしい。どおりで、企業の就職説明会のとき、会場で話しかけた相手に旧帝大出身者しかいなかった訳だと今更ながらに納得する。社会は知らないところで、意図していないにしても出逢いを制限している。ポイントが低い人間と、高い人間は会話することすら無いように。
要するに、ポイントが低い人間は社会的信用度が低いのだ。社会的信用度が低いと判断できる簡易で、便利な数字がポイントなのだ。
POINT〈ポイント〉とは、〈Perfect Oppoturnity to make your life more INTeresting ： あなたの人生をもっと面白くする絶好の機会〉の略であり、アメリカ合衆国で開発され、その制度が日本やその他先進国に輸入されたものである。
この制度の始まりといえるのが、2000年代にアメリカの心理学者によって書かれた『日常をゲーム化すると満足度や幸福度が上がる』と題された論文である。この論文の結論は、被験者のグループを２つに分けて何らかの課題を行わせた際、達成するとポイントが付与されるグループと、達成しても何ももらえないグループでは、前者の方が、その後行わせたアンケートでの満足度や幸福度が有意に高いというものであった。さらに、心電波や脈波、血中のインターロイキンやインターフェロン、ケモカインなどの濃度の数値に関しても、前者の方がストレスが少ないと考えられる数値であったという結果が出たとされた。
この論文はウケた。というのも、それなりの話題性があるためにアメリカ国内の学術雑誌だけでなく、TIME誌や新聞なども取り上げ、さらにはこの心理学者には教育関係の企業から共同研究の依頼が舞い込むなど嬉しい知らせが次々に届いた。
このような成功談は有名となり、研究のテーマに困っていた一部の心理学者達は、この心理学者の研究を真似した。日常のあらゆる場面を設定し、ゲーム化した実験群と、ゲーム化していない対照群の満足度や幸福度の比較を種々の方法で行い、次々と論文を発表することで、ゲーム化した方が満足度や幸福度は有意に高くなるという結論を乱発した。
こうして、人生の無駄だと思っている行動の一挙手一投足がポイントとして還元されることで、我々は幸せになれるという考えが徐々に広まっていった。
朝食を食べれば２ポイント、青信号を守れば３ポイント、歯を磨けば１ポイント。
そう、この考えに従って設計され、生きている事自体が無駄ではないという意識を植え付けてくれているシステムがPOINTなのである。
しかし、家の中でちゃんと朝食を食べているのか、歯を磨いているのかは、何らかのデータを測定しないと、それが行われたかどうかを客観的には判断できない。
つまり、POINT制度に参加したい人の家には監視カメラやモーションセンサーなどの機器が設置される必要性があるのだ。リビングにはそれらのセンサーが張り巡らされ、洗面台にも鏡の向こうにもカメラが置かれ、排水溝には歯磨き粉の成分を計測できるセンサーが備え付けられる必要があった。
だが、話は単純であった。POINT制度と同時に進行していた“拡張現実”というものが部屋の中の人の動きを感知する機器を、人々の家に備え付ける動機付けをしていた。
2010年代に家庭用ゲーム機の付属品として発売された仮想現実体験機。これは頭にヘッドギアを装着し、耳にイヤホンを付けることで、視聴覚を外界から遮断し、奥行きあるゲームの世界が実際に眼前に広がっているように錯覚させる技術であった。特に、同時期に発売された伝説的なアクションゲームとの相性が良かったのもあり、この機械は飛ぶように売れ、ゲーム好きだけでなく、それ以外のゲームに興味を持っていた人々にも飛び火して、一大ブームとなった。この現象に目をつけた企業たちは、この仮想現実体験機を発売した会社とタイアップすることで様々なサービスが巷にあふれた。その中の一つが、部屋を自由にコーディネートし、壁や家具を洋風にも和風にも宮殿のようにも“視覚的に”変えてしまうという技術であった。しかし、この技術は、仮想現実体験機を頭に装着するのはもちろんのこと、部屋にどういうものが置かれていて、どのような配置になっているというのを、その移動状況の把握も含め、定期的に部屋全体をスキャンする必要性を要求する為、部屋全体をスキャンできるセンサーを部屋に置く必要があったのだ。さらには、部屋の模様替えのメニューを動かしたり、選択したりするのも魔法のように行えた方がいいということで、指に角速度センサーなどを搭載した指輪をはめることで、指や腕の動き一つで行えるようにし、そのうち指輪をなくす人の為に、部屋全体の定期的なスキャンをするセンサーに、モーションセンサーが搭載されることになった。
この部屋の模様替えシステムは、日本で開発されたので、“KISEKAE”と呼ばれ、世界中に輸出された。これがアメリカにも2020年代には輸入された為、これがPOINTシステムの設計に用いられたのだ。
さらに、このような取り組みの裏には、当時のアメリカ合衆国で無差別テロが多発していたために、強行派のFBI長官や保守派議員などが対策として全家庭に監視装置を設置すべきだと強く主張していたという背景もあったし、“KISEKAE”で使えるセンサーではなく、売れもしないようなセンサーだらけの洗面台などの開発には国からの補助金が惜しみなく出された為に企業は協力したというのもあった。
だが、最初アメリカ国内でのPOINT制度は不評であった。近未来的な生活を実施したい物好きだけが享受する制度だったし、そもそも貯まったポイントはお金と交換できたものの、それは必ずしも魅力的だとは言えなかったのだ。
だが、企業側が自分たちの商品にポイントを付ければ他社の商品と差別化が図れるという発想に至ってから形勢は逆転した。一部の議員が、業界団体の意見を取り入れる形で法律制定に奔走し、遂に“食品等の製品に係るPOINT法”という法律が制定された。これは、“特定保健用食品”に認定されるような健康的な食品や、国産の素材を使った食品、その他様々な細かい条件を満たしていると、その満たした条件につき何ポイント加算していいかが決まっており、その合計ポイントを最大値として商品に付加して売ることができるという内容であった。そして、ポイント数を業界からの要請にあわせて、いつでも増減できるように、細部はFDAその他関係省庁の通達や省令で変更できるようにされた。
また、企業側の協力が得られたことで、ポイントの使い方も充実し、ポイントを使って特定の商品を買うことが出来るようになり、この制度を受け入れる家庭は徐々に増えて行った。
POINTシステムが導入される当初は、プライバシーの問題についての議論が盛んだったが、カフカが『城』で描いたように多くの人々には隠すような生活自体が存在しないのであり、自由意思で導入を決められたのもあって反発というものはほとんど存在しなかったのだ。
そして、過半数の家庭にPOINTシステムが導入された頃、貯まったポイントの新しく、そして最も影響力が在る使い方が導かれた。それは、新しい信用の尺度としての機能である。
この状況を、社会学者のマルティン・ハイネスキーは、自身が提起した思想である「出来事の鋳型（相似性）」を使い分析した。
ハイネスキーの「出来事の鋳型」とは、社会で起こっている出来事〈イベント〉とは常に他の出来事の相似形態であるというものであり、彼はその代表的なものとして、「カトリックとプロテスタントの抗争」、「日本で生じた密教系仏教と親鸞の浄土真宗の対立」、「資本主義と共産主義の対立」を挙げ、それらに共通した事項として「旧勢力に対して新勢力が効果的に対抗する際、旧勢力が良いとした価値そのものを否定する構図が存在する」とし、また、「何ラウンド目に相手をK.O.すると宣言し、それをことごとく実現したモハメド・アリ」と「雨乞いとして祈り続けることで雨を降らした密教の高僧」との間には、「宣言と実現から生まれるカリスマ性」があるとした。そして、ハイネスキーは、POINTシステムについても、「POINT制度が社会に浸透した経過は、貨幣制度のそれと類似していると考えられる。貨幣も統治者が鋳造してまずその制度を切り開き、その便利さに気付いた商人が広め、そして社会の全てとなった。POINT制度も同じだ。そのうちに社会の全てとなるだろう」と、少々批判的な口調で述べたが、それはPOINTの偉大な未来を約束する言葉として広まってしまった。
こうして、POINTは世界を支配した。僕自身、日本で導入された当初は、妙な新興宗教みたいで嫌だと思っていて絶対に使うことは無いと思っていたが、ドジオがいるスマートフォンに買い替えたように、いつの間にか家にセンサーを取り付けていた。好奇心と一人暮らしの寂しさに負けたが最後、今やドジオやPOINTの生活は考えられない。無くなると、全ての日常動作が、どうしようもなく虚しく、無意味に思えてしまうのだった。
「ほら、現実を直視しちゃダメでございますです。現実とはテレビを通して見るのが身体に良いのでございますですよ。あと、ニュースを見ることは基礎ポイントを下げないために必須だから仕方ないでございますですが、衛生上、せめてお顔は清潔であるべきですます」
ドジオは突然、ネットから拾ってきたと思われるコントを流し始めた。僕の好きなコンビの、僕の好きなタイプのコント。ドジオは、僕のことは何でも知っていて、理解してくれている。それは、この世に生きる多くの人について当てはまることだったし、また、同じようにドジオみたいなアバター以外は誰も僕やその他の僕に似たような人たちのことを知らないのである。
コントは中の上くらいには面白かった。それは僕の気持ちを最高に明るくする事はなかったが、なんとか顔を洗いに行ける程の気力は生み出してくれたのだ。
僕は廊下に出て、洗面所に入ると、自動的に電気が点く。出来るだけ気分が昂揚するように、ピンクや赤色をベースとして作られた化粧室に置かれた、真っ白な洗面台の前に立つと、頼んでも無いのに、鏡に僕の午前６時30分時点での累計ポイントが表示される。
2,174,320ポイント。
今の世の中、自分の名前よりも、このポイントの数の方が意味がありそうだ。
私は、５億ポイントです。あなたは？ 私は名乗る程のポイントではありません。
しかし、安部公房の“Sカルマ氏”のように、ある日、コンピューターの不都合かなにかで突然ポイントを失ったら、どうなってしまうのだろう？
それだけで社会不適合といえるのだろうか。昨日の自分と何ら変わっていないのに、ポイントを失っただけで矯正施設送りなのだろうか。
「最近は、朝食を食べる前にも歯磨きをすることが推奨されていますです。歯を磨いただけで１ポイントなのに、今週はスペシャルウィークなので、ポイント５倍ですますよー」
所詮、歯磨き粉を作っている会社の策略であり、案の定、テクラノーラ社のホワイトウィンスレットという新商品を使えば追加ポイントが３ポイントの５倍もつくと宣伝される。
「神が存在しないのならば、私が神である」 ドストエフスキー『悪霊』
「即ち、『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている」 ドストエフスキー『罪と罰』ラスコーリニコフの言葉
呼んでも無いのに朝がやって来た。
職場で貸し出されているスマートフォンが鳴り響いたために起こされたのだが、聞こえなかったと自分に言い聞かせ、カーテンから漏れる光の方を睨みつける。
太陽なんて、死んでしまえばいいのに。
そんな小学生みたいなことを考えながら、最近アレルギー気味の目を擦って何とか布団から這い出す。そして、惰性の力でたどり着いたダイニングテーブル用の椅子にゾンビが崩れ落ちるようにして腰掛けると、テーブルの上に打ち捨てられているリモコンを手探りで操作してテレビをつけ、これまた惰性で朝のニュースを視始めた。
アイドルの恋愛、有名人の脱税、３ヶ月前の大地震、ホームから投身自殺した女子中学生２人。
アナウンサーたちが、時に悲しげに、時に嬉しげに語る内容は、毎朝同じメロディーの歌詞を聴いているかのように、何の感動も与えず、最近の曲みたいに、ただ通り過ぎて行く。
これもボードリヤールのいう消費社会の一面なのだろうかと考えていると、例のニュースができる限り抑揚の無い声で流れ始める。
「本日未明、渋谷区円山町で女性の変死体が発見されました。警察によると、現在発見されているのは女性の頭部のみで、胴体は発見されていないとのことです。付近での不審者の目撃情報は無く…」
知りたいのは、そんなことでは無い。
僕は取り憑かれたようにスマホを取り出し、「女性 頭部 円山町」と検索エンジンに入力する。
すると、既にネット上はお祭り騒ぎだった。
ニュースサイトやブログには憶測ばかりが事実かのように飛び交っていたが、全ての情報ソースで共通していたのは、「殺されたのは帝京電力に勤める20代の女性」、「見つかった頭部は胴体に見立てた冷蔵庫（ソースによっては洗濯機とされる）の上に置かれ、足として電子レンジが下に敷かれ、手には掃除機のホースが取り付けられていた」、そして、「顔面にはやはり地図記号が描かれており、それは黄色いペンキで塗られた発電所のマークがだった」という３点だった。
地図記号殺人事件。
いつの間にか、このような名前が付けられた連続猟奇殺人事件は、既に５件起き、11人の被害者が出ていた。
１件目では、帝京都の隣県である最果（さいはて）県熊山市の地元名士である郵便局長が殺された。顔には郵便局の地図記号が記され、火傷によりポストのように真っ赤に腫れ上がった皮膚には無数の切手が貼付けられており、その遺体はポストに縛り付けられていた。だが、このときは事件名「郵便局長殺人事件」として取り上げられ、被害者は周囲からの評判が必ずしも良くは無かったことから、怨恨の線で捜査されていた。
しかし、２件目が発生すると事態は変わってしまった。犯人は、これが通り魔的な猟奇殺人であることを知らしめるためか、事件現場を熊山市からは離れた万葉県湊市に移し、殺された郵便局長とは何の繋がりも無いと考えられる梨農家の一家三代全員を惨殺し、遺体を再び“展示”した−−−樹に実る梨の果実のように、切り取った７つの生首を梨の枝にぶら下げたのだ。そして、今度は顔に地図記号が描かれるのではなく、生首の頭上にワインのコルク抜きを捻（ねじ）り刺すことで、果樹園の地図記号が表現されていたのである。
この事件が報道された辺りから一部の雑誌が「地図記号殺人事件」の名称を使い始め、警察も、そのセンセーショナルな名称で捜査本部を立ち上げたのだ。
当然だが、世間では次はどのような地図記号が描かれるのかというのが話題になりはじめていた。
多くの人には、自分が当事者だという実感が無かった。のちに指摘されることだが、彼らは悪趣味な展覧会の観客だった。
考え方はこうだ。事件は、地図記号に関連する職に就いている人を狙っているが、意外にも地図記号に関連する職業というのは少ない。多くの場合、公共施設であり、普通の会社で働いていれば標的にはならないのではないか。そういう言説が飛び交い、大多数の人が観客になった。
さらに、仮名山県縦浜市で起きた３件目の事件が、世間を沸き立たせた。被害者は、縦浜市在住の20代の美人な看護師。その全裸体が天使のような羽を背中に付けられて、ポーズをとらされた状態で、最寄りの駅の前に展示されていたのだ。その容姿を強調する為か、今度は、顔でも身体の別の部位でもなく、赤いペンキで病院の地図記号が描かれた機動隊の盾が、その像の前に置かれており、まるで宗教画のような存在感を示していた。
しかも、この遺体の写真を心ない人が撮影し、その画像はSNSを介してネット中に拡散してしまった。テレビでは遺族がそのことについて深い悲しみを訴え、世論からは写真を拡散した人間は名誉毀損をしたのだから、賠償金を数千万単位で支払うべきだという怒りの声が挙げられた。しかし、世論とは誰だか、結局、今日まで分からずじまいである。
そしてここで、犯罪心理学の専門家と名乗る人々からではなく、日曜の討論番組で１人の芸人の口から、ふとした拍子に出た言葉が話題となる。
「何だか作品みたいですよね」
それは最初、不謹慎だというバッシングからスタートしたのだが、あるサイトに、３件目の事件の遺体がとっていたポーズは「サモトラケのニケ」と寸分違わない配置で固められていたという調査結果が掲載されたのだった。しかも、その遺体は、プラスティネーションという死体に樹脂を入れて保存する方法で固められており、この事実がただの遺体ではなく「美術品」であるという言説を強める根拠とされた。
しかし、プラスティネーションに関する情報は、警察関係者にしか分からないはずである。このことにマスコミが沸き立ち、警察は世論に押されて内部調査を実施。結果、捜査に参加していた鑑識の１人が、サイトを立ち上げたことが判明したとして、彼を懲戒処分としたのだった。
こうして、また１人吊るし上げにあったことで、世間は興奮の絶頂に達した。
このようにして地図記号殺人事件は、崩壊しつつあった「お茶の間」というものを再び熱狂させることになった。
次は何が起こるのだろう。誰が死に、どのように展示され、警察はどんな失態を演じるのだろう。
退屈で死にそうだった人々は、朝はテレビにかじりつき、昼になって公園のベンチや少しオシャレなカフェに集まって、一日に何度もこの事件のことを話題にした。
ある著名な心理学者は、公共放送のニュース番組にて、「この事件に興味をもつというのは、人間の死体が冒涜されることで人間の尊厳が侵されることを喜んでいるようなもの」と警鐘を鳴らしたが、そのような意見が聞き入れられるほど、人々は聖人では無かった。
しかし、４件目は犯人にとって逆風となってしまった。犯人は、なぜか敢えて非難が集中しそうな「子ども」というものを題材に選んで殺人を犯したのだ。
それは、帝京都の私立小学校のグラウンドで起きた。その日、一番乗りの小学生たちが嬉しそうに登校してきたとき、校庭になぜか動物たちがたくさんいた。不思議に思った少年たちは、近づいて見てみると、トラやパンダや色とりどりの動物たちがいた。それらは動くことは無く、ただじっとしていた。そして、彼らが恐る恐る、動物の森を通って、奥に行くと芭蕉の葉の上に、安らかに目を閉じている遺体があったのだ。
全ては同心円状に配置されていた。
中央に配置されたのは小学４年生の男の子の半裸の遺体。その周囲には、またもやプラスティネーションで固められた犬猫やインコやハトなどの鳥類、動物園から盗まれたと話題になっていたトラやチンパンジー、水牛にパンダなどが泣いているように見える形に固められて展示された。いつの間にかニュース番組では解説者に美術大学の教授を呼ぶようになっていたのだが、彼、彼女らは口を揃えて、この作品は「涅槃図」であるとした。
この事件で問題視されたのは、なぜ用務員や教師たちは小学生よりも早く出勤していたのに、この事態に気付かなかったのかということであった。当然、職員たちは口を揃えて、「自分たちが来たときには、遺体は無かった」と主張したが、逆に何故、これらが於かれたことに気付かなかったのかと記者会見の場で質問された校長や教頭、学校法人の顧問弁護士は口をつぐむしか無かった。
事件はますます謎に包まれた。
そんな状況の中、勇気ある芸術家のひとりが、生放送のニュース番組で告発した。
「自分は地図記号と関係ないと思って、この事件を一種のイベントとして見ている人は、観客として利用されているんですよ。犯人は明らかにSNSの反響を見て、作品の出来映えの評価基準としています。きっと次の事件は大衆迎合的なものになるでしょう」
彼が語った通り、５件目は一般のウケが良さそうな展示物となった。それは、警視庁の警察官だった。しかも、地図記号殺人事件の主担当のうちの１人で、犬の着ぐるみを着させられた上に、警視庁舎の正面外壁に屋上から手錠を幾つも繋げた命綱でつり下げられていたのだった。
これは明らかに挑戦状であった。
しかし、展示方法が誰でも思いつきそうなものであったために、多くの有識者とやらから、「犯人はアイディアの枯渇に苦しんでいる」と語った。
こういった経緯から、警察も捜査に躍起になっているという話を聞いていたが、それをあざ笑うかのように出た６件目、12人目の被害者であった。
ここまで、警察は何の手がかりも掴めていないというのが、ネット上の共通認識である。その認識が嘘か真かは分からないが、犯人が逮捕されていないというのは疑いようの無い事実である。マスコミは「日本の警察は優秀だ」とことあるごとに持ち上げてきたが、今回の事件では海外メディアが日本の警察能力に疑問の声を投げかけるなど、事態は前例のない方向へと向かっていた。
そんな状況下ではあったが、ネットの盛り上がり方は今日も尋常ではなく、
「12人目の犠牲者。安定した生活を営める人間やから狙われる」
「人生謳歌した勝ち組の末路」
「どうせ、風俗街で小遣い稼ぎに妙な仕事でもしてたんだろ」
といった風に、事件について好きなことが書き込まれていた。どうもネットの住人たちの共通認識として、「犯人は恵まれていない立場の人間」だというのがあるようだが、本当にそうなのだろうか。
きっと、たくさんの〈彼・彼女〉たちは、自分たちのヒーローとして、公務員や裕福な農家、大手の正社員たちを惨殺していく犯人を崇め奉っているのだろう。しかし、こういう人たちは自分が対象とされたとき、どのような反応を見せるのだろう。国土地理院が「ネット住民の家」という地図記号でも作ってくれて、お仲間が殺されてしまえば、と思ってしまう。
そうは言っても、このような書き込みを読んでいる時点で、自分も同類である。自分もそうだが、ネットで盛り上がりを見せている人間は、えてして自分は〈彼・彼女〉の仲間では無いと思っているのだろう。
そう考えて、僕は込み上がって来る自己嫌悪の波から逃げるかのように、最速ニュースサイトのウインドウを閉じた。これも一日で何回も繰り返している“日常”であり、いくら嫌悪を感じても止めることはできなかった。
「儀法院さん、どうもおはようございますですねー。あと、３分以内に顔を洗わないと、ポイントを逃しちゃいますですよー」
僕に語りかけてきたのは、スマホの中に生きている人工知能の“ドジオ”だ。人格を持っている彼は、にゅるにゅるとした手をモミモミしながら、手持ち無沙汰になった僕にすかさず話しかけてきたのだ。その姿は、ドジョウがタキシードを着たみたいになっており、ユルさと堅さが融合したキャラとして、そこそこの人気を誇っているらしい。キャラ設定としては、ドジだが憎めない中年オヤジが自殺をして、その魂がドジョウに乗り移ったという社会はな設定なのは、あまり有名ではないが、要はウケれば何でも良いのだろう。ドジョウでも、死体でも。
「あらら、こんな暗いニュースを見たら社会適合性が疑われて、ポイントが下がっちゃいますですねー。結婚が遠のきますですよぉお」
ポイントが足りないと役所は婚姻届を受理しない、なんてことは無いのだが、相手を選ぶときにポイントを見ない人間なんていない。ポイントが低い人間がパートナーだと保育所の優先順位も下がるし、医療費の補償も受けられない。それに家のローンも組んでもらうのは難しくなるだろう。
就職する時だって、企業側は「ポイントは選考対象にしていません」と口ではいうが、ポイントなんて興信所に照会すればすぐに分かるのだから、少なくとも最終選考の手前あたりでは情報として使っているに決まっている。聞いた話だと、出身大学だけでなく、就活サイトの個人情報登録欄に書いた自己申告のポイント数で、就職説明会が幹部候補の学生ばかりが集まっている回と、使い捨ての兵隊ばかりの回に区分けしているらしい。どおりで、企業の就職説明会のとき、会場で話しかけた相手に旧帝大出身者しかいなかった訳だと今更ながらに納得する。社会は知らないところで、意図していないにしても出逢いを制限している。ポイントが低い人間と、高い人間は会話することすら無いように。
要するに、ポイントが低い人間は社会的信用度が低いのだ。社会的信用度が低いと判断できる簡易で、便利な数字がポイントなのだ。
POINT〈ポイント〉とは、〈Perfect Oppoturnity to make your life more INTeresting ： あなたの人生をもっと面白くする絶好の機会〉の略であり、アメリカ合衆国で開発され、その制度が日本やその他先進国に輸入されたものである。
この制度の始まりといえるのが、2000年代にアメリカの心理学者によって書かれた『日常をゲーム化すると満足度や幸福度が上がる』と題された論文である。この論文の結論は、被験者のグループを２つに分けて何らかの課題を行わせた際、達成するとポイントが付与されるグループと、達成しても何ももらえないグループでは、前者の方が、その後行わせたアンケートでの満足度や幸福度が有意に高いというものであった。さらに、心電波や脈波、血中のインターロイキンやインターフェロン、ケモカインなどの濃度の数値に関しても、前者の方がストレスが少ないと考えられる数値であったという結果が出たとされた。
この論文はウケた。というのも、それなりの話題性があるためにアメリカ国内の学術雑誌だけでなく、TIME誌や新聞なども取り上げ、さらにはこの心理学者には教育関係の企業から共同研究の依頼が舞い込むなど嬉しい知らせが次々に届いた。
このような成功談は有名となり、研究のテーマに困っていた一部の心理学者達は、この心理学者の研究を真似した。日常のあらゆる場面を設定し、ゲーム化した実験群と、ゲーム化していない対照群の満足度や幸福度の比較を種々の方法で行い、次々と論文を発表することで、ゲーム化した方が満足度や幸福度は有意に高くなるという結論を乱発した。
こうして、人生の無駄だと思っている行動の一挙手一投足がポイントとして還元されることで、我々は幸せになれるという考えが徐々に広まっていった。
朝食を食べれば２ポイント、青信号を守れば３ポイント、歯を磨けば１ポイント。
そう、この考えに従って設計され、生きている事自体が無駄ではないという意識を植え付けてくれているシステムがPOINTなのである。
しかし、家の中でちゃんと朝食を食べているのか、歯を磨いているのかは、何らかのデータを測定しないと、それが行われたかどうかを客観的には判断できない。
つまり、POINT制度に参加したい人の家には監視カメラやモーションセンサーなどの機器が設置される必要性があるのだ。リビングにはそれらのセンサーが張り巡らされ、洗面台にも鏡の向こうにもカメラが置かれ、排水溝には歯磨き粉の成分を計測できるセンサーが備え付けられる必要があった。
だが、話は単純であった。POINT制度と同時に進行していた“拡張現実”というものが部屋の中の人の動きを感知する機器を、人々の家に備え付ける動機付けをしていた。
2010年代に家庭用ゲーム機の付属品として発売された仮想現実体験機。これは頭にヘッドギアを装着し、耳にイヤホンを付けることで、視聴覚を外界から遮断し、奥行きあるゲームの世界が実際に眼前に広がっているように錯覚させる技術であった。特に、同時期に発売された伝説的なアクションゲームとの相性が良かったのもあり、この機械は飛ぶように売れ、ゲーム好きだけでなく、それ以外のゲームに興味を持っていた人々にも飛び火して、一大ブームとなった。この現象に目をつけた企業たちは、この仮想現実体験機を発売した会社とタイアップすることで様々なサービスが巷にあふれた。その中の一つが、部屋を自由にコーディネートし、壁や家具を洋風にも和風にも宮殿のようにも“視覚的に”変えてしまうという技術であった。しかし、この技術は、仮想現実体験機を頭に装着するのはもちろんのこと、部屋にどういうものが置かれていて、どのような配置になっているというのを、その移動状況の把握も含め、定期的に部屋全体をスキャンする必要性を要求する為、部屋全体をスキャンできるセンサーを部屋に置く必要があったのだ。さらには、部屋の模様替えのメニューを動かしたり、選択したりするのも魔法のように行えた方がいいということで、指に角速度センサーなどを搭載した指輪をはめることで、指や腕の動き一つで行えるようにし、そのうち指輪をなくす人の為に、部屋全体の定期的なスキャンをするセンサーに、モーションセンサーが搭載されることになった。
この部屋の模様替えシステムは、日本で開発されたので、“KISEKAE”と呼ばれ、世界中に輸出された。これがアメリカにも2020年代には輸入された為、これがPOINTシステムの設計に用いられたのだ。
さらに、このような取り組みの裏には、当時のアメリカ合衆国で無差別テロが多発していたために、強行派のFBI長官や保守派議員などが対策として全家庭に監視装置を設置すべきだと強く主張していたという背景もあったし、“KISEKAE”で使えるセンサーではなく、売れもしないようなセンサーだらけの洗面台などの開発には国からの補助金が惜しみなく出された為に企業は協力したというのもあった。
だが、最初アメリカ国内でのPOINT制度は不評であった。近未来的な生活を実施したい物好きだけが享受する制度だったし、そもそも貯まったポイントはお金と交換できたものの、それは必ずしも魅力的だとは言えなかったのだ。
だが、企業側が自分たちの商品にポイントを付ければ他社の商品と差別化が図れるという発想に至ってから形勢は逆転した。一部の議員が、業界団体の意見を取り入れる形で法律制定に奔走し、遂に“食品等の製品に係るPOINT法”という法律が制定された。これは、“特定保健用食品”に認定されるような健康的な食品や、国産の素材を使った食品、その他様々な細かい条件を満たしていると、その満たした条件につき何ポイント加算していいかが決まっており、その合計ポイントを最大値として商品に付加して売ることができるという内容であった。そして、ポイント数を業界からの要請にあわせて、いつでも増減できるように、細部はFDAその他関係省庁の通達や省令で変更できるようにされた。
また、企業側の協力が得られたことで、ポイントの使い方も充実し、ポイントを使って特定の商品を買うことが出来るようになり、この制度を受け入れる家庭は徐々に増えて行った。
POINTシステムが導入される当初は、プライバシーの問題についての議論が盛んだったが、カフカが『城』で描いたように多くの人々には隠すような生活自体が存在しないのであり、自由意思で導入を決められたのもあって反発というものはほとんど存在しなかったのだ。
そして、過半数の家庭にPOINTシステムが導入された頃、貯まったポイントの新しく、そして最も影響力が在る使い方が導かれた。それは、新しい信用の尺度としての機能である。
この状況を、社会学者のマルティン・ハイネスキーは、自身が提起した思想である「出来事の鋳型（相似性）」を使い分析した。
ハイネスキーの「出来事の鋳型」とは、社会で起こっている出来事〈イベント〉とは常に他の出来事の相似形態であるというものであり、彼はその代表的なものとして、「カトリックとプロテスタントの抗争」、「日本で生じた密教系仏教と親鸞の浄土真宗の対立」、「資本主義と共産主義の対立」を挙げ、それらに共通した事項として「旧勢力に対して新勢力が効果的に対抗する際、旧勢力が良いとした価値そのものを否定する構図が存在する」とし、また、「何ラウンド目に相手をK.O.すると宣言し、それをことごとく実現したモハメド・アリ」と「雨乞いとして祈り続けることで雨を降らした密教の高僧」との間には、「宣言と実現から生まれるカリスマ性」があるとした。そして、ハイネスキーは、POINTシステムについても、「POINT制度が社会に浸透した経過は、貨幣制度のそれと類似していると考えられる。貨幣も統治者が鋳造してまずその制度を切り開き、その便利さに気付いた商人が広め、そして社会の全てとなった。POINT制度も同じだ。そのうちに社会の全てとなるだろう」と、少々批判的な口調で述べたが、それはPOINTの偉大な未来を約束する言葉として広まってしまった。
こうして、POINTは世界を支配した。僕自身、日本で導入された当初は、妙な新興宗教みたいで嫌だと思っていて絶対に使うことは無いと思っていたが、ドジオがいるスマートフォンに買い替えたように、いつの間にか家にセンサーを取り付けていた。好奇心と一人暮らしの寂しさに負けたが最後、今やドジオやPOINTの生活は考えられない。無くなると、全ての日常動作が、どうしようもなく虚しく、無意味に思えてしまうのだった。
「ほら、現実を直視しちゃダメでございますです。現実とはテレビを通して見るのが身体に良いのでございますですよ。あと、ニュースを見ることは基礎ポイントを下げないために必須だから仕方ないでございますですが、衛生上、せめてお顔は清潔であるべきですます」
ドジオは突然、ネットから拾ってきたと思われるコントを流し始めた。僕の好きなコンビの、僕の好きなタイプのコント。ドジオは、僕のことは何でも知っていて、理解してくれている。それは、この世に生きる多くの人について当てはまることだったし、また、同じようにドジオみたいなアバター以外は誰も僕やその他の僕に似たような人たちのことを知らないのである。
コントは中の上くらいには面白かった。それは僕の気持ちを最高に明るくする事はなかったが、なんとか顔を洗いに行ける程の気力は生み出してくれたのだ。
僕は廊下に出て、洗面所に入ると、自動的に電気が点く。出来るだけ気分が昂揚するように、ピンクや赤色をベースとして作られた化粧室に置かれた、真っ白な洗面台の前に立つと、頼んでも無いのに、鏡に僕の午前６時30分時点での累計ポイントが表示される。
2,174,320ポイント。
今の世の中、自分の名前よりも、このポイントの数の方が意味がありそうだ。
私は、５億ポイントです。あなたは？ 私は名乗る程のポイントではありません。
しかし、安部公房の“Sカルマ氏”のように、ある日、コンピューターの不都合かなにかで突然ポイントを失ったら、どうなってしまうのだろう？
それだけで社会不適合といえるのだろうか。昨日の自分と何ら変わっていないのに、ポイントを失っただけで矯正施設送りなのだろうか。
「最近は、朝食を食べる前にも歯磨きをすることが推奨されていますです。歯を磨いただけで１ポイントなのに、今週はスペシャルウィークなので、ポイント５倍ですますよー」
所詮、歯磨き粉を作っている会社の策略であり、案の定、テクラノーラ社のホワイトウィンスレットという新商品を使えば追加ポイントが３ポイントの５倍もつくと宣伝される。
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コメント(18)
俺は、食前の歯磨きはしなかった。社会に対するささやかな抵抗。だが、それは誰にもいえないし、虚しさしか生産しないのは分かっているのだが、やらないと自分というものを失ってしまいそうだった。
出来るだけ社会に逆らって生きていこう。人生に挫折してから、それが僕のモットーとなっていた。
大丈夫。今の仕事を続けている限り、退屈では在るが、基礎ポイントとして150万ポイントもつくのである。それさえあれば、矯正施設送りになることはない。
だが、そもそも、自分なんてものが存在するのだろうか。
寺山修司は、ドラマトゥルギーという考えにこだわり、人間というものは社会という舞台で、何らかの役を演じているにすぎないとした。僕もそのように社会のことを捉えているが、この2030年の日本で寺山修司の著作を読む人間が果たして何人いるのかは分からなかった。
読書にもポイントが存在する。通常、本を借りて読めば、１冊当たり最低でも１ポイントはつくし、いわゆる“推奨図書”の中には読むだけで100ポイントもつくものが存在する。たとえば、孔子の書いた本や『楠木正成伝』みたいな国に尽くす人物の物語なんてのは、高ポイント図書であり、内容に興味も持たないような連中が入試や就活に有利になる為に借りて行くのだった。
もはや読書とは、そういうものであるし、生きるということ自体も、そういうものに成り下がっている。
高得点〈ハイポイント〉か無得点〈ポイントレス〉か。高校生の言葉を使えば、ハイポイか、ポイレスか。つまり、“to be or not to be”であり、まさしく“that's the problem”なのだ。
だが、本の中には１ポイントもつかないものが存在する。寺山修司の本の多くはそうであり、常に上を目指す人たちからしてみれば彼の本を読むことは、非常に“無得点〈ポイントレス〉な”行為である。
数年前は、『キャッチ22』など、マイナスポイントの図書も存在したようであるが、どこかの物好きな人が国を相手取って裁判を行い、結局は５年もかけて最高裁まで争い、そこで「図書を借りることについてマイナスポイントを付けるのは、憲法第19条に反する」と判決が下され、国はしぶしぶ制度を変えたのであった。
こんなことで５年も争うなんて、カフカの『城』みたいであるが、彼のおかげで読書をしてポイントが減って行くという理不尽は無くなったのだが、一部の“無得点〈ゼロ〉”志願者にとっては、『キャッチ22』を借りることは簡単にポイントをゼロにする方法であったが故に、反発もあったようだ。
人生とは、難しい。
しかし、こんな世の中で、相当数の殺人を犯している地図記号殺人事件の犯人のポイントはどうなっているのだろう。
それは僕の最大の関心ごとなのだが、無得点〈ゼロ〉の人間が次々に矯正施設送りになっている現状を考えると、犯罪を犯している〈彼・彼女〉は、無得点者である可能性は極めて低い。
僕は考えるだけで身震いをしてう。無職だったり、一日家から出なかったりするだけで、1000ポイント単位でポイントが下がって行く世の中である。ましてや、無職であると基礎ポイントを失うのだから、ポイントをゼロにしてしまうのは難しいことではない。
それを考えると、犯人は日々、社会の中で何の変哲も無く生きていることになる。となると、やはり彼も“特別な”人間なのだ。
僕は、洗顔を終え、リビングに戻って時計を見た。スマホについているものではなく、アフリカに旅行した際に買った木彫りの箱の中にしまい込んでいる、あの銀の懐中時計だ。
箱を開けると、朝の日差しを浴びた時計は、まばゆい銀色に光り、これを手にした自分の特別さを演出してくれていた。
退屈な人生を変えてくれる時計。ポイントに怯えなくて済む時計。社会契約という億劫なものを全て否定してくれる静かだが暴力的な時計。
こんな社会の方向性を否定する為に、超自然的な存在が−−−それは“神”と言っても差し支えないのかもしれないが−−−この時計を与えてくれたのだろう。僕は、この時計がいつの間にか自分に与えられた理由を、そう解釈していた。
“人生はPOINTだ〈Life is POINT〉”
ドジオが勝手に付けたと思われるテレビからは、中堅どころの芸人が缶ビールを掲げて、みんなとバーベキューを楽しむという元気のいいビールのコマーシャルが流れてきた。
出来るだけ社会に逆らって生きていこう。人生に挫折してから、それが僕のモットーとなっていた。
大丈夫。今の仕事を続けている限り、退屈では在るが、基礎ポイントとして150万ポイントもつくのである。それさえあれば、矯正施設送りになることはない。
だが、そもそも、自分なんてものが存在するのだろうか。
寺山修司は、ドラマトゥルギーという考えにこだわり、人間というものは社会という舞台で、何らかの役を演じているにすぎないとした。僕もそのように社会のことを捉えているが、この2030年の日本で寺山修司の著作を読む人間が果たして何人いるのかは分からなかった。
読書にもポイントが存在する。通常、本を借りて読めば、１冊当たり最低でも１ポイントはつくし、いわゆる“推奨図書”の中には読むだけで100ポイントもつくものが存在する。たとえば、孔子の書いた本や『楠木正成伝』みたいな国に尽くす人物の物語なんてのは、高ポイント図書であり、内容に興味も持たないような連中が入試や就活に有利になる為に借りて行くのだった。
もはや読書とは、そういうものであるし、生きるということ自体も、そういうものに成り下がっている。
高得点〈ハイポイント〉か無得点〈ポイントレス〉か。高校生の言葉を使えば、ハイポイか、ポイレスか。つまり、“to be or not to be”であり、まさしく“that's the problem”なのだ。
だが、本の中には１ポイントもつかないものが存在する。寺山修司の本の多くはそうであり、常に上を目指す人たちからしてみれば彼の本を読むことは、非常に“無得点〈ポイントレス〉な”行為である。
数年前は、『キャッチ22』など、マイナスポイントの図書も存在したようであるが、どこかの物好きな人が国を相手取って裁判を行い、結局は５年もかけて最高裁まで争い、そこで「図書を借りることについてマイナスポイントを付けるのは、憲法第19条に反する」と判決が下され、国はしぶしぶ制度を変えたのであった。
こんなことで５年も争うなんて、カフカの『城』みたいであるが、彼のおかげで読書をしてポイントが減って行くという理不尽は無くなったのだが、一部の“無得点〈ゼロ〉”志願者にとっては、『キャッチ22』を借りることは簡単にポイントをゼロにする方法であったが故に、反発もあったようだ。
人生とは、難しい。
しかし、こんな世の中で、相当数の殺人を犯している地図記号殺人事件の犯人のポイントはどうなっているのだろう。
それは僕の最大の関心ごとなのだが、無得点〈ゼロ〉の人間が次々に矯正施設送りになっている現状を考えると、犯罪を犯している〈彼・彼女〉は、無得点者である可能性は極めて低い。
僕は考えるだけで身震いをしてう。無職だったり、一日家から出なかったりするだけで、1000ポイント単位でポイントが下がって行く世の中である。ましてや、無職であると基礎ポイントを失うのだから、ポイントをゼロにしてしまうのは難しいことではない。
それを考えると、犯人は日々、社会の中で何の変哲も無く生きていることになる。となると、やはり彼も“特別な”人間なのだ。
僕は、洗顔を終え、リビングに戻って時計を見た。スマホについているものではなく、アフリカに旅行した際に買った木彫りの箱の中にしまい込んでいる、あの銀の懐中時計だ。
箱を開けると、朝の日差しを浴びた時計は、まばゆい銀色に光り、これを手にした自分の特別さを演出してくれていた。
退屈な人生を変えてくれる時計。ポイントに怯えなくて済む時計。社会契約という億劫なものを全て否定してくれる静かだが暴力的な時計。
こんな社会の方向性を否定する為に、超自然的な存在が−−−それは“神”と言っても差し支えないのかもしれないが−−−この時計を与えてくれたのだろう。僕は、この時計がいつの間にか自分に与えられた理由を、そう解釈していた。
“人生はPOINTだ〈Life is POINT〉”
ドジオが勝手に付けたと思われるテレビからは、中堅どころの芸人が缶ビールを掲げて、みんなとバーベキューを楽しむという元気のいいビールのコマーシャルが流れてきた。
そのキャッチフレーズを、僕は社会に対する皮肉だと思った。
生物というのは特徴的なセンサーを持った機械である。魚は流れに逆らって泳ぎ、ノミは酪酸が漂う方へ向かって飛び、コウモリは超音波がすぐに跳ね返って来るところを避けて飛ぶ。人間は、POINTが最大になるように行動するセンサーを持った機械になって行くだろう。まさに「人生はPOINT」だ。この社会でいう社会適合性というのはそういうものなのだ。笑えてきてしまう。
そんなくだらないことを考えていると、家を出ないと行けない時間の５分前になっていた。僕は慌てて身支度をし、家を飛び出そうとする。
しかし、玄関で靴を履いているとき、仕事用のスマホを忘れたのを思い出し、それを取りに戻る。ベッドの横に置かれたスマホは、メッセージの着信があったことを報せる緑の光が点滅している。
そうだ。緊急連絡があったのだ。
僕は朝の電話を思い出し、スマホを開くと職場の課長補佐からメッセージが届いていた。
“昨日の晩遅くに警察から連絡があって、今日、話を聞きたいらしい”
何だろう。もしかして、自分の行いがバレてしまっているのだろうか。
しかし、そのメッセージには続きがあり、“儀法院君だけじゃ無いから、ご安心を（笑）”と課長補佐らしいコメントがついていた。
警察がみんなに聞きたい話とは何なのだろう。もしかすると、方便だという可能性もある。自分を捕らえる為の。
しかし、自分がやっているのは犯罪ではないと、僕は思っている。思いやりである。少なくとも“ユディト”と話して、そう理解した。そう、この家畜工場のような世界から苦しまずに解放してあげること。つまり、最大の思いやり。
僕は、マンションの階段を一歩一歩降りながら、言い訳を考えていた。
だが、本当に自分の罪が問われるなら、そもそも課長補佐から「警察が話を聞きたいらしい」と連絡が入るだろうか。いや、それは無いだろう。逃げられたら終わりだし、わざわざ職場で事情聴取を行うくらいに警察側に確信があるのなら、出勤直後に身柄を押さえる方が簡単な話ではないか。
そうだ、捕まることなんて無い。僕は、そう考えてポケットに忍ばせた“銀時計”を握りしめた。
通勤電車に乗り込むと、“ユディト”からTwitterのメッセージで連絡が入っていた。
“日曜は、午後１時に”
復讐の女神は、常に刺激的だ。まるで美味しいランチの店を見つけるかのように、“それ”を発掘する。
だが、僕は返事を返さなかった。いや、返せなかった。自分が警察から疑われているかもしれないのだ。警察の技術を侮ってはいけない。スマホの連絡なんて監視しようと思えば、いくらでもできるのだろう。
とはいえ、内部の面倒な決裁を取って許可を得て、会社に照会をしなければ盗聴ができないのは同じ役所の人間なので理解している。しかし、それでもリスクは犯したく無い。
僕は、処刑台に赴く気分で電車に揺られていた。いつも以上に憂鬱な電車。しかし、いつもの憂鬱な通勤では感じない、そこはかとない「生きている」という実感があった。追われること。それは祖先である原始人が感じていた最大の興奮であろう。それが自分の遺伝子にも組み込まれているのだろう。そして、自分を取り調べることになる刑事は“追いかける”喜びを感じている人間に違いない。結局は、原始時代と変わらない。これも、ハイネスキーの鋳型理論に当てはまることなのかもしれないと、今日何回目かの皮肉な感傷に浸ったのだった。
「話を聞かせてもらう前に…本当に、儀法院なのか？」
僕の職場である湊市役所の一室に設けられた刑事との面談場。刑事の風貌を見て、どことなく見た覚えのある顔、聞いた事のある声だと思っていたが、僕は思い出せないでいた。しかし、儀法院という名字を呼び捨てにする感じが、遠い記憶を甦らせた。
「狗應？」
その言葉を聞いて、無愛想だった刑事は、にこやかで人間味のある表情を見せた。
「人間に興味無さそうだった儀法院が覚えてくれているとはな。俺も、世界史の教科書に載っている歴史上の人物並みってことか」
ああ、そうだ。狗應、狗應浅信だ。如何にも運動神経が良さそうな身体つきで、長身、顔立ちも整っているが、昔から皮肉屋だった。その個性は確かに警察向きなのかもしれない。
「高校のときも、世界史の登場人物だけでなく、クラスの半分くらいは名前を覚えてたよ」
僕が、冗談まじりでそう伝えると、狗應は、
「俺は今でも半分以上は覚えてるよ。お前と違って、博識である必要が無いんでね」
と、再び皮肉を述べていた。
生物というのは特徴的なセンサーを持った機械である。魚は流れに逆らって泳ぎ、ノミは酪酸が漂う方へ向かって飛び、コウモリは超音波がすぐに跳ね返って来るところを避けて飛ぶ。人間は、POINTが最大になるように行動するセンサーを持った機械になって行くだろう。まさに「人生はPOINT」だ。この社会でいう社会適合性というのはそういうものなのだ。笑えてきてしまう。
そんなくだらないことを考えていると、家を出ないと行けない時間の５分前になっていた。僕は慌てて身支度をし、家を飛び出そうとする。
しかし、玄関で靴を履いているとき、仕事用のスマホを忘れたのを思い出し、それを取りに戻る。ベッドの横に置かれたスマホは、メッセージの着信があったことを報せる緑の光が点滅している。
そうだ。緊急連絡があったのだ。
僕は朝の電話を思い出し、スマホを開くと職場の課長補佐からメッセージが届いていた。
“昨日の晩遅くに警察から連絡があって、今日、話を聞きたいらしい”
何だろう。もしかして、自分の行いがバレてしまっているのだろうか。
しかし、そのメッセージには続きがあり、“儀法院君だけじゃ無いから、ご安心を（笑）”と課長補佐らしいコメントがついていた。
警察がみんなに聞きたい話とは何なのだろう。もしかすると、方便だという可能性もある。自分を捕らえる為の。
しかし、自分がやっているのは犯罪ではないと、僕は思っている。思いやりである。少なくとも“ユディト”と話して、そう理解した。そう、この家畜工場のような世界から苦しまずに解放してあげること。つまり、最大の思いやり。
僕は、マンションの階段を一歩一歩降りながら、言い訳を考えていた。
だが、本当に自分の罪が問われるなら、そもそも課長補佐から「警察が話を聞きたいらしい」と連絡が入るだろうか。いや、それは無いだろう。逃げられたら終わりだし、わざわざ職場で事情聴取を行うくらいに警察側に確信があるのなら、出勤直後に身柄を押さえる方が簡単な話ではないか。
そうだ、捕まることなんて無い。僕は、そう考えてポケットに忍ばせた“銀時計”を握りしめた。
通勤電車に乗り込むと、“ユディト”からTwitterのメッセージで連絡が入っていた。
“日曜は、午後１時に”
復讐の女神は、常に刺激的だ。まるで美味しいランチの店を見つけるかのように、“それ”を発掘する。
だが、僕は返事を返さなかった。いや、返せなかった。自分が警察から疑われているかもしれないのだ。警察の技術を侮ってはいけない。スマホの連絡なんて監視しようと思えば、いくらでもできるのだろう。
とはいえ、内部の面倒な決裁を取って許可を得て、会社に照会をしなければ盗聴ができないのは同じ役所の人間なので理解している。しかし、それでもリスクは犯したく無い。
僕は、処刑台に赴く気分で電車に揺られていた。いつも以上に憂鬱な電車。しかし、いつもの憂鬱な通勤では感じない、そこはかとない「生きている」という実感があった。追われること。それは祖先である原始人が感じていた最大の興奮であろう。それが自分の遺伝子にも組み込まれているのだろう。そして、自分を取り調べることになる刑事は“追いかける”喜びを感じている人間に違いない。結局は、原始時代と変わらない。これも、ハイネスキーの鋳型理論に当てはまることなのかもしれないと、今日何回目かの皮肉な感傷に浸ったのだった。
「話を聞かせてもらう前に…本当に、儀法院なのか？」
僕の職場である湊市役所の一室に設けられた刑事との面談場。刑事の風貌を見て、どことなく見た覚えのある顔、聞いた事のある声だと思っていたが、僕は思い出せないでいた。しかし、儀法院という名字を呼び捨てにする感じが、遠い記憶を甦らせた。
「狗應？」
その言葉を聞いて、無愛想だった刑事は、にこやかで人間味のある表情を見せた。
「人間に興味無さそうだった儀法院が覚えてくれているとはな。俺も、世界史の教科書に載っている歴史上の人物並みってことか」
ああ、そうだ。狗應、狗應浅信だ。如何にも運動神経が良さそうな身体つきで、長身、顔立ちも整っているが、昔から皮肉屋だった。その個性は確かに警察向きなのかもしれない。
「高校のときも、世界史の登場人物だけでなく、クラスの半分くらいは名前を覚えてたよ」
僕が、冗談まじりでそう伝えると、狗應は、
「俺は今でも半分以上は覚えてるよ。お前と違って、博識である必要が無いんでね」
と、再び皮肉を述べていた。
>>[14]
まだ全部読めていません…&横からですみません。
途中まで読んだ段階ですが、いつものおたけさんの濃縮された世界、洗練された文章が光っているのだけはわかりました。ゆっくり読もうと思います。
確かに説明は多いなと感じました。
そして読んでいて率直に感じたのは、「SFの世界にも、好奇心をそそらせたり、ドキドキさせられたり、なにか心の動きが欲しい」「主人公や物語がいきいきと動き出すのが早く見たい」ということでした。説明は頭で受け取る情報だと思うので、早い段階で心にも訴えかける何かがほしかったです。
たとえば、猟奇殺人に関しての事実を、新聞記事のような説明で読むか、ストーリーとしてその場にいるかのような臨場感を味わいながら読むか？の違いです。もちろん、どちらが正解で、臨場感を出すべきということではないです。
バランスなのかなぁ、と思います。
偉そうにすみません。わたしが普段SF読まないからこんな感想を感じたのかもです。
まだ全部読めていません…&横からですみません。
途中まで読んだ段階ですが、いつものおたけさんの濃縮された世界、洗練された文章が光っているのだけはわかりました。ゆっくり読もうと思います。
確かに説明は多いなと感じました。
そして読んでいて率直に感じたのは、「SFの世界にも、好奇心をそそらせたり、ドキドキさせられたり、なにか心の動きが欲しい」「主人公や物語がいきいきと動き出すのが早く見たい」ということでした。説明は頭で受け取る情報だと思うので、早い段階で心にも訴えかける何かがほしかったです。
たとえば、猟奇殺人に関しての事実を、新聞記事のような説明で読むか、ストーリーとしてその場にいるかのような臨場感を味わいながら読むか？の違いです。もちろん、どちらが正解で、臨場感を出すべきということではないです。
バランスなのかなぁ、と思います。
偉そうにすみません。わたしが普段SF読まないからこんな感想を感じたのかもです。
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