三題噺 紅茶 鼻 こけし
『お兄ちゃん、お願いがあるの』
突然の妹の電話から着信を告げた時、俺は電話番号が故障したのではないかと目を疑った。これは誤植などではない。電話番号が故障したのだと思ったのだ。
一応家族のアドレスを念のために携帯に登録していたものの、今までの人生を振り返ってみても妹から電話がかかってきたことなど一度もなかったし、これから先も永遠にないのだろうと思っていた。
友人関係を大切にする性分からもう10年以上連絡どころか生きているか死んでいるかもわからない、顔も思い出せない友人のアドレスを登録したままにしていた。だから妹のアドレスが残っていたのだ。
携帯に表示された『妹』の名前に、もしかしたら交通事故で死んだか、はたまた借金でもして俺の元に催促でもきたのかと訝しげながら電話にでた。
まずお兄ちゃんなどと妹から媚びたように言われることなど一度もなかったし、正直な話、悪寒で震える思いだった。うちの兄妹は俺が妹を呼ぶ時は「おい」とか「小っちゃいの」だったし、向こうからは「デカブツ」「そこの」などと呼ばれることが普通だったのだ。歳をとるとそれはより悪化し、お互いがその存在を認めることがなくなってしまった。だから俺は知識として妹の名前を知ってはいるものの、おそらく口にしたことは一度もないし、それは向こうも同じはずである。
こういうと非常に仲が悪いようであるが、そんなことはない。ただ、妹とは7も歳が離れており、俺が18の時に家を出て、この十数年間、ほとんど帰っていないことを考えれば当然の話かもしれない。
新手のオレオレ詐欺ならぬ妹詐欺かと思いながら話を聞く。おそらくこの世の中の妹がいない男ほど引っかかるであろう詐欺に、世の中の不条理を嘆きつつも、年若い女の子に電話をさせてそれでお金をとるという商売を考えつき、それが昔からあるテレクラにすぎないことに気がついた時点でようやく我に返った。
簡単に言うと、妹は結婚するらしい。
もう30を超えたばかりの俺でもまだしていないものを、妹に先を越されるというのはなんとも不思議な感覚ではあるが、男と女の差ということにしておきたい。いや、決して顔立ちなどの問題ではないはずだ。それだけは頑として認めない！
そしてその相手を両親に紹介するのだが、確かに最近の風潮では少しばかり早い気もする。ましてや説得しなければならないのが、柔道3段で真面目一徹人間であり、何よりも娘のことを マックスコーヒーにミルクと砂糖と練乳を加えたほどに甘々に溺愛している親父のことだから、反対どころか男を投げ飛ばしてしまうかもしれないのだ。
しかも聞いた話によると、結婚するにあたり妊娠はしていないものの、男は俺よりも歳上で、それにも関わらず職種はフリーターに該当するらしい。一応仕事はしているものの、不安定な職種であり、いつ食べられなくなるかわからないとのことだった。なるほど、親父が一番嫌いそうな相手だ。
そんなのを結婚相手に選んで大丈夫なのかと妹の男の見る目のなさに一抹の不安がよぎりながらも、久々に家族が集まるとあっては参加を断る理由もないので、快く了承した。
そして当日。
俺は久々に実家に帰るとそこでは妹から連絡をもらっていて、どうすればいいのかわからずに狼狽するお袋の姿と、テレビをただぼーっと眺めている親父の姿があった。机の上にはお昼も終えた14時ということもあるのだろう、クッキーや紅茶が並んでいたが、その甘味が醸し出す可愛らしい雰囲気とは別に、今にもちゃぶ台をひっくり返すのではないかというピリピリとした空気が張り詰めていた。まあ、我が家にちゃぶ台はないし、この大きなテーブルをひっくり返そうとすれば、腰を痛めること間違いない。
「ただいまー」
久々に聞く妹の声もまた、どことなく震えているようだった。仕方あるまい。このような空気になることを誰よりも知っているのは、その愛を一身に受けてきた妹なのだから。
お土産と共に姿を現した妹と一緒に入ってきた男を見て、妹が心配した理由が一発で分かった。それは歳が上とか、フリーターとか、そう言った男の生活能力とか云々の問題ではなく、一般的に父親と呼ばれる男たちが、一番娘の結婚相手として相応しくないと考えるような相手だったからだ。
黒く日焼けした肌に、金髪で短く刈り込まれた髪。顔は整っているものの、鼻は潰れており、おそらくそれがケンカなどの暴力沙汰によるものなのは想像に難くない。さらに今はスーツのしてに隠れているものの、その筋肉はそれはそれは見事なものだろう。では道行く人にこの男を見たときに連想する仕事は何かと聞けば、まず間違いなく「AV男優」だと声を揃えることだろう。
なるほど、確かにこんな男と柔道3段の親父がぶつかった日には、女二人では止めることなど不可能だろう。いや、むしろ俺がいたところで何かできるとも思えないのだが、少しでも安心したかったということだろうか。
婚約者はその体からは想像できないほどに緊張しているようで、ジロリと周囲をねめ回した後「……どうも」と小さく挨拶をした。多分、本人も自分の外見がどのように受けれ止められるかわかっているからこそ、緊張がより高まってこのようなぶっきらぼうな対応になったのだろう。
お袋も会うのは初めてなのか、少しばかり狼狽しながら父親の方をちらりと見ると、テレビから婚約者へと視線を移したその瞳は、友好的というには程遠いような視線を飛ばしていた。一般的に『ガンを飛ばす』という行為だろう。もしかしたら、柔道家として火がついたのかもしれない。
しかしすぐに視線をテレビに戻すと、何もなかったかのようにじっと画面を見つめ始めた。
そんな父親はさておいて、テーブルへと座らせるお袋。
おそらくその場で笑顔でいたのは俺ひとりだけだった。それは胆力が強いとか、気に入ったとか、和ませようという態度ではなく、単純に笑いをこらえるのに必死だったからだ。
その婚約者はどう見てもプロレスラーの本間朋晃にしか見えなかったのである。
もちろん声や風貌が違うので、本物の本間ではないことはわかっているのだが、それでもその見た目はあまりにも似ていることから、笑いを抑えることはできない。だがおそらくお袋も妹もプロレスには一切興味のない人のはずだから、本間に似ているといったところで「誰？」となるのはわかりきっていた。
やがて紅茶を飲みながら俺とお袋と妹と婚約者の4人で談笑が始まる。
お袋が切り分けてきたロールケーキをそっとテーブルに5つ並べるが、親父はその場から動こうともしない。何度か妹と女二人で呼びかけるが、親父は「ああ」と答えるだけで体を動かす気配すらなかった。
ため息をひとつつき「ごめんなさいね」というお袋だが、婚約者の視線は目の前のロールケーキにクギ付けになっていた。
「これは……モンシュールのロールケーキですか？」
「え？ ええ、そうよ」
「嬉しいなぁ……この辺りでの隣駅のショッピングモールにしか売ってないですよね？」
「お兄ちゃんにお願いして買ってきてもらったのよ」
子供のように目を輝かせながらフォークを突き刺してひとつ口に放る。そして目を細めると、言葉にならないうめき声を出しながら、身を震わせた。
「美味しいですね！ 他のお店のロールケーキって、クリームがしつこくて一口目はインパクトが強いんですけれど、その後にまた食べようとすると重くてつらいくなりがちなんですが、モンシュールの場合は甘味が自然な甘さですっきりとしているから、何口でも食べられるん……です…よ」
嬉々として語るその姿に唖然として見つめる家族たち。お袋など大きな口を開けてポカンとしてしまっているし、妹は頭を抱えてしまった。俺はその様子に余計に笑いを隠しきれなくなり、思わず横を向いてしまった。
婚約者も自分の空気の読めなさに気がついたのだろうか、何一つとして悪いことはしていないのに、その大きな体を小さく丸めてショボくれてしまった。
そんな重苦しい空気を壊したのは、意外にも親父だった。
「そんなに甘いのが好きならば、俺の分も食べてもらいなさい」
その助け舟にお袋も我にかえり「そうね、そうね」と親父の分に切り分けていたロールケーキを婚約者の前に置いた。親父はテレビを消したものの、こちらを振り向くこともなく、朝に読み終わったはずの新聞に目を通す。
さて、ここからは俺の心象光景を交えながら解説していきたいと思う。
場所は当然聖地である後楽園ホール、30分1本勝負、対戦するのは柔道3段、頑固一徹人見知りのチャンピオン親父と、金髪筋肉隆々のチャレンジャー婚約者が今、お袋レフェリーの元睨み合っています。
今回は婚約者サイドに妹がセコンドに付いており、実況はこの俺がお伝えいたします。
さて、ゴングが鳴り響きました！ 親父は特に視線を交わすことなく余裕の表情、一方チャレンジャーはどこか余裕のないようで、まばたきを繰り返している様子です。
「あの、お父さん……」
「まだお父さんは早いんじゃないの？」
おっと、握手に行ったところを見事に拒否されて、きついカウンターを食らう！ これには思わずお袋レフェリーも視線をセコンドに向けるが、さすがにタオルは早いか！
「あ、ロールケーキ、ありがとうございます。自分、甘いものには目がなくて……甘いものは苦手なんですか？」
ここで組み合ってお互いの力比べをしようとしている挑戦者。
「いや、大好きだ」
あーっと、力比べに応じようとせず、いきなり投げつける親父！
「そのロールケーキも私が食べようと思って息子にお願いした」
さらに踏みつけ！ 踏みつけています！ これは危ない、これは危ないぞ！ 挑戦者戦意喪失か！
「……あ、そうそう！ この前いいお酒をいただいたのよ」
さすがに空気を読んだのか、ここでお袋レフェリーが間に入ります。親父も一度距離を取り、相手が立ち上がるのを待ちます。
「お父さん、まだ早いけれどあけてしまいます？」
「……そうだな。君も飲むだろう？」
おっと、倒れたままの挑戦者を起き上がらせようと、手を伸ばします。麗しい光景です。
「……すみません、酒は一滴も飲めなくて……」
あーっと、ここで金的攻撃だ！
これは親父、痛恨のミス！
さらにお袋レフェリーも間を取り持ったため、どうしていいののか分からず狼狽しています！
「でもほら、甘い酒とかはどうなんだ？ 何かあるだろ、母さん」
「ごめんなさい、本当に一滴も飲めなくて……」
「今日、この人、車で来ているのよ」
これは痛い！ これは痛い！
場外に投げ飛ばされた上に、セコンドからも痛恨の攻撃を食らってしまった！ 今までの優位な姿勢が一転し、どうしようもない親父選手！
おっと、これは思わず立ち上がって「トイレ」とまさかのリングアウト狙いか！？ そそくさとリビングを出て行きます！
この重苦しい空気間の中、カウントは続けられます。11、12、13……まだ帰ってきません。これは逃げたのか？
17……18……19……おっと、ここで扉が開く。親父選手、再びリングインです。この辺りはベテランの間の取り方のうまさを感じさせます。
さて、お互いに気を取り直して試合再開です。
「おと……あーその、格闘技をなされていようで……」
おっと、ここでいきなり必殺技への連携攻撃と繋げるのか。
「まあ、少し柔道をね……」
「僕も格闘技が好きなんですよ」
おっと、ここで相手の懐に飛び込む、こけしロケットが炸裂した！
「こうして鼻が潰れているでしょ？ これ、昔レスリングをしていた頃に、試合中にやられてしまいまして……」
「ああ、わかるよ、そういうのはつきものだからね」
決まった！ 今日初めてまともに技が決まりました！
ここで気を良くしたチャレンジャー、一気に必殺構成と畳み掛けていきます！
「お父さんも、ほら、耳が膨れているじゃないですか。それってやはり、柔道の寝技の練習でなったんですよね？」
「……その話はしたくないな」
あっと誤爆！ まさかのこけしロケットからの、小こけしの必殺技構成が誤爆してしまいました！ これは痛い、立ち直れるか！
その後もいくつかやり取りを重ねていくが、決して親父は振り返ることなく、相手の顔を一切みようとはしなかった。お互いの話も微妙に噛み合いそうで噛み合わなくて、時々妹やお袋がフォローを入れるものの、大した効果はない。
もう無理かと誰もが諦めたその時、婚約者が立ち上がって、意を決して親父の元へ近寄る。
これは出るか！？ 伝家の宝刀、必殺技が炸裂するか！？
「娘さんを、僕にください！！」
決まった！！ こけしが決まった！
さすがにトップロープからのヘッドバットを食らって、返す言葉は一つしかないでしょう！ さあ、挑戦者、フォールに行く！ 3カウントなるか！
おっと、親父が立ち上がったぞ？ 何を返す、どう切り返すのか！
「……ちょっと散歩に行ってくる」
まさかの切り返しが来た！ これには誰もが呆然として、ただ親父選手を見送ることしかできない！
そして本当に外に飛び出してしまった！
これでも決まらないのかと項垂れる挑戦者！
やがて婚約者は一度外の空気を吸いに外に飛び出していくと、残った我々家族3人の会議が始まった。
「どーすんよ、あれ……もう絶対許してくれないじゃない」
「お父さんもまさかあそこまで強情張りとは……」
テーブルに突っ伏して嘆きの声を上げる妹に、お袋も大きなため息をこぼす。
「お兄ちゃんもなんか言ってやってよ。さっきからずっと見ているだけじゃない」
そうは言われても、何も返す言葉がないのであるのだから、仕方ない。ましてや、このふたりにはわからないかもしれないが、俺には親父の気持ちが結構わかるのである。
「……まあ、そんな気にする必要はないよ」
「そんな他人事だからって悠長なことを……」
「親父、あれでも結構気に入っている……というか、多分親父の方がテンパってるから」
え？ と、ふたりとも声を重ねる。そうだろうな、わからないだろう。これは親父と俺の、男と男の話なのである。
婚約者が帰ってきて一息いれる。
「大丈夫だよ、心配しなくていい。次で決まるから」
「……ありがとうございます、お兄さん、でも……」
「本当に気にしないで、次に帰ってきたらちゃんと話し合えばわかるよ」
はあ、と気の抜けた言葉を残す。普段はあれだけ威勢のいいことを言っているにもかかわらず、こんな場では弱気になるのだから、人間くさいというかなんというか……
「ただいまー」
親父が帰ってきた声にみんなが背筋をのばす。こんなにキチンとしている家族を見たのは生まれて初めてかもしれない。
婚約者は立ち上がると扉の前に直立不動の姿勢でピン、と背筋を伸ばして待ち受ける。足音が近づくにつれて、みんなの緊張が高まっていくのが面白くて、俺は笑いを堪えるのが大変だった、
やがて扉が開くのと同じタイミングで婚約者が頭を下げる。
「お帰りなさい……」「サインをください！」
え？ と婚約者が頭を上げると、そこには頭を下げて色紙とペンを差し出す親父の姿があった。
「だから言ったじゃん、親父の方がテンパってるって」
親父は格闘技が大好きだから柔道もしていたし、もちろん観戦するのも大好きなのだ。柔道に限らず、相撲、ボクシング、総合、もちろんプロレスだって大好きだし、小さい頃から俺を引き連れてよく試合に連れて行ってもらったものだ。
我が家の女連中は誰も興味を持たないため知らないかもしれないが、ここ最近勢力を伸ばし、地元では熱い人気を誇っている地元密着型のプロレス団体『超日本プロレス』の若きホープである、間嶋隆明選手を、親父が知らないわけがなかった。
ただでさえ娘の結婚相手を紹介されるという事態に緊張しているのに、そこに現れるのが好きな団体のレスラーだった日には、顔も合わせられまい。二重の意味で困惑してしまい、まともな対処ができなかったのであろう。
それだけ好きなレスラーだから大の甘党なのも知っていたし、だからこそロールケーキを勧めたのだが、お袋のアシストがあったとはいえ酒を勧めてしまったのは痛恨のミスだろう。ファンならば、間嶋がいかつくて酒好きそうな顔と反比例して、一滴も呑めないことはもはや常識となっている。そのギャップが人気なのに、そのことを忘れてしまうのだから、如何に親父が浮かれていたかわかる。
「ま、これでいいんじゃないの？」
その後、間嶋選手はジュースで、俺と親父の二人は酒を呑みながら秘蔵のプロレステープを三人で見ながらしこたま盛り上がってしまった。結局、14時に始まったこの会が終わる頃にはてっぺんを超えていて、お袋も呆れていたもんだ。
それでも最後まで親父が「許す」と言わなかったのは、せめてもの抵抗なのだろう。断る理由は何一つとしてないものの、かわいい娘を手放す気持ちというのは、俺が思う以上のものなのかもしれない。
最後まで負けなかった親父に、セコンドである俺がタオルを投げ入れる代わりに、そっと毛布をかけてやった。
了
『お兄ちゃん、お願いがあるの』
突然の妹の電話から着信を告げた時、俺は電話番号が故障したのではないかと目を疑った。これは誤植などではない。電話番号が故障したのだと思ったのだ。
一応家族のアドレスを念のために携帯に登録していたものの、今までの人生を振り返ってみても妹から電話がかかってきたことなど一度もなかったし、これから先も永遠にないのだろうと思っていた。
友人関係を大切にする性分からもう10年以上連絡どころか生きているか死んでいるかもわからない、顔も思い出せない友人のアドレスを登録したままにしていた。だから妹のアドレスが残っていたのだ。
携帯に表示された『妹』の名前に、もしかしたら交通事故で死んだか、はたまた借金でもして俺の元に催促でもきたのかと訝しげながら電話にでた。
まずお兄ちゃんなどと妹から媚びたように言われることなど一度もなかったし、正直な話、悪寒で震える思いだった。うちの兄妹は俺が妹を呼ぶ時は「おい」とか「小っちゃいの」だったし、向こうからは「デカブツ」「そこの」などと呼ばれることが普通だったのだ。歳をとるとそれはより悪化し、お互いがその存在を認めることがなくなってしまった。だから俺は知識として妹の名前を知ってはいるものの、おそらく口にしたことは一度もないし、それは向こうも同じはずである。
こういうと非常に仲が悪いようであるが、そんなことはない。ただ、妹とは7も歳が離れており、俺が18の時に家を出て、この十数年間、ほとんど帰っていないことを考えれば当然の話かもしれない。
新手のオレオレ詐欺ならぬ妹詐欺かと思いながら話を聞く。おそらくこの世の中の妹がいない男ほど引っかかるであろう詐欺に、世の中の不条理を嘆きつつも、年若い女の子に電話をさせてそれでお金をとるという商売を考えつき、それが昔からあるテレクラにすぎないことに気がついた時点でようやく我に返った。
簡単に言うと、妹は結婚するらしい。
もう30を超えたばかりの俺でもまだしていないものを、妹に先を越されるというのはなんとも不思議な感覚ではあるが、男と女の差ということにしておきたい。いや、決して顔立ちなどの問題ではないはずだ。それだけは頑として認めない！
そしてその相手を両親に紹介するのだが、確かに最近の風潮では少しばかり早い気もする。ましてや説得しなければならないのが、柔道3段で真面目一徹人間であり、何よりも娘のことを マックスコーヒーにミルクと砂糖と練乳を加えたほどに甘々に溺愛している親父のことだから、反対どころか男を投げ飛ばしてしまうかもしれないのだ。
しかも聞いた話によると、結婚するにあたり妊娠はしていないものの、男は俺よりも歳上で、それにも関わらず職種はフリーターに該当するらしい。一応仕事はしているものの、不安定な職種であり、いつ食べられなくなるかわからないとのことだった。なるほど、親父が一番嫌いそうな相手だ。
そんなのを結婚相手に選んで大丈夫なのかと妹の男の見る目のなさに一抹の不安がよぎりながらも、久々に家族が集まるとあっては参加を断る理由もないので、快く了承した。
そして当日。
俺は久々に実家に帰るとそこでは妹から連絡をもらっていて、どうすればいいのかわからずに狼狽するお袋の姿と、テレビをただぼーっと眺めている親父の姿があった。机の上にはお昼も終えた14時ということもあるのだろう、クッキーや紅茶が並んでいたが、その甘味が醸し出す可愛らしい雰囲気とは別に、今にもちゃぶ台をひっくり返すのではないかというピリピリとした空気が張り詰めていた。まあ、我が家にちゃぶ台はないし、この大きなテーブルをひっくり返そうとすれば、腰を痛めること間違いない。
「ただいまー」
久々に聞く妹の声もまた、どことなく震えているようだった。仕方あるまい。このような空気になることを誰よりも知っているのは、その愛を一身に受けてきた妹なのだから。
お土産と共に姿を現した妹と一緒に入ってきた男を見て、妹が心配した理由が一発で分かった。それは歳が上とか、フリーターとか、そう言った男の生活能力とか云々の問題ではなく、一般的に父親と呼ばれる男たちが、一番娘の結婚相手として相応しくないと考えるような相手だったからだ。
黒く日焼けした肌に、金髪で短く刈り込まれた髪。顔は整っているものの、鼻は潰れており、おそらくそれがケンカなどの暴力沙汰によるものなのは想像に難くない。さらに今はスーツのしてに隠れているものの、その筋肉はそれはそれは見事なものだろう。では道行く人にこの男を見たときに連想する仕事は何かと聞けば、まず間違いなく「AV男優」だと声を揃えることだろう。
なるほど、確かにこんな男と柔道3段の親父がぶつかった日には、女二人では止めることなど不可能だろう。いや、むしろ俺がいたところで何かできるとも思えないのだが、少しでも安心したかったということだろうか。
婚約者はその体からは想像できないほどに緊張しているようで、ジロリと周囲をねめ回した後「……どうも」と小さく挨拶をした。多分、本人も自分の外見がどのように受けれ止められるかわかっているからこそ、緊張がより高まってこのようなぶっきらぼうな対応になったのだろう。
お袋も会うのは初めてなのか、少しばかり狼狽しながら父親の方をちらりと見ると、テレビから婚約者へと視線を移したその瞳は、友好的というには程遠いような視線を飛ばしていた。一般的に『ガンを飛ばす』という行為だろう。もしかしたら、柔道家として火がついたのかもしれない。
しかしすぐに視線をテレビに戻すと、何もなかったかのようにじっと画面を見つめ始めた。
そんな父親はさておいて、テーブルへと座らせるお袋。
おそらくその場で笑顔でいたのは俺ひとりだけだった。それは胆力が強いとか、気に入ったとか、和ませようという態度ではなく、単純に笑いをこらえるのに必死だったからだ。
その婚約者はどう見てもプロレスラーの本間朋晃にしか見えなかったのである。
もちろん声や風貌が違うので、本物の本間ではないことはわかっているのだが、それでもその見た目はあまりにも似ていることから、笑いを抑えることはできない。だがおそらくお袋も妹もプロレスには一切興味のない人のはずだから、本間に似ているといったところで「誰？」となるのはわかりきっていた。
やがて紅茶を飲みながら俺とお袋と妹と婚約者の4人で談笑が始まる。
お袋が切り分けてきたロールケーキをそっとテーブルに5つ並べるが、親父はその場から動こうともしない。何度か妹と女二人で呼びかけるが、親父は「ああ」と答えるだけで体を動かす気配すらなかった。
ため息をひとつつき「ごめんなさいね」というお袋だが、婚約者の視線は目の前のロールケーキにクギ付けになっていた。
「これは……モンシュールのロールケーキですか？」
「え？ ええ、そうよ」
「嬉しいなぁ……この辺りでの隣駅のショッピングモールにしか売ってないですよね？」
「お兄ちゃんにお願いして買ってきてもらったのよ」
子供のように目を輝かせながらフォークを突き刺してひとつ口に放る。そして目を細めると、言葉にならないうめき声を出しながら、身を震わせた。
「美味しいですね！ 他のお店のロールケーキって、クリームがしつこくて一口目はインパクトが強いんですけれど、その後にまた食べようとすると重くてつらいくなりがちなんですが、モンシュールの場合は甘味が自然な甘さですっきりとしているから、何口でも食べられるん……です…よ」
嬉々として語るその姿に唖然として見つめる家族たち。お袋など大きな口を開けてポカンとしてしまっているし、妹は頭を抱えてしまった。俺はその様子に余計に笑いを隠しきれなくなり、思わず横を向いてしまった。
婚約者も自分の空気の読めなさに気がついたのだろうか、何一つとして悪いことはしていないのに、その大きな体を小さく丸めてショボくれてしまった。
そんな重苦しい空気を壊したのは、意外にも親父だった。
「そんなに甘いのが好きならば、俺の分も食べてもらいなさい」
その助け舟にお袋も我にかえり「そうね、そうね」と親父の分に切り分けていたロールケーキを婚約者の前に置いた。親父はテレビを消したものの、こちらを振り向くこともなく、朝に読み終わったはずの新聞に目を通す。
さて、ここからは俺の心象光景を交えながら解説していきたいと思う。
場所は当然聖地である後楽園ホール、30分1本勝負、対戦するのは柔道3段、頑固一徹人見知りのチャンピオン親父と、金髪筋肉隆々のチャレンジャー婚約者が今、お袋レフェリーの元睨み合っています。
今回は婚約者サイドに妹がセコンドに付いており、実況はこの俺がお伝えいたします。
さて、ゴングが鳴り響きました！ 親父は特に視線を交わすことなく余裕の表情、一方チャレンジャーはどこか余裕のないようで、まばたきを繰り返している様子です。
「あの、お父さん……」
「まだお父さんは早いんじゃないの？」
おっと、握手に行ったところを見事に拒否されて、きついカウンターを食らう！ これには思わずお袋レフェリーも視線をセコンドに向けるが、さすがにタオルは早いか！
「あ、ロールケーキ、ありがとうございます。自分、甘いものには目がなくて……甘いものは苦手なんですか？」
ここで組み合ってお互いの力比べをしようとしている挑戦者。
「いや、大好きだ」
あーっと、力比べに応じようとせず、いきなり投げつける親父！
「そのロールケーキも私が食べようと思って息子にお願いした」
さらに踏みつけ！ 踏みつけています！ これは危ない、これは危ないぞ！ 挑戦者戦意喪失か！
「……あ、そうそう！ この前いいお酒をいただいたのよ」
さすがに空気を読んだのか、ここでお袋レフェリーが間に入ります。親父も一度距離を取り、相手が立ち上がるのを待ちます。
「お父さん、まだ早いけれどあけてしまいます？」
「……そうだな。君も飲むだろう？」
おっと、倒れたままの挑戦者を起き上がらせようと、手を伸ばします。麗しい光景です。
「……すみません、酒は一滴も飲めなくて……」
あーっと、ここで金的攻撃だ！
これは親父、痛恨のミス！
さらにお袋レフェリーも間を取り持ったため、どうしていいののか分からず狼狽しています！
「でもほら、甘い酒とかはどうなんだ？ 何かあるだろ、母さん」
「ごめんなさい、本当に一滴も飲めなくて……」
「今日、この人、車で来ているのよ」
これは痛い！ これは痛い！
場外に投げ飛ばされた上に、セコンドからも痛恨の攻撃を食らってしまった！ 今までの優位な姿勢が一転し、どうしようもない親父選手！
おっと、これは思わず立ち上がって「トイレ」とまさかのリングアウト狙いか！？ そそくさとリビングを出て行きます！
この重苦しい空気間の中、カウントは続けられます。11、12、13……まだ帰ってきません。これは逃げたのか？
17……18……19……おっと、ここで扉が開く。親父選手、再びリングインです。この辺りはベテランの間の取り方のうまさを感じさせます。
さて、お互いに気を取り直して試合再開です。
「おと……あーその、格闘技をなされていようで……」
おっと、ここでいきなり必殺技への連携攻撃と繋げるのか。
「まあ、少し柔道をね……」
「僕も格闘技が好きなんですよ」
おっと、ここで相手の懐に飛び込む、こけしロケットが炸裂した！
「こうして鼻が潰れているでしょ？ これ、昔レスリングをしていた頃に、試合中にやられてしまいまして……」
「ああ、わかるよ、そういうのはつきものだからね」
決まった！ 今日初めてまともに技が決まりました！
ここで気を良くしたチャレンジャー、一気に必殺構成と畳み掛けていきます！
「お父さんも、ほら、耳が膨れているじゃないですか。それってやはり、柔道の寝技の練習でなったんですよね？」
「……その話はしたくないな」
あっと誤爆！ まさかのこけしロケットからの、小こけしの必殺技構成が誤爆してしまいました！ これは痛い、立ち直れるか！
その後もいくつかやり取りを重ねていくが、決して親父は振り返ることなく、相手の顔を一切みようとはしなかった。お互いの話も微妙に噛み合いそうで噛み合わなくて、時々妹やお袋がフォローを入れるものの、大した効果はない。
もう無理かと誰もが諦めたその時、婚約者が立ち上がって、意を決して親父の元へ近寄る。
これは出るか！？ 伝家の宝刀、必殺技が炸裂するか！？
「娘さんを、僕にください！！」
決まった！！ こけしが決まった！
さすがにトップロープからのヘッドバットを食らって、返す言葉は一つしかないでしょう！ さあ、挑戦者、フォールに行く！ 3カウントなるか！
おっと、親父が立ち上がったぞ？ 何を返す、どう切り返すのか！
「……ちょっと散歩に行ってくる」
まさかの切り返しが来た！ これには誰もが呆然として、ただ親父選手を見送ることしかできない！
そして本当に外に飛び出してしまった！
これでも決まらないのかと項垂れる挑戦者！
やがて婚約者は一度外の空気を吸いに外に飛び出していくと、残った我々家族3人の会議が始まった。
「どーすんよ、あれ……もう絶対許してくれないじゃない」
「お父さんもまさかあそこまで強情張りとは……」
テーブルに突っ伏して嘆きの声を上げる妹に、お袋も大きなため息をこぼす。
「お兄ちゃんもなんか言ってやってよ。さっきからずっと見ているだけじゃない」
そうは言われても、何も返す言葉がないのであるのだから、仕方ない。ましてや、このふたりにはわからないかもしれないが、俺には親父の気持ちが結構わかるのである。
「……まあ、そんな気にする必要はないよ」
「そんな他人事だからって悠長なことを……」
「親父、あれでも結構気に入っている……というか、多分親父の方がテンパってるから」
え？ と、ふたりとも声を重ねる。そうだろうな、わからないだろう。これは親父と俺の、男と男の話なのである。
婚約者が帰ってきて一息いれる。
「大丈夫だよ、心配しなくていい。次で決まるから」
「……ありがとうございます、お兄さん、でも……」
「本当に気にしないで、次に帰ってきたらちゃんと話し合えばわかるよ」
はあ、と気の抜けた言葉を残す。普段はあれだけ威勢のいいことを言っているにもかかわらず、こんな場では弱気になるのだから、人間くさいというかなんというか……
「ただいまー」
親父が帰ってきた声にみんなが背筋をのばす。こんなにキチンとしている家族を見たのは生まれて初めてかもしれない。
婚約者は立ち上がると扉の前に直立不動の姿勢でピン、と背筋を伸ばして待ち受ける。足音が近づくにつれて、みんなの緊張が高まっていくのが面白くて、俺は笑いを堪えるのが大変だった、
やがて扉が開くのと同じタイミングで婚約者が頭を下げる。
「お帰りなさい……」「サインをください！」
え？ と婚約者が頭を上げると、そこには頭を下げて色紙とペンを差し出す親父の姿があった。
「だから言ったじゃん、親父の方がテンパってるって」
親父は格闘技が大好きだから柔道もしていたし、もちろん観戦するのも大好きなのだ。柔道に限らず、相撲、ボクシング、総合、もちろんプロレスだって大好きだし、小さい頃から俺を引き連れてよく試合に連れて行ってもらったものだ。
我が家の女連中は誰も興味を持たないため知らないかもしれないが、ここ最近勢力を伸ばし、地元では熱い人気を誇っている地元密着型のプロレス団体『超日本プロレス』の若きホープである、間嶋隆明選手を、親父が知らないわけがなかった。
ただでさえ娘の結婚相手を紹介されるという事態に緊張しているのに、そこに現れるのが好きな団体のレスラーだった日には、顔も合わせられまい。二重の意味で困惑してしまい、まともな対処ができなかったのであろう。
それだけ好きなレスラーだから大の甘党なのも知っていたし、だからこそロールケーキを勧めたのだが、お袋のアシストがあったとはいえ酒を勧めてしまったのは痛恨のミスだろう。ファンならば、間嶋がいかつくて酒好きそうな顔と反比例して、一滴も呑めないことはもはや常識となっている。そのギャップが人気なのに、そのことを忘れてしまうのだから、如何に親父が浮かれていたかわかる。
「ま、これでいいんじゃないの？」
その後、間嶋選手はジュースで、俺と親父の二人は酒を呑みながら秘蔵のプロレステープを三人で見ながらしこたま盛り上がってしまった。結局、14時に始まったこの会が終わる頃にはてっぺんを超えていて、お袋も呆れていたもんだ。
それでも最後まで親父が「許す」と言わなかったのは、せめてもの抵抗なのだろう。断る理由は何一つとしてないものの、かわいい娘を手放す気持ちというのは、俺が思う以上のものなのかもしれない。
最後まで負けなかった親父に、セコンドである俺がタオルを投げ入れる代わりに、そっと毛布をかけてやった。
了
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横からすみません、私も兄妹の仲に関する描写が気になりました。一般的に兄妹の仲が険悪になるのは、歳が近い場合が多いと思います。7つも離れていたら、可愛がるか無関心かどちらかなんじゃないかな、と感じました。仲が悪いと無関心は、結構大きな違いがある気がします。
兄妹間の仲が悪くても、親とは仲は悪くないというのは矛盾ではないと感じますね。ただ、主人公は独立して一人暮らしなのか、実家からどれくらいの距離なのか、実家を離れて何年経つのか？などいろんな要素が絡んでくると思います。
また、細かいところですが、妹と全然ふれあいがないのなら、たぶんこういう事務連絡は母を通じてするんじゃないかなー、と思います。「お兄ちゃんに言っといてよ」って感じですね。すごく細かいのでどっちでもいいとは思うのですが、スタートの描写が結構細かく書かれているので、気になりました。
兄妹間の仲が悪くても、親とは仲は悪くないというのは矛盾ではないと感じますね。ただ、主人公は独立して一人暮らしなのか、実家からどれくらいの距離なのか、実家を離れて何年経つのか？などいろんな要素が絡んでくると思います。
また、細かいところですが、妹と全然ふれあいがないのなら、たぶんこういう事務連絡は母を通じてするんじゃないかなー、と思います。「お兄ちゃんに言っといてよ」って感じですね。すごく細かいのでどっちでもいいとは思うのですが、スタートの描写が結構細かく書かれているので、気になりました。
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