「最近、仕事の調子はどう？」
佐竹洋平は友人二人といっしょに皇居周縁を走っていた。休日のランナーは多く、ゼッケンをつけたイベント参加者も目につく。幾人ものランナーがとろとろ走る三人を次々と抜き去っていった。三人は抜かれることを一切気にせずに、会話を続けながら一周完走を目指していた。
「公務員なんて何にも変わらないぜ。変化に乏しい毎日。やってる仕事なんて先週、いや去年と同じかな。忙しさも面白みも何も変わらない、安定した日常だよ」
そう言ったのは佐竹の隣を走る田辺勇気だ。グリーンのランニングウェアで身を固め、同系色のシューズを履いていた。お洒落に気を遣う、最近のランナーの見本のような姿だった。
「地方選の準備があって近々忙しくなるんじゃないの？」
皇居の堀側を走る有岡武史が口を挟んだ。まだ三月上旬で肌寒いにも関わらず彼はＴシャツにハーフパンツという出で立ちでランニングに臨んでいた。
「選挙の準備なんてまだ先のことだから。俺のいる農業振興課は直前直後の応援部隊として駆けつけるくらいかな」
千葉県の市役所で公務員をしている田辺は休日になるとこうして都内に遊びにやってくる。最近では専らいっしょに運動することが多くなった。それは三十歳を前にして健康のことを気にするようになったからかもしれない。
「有岡はどうなの？ 気楽にやってるわけ？」
有岡は田辺から発せられた質問に答える前に持っていたペットボトルに口をつけた。ペッドボトルの中は振動のためか泡が目立っている。
「宮仕えじゃないからね俺は。と言ってもワガママなクライアントに翻弄されてるから、結局、会社に勤めてようがフリーランスでやってようが違いはないかも」
有岡は大学卒業後に就職せず、デザインの専門学校に入り直した。そこでウェブデザインの勉強をしたあと、フリーのデザイナーとして活動し始めた。三十歳を目前にしてようやく生計が成り立つだけの収入を得られるようになったようだ。それまでは疎遠になりかけていた三人の仲も、有岡が対等に稼げるようになってからは再び連絡がくるようになり、大学の頃のような仲に戻りつつあった。
千鳥ヶ淵の桜が見えてきた。まだ満開には程遠いがつぼみは開花し、空を薄いピンクに染めていた。そこで佐竹が自分のことを話しだした。
佐竹は大手企業の総務部に勤めていた。会社のあらゆる雑務をこなす部署であるが、年度末を前に来期の忘年会責任者に早くも任命されて、そのことで最近は悩んでいた。その心情を佐竹は走りながら、田辺と有岡に吐露したのだった。
「もう、忘年会のことなんて考えてるの？ 大企業って意外と暇なんだな」
「だから水面下で動くんだよ。社内でも、総務部の仕事は遊びかって思われるし」
「いろいろと大変だね。で、何で悩んでるの？ 会場候補とか？」
「会場候補は会社から近いホテルの地下を貸しきる予定なんだ。それはすでに何候補か予約してあるからいいんだけど、一番の問題は出し物なんだ」
「佐竹が何か一発芸をするとか？」
「違う違う。うちの会社では毎年、芸人とか歌手とかを呼んでるんだけど、その人選をどうしようかなと思って」
「なるほど。ゲストを呼ぶ裁量権が今年は佐竹にあるわけね」
「そういうこと。忘年会が盛り上がるかどうかは俺のセンスに掛かってるんだ。ここで変な芸能人とかを呼んじゃうと今後の出世にも響きそうだから、慎重にやりたいと思ってて」
「確かに、佐竹ってテレビもネットもあんまり見ないから、流行とは程遠い面子を揃えそうだ」
「そうなんだよ。だからこそ、流行に敏感そうな二人の意見を仰ぎたいんだ。もちろん、相談してるってのはオフレコね。いちおう社外秘の情報だから」
皇居の一周は大体五キロある。三人はすでに一周を終え、二周目に入ろうかというところだった。ただにわかランナーである三人はそれ以上走るのをやめて、麹町にあるランニングステーションまで戻ることにした。コースからそれると、いよいよ三人はおしゃべりに没頭していく。佐竹の希望通り、田辺と有岡はいろいろな有名人や芸能人の名前を挙げていった。案の定、佐竹は二人が挙げる名前をあまり聞いたことがなかった。これは二人に相談してよかったということだった。
「十二月の忘年会で一番盛り上がるゲストだろ？ 今、流行ってる一発屋芸人じゃあ、このあと九ヶ月の間人気が持続しないんじゃないか」
「今はまだブームになってなくて、この夏か秋くらいから一気にブレイクしそうな芸能人か」
「じゃあ、あれはどうかな。クレヨンズっていう今ネット動画で話題の三人組。知る人ぞ知るっていう、今は無名でもこの数ヶ月で必ず売れる気がするんだ」
公務員の田辺が力説する。彼は大学の頃からサブカルチャーに詳しく、アニメ、漫画などにも造詣が深い。その知識も情熱も公務員の仕事では一切活かせないため、こういう話になると俄然、力が入るのかもしれない。
「全然知らないな、佐竹は知ってる？」
有岡が佐竹にも話を振る。
「俺が知ってるわけないじゃん。その人達何するの？ 芸人？」
佐竹は田辺にクレヨンズというグループに関する情報を求めた。その頃になると三人はクールダウンするためにランニングをストップし、歩いてランニングステーションを目指していた。まだ少し冷たい春の風が汗を乾かしていく。乾き方は同じでも、感じ方は違うかもしれない。少なくとも、佐竹はそよ風を心地いいと感じていた。
田辺が言うには、クレヨンズという三人組は覆面をかぶり、即興で絵を描いたり、音楽を作ってパフォーマンスをするアーティステッィクなグループだということだった。その中で生まれた楽曲が今ネットでは人気で、近々メジャーデビューするかもしれないという噂で持ち切りなのだそうだ。確かにメジャーデビューすればメディアに引っ張りだこになるに違いない。このタイミングであれば年末には流行語を狙うような一世を風靡する存在になっているだろう。
「俺はそこまで売れるとは思えないな」
本業がデザイナーである有岡にそう言われると説得力があった。しかも有岡はウェブ関係の仕事をしている。彼らの評判はいち早く入ってくるはずだ。その彼が知らないということは、あくまでブームは一過性のものに過ぎず、続きはしないということかもしれない。
「シャワー浴びてからスマホに動画をシェアするから、みんなで見てみようぜ」
ランニングステーションはマラソンブームの後押しもあって、皇居周辺のいたるところに存在している。佐竹達は比較的、利用料金の安い麹町にあるそれをよく利用していた。ロッカーと簡単なシャワーがついていて、一回五百円で利用できた。皇居から少し離れているため価格設定がリーズナブルだ。それに人も少なく、混んでいることは稀だった。
佐竹はシャワーで汗を流すと着替えを済ませて、ロッカールーム外のラウンジで二人を待つことにした。二人が出てくるまでまだ時間がありそうだったので、田辺が共有してくれると言っていた動画を検索する時間があった。佐竹はスマホを取り出し、動画検索を実行する。
佐竹が見つけた動画の中で、クレヨンズは真っ白なタイツ姿でポンチョのような布を羽織っていた。体型からは男性なのか女性なのか判断できなかった。奇抜なマスクを被り、ダンスを踊っている。周りに誰もいなかったので、佐竹はスマホの音量を大きくしていった。非常に早い曲調で日本語にも、外国語にも聞こえる歌詞を歌っていた。彼らのパフォーマンスのバックで流れる曲が彼らの曲なのか佐竹には定かではなかったが、確かに見入ってしまう存在感があった。その動画が終わると、次の動画が始まった。外国の音楽イベントのようだった。画質は荒かったが、盛り上がりは十分に伝わってくる。司会者がクレヨンズを紹介すると、ステージが暗くなって彼らが出てきた。顔にはお面のようなものが付けられているため表情はわからない。妖艶な和風衣装を纏いながら舞を踊っている。少し単調な印象だったが一分ほど経つとどこからともなく楽器が現れ三人に一つずつ行き渡った。ギターのようにも見えるが、ボディ部分に太鼓がついている奇妙な楽器だった。クレヨンズの面々はそれを狂ったように弾き始めるが、きちっと調和が取れ、見る者を圧倒した。観客の声援や絶叫も画面越しに伝わってきた。
佐竹がその動画を見終わって次の動画を探そうと思ったとき、二人がロッカールームから顔を出した。
「お待たせ。佐竹は相変わらず出るのが早いな。カラスもびっくりの行水時間だぜ」
「汗流すだけで十分だろ？ 一分あれば事足りるよ」
さっぱりとした顔の田辺と有岡がラウンジのソファに座った。
「そんなことより、クレヨンズの動画を見ようぜ」
「時間があったから調べてみたよ。人気があるのがよくわかった。今は海外で人気なのかな？」
「そうらしいよ。有岡にも見せてやってくれよ」
佐竹はスマホの画面を有岡に見せた。有岡はあまり興味がなさそうにそれを眺めている。佐竹は、自分と同じように驚いたり、感心したりすると思っていたが、そんな反応を見せない有岡の対照的な姿に内心不思議な気持ちを覚えた。
「俺は流行るとは思えないけどね」
「有岡は厳しいなあ。俺は、絶対こいつらが今年売れると思ってるぜ」
「こういうのは主観によるところが大きいしね。とりあえず、クレヨンズを候補として考えてみるよ」
クレヨンズの話題が一段落したところで、三人はランニングステーションを後にした。皇居ランを終えると大抵は遅めの昼食をとることが多かった。その日は麹町から地下鉄に乗り、銀座一丁目へ向かった。有岡が銀座にできた餃子専門店に行きたいと言ったからだ。
「佐竹の会社に呼ぶとして、どういうパフォーマンスをやってもらうんだ？」
「例年、芸人だとネタとトークショーの合わせ技みたいになるから、音楽系の人だとやっぱり持ち歌とトークショーかな」
「何をやるかも佐竹が決めるの？」
「簡単な企画書は出すけど、具体的に何をやるかは向こうに提案してもらうと思う」
「楽しそうだな。俺も見に行きたいわ。有給とって」
「田辺と有岡の二人ぐらいなら呼んでもバレそうにないけどな」
「いやいや俺はいいよ。年末は忙しいし」
「有岡が辞退する分、俺に譲ってくれ。女の子を誘いたい」
数分で目的の駅に着いた。地上に出て銀座方向に歩くと店はすぐに見つかった。ランチタイムはとおに過ぎているのでがらがらだ。問題なく席に通され、三人は料理を注文した。
食事中は来週末の合コンについての話に花が咲いた。有岡のデザイナー仲間から寄せられた案件でどのような女の子が来るのか、佐竹と田辺は鼻の下を伸ばしながら聞いていた。大皿に三人前以上盛られた焼餃子はあっと言う間になくなり、佐竹が追加で水餃子を頼んだ。
「年はいくつくらい？」
「若いよ。美大卒業して二年って言ってた」
「じゃあ二十四か」
「でも、美大って苦労して入る人多いよね」
「まあね、浪人が多いイメージ。デザイン系の専門も四大卒業後に入ってくる奴はわりかし多いから平均年齢は高いよ」
「じゃあ、その分を勘定に入れると二つ下くらいか」
「多分ね」
「かわいいの？」
「俺の知り合いの子は中々かわいい」
「そいつが幹事？ 幹事マックスの法則が働いて、かわいい子はその子だけだったらショックだな」
「だったらまた合コンを開けばいいよ。公務員と合コンしたいけど田辺の職場はどうなの？」
「俺の周りはパートのおばさんばっかりだな。誘ったら来そうだけど」
「それは嫌だな。佐竹のとこは若い子いるんじゃないの？」
「今度誘ってみるよ」
会社同期や他の大学時代の友人が次々に結婚していく中で三人にそのような話はなかった。佐竹から見ても二人が真剣に結婚相手を探しているようには思えなかった。田辺なんて昔から女好きで有名で、社会人になってからは遊びに拍車がかかっているようにさえ思う。田辺ほどではないにせよ、佐竹自身もあまり変わらない。仕事に忙殺され、決まった交際相手はいない。たまの休みも金銭的な余裕から少し良い店で食事したり、ショッピングに費やしたりと自由に過ごせるため、気ままな今が一番良いと心から思っていた。
「俺、水餃子いいや、お腹いっぱいになってきた」
有岡が箸を置いて降参するポーズを見せた。田辺は俄然、食欲があるという表情を見せたので、佐竹は二人で食べることにした。運ばれてきた大どんぶりには、水餃子が溢れんばかりに入れられている。卓上の酢と醤油、それからラー油で新たにタレを作り、佐竹は食べ始めた。焼餃子とは異なる風味がある。食感もなめらかで、つるりと食べられた。
「すまん、やっぱり一個だけくれ。佐竹の見てると、めちゃくちゃ美味そうで」
「お前、昔からそういうところあるよな」
田辺が横で笑っている。佐竹はどんぶりを有岡の前まで寄せてやる。ちょうど一つだけ水餃子が残っていた。スープの中で、ぎゅう詰め状態だった餃子も、一つだけだと悠然とスープの中でくつろいでいるようだ。
三人は会計を終えて、店を出た。三人とも帰りはＪＲを使うので新橋方向に歩く。
「クレヨンズって何でクレヨンなんだろう」
「ウィキペディアで調べてみるか」
佐竹は気になって早速調べてみる。検索結果の一番上のリンクを叩くとページが開いた。
「大した事が載ってないな」
「それだけ無名ってことだろ」
有岡は冷たく言い放つ。インターネットの業界で働くデザイナーとしては、ぽっと出の俄かアーティストを認めたくないのかもしれない。
新橋駅に到着し改札の中へ入る。それぞれ別の電車に乗る前に、次の皇居ランの日程を決め、その日はそこで解散となった。
翌週の日曜日も晴れていた。ランニングには絶好の日和だった。午後一時に四ツ谷で待ち合わせ、一路、麹町のランニングステーションを目指す。
「連日会うと本当に大学生の時みたいだな」
昨日の土曜日は有岡が設定した合コンがあった。二次会まで含めると終わったのは深夜二時過ぎだった。田辺以外は女性参加者も含めみんな自分の家に帰っていった。千葉に住む田辺はタクシー代がもったないから、佐竹の家に泊めて欲しいと言ってきた。当然、断るわけもなく佐竹は田辺を連れて帰った。次の日の皇居ランを考えたら、有岡のところに転がり込むより、佐竹の家の方が皇居に近いから佐竹を選んだのだろう。昼近くになってようやく二人は目が覚めて、慌てて待ち合わせの四ツ谷にやってきたのだった。
「軽く二日酔いだから走ってるときに吐くかも」
「ウコン飲めよウコン」
「そう言えば、昨日の女性陣から連絡きた？」
有岡が早速作ってくれたグループチャットには、佐竹と田辺の朝の挨拶と昨日のお礼の言葉だけが並び、そこには誰からの返信もなかった。
「俺と佐竹しかコメントしてないじゃん。有岡も何か書き込めよ」
「そしたら三人で寂しい存在になってしまうから俺はまだやめとく」
「みんなまだ寝てるんだろ。だって二時に解散だぜ？」
「普通、翌日に走ったりしないよな」
「でも、二次会に来るってことは一次会が楽しかったんじゃないの？」
「いや、あれはクレヨンズって名前にみんな注目したからだ、きっと」
昨日の合コンの一次会では、まず自己紹介があり、そこでみんな仕事の話をした。佐竹は大体いつも会社名を伏せて、大手企業の総務部で働いていることだけを言う。にもかかわらず、すでに酔い始めていた田辺が忘年会幹事の件を喋ってしまい、女性陣が食いついてきたのだ。そうなると話さざる得なくなり、佐竹は巧みに会社名を伏せながら、クレヨンズというアーティスト集団を呼ぶかもという話をした。本来は全て社外秘の話であるが、何となく気持ち良いのでその場の勢いで話してしまったのだ。その時、女性陣は一斉にすごいとささやきだし、それには佐竹も少し驚いた。その日、集まっていたのは有岡と同じデザイン業界の人間だった。有岡があれだけ淡白な反応を示していたのとは真逆だったので、そこに驚いたのだ。
「あの反応は良かったな。俺は関係者じゃないけど、めちゃくちゃ気持ち良かったぜ」
「田辺が急に話を振ってくるから俺が説明したんじゃん。いちおう社外秘だからな。そもそも呼ぶのだって決定してないし」
「オファーはしたの？」
「オファーは週明けにでもしようかなと」
「本当にクレヨンズにするのか？ そんなにまだ有名じゃないし、今年の年末にブレイクしてる保証なんてないと思う」
有岡が言うことは最もだったが、人気が出てから年末の忙しい時期へのオファーは不可能に近いだろう。早めに手を打っておいて損はない。
「今日、一周走るの？」
「半周にしとくか」
ランニングステーションから皇居方向へと向かい、麹町警察署を越えたところでその日走る距離を決めた。三人とも二日酔いのため、大事を取り、半周したところでコース変更し、徒歩で戻ることにした。
いつもなら色々なことを話しながら走る三人だが、この日は口数が少なかった。東京駅が見える辺りで大手町方向の横断歩道を渡り、その日の皇居ランを終えた。気温も高く、佐竹は持っていたペッドボトルを空にしていた。
「腹減ったな」
「そういえば朝飯食べてないしな」
「気持ち悪くて食えないってお前が言ったんだろ」
「どこに行く？ 今日も餃子？ 有岡はリクエストある？」
「昨日の女の子たちが言ってた店に行ってみたい」
合コンの最中、最近友人達と何を食べに行ったかというのが話題になった。その時、彼女達が美味しかったと言った店が東京・高輪にあるレストラン「リスボン」だ。ポルトガル料理の店で割りと小さな店らしい。日曜日も昼からやっているというので、この後行っても入れるに違いない。佐竹はポルトガル料理を食べたことがなかった。スペイン料理なら食べたことがあったが、昨夜の話を聞くところだと、かなり違うらしい。
半周を終えた三人は麹町のランニングステーションに戻ることにした。道路を挟んだ皇居側のコースにはランナーが溢れていた。ラジオ局を左折し、色々な飲食店が目に飛び込んでくると、猛烈に空腹を感じだした。心なしか歩調は早まっていく。
いつものようにロッカールームに戻るとウェアと下着を脱ぎ、裸になった。シャワー前には体重計に乗り、早速ランニングの成果を見る。百グラム減量していた。シャワー後だと、水分を余計に吸収して重くなるのではという勝手な考えがあるため、計測するのはいつもシャワー前だった。
シャワールームから佐竹が出た時、田辺も有岡もまだシャワーを浴びていた。奥の方からは田辺と思しき、鼻歌も聞こえてくる。そのメロディには聞き覚えがあった。クレヨンズの動画で見たときに流れていたものだと服を着ながら思い出していた。
佐竹は一足先にロッカールームを出て、ラウンジで待つことにした。その間にロッカーキーを返却し、軽くストレッチをする。二日酔いの症状も治り、この後の食事が楽しみだった。
まだ二人が出てこないため、佐竹はスマホを取り出して時間を潰していた。周囲には誰もいない。佐竹もつい、クレヨンズの曲を鼻歌で歌っていた。田辺の鼻歌に感化されてしまったらしい。同じメロディばかりを鼻歌で延々と再生していると、そのうちに原曲を聞きたくなった。音楽サイトでダウンロード配信しているのをみつけ、迷わず購入した。オファーするのだから相手の曲くらい知っておいた方がいいだろうという打算も働いていたが、いつでもどこでも聞けるようにしたかったというのが本音だった。イヤホンをかばんから出して、スマホに付ける。自分だけの空間でその音楽を味わいたかった。ダウンロードが終わると、すぐに佐竹は曲を再生した。自分の鼻歌は邪魔になるので、重ねて歌うような真似はしない。ひたすら聞くことだけに集中した。願わくば、この曲が終わるまでは二人にシャワールームから出てこないでもらいたかったが、その望みはすぐに潰えることになった。
「お待たせ。何、聞いてんの？ まさかクレヨンズ？」
「まだ曲の途中なのに、タイミング悪いなあ」
「いいよ。全部聞いてから行こうぜ」
「腹減ったから、さっさっと飯にしたいな」
急かしてきたのは有岡だった。確かに佐竹自身も空腹をかなり感じていた。それは田辺も有岡も同じだろう。二人のことを考えて、イヤホンを外しかばんにしまった。
ランニングステーションを出てすぐ地下鉄に乗り、永田町まで行って南北線に乗り換えた。そこから白金高輪まで行き、電車を降りた。駅から地上に出ると、品川方面に歩を進め、住宅街をしばらく進んでいく。
「レストランは住宅街にあるって言ってたけど、本当にこんなところにあるのかよ」
「地図ではこの辺なんだけど」
「あれじゃない？ あのコンビニの向かいにある店」
「並んでるな」
入り口のドアには宣教師風の男の古びたポスターが貼られ、外国の料理屋のような雰囲気があった。店の外では三組が順番待ちをしていた。その最後尾に佐竹達も並ぶ。
「早速、来ちゃいましたって、グループチャットに送ってみれば？ 話のネタとしてはちょうどいいんじゃない」
「まだ寝てるかもよ」
「こんな時間まで寝てないだろ」
順番を待っている間、看板に書かれたメニューを見ながら何を食べるか考えた。ランチメニューにあるポルトガル伝統料理が美味そうだ。田辺はグループチャットにメッセージを打ち込んでいる。そこには何故か、リスのスタンプが使われていた。
「何で、リスなんだよ」
「店名がリスボンだから」
「関係ないだろ」
「三名様、お待たせしました、どうぞ」
走った後だったので、立ちっぱなしで待つのはきつい。早めに中に入れるのは有り難かった。
「お、返事がきてる」
椅子に着いて、店員を呼ぼうとした矢先、田辺が声を張り上げた。グループチャットに昨日合コンした女の子から反応があったというのだ。
「社交辞令じゃないの？」
返事をくれた相手は有岡といっしょに合コンをセットしてくれた女幹事の子だった。
「それでもいいんだよ。とにかく、会話を繋ごう」
田辺は店の中に通されたと早速スマホから打ち込んだ。
「ほら、反応ないじゃないか」
「この子が駄目でも他の子が見てる。きっと返事がくるはず」
田辺の念が通じたのか、今度はもう一人から反応があった。しかし、それも社交辞令の範囲内であり、楽しんで下さいね、で締めくくられていた。
「もう、諦めて注文しよう」
「もうちょっと待ってくれ。それに俺はまだ料理が決まらない」
田辺はなおもスマホとにらめっこしている。数秒後、なんと三人目からも返事がきた。
「おい、ユキコちゃんが、今から行ってもいいかって。すぐ来そうな雰囲気だぜ」
「この辺に住んでるってことか」
佐竹達が座った席は四人掛けだったのでもう一人なら座れる。
「五分で来るって」
田辺は興奮気味に画面を見せてくる。佐竹は店員にもう一人来るので注文を待って欲しい旨を伝えた。
五分もせずに店のドアが開き、昨日合コンで会った女の子が入ってきた。
「昨日はありがとうございました。今日もお邪魔してすいません」
そう言うと彼女は佐竹の隣に座った。恨めしそうな田辺と目が合う。
この店の常連だという彼女は即座に注文するものを決めたらしく、佐竹は店員を呼んだ。
佐竹洋平は友人二人といっしょに皇居周縁を走っていた。休日のランナーは多く、ゼッケンをつけたイベント参加者も目につく。幾人ものランナーがとろとろ走る三人を次々と抜き去っていった。三人は抜かれることを一切気にせずに、会話を続けながら一周完走を目指していた。
「公務員なんて何にも変わらないぜ。変化に乏しい毎日。やってる仕事なんて先週、いや去年と同じかな。忙しさも面白みも何も変わらない、安定した日常だよ」
そう言ったのは佐竹の隣を走る田辺勇気だ。グリーンのランニングウェアで身を固め、同系色のシューズを履いていた。お洒落に気を遣う、最近のランナーの見本のような姿だった。
「地方選の準備があって近々忙しくなるんじゃないの？」
皇居の堀側を走る有岡武史が口を挟んだ。まだ三月上旬で肌寒いにも関わらず彼はＴシャツにハーフパンツという出で立ちでランニングに臨んでいた。
「選挙の準備なんてまだ先のことだから。俺のいる農業振興課は直前直後の応援部隊として駆けつけるくらいかな」
千葉県の市役所で公務員をしている田辺は休日になるとこうして都内に遊びにやってくる。最近では専らいっしょに運動することが多くなった。それは三十歳を前にして健康のことを気にするようになったからかもしれない。
「有岡はどうなの？ 気楽にやってるわけ？」
有岡は田辺から発せられた質問に答える前に持っていたペットボトルに口をつけた。ペッドボトルの中は振動のためか泡が目立っている。
「宮仕えじゃないからね俺は。と言ってもワガママなクライアントに翻弄されてるから、結局、会社に勤めてようがフリーランスでやってようが違いはないかも」
有岡は大学卒業後に就職せず、デザインの専門学校に入り直した。そこでウェブデザインの勉強をしたあと、フリーのデザイナーとして活動し始めた。三十歳を目前にしてようやく生計が成り立つだけの収入を得られるようになったようだ。それまでは疎遠になりかけていた三人の仲も、有岡が対等に稼げるようになってからは再び連絡がくるようになり、大学の頃のような仲に戻りつつあった。
千鳥ヶ淵の桜が見えてきた。まだ満開には程遠いがつぼみは開花し、空を薄いピンクに染めていた。そこで佐竹が自分のことを話しだした。
佐竹は大手企業の総務部に勤めていた。会社のあらゆる雑務をこなす部署であるが、年度末を前に来期の忘年会責任者に早くも任命されて、そのことで最近は悩んでいた。その心情を佐竹は走りながら、田辺と有岡に吐露したのだった。
「もう、忘年会のことなんて考えてるの？ 大企業って意外と暇なんだな」
「だから水面下で動くんだよ。社内でも、総務部の仕事は遊びかって思われるし」
「いろいろと大変だね。で、何で悩んでるの？ 会場候補とか？」
「会場候補は会社から近いホテルの地下を貸しきる予定なんだ。それはすでに何候補か予約してあるからいいんだけど、一番の問題は出し物なんだ」
「佐竹が何か一発芸をするとか？」
「違う違う。うちの会社では毎年、芸人とか歌手とかを呼んでるんだけど、その人選をどうしようかなと思って」
「なるほど。ゲストを呼ぶ裁量権が今年は佐竹にあるわけね」
「そういうこと。忘年会が盛り上がるかどうかは俺のセンスに掛かってるんだ。ここで変な芸能人とかを呼んじゃうと今後の出世にも響きそうだから、慎重にやりたいと思ってて」
「確かに、佐竹ってテレビもネットもあんまり見ないから、流行とは程遠い面子を揃えそうだ」
「そうなんだよ。だからこそ、流行に敏感そうな二人の意見を仰ぎたいんだ。もちろん、相談してるってのはオフレコね。いちおう社外秘の情報だから」
皇居の一周は大体五キロある。三人はすでに一周を終え、二周目に入ろうかというところだった。ただにわかランナーである三人はそれ以上走るのをやめて、麹町にあるランニングステーションまで戻ることにした。コースからそれると、いよいよ三人はおしゃべりに没頭していく。佐竹の希望通り、田辺と有岡はいろいろな有名人や芸能人の名前を挙げていった。案の定、佐竹は二人が挙げる名前をあまり聞いたことがなかった。これは二人に相談してよかったということだった。
「十二月の忘年会で一番盛り上がるゲストだろ？ 今、流行ってる一発屋芸人じゃあ、このあと九ヶ月の間人気が持続しないんじゃないか」
「今はまだブームになってなくて、この夏か秋くらいから一気にブレイクしそうな芸能人か」
「じゃあ、あれはどうかな。クレヨンズっていう今ネット動画で話題の三人組。知る人ぞ知るっていう、今は無名でもこの数ヶ月で必ず売れる気がするんだ」
公務員の田辺が力説する。彼は大学の頃からサブカルチャーに詳しく、アニメ、漫画などにも造詣が深い。その知識も情熱も公務員の仕事では一切活かせないため、こういう話になると俄然、力が入るのかもしれない。
「全然知らないな、佐竹は知ってる？」
有岡が佐竹にも話を振る。
「俺が知ってるわけないじゃん。その人達何するの？ 芸人？」
佐竹は田辺にクレヨンズというグループに関する情報を求めた。その頃になると三人はクールダウンするためにランニングをストップし、歩いてランニングステーションを目指していた。まだ少し冷たい春の風が汗を乾かしていく。乾き方は同じでも、感じ方は違うかもしれない。少なくとも、佐竹はそよ風を心地いいと感じていた。
田辺が言うには、クレヨンズという三人組は覆面をかぶり、即興で絵を描いたり、音楽を作ってパフォーマンスをするアーティステッィクなグループだということだった。その中で生まれた楽曲が今ネットでは人気で、近々メジャーデビューするかもしれないという噂で持ち切りなのだそうだ。確かにメジャーデビューすればメディアに引っ張りだこになるに違いない。このタイミングであれば年末には流行語を狙うような一世を風靡する存在になっているだろう。
「俺はそこまで売れるとは思えないな」
本業がデザイナーである有岡にそう言われると説得力があった。しかも有岡はウェブ関係の仕事をしている。彼らの評判はいち早く入ってくるはずだ。その彼が知らないということは、あくまでブームは一過性のものに過ぎず、続きはしないということかもしれない。
「シャワー浴びてからスマホに動画をシェアするから、みんなで見てみようぜ」
ランニングステーションはマラソンブームの後押しもあって、皇居周辺のいたるところに存在している。佐竹達は比較的、利用料金の安い麹町にあるそれをよく利用していた。ロッカーと簡単なシャワーがついていて、一回五百円で利用できた。皇居から少し離れているため価格設定がリーズナブルだ。それに人も少なく、混んでいることは稀だった。
佐竹はシャワーで汗を流すと着替えを済ませて、ロッカールーム外のラウンジで二人を待つことにした。二人が出てくるまでまだ時間がありそうだったので、田辺が共有してくれると言っていた動画を検索する時間があった。佐竹はスマホを取り出し、動画検索を実行する。
佐竹が見つけた動画の中で、クレヨンズは真っ白なタイツ姿でポンチョのような布を羽織っていた。体型からは男性なのか女性なのか判断できなかった。奇抜なマスクを被り、ダンスを踊っている。周りに誰もいなかったので、佐竹はスマホの音量を大きくしていった。非常に早い曲調で日本語にも、外国語にも聞こえる歌詞を歌っていた。彼らのパフォーマンスのバックで流れる曲が彼らの曲なのか佐竹には定かではなかったが、確かに見入ってしまう存在感があった。その動画が終わると、次の動画が始まった。外国の音楽イベントのようだった。画質は荒かったが、盛り上がりは十分に伝わってくる。司会者がクレヨンズを紹介すると、ステージが暗くなって彼らが出てきた。顔にはお面のようなものが付けられているため表情はわからない。妖艶な和風衣装を纏いながら舞を踊っている。少し単調な印象だったが一分ほど経つとどこからともなく楽器が現れ三人に一つずつ行き渡った。ギターのようにも見えるが、ボディ部分に太鼓がついている奇妙な楽器だった。クレヨンズの面々はそれを狂ったように弾き始めるが、きちっと調和が取れ、見る者を圧倒した。観客の声援や絶叫も画面越しに伝わってきた。
佐竹がその動画を見終わって次の動画を探そうと思ったとき、二人がロッカールームから顔を出した。
「お待たせ。佐竹は相変わらず出るのが早いな。カラスもびっくりの行水時間だぜ」
「汗流すだけで十分だろ？ 一分あれば事足りるよ」
さっぱりとした顔の田辺と有岡がラウンジのソファに座った。
「そんなことより、クレヨンズの動画を見ようぜ」
「時間があったから調べてみたよ。人気があるのがよくわかった。今は海外で人気なのかな？」
「そうらしいよ。有岡にも見せてやってくれよ」
佐竹はスマホの画面を有岡に見せた。有岡はあまり興味がなさそうにそれを眺めている。佐竹は、自分と同じように驚いたり、感心したりすると思っていたが、そんな反応を見せない有岡の対照的な姿に内心不思議な気持ちを覚えた。
「俺は流行るとは思えないけどね」
「有岡は厳しいなあ。俺は、絶対こいつらが今年売れると思ってるぜ」
「こういうのは主観によるところが大きいしね。とりあえず、クレヨンズを候補として考えてみるよ」
クレヨンズの話題が一段落したところで、三人はランニングステーションを後にした。皇居ランを終えると大抵は遅めの昼食をとることが多かった。その日は麹町から地下鉄に乗り、銀座一丁目へ向かった。有岡が銀座にできた餃子専門店に行きたいと言ったからだ。
「佐竹の会社に呼ぶとして、どういうパフォーマンスをやってもらうんだ？」
「例年、芸人だとネタとトークショーの合わせ技みたいになるから、音楽系の人だとやっぱり持ち歌とトークショーかな」
「何をやるかも佐竹が決めるの？」
「簡単な企画書は出すけど、具体的に何をやるかは向こうに提案してもらうと思う」
「楽しそうだな。俺も見に行きたいわ。有給とって」
「田辺と有岡の二人ぐらいなら呼んでもバレそうにないけどな」
「いやいや俺はいいよ。年末は忙しいし」
「有岡が辞退する分、俺に譲ってくれ。女の子を誘いたい」
数分で目的の駅に着いた。地上に出て銀座方向に歩くと店はすぐに見つかった。ランチタイムはとおに過ぎているのでがらがらだ。問題なく席に通され、三人は料理を注文した。
食事中は来週末の合コンについての話に花が咲いた。有岡のデザイナー仲間から寄せられた案件でどのような女の子が来るのか、佐竹と田辺は鼻の下を伸ばしながら聞いていた。大皿に三人前以上盛られた焼餃子はあっと言う間になくなり、佐竹が追加で水餃子を頼んだ。
「年はいくつくらい？」
「若いよ。美大卒業して二年って言ってた」
「じゃあ二十四か」
「でも、美大って苦労して入る人多いよね」
「まあね、浪人が多いイメージ。デザイン系の専門も四大卒業後に入ってくる奴はわりかし多いから平均年齢は高いよ」
「じゃあ、その分を勘定に入れると二つ下くらいか」
「多分ね」
「かわいいの？」
「俺の知り合いの子は中々かわいい」
「そいつが幹事？ 幹事マックスの法則が働いて、かわいい子はその子だけだったらショックだな」
「だったらまた合コンを開けばいいよ。公務員と合コンしたいけど田辺の職場はどうなの？」
「俺の周りはパートのおばさんばっかりだな。誘ったら来そうだけど」
「それは嫌だな。佐竹のとこは若い子いるんじゃないの？」
「今度誘ってみるよ」
会社同期や他の大学時代の友人が次々に結婚していく中で三人にそのような話はなかった。佐竹から見ても二人が真剣に結婚相手を探しているようには思えなかった。田辺なんて昔から女好きで有名で、社会人になってからは遊びに拍車がかかっているようにさえ思う。田辺ほどではないにせよ、佐竹自身もあまり変わらない。仕事に忙殺され、決まった交際相手はいない。たまの休みも金銭的な余裕から少し良い店で食事したり、ショッピングに費やしたりと自由に過ごせるため、気ままな今が一番良いと心から思っていた。
「俺、水餃子いいや、お腹いっぱいになってきた」
有岡が箸を置いて降参するポーズを見せた。田辺は俄然、食欲があるという表情を見せたので、佐竹は二人で食べることにした。運ばれてきた大どんぶりには、水餃子が溢れんばかりに入れられている。卓上の酢と醤油、それからラー油で新たにタレを作り、佐竹は食べ始めた。焼餃子とは異なる風味がある。食感もなめらかで、つるりと食べられた。
「すまん、やっぱり一個だけくれ。佐竹の見てると、めちゃくちゃ美味そうで」
「お前、昔からそういうところあるよな」
田辺が横で笑っている。佐竹はどんぶりを有岡の前まで寄せてやる。ちょうど一つだけ水餃子が残っていた。スープの中で、ぎゅう詰め状態だった餃子も、一つだけだと悠然とスープの中でくつろいでいるようだ。
三人は会計を終えて、店を出た。三人とも帰りはＪＲを使うので新橋方向に歩く。
「クレヨンズって何でクレヨンなんだろう」
「ウィキペディアで調べてみるか」
佐竹は気になって早速調べてみる。検索結果の一番上のリンクを叩くとページが開いた。
「大した事が載ってないな」
「それだけ無名ってことだろ」
有岡は冷たく言い放つ。インターネットの業界で働くデザイナーとしては、ぽっと出の俄かアーティストを認めたくないのかもしれない。
新橋駅に到着し改札の中へ入る。それぞれ別の電車に乗る前に、次の皇居ランの日程を決め、その日はそこで解散となった。
翌週の日曜日も晴れていた。ランニングには絶好の日和だった。午後一時に四ツ谷で待ち合わせ、一路、麹町のランニングステーションを目指す。
「連日会うと本当に大学生の時みたいだな」
昨日の土曜日は有岡が設定した合コンがあった。二次会まで含めると終わったのは深夜二時過ぎだった。田辺以外は女性参加者も含めみんな自分の家に帰っていった。千葉に住む田辺はタクシー代がもったないから、佐竹の家に泊めて欲しいと言ってきた。当然、断るわけもなく佐竹は田辺を連れて帰った。次の日の皇居ランを考えたら、有岡のところに転がり込むより、佐竹の家の方が皇居に近いから佐竹を選んだのだろう。昼近くになってようやく二人は目が覚めて、慌てて待ち合わせの四ツ谷にやってきたのだった。
「軽く二日酔いだから走ってるときに吐くかも」
「ウコン飲めよウコン」
「そう言えば、昨日の女性陣から連絡きた？」
有岡が早速作ってくれたグループチャットには、佐竹と田辺の朝の挨拶と昨日のお礼の言葉だけが並び、そこには誰からの返信もなかった。
「俺と佐竹しかコメントしてないじゃん。有岡も何か書き込めよ」
「そしたら三人で寂しい存在になってしまうから俺はまだやめとく」
「みんなまだ寝てるんだろ。だって二時に解散だぜ？」
「普通、翌日に走ったりしないよな」
「でも、二次会に来るってことは一次会が楽しかったんじゃないの？」
「いや、あれはクレヨンズって名前にみんな注目したからだ、きっと」
昨日の合コンの一次会では、まず自己紹介があり、そこでみんな仕事の話をした。佐竹は大体いつも会社名を伏せて、大手企業の総務部で働いていることだけを言う。にもかかわらず、すでに酔い始めていた田辺が忘年会幹事の件を喋ってしまい、女性陣が食いついてきたのだ。そうなると話さざる得なくなり、佐竹は巧みに会社名を伏せながら、クレヨンズというアーティスト集団を呼ぶかもという話をした。本来は全て社外秘の話であるが、何となく気持ち良いのでその場の勢いで話してしまったのだ。その時、女性陣は一斉にすごいとささやきだし、それには佐竹も少し驚いた。その日、集まっていたのは有岡と同じデザイン業界の人間だった。有岡があれだけ淡白な反応を示していたのとは真逆だったので、そこに驚いたのだ。
「あの反応は良かったな。俺は関係者じゃないけど、めちゃくちゃ気持ち良かったぜ」
「田辺が急に話を振ってくるから俺が説明したんじゃん。いちおう社外秘だからな。そもそも呼ぶのだって決定してないし」
「オファーはしたの？」
「オファーは週明けにでもしようかなと」
「本当にクレヨンズにするのか？ そんなにまだ有名じゃないし、今年の年末にブレイクしてる保証なんてないと思う」
有岡が言うことは最もだったが、人気が出てから年末の忙しい時期へのオファーは不可能に近いだろう。早めに手を打っておいて損はない。
「今日、一周走るの？」
「半周にしとくか」
ランニングステーションから皇居方向へと向かい、麹町警察署を越えたところでその日走る距離を決めた。三人とも二日酔いのため、大事を取り、半周したところでコース変更し、徒歩で戻ることにした。
いつもなら色々なことを話しながら走る三人だが、この日は口数が少なかった。東京駅が見える辺りで大手町方向の横断歩道を渡り、その日の皇居ランを終えた。気温も高く、佐竹は持っていたペッドボトルを空にしていた。
「腹減ったな」
「そういえば朝飯食べてないしな」
「気持ち悪くて食えないってお前が言ったんだろ」
「どこに行く？ 今日も餃子？ 有岡はリクエストある？」
「昨日の女の子たちが言ってた店に行ってみたい」
合コンの最中、最近友人達と何を食べに行ったかというのが話題になった。その時、彼女達が美味しかったと言った店が東京・高輪にあるレストラン「リスボン」だ。ポルトガル料理の店で割りと小さな店らしい。日曜日も昼からやっているというので、この後行っても入れるに違いない。佐竹はポルトガル料理を食べたことがなかった。スペイン料理なら食べたことがあったが、昨夜の話を聞くところだと、かなり違うらしい。
半周を終えた三人は麹町のランニングステーションに戻ることにした。道路を挟んだ皇居側のコースにはランナーが溢れていた。ラジオ局を左折し、色々な飲食店が目に飛び込んでくると、猛烈に空腹を感じだした。心なしか歩調は早まっていく。
いつものようにロッカールームに戻るとウェアと下着を脱ぎ、裸になった。シャワー前には体重計に乗り、早速ランニングの成果を見る。百グラム減量していた。シャワー後だと、水分を余計に吸収して重くなるのではという勝手な考えがあるため、計測するのはいつもシャワー前だった。
シャワールームから佐竹が出た時、田辺も有岡もまだシャワーを浴びていた。奥の方からは田辺と思しき、鼻歌も聞こえてくる。そのメロディには聞き覚えがあった。クレヨンズの動画で見たときに流れていたものだと服を着ながら思い出していた。
佐竹は一足先にロッカールームを出て、ラウンジで待つことにした。その間にロッカーキーを返却し、軽くストレッチをする。二日酔いの症状も治り、この後の食事が楽しみだった。
まだ二人が出てこないため、佐竹はスマホを取り出して時間を潰していた。周囲には誰もいない。佐竹もつい、クレヨンズの曲を鼻歌で歌っていた。田辺の鼻歌に感化されてしまったらしい。同じメロディばかりを鼻歌で延々と再生していると、そのうちに原曲を聞きたくなった。音楽サイトでダウンロード配信しているのをみつけ、迷わず購入した。オファーするのだから相手の曲くらい知っておいた方がいいだろうという打算も働いていたが、いつでもどこでも聞けるようにしたかったというのが本音だった。イヤホンをかばんから出して、スマホに付ける。自分だけの空間でその音楽を味わいたかった。ダウンロードが終わると、すぐに佐竹は曲を再生した。自分の鼻歌は邪魔になるので、重ねて歌うような真似はしない。ひたすら聞くことだけに集中した。願わくば、この曲が終わるまでは二人にシャワールームから出てこないでもらいたかったが、その望みはすぐに潰えることになった。
「お待たせ。何、聞いてんの？ まさかクレヨンズ？」
「まだ曲の途中なのに、タイミング悪いなあ」
「いいよ。全部聞いてから行こうぜ」
「腹減ったから、さっさっと飯にしたいな」
急かしてきたのは有岡だった。確かに佐竹自身も空腹をかなり感じていた。それは田辺も有岡も同じだろう。二人のことを考えて、イヤホンを外しかばんにしまった。
ランニングステーションを出てすぐ地下鉄に乗り、永田町まで行って南北線に乗り換えた。そこから白金高輪まで行き、電車を降りた。駅から地上に出ると、品川方面に歩を進め、住宅街をしばらく進んでいく。
「レストランは住宅街にあるって言ってたけど、本当にこんなところにあるのかよ」
「地図ではこの辺なんだけど」
「あれじゃない？ あのコンビニの向かいにある店」
「並んでるな」
入り口のドアには宣教師風の男の古びたポスターが貼られ、外国の料理屋のような雰囲気があった。店の外では三組が順番待ちをしていた。その最後尾に佐竹達も並ぶ。
「早速、来ちゃいましたって、グループチャットに送ってみれば？ 話のネタとしてはちょうどいいんじゃない」
「まだ寝てるかもよ」
「こんな時間まで寝てないだろ」
順番を待っている間、看板に書かれたメニューを見ながら何を食べるか考えた。ランチメニューにあるポルトガル伝統料理が美味そうだ。田辺はグループチャットにメッセージを打ち込んでいる。そこには何故か、リスのスタンプが使われていた。
「何で、リスなんだよ」
「店名がリスボンだから」
「関係ないだろ」
「三名様、お待たせしました、どうぞ」
走った後だったので、立ちっぱなしで待つのはきつい。早めに中に入れるのは有り難かった。
「お、返事がきてる」
椅子に着いて、店員を呼ぼうとした矢先、田辺が声を張り上げた。グループチャットに昨日合コンした女の子から反応があったというのだ。
「社交辞令じゃないの？」
返事をくれた相手は有岡といっしょに合コンをセットしてくれた女幹事の子だった。
「それでもいいんだよ。とにかく、会話を繋ごう」
田辺は店の中に通されたと早速スマホから打ち込んだ。
「ほら、反応ないじゃないか」
「この子が駄目でも他の子が見てる。きっと返事がくるはず」
田辺の念が通じたのか、今度はもう一人から反応があった。しかし、それも社交辞令の範囲内であり、楽しんで下さいね、で締めくくられていた。
「もう、諦めて注文しよう」
「もうちょっと待ってくれ。それに俺はまだ料理が決まらない」
田辺はなおもスマホとにらめっこしている。数秒後、なんと三人目からも返事がきた。
「おい、ユキコちゃんが、今から行ってもいいかって。すぐ来そうな雰囲気だぜ」
「この辺に住んでるってことか」
佐竹達が座った席は四人掛けだったのでもう一人なら座れる。
「五分で来るって」
田辺は興奮気味に画面を見せてくる。佐竹は店員にもう一人来るので注文を待って欲しい旨を伝えた。
五分もせずに店のドアが開き、昨日合コンで会った女の子が入ってきた。
「昨日はありがとうございました。今日もお邪魔してすいません」
そう言うと彼女は佐竹の隣に座った。恨めしそうな田辺と目が合う。
この店の常連だという彼女は即座に注文するものを決めたらしく、佐竹は店員を呼んだ。
|
|
|
|
コメント(10)
「家、近いんですね。いい所にお住みでうらやましいです」
「実家なんですよ」
料理が来るまでの間、合コンの延長戦のような時間が続いた。佐竹は酔っていない状態で改めて彼女を見ると、その顔に馴染むものを覚えた。合コンより以前に会ったことがあるような気がするのだ。昨夜は薄暗い間接照明の効いた瀟洒な店だったため、相手方の顔をそこまで認識できていなかった。彼女のことをまじまじとみつめてしまったせいだろうか、彼女の関心は佐竹に向けられた。
「クレヨンズの話、もっと聞かせて下さい」
「こいつはね、クレヨンズが大好きなんです。さっきもずっと音楽を聞きっぱなしで」
佐竹が答える前に田辺が何故か答えていく。
「ええ、仕事でひょっとするとお会いできるかもしれないからと思って、勉強がてら聞いてるんです」
田辺の介入は無視して彼女と会話を続けた。時折り見せる彼女の笑顔。やはり、どこかで会ったことがある気がする。だが、佐竹は思い出せないでいた。
「お待たせしました」
料理が運ばれてきた。メインの前にサラダ、それからスープも同時にテーブルに置かれた。配膳が終わると、みんな一斉にフォークを持って食べ始めた。四人とも今日最初の食事なのかもしれない。
間もなくして串刺しにされた、メインの肉料理がやってきた。ケバブみたいな料理だと佐竹は思った。茹でた小さなじゃがいもが添えられ、香辛料の香りが食欲をそそった。一心不乱に食べ続け、食事はものの五分程度で終わった。彼女はそんな男性三人に驚いているようだったが、自身も負けじと早く食べようとしだした。
「いやいや、ゆっくり食べてください。でも、食べ物を頬張る姿も可愛いですね。やっぱり続けてください」
田辺が止めてるのだか、促してるのだかわからないアドバイスを彼女にくれてやる。彼女が笑う。それを見ても佐竹はまだ彼女との接点を思い出せないでいた。
食事の後、家が近いというので、彼女を送ることになった。田辺は中に入れるのか聞いていたが、今日はもてなす時間がないからと、断られていた。
「皆さん、昨日、今日とありがとうございました。それに家まで送ってもらって、すいません」
「大きい家ですね、今度は家に呼んでくださいね」
田辺はなおも食い下がっていた。有岡も彼女も笑っていたが、佐竹だけは表札を直視していた。そこには権堂とあった。それから再度、彼女の顔を見た。似ている。苗字がわかり、見覚えがある理由がわかったのだ。
「あの、ユキコさんのお父さんって、権堂常久ってお名前じゃないですか？」
「そうですけど、父をご存知なんですか？」
佐竹の会社の社長だった。顔を見たことがあるなと思ったのはそれが理由だったのだ。顔が父親に似ていると言うと、ひょっとすると女性は嫌がるかもしれないと思い、変わった苗字なので、と適当にお茶を濁しておいた。
佐竹は冷や汗をかいていた。彼女に素性が知られると、社長にまで色々伝わってしまいそうで怖かった。合コンで社外秘の情報を漏らしていることがバレると佐竹の立場はかなり悪くなる。昨夜の合コンでは、勤務先の名前を出していないため、彼女はまだ気付いていないだろう。だが、クレヨンズへのオファーが決まれば、稟議は社長を通過する。社長は娘の好きなアーティストだと気付く。娘に自慢するかもしれない。すると、彼女は悟るだろう。あの時、合コンした人は父の会社の人間だったのかと。そこで、彼女が告げ口したり、普段の会話で出すかは不明だが、佐竹には言い知れぬ不安が募っていた。
クレヨンズにオファーするのは止した方がいいかもしれない。そうすれば、彼女が気付くこともない。
ところが、彼女の家を辞そうとした時、彼女は思いもよらないことを言い出した。
「実は、父もクレヨンズの大ファンなんです」
それを聞いて佐竹は、先ほどまでの考えを、打ち消した。クレヨンズにオファーするリスクを取った方が、出世できると直感していた。
＜続く＞
「実家なんですよ」
料理が来るまでの間、合コンの延長戦のような時間が続いた。佐竹は酔っていない状態で改めて彼女を見ると、その顔に馴染むものを覚えた。合コンより以前に会ったことがあるような気がするのだ。昨夜は薄暗い間接照明の効いた瀟洒な店だったため、相手方の顔をそこまで認識できていなかった。彼女のことをまじまじとみつめてしまったせいだろうか、彼女の関心は佐竹に向けられた。
「クレヨンズの話、もっと聞かせて下さい」
「こいつはね、クレヨンズが大好きなんです。さっきもずっと音楽を聞きっぱなしで」
佐竹が答える前に田辺が何故か答えていく。
「ええ、仕事でひょっとするとお会いできるかもしれないからと思って、勉強がてら聞いてるんです」
田辺の介入は無視して彼女と会話を続けた。時折り見せる彼女の笑顔。やはり、どこかで会ったことがある気がする。だが、佐竹は思い出せないでいた。
「お待たせしました」
料理が運ばれてきた。メインの前にサラダ、それからスープも同時にテーブルに置かれた。配膳が終わると、みんな一斉にフォークを持って食べ始めた。四人とも今日最初の食事なのかもしれない。
間もなくして串刺しにされた、メインの肉料理がやってきた。ケバブみたいな料理だと佐竹は思った。茹でた小さなじゃがいもが添えられ、香辛料の香りが食欲をそそった。一心不乱に食べ続け、食事はものの五分程度で終わった。彼女はそんな男性三人に驚いているようだったが、自身も負けじと早く食べようとしだした。
「いやいや、ゆっくり食べてください。でも、食べ物を頬張る姿も可愛いですね。やっぱり続けてください」
田辺が止めてるのだか、促してるのだかわからないアドバイスを彼女にくれてやる。彼女が笑う。それを見ても佐竹はまだ彼女との接点を思い出せないでいた。
食事の後、家が近いというので、彼女を送ることになった。田辺は中に入れるのか聞いていたが、今日はもてなす時間がないからと、断られていた。
「皆さん、昨日、今日とありがとうございました。それに家まで送ってもらって、すいません」
「大きい家ですね、今度は家に呼んでくださいね」
田辺はなおも食い下がっていた。有岡も彼女も笑っていたが、佐竹だけは表札を直視していた。そこには権堂とあった。それから再度、彼女の顔を見た。似ている。苗字がわかり、見覚えがある理由がわかったのだ。
「あの、ユキコさんのお父さんって、権堂常久ってお名前じゃないですか？」
「そうですけど、父をご存知なんですか？」
佐竹の会社の社長だった。顔を見たことがあるなと思ったのはそれが理由だったのだ。顔が父親に似ていると言うと、ひょっとすると女性は嫌がるかもしれないと思い、変わった苗字なので、と適当にお茶を濁しておいた。
佐竹は冷や汗をかいていた。彼女に素性が知られると、社長にまで色々伝わってしまいそうで怖かった。合コンで社外秘の情報を漏らしていることがバレると佐竹の立場はかなり悪くなる。昨夜の合コンでは、勤務先の名前を出していないため、彼女はまだ気付いていないだろう。だが、クレヨンズへのオファーが決まれば、稟議は社長を通過する。社長は娘の好きなアーティストだと気付く。娘に自慢するかもしれない。すると、彼女は悟るだろう。あの時、合コンした人は父の会社の人間だったのかと。そこで、彼女が告げ口したり、普段の会話で出すかは不明だが、佐竹には言い知れぬ不安が募っていた。
クレヨンズにオファーするのは止した方がいいかもしれない。そうすれば、彼女が気付くこともない。
ところが、彼女の家を辞そうとした時、彼女は思いもよらないことを言い出した。
「実は、父もクレヨンズの大ファンなんです」
それを聞いて佐竹は、先ほどまでの考えを、打ち消した。クレヨンズにオファーするリスクを取った方が、出世できると直感していた。
＜続く＞
- mixiユーザー
- ログインしてコメントしよう！
|
|
|
|
半蔵門かきもの倶楽部 更新情報
-
最新のアンケート
-
まだ何もありません
-
半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています
人気コミュニティランキング
- 1位
- 広島東洋カープ
- 55345人
- 2位
- mixi バスケ部
- 37848人
- 3位
- 千葉 ロッテマリーンズ
- 37151人