「明日は遅刻しないでよね」
拓斗は、由奈から強く念を押されて電話を切った。ベッドの中で横になっていた拓斗は、すでに眠る態勢ができあがっていたが念のために目覚まし時計を再度確認する。いつもなら寝坊したとしても由奈が起こしてくれるが、実家に戻っていて今夜はいなかった。起こしてくれる相手がいないので、頼みの綱は完全に目覚まし時計だけだ。
由奈は結婚式の準備に追われ、今週は実家に戻っていた。明日は式場での打ち合わせがある。拓斗と由奈は今年の七月に入籍を済ませ、結婚式は十一月を予定していた。式場の下見は去年からスタートし、時間はあっという間に過ぎていった。ウェディングプランナーから提示される、様々な趣向を凝らしたプランを見るたび、拓斗は幸せを感じずにはいられなかった。こんな感覚に浸れるのは花嫁だけかと思っていたが、男である拓斗も浮かれ気分になるほど結婚式が楽しみになってきていた。
由奈とは式場の前で待ち合わせた。拓斗は遅刻せずに到着した。新婦である由奈の熱の入れようはさすが女性だと思わせるもので、打ち合わせであっても手を抜かない。拓斗は以前、今日のような打ち合わせで遅刻し、ひどく怒られたことがある。もうそんな修羅場は御免こうむりたいため、気合いを入れて、拓斗は待ち合わせ場所に立っている。
式場は都内の高級ホテルに併設されていた。二人の予算から少しオーバーしていたが、ウェディングプランナーの人柄に惹かれここに決めたのだ。プランナーは女性で、大人びた口調が印象的だったが、実年齢は拓斗や由奈よりも少し下だった。彼女のおかげで拓斗は結婚に実感が持てたと言っていい。そして、式までの長い時間が退屈なものではなく、楽しみで期待を寄せるものに変化していったのも彼女のおかげだった。拓斗が入り口のところで少し待っていると由奈がやってきた。由奈は拓斗をみとめると手を振った。
「待った？ 遅刻しないなんて、拓斗にしては偉いじゃない」
「さっき着いたばかりだよ。そりゃ、大事な結婚式の打ち合わせだからね、遅刻はしないよ」
二人は受付でプランナーの夏井を呼んだ。すぐに打ち合わせルームに通された。ほどなくして夏井が現れる。紺色のスーツ姿で首元にはスカーフが巻かれていた。凛とした大人の代表という感じだ。
「朝早くからすいません。早速ですけど今日はまず、披露宴で流す映像についてご相談させてください」
最近の披露宴の主流はオープニングで映画さながらのムービーを流しゲストを惹きつけ、その他の演出にも同じように映像を使うことが多いそうだ。例えば、料理の紹介にもわざわざ料理番組のパロディ映像を使用することがあるくらいらしい。もちろん、料理の紹介に無駄なお金を使いたくないので拓斗達はオープニングと二人のプロフィールムービーをプランナーの夏井に頼むことにした。
「オープニングに関しては、お二人の現在の写真を数枚いただければ、お好きなテイストに合わせて演出と編集をさせていただきます。プロフィールムービーに関しては二人の生い立ちがわかる写真を数十点ご用意いただきたいと思っています」
「赤ちゃんの頃の写真もですよね？」
拓斗は夏井に質問した。昔の写真は実家の母に聞いて取り寄せる必要があった。
「そうですね。生まれてすぐから幼少期までで数枚、幼稚園、小中高など各時代ごとに数枚をご用意いただければと思います。恐らく、お手元にはないかと思いますので、ご家族に聞いてみてください。ご家族にとっても、写真の整理は子供の結婚を改めて身近に感じるとても良い機会かと思います」
「うちの両親もすごく楽しみにしてて、もう勝手に写真選んじゃってるんですよ」
「それは助かりますね。次回の打ち合わせを二週間後にして、その時までに集まりそうですか？」
「はい、大丈夫です。拓斗は？」
「実家にはアルバムがあるだろうから、すぐに取り寄せるよ。写真はスキャナーなんかで読み取ってデータにした方がいいですか？」
「こちらで責任をもってスキャンしますのでご安心ください。古い写真ですと扱いが丁寧でなければなりませんから、プロに任せてください」
夏井には全幅の信頼を置いていた。夏井は手元の手帳に決まったことをメモし話を続けた。
「写真のスライドを見ていただくだけで、ゲストの方はもとより、ご親戚の皆様も本当に二人の成長を見守ってよかったと思ってくれるはずです。結婚式には感動させる仕掛けがいくつも施されてますが、私は写真のスライドショーで新郎新婦の生い立ちから馴れ初めまでを伝えるムービーの上映が一番好きです。赤の他人の私ですら、感じ入るものがあるんです。ご当人であるお二人にとっても思い出に残る披露宴の演出になるはずです」
打ち合わせは午前中に終わった。夏井に見送られて拓斗と由奈は式場を出た。夏の盛りが終わり、いっときではあるが寒くもなく暑くもない、暖かな気候が巡ってきた。結婚式本番までは後一ヶ月程度を残すところとなった。拓斗にとって駅まで歩く道のりは軽やかで心地よかった。久しぶりに手をつないで歩く。柔らかな由奈の手を握るとすぐに反応が返ってきて拓斗は得も言われぬ幸福さに包まれていた。
夜、拓斗は母に電話した。写真を送ってもらうためだ。一昔前なら家の固定電話に電話していたが、今や母もスマホユーザーで、直接掛けることの方が多い。拓斗の母はすぐに出た。
「もしもし、どうしたの？ 結婚の準備うまくいってる？」
「うん、順調。今日も打ち合わせだったよ」
お互いの近況を報告しあってから拓斗は用件を切り出した。
「披露宴でさ、写真のスライドショーを流してくれるんだけど俺の小さい時の写真を適当に見繕って送ってくれないかな？」
「いいわよ。あんたがこっちにいる高校生までの写真ならアルバムに全部入ってるから。早速明日送るわ。写真は自分で選んでみなさいな。昔の写真をじっくり見るってのは面白いもんよ」
「なんだよそれ。じゃあ待ってるよ」
母は本当にすぐに送ってくれたようで、二日後には実家からアルバムが宅配便で届けられた。十冊もあり、全部見ていくのは結構な重労働に思えた。とりあえず、一番古いものから順番に由奈と見ていくことにした。
「うわあ、かわいいね。拓斗もこんなにかわいい時期があったんだね」
「誰でも赤ちゃん時代はかわいいもんだろ。今の写真は使わず、全部この時代の写真使っちゃおうかな」
「それじゃあ意味ないでしょ。成長してる過程を流さなきゃ」
拓斗が写った幼少の写真だけで二人は盛り上がっていた。何ページにも渡って拓斗の愛らしい姿が続いた。分娩室での生まれたての写真もあれば、家の中で祖父と祖母に頬ずりされて泣く拓斗の写真もあった。お風呂に入れられているところや近所に出て、夕闇をバックに撮られた写真もあった。とにかく、たくさんの笑顔と泣き顔に溢れた拓斗の写真がそこにはあった。
「私もね、実家で赤ちゃんの頃の写真見せてもらったんだけど、こんなにたくさんの枚数はなかったよ」
それなら拓斗も見たことがある。両親に抱きかかえられ愚図る由奈、満面の笑みを父親や母親に見守られながら浮かべる由奈。枚数は確かに、拓斗が今見ている自分の写真より少なかったかもしれない。しかし、一番の違いは枚数ではない。撮られた構図やシーンでもない。拓斗と由奈の写真には決定的な違いがあった。
「ごめんね、涙が出てきちゃった。この写真見てると、本当に拓斗のお母さんやおじいちゃん、おばあちゃんの気持ちがわかるよ。幸せになってね、元気に成長してねっていう気持ちが」
由奈は大粒の涙を流しながら、拓斗の手を握りしめてきた。拓斗は改めて赤ちゃん時代の写真を何枚も見る。そこに父親の姿はなかった。普通ならあるべきはずの父親との写真が一枚もない。ツーショットも集合写真も何もなかった。拓斗が生まれた時、すでに父親は他界していたのだ。写真を連続して見るとき幸福な家庭の印象と同時に父親がいない喪失感も合わせて拓斗は感じることができた。自分には父親がいないという実感。ただ、そのせいで寂しさや嫌な思いを感じたことは一度もなかった。それは即ち、母を含めた他の家族が父の代わりを必死になって務めてくれたことを表わしてもいた。父の不在を埋めるために、どれだけ多くの配慮が拓斗になされてきたか。写真を見ればそれが理解できる。そして、アルバム全冊を送ってきた母のメッセージすらも拓斗は感じていた。母が拓斗を育てるためにしてきた苦労と愛情の深さを、写真の一枚一枚が如実に語っている。遠く離れて暮らしていても、幸せを願っているよという母の強い気持ちが伝わってきた。
「親父が死んだ後に生まれてきたから、みんな形見みたいに思ったんだろうな。生まれ変わりみたいな」
「そうだね。少しでも拓斗が寂しがらないように、こうやって祝福されて生まれてきたんだよね」
アルバムの写真がその時代の人達の気持ちや感動を雄弁に語っていた。写真にも行間がある。そこには写しきれていない気持ちや願いがある。祖母にしても仕事で家にいない母の代わりを常にしてくれた。祖父はまるで父親のように、肩車をしてくれ、少し大きくなるとキャッチボールをしてくれた。そこにある愛情や思いが写真には表れている。今まで忘れていた古い記憶がたった一枚の写真から思い出され、当時の大人達の感情までが手に取るようにわかった。いつのまにか拓斗も泣いていた。アルバムのページをめくると笑顔で写る母親が目に飛び込んできた。相当若く、写真の中の拓斗に笑いかけている。きっと当時、父が亡くなり意気消沈していたはずなのに、頑張って拓斗を産んでくれた。拓斗にはその当時の母の悲痛と歓喜が想像できた。結婚後まもなくして交通事故で死んでしまった父親。その時、母は妊娠していた。拓斗は大きくなって、その事故のことを聞かされた。父は出張からの帰り高速道路を走行していた。深夜だったそうだ。並走する一台のトラックが父の運転する車に側面から当たってきたため、一瞬ハンドル操作を誤り、父を乗せた車は、横転し大破。居眠り運転のトラックがもたらした事故により父は帰らぬ人になった。祖父母に父の小さい頃や青年時代、結婚直後の写真を見せてもらったことがある。拓斗にそっくりだった。紛れもなく拓斗はその事故死した父の息子なのだ。亡き夫の、亡き息子の忘れ形見として拓斗は手塩にかけて育てられてきたのだ。結婚という節目に立ち、過去をかえりみて改めて家族への感謝の念を感じていた。
時間をかけて由奈とアルバムのページをめくっていった。小さい頃の記憶などほとんど覚えていないつもりだったが写真を目にするとその頃の光景が脳裏に蘇った。確かにそこに父はいなかった。しかし、母や祖父母が常にいてくれ、拓斗をあやし、遊んでくれていた。時に厳しく怒られることもあったが、大抵のわがままは聞いてくれたように思う。遅れて戻ってきた記憶を噛みしめるように拓斗はアルバムをめくってゆく。写真には写されていない記憶も同時に思い出す。祖父が連れて行ってくれた祭り、祖母と出かけたデパートの屋上の遊園地。友達の家に泊まることを母に連絡を入れずにいたことでひどく心配させてしまったこともあった。一瞬を切り取ったに過ぎない写真であったが、一度見ると様々な記憶の洪水に飲み込まれていく。その途中にある母の苦悩や希望も写真は、確かにそこに残していた。親の心子知らずとはよく言ったもので、本当に子供時代の拓斗は母親の心情などお構いなしだった。
「あっという間に十冊目のアルバムだね」
「高校時代は写真が少ないと思うんだ。ほとんど撮ってない気がするな」
高校生くらいからだろうか、母親とのコミュニケーションが煩わしくなった。中学は父親がいないこともあってか、母に気を遣っていたところがあった。しかし、高校になると自分中心の生活が大切になった。部活もあったし友達とつるむことの方が多くなる一方だった。学校での出来事も逐一報告するようなことはしなくなり、拓斗の情報は母親に届かなくなった。家族旅行だけは中学のうちは続けていたが、それも高校になると拓斗は行かなくなった。勉強も忙しくなっていた時期だ。そんなに嫌なつもりで断ったわけでもなかった。しかし、断った高一の次の年から恒例だった旅行はなくなった。母は勉強も部活もあるからねと言ってくれた。本当は行きたかったのだろう。当時の拓斗はそんな母の気持ちには全く気が付かなかった。もし、行っていればその分、目の前のアルバムの中に写真が増えたはずだ。
結婚式のスライドショー用にと思って、拓斗と由奈はアルバムから高校生の頃の写真を見ていたが、友達との写真もほとんどなかった。あるのは強制的に買わされるクラスの集合写真くらいだった。それは紛れもない成長の証ではあるが、数が少なすぎた。披露宴のスライドショーは当然母も見る。当時の写真があれば、拓斗にとっては懐かしい光景ではあるが、母にとっては拓斗の成長を実感できる瞬間になるだろう。アルバムには収められていない母達の知らない拓斗の姿を用意し、見せてあげることはできないか。少し拓斗は後悔していた。もっと写真を撮っておけばよかった。せめて友達との写真でもあれば母を含む家族はどれだけ嬉しいだろう。写真くらい残しときなさいよと、当時の拓斗にいちいち言わなかったのは思春期の拓斗の気持ちや考えを優先してくれたからなのだろうか。
「そういえばさ、今思い出したけど、高校の卒業式には出たいって言って、母が来たんだ」
アルバムの最後の方をちらちらとめくりながら、拓斗は由奈に語っていた。
母親は仕事を休み、卒業式に来た。拓斗はその翌日には上京することになっていた。母が一生懸命に育てた息子と撮れる写真はその卒業式が最後になる。大学の入学式は遠方である上、仕事でどうしても休めないという。だから、母と子揃って記念になる写真を地元で撮ろうとするなら、高校の卒業式をおいて他に機会はもうなかった。
「その時の写真とかないの？ 普通撮るもんよ。卒業式でしょ？」
「あればいいんだけどね。俺、写真も撮らず、話もろくにせずにすぐに帰ったんだ」
「信じられない。これだから男子は。お母さん、息子の成長した姿を写真に残したかったんじゃない？ もう本当に拓斗は馬鹿だなあ」
「しょうがないじゃん。その頃は親の気持ちなんて考えたこともないんだから」
「とりあえず、写真は私が何枚か選んどくから、お母さんにお礼の電話入れたら？ まだアルバム届いたこと言ってないでしょ？」
拓斗は由奈に言われるがまま、隣の部屋に行き、母に電話を入れた。発信音が一度だけ鳴って、この前と同様に母はすぐに出た。
「ちゃんと届いたよ。ありがとう」
「どう？ 自分の赤ちゃんの写真とかよく見たことなかったでしょ。もっとたくさん撮っておけばよかったわね」
「あれでもすごく多いよ。あんまり多いと見きれないし」
さきほどまでは一枚一枚の写真を前に感動が去来し、母親への感謝の念に堪えなかったが、いざ電話してみるとそんなことは恥ずかしくて口にできなかった。しばらくの無言の後、母親が話題を変えるように旧友の話を始めた。
「そういえば、吉田くん。覚えてるわよね？ あの子、ビデオ屋のコスモで店長になったそうよ。この前、借りたＤＶＤ返しに行ったら会ってね。それに、品揃えがよくなった気もするのよね。若い人の感性で選ばれた品揃えって言うのかしらね」
「へーそうなんだ。久しぶりに連絡してみるかな。結婚の報告もかねて」
「今度、実家に帰ったら寄ってあげなさい」
そこで母親との電話を切った。結婚式には地元勢は誰も誘っていなかった。かつては仲の良かった友達も今ではみんな疎遠だった。近所の吉田なら誘ったら来てくれるかもしれない。アルバムをめくったせいか少しだけ拓斗は郷愁を感じていた。
母親との電話を終えて、拓斗はリビングに戻った。由奈はずっとアルバムを見ていたようだ。
「ねえ、高校の頃もそうなんだけどさ、大学以降の写真はあるの？」
「あんまりないなあ手元には。最近の写真は由奈が持ってるだろ？」
「最近のはね。でも大学のはないよ」
拓斗が上京して以降の写真も是非スライドショーに入れたいと思った。自分の成長の証とその軌跡を見てもらいたかった。それがせめてもの恩返しになればいい。そんな気持ちはスライドショーの中で流れる写真の行間にも表れるだろう。
「ＳＮＳに誰かあげてるんじゃないの？ 数年前からのさかのぼればさ」
由奈に言われて、早速、目ぼしい友人達のＳＮＳ上にあげられた写真を見ていくことにした。由奈の予想は見事に的中し、数十分のうちに拓斗の大学時代の写真は集まった。やはり問題は高校の写真だった。アルバムにもほとんど入っていない上、ＳＮＳに今さらあげるやつがいなかった。それに拓斗には写真を撮った記憶がてんでなかった。当時の同級生にかけあったところでクラスの集合写真くらいしかないだろう。それはすでに拓斗も持っているものだ。
「高校時代のはどうしようね。撮ったの忘れてるとかさ」
「そうだね。少し考えてみるよ」
拓斗はその日の夢で昔の思い出の中にいた。きのこ狩りに出掛けた時のことだ。祖父も祖母も若かった。母なんて、今の拓斗と同じくらいに見えた。近所の子供も何人かいっしょに預かっての小旅行だった。その中に吉田がいた。母との電話で久々に名前を思い出した、あの吉田だ。幼少の頃はもちろん、高校までいっしょだった。近所のため、仲が良かったのだ。夢の中では意識はあったが、声をかけたり行動することはできないようだった。拓斗本人の目線に合わせてその世界を目に収めることだけができた。拓斗は吉田とずっと話をしていた。きのこ狩りにはほとんど興味がないようだった。帰る頃になって皆で記念写真を撮ろうということになった。夕日が沈みかけている。きのこ園の人に祖母がインスタントカメラを手渡す。その人はフラッシュを焚かずに写真を撮った。母も祖父母も、その場の誰もそれを指摘せずに拓斗達は帰ることになった。恐らく暗くて、みんなの顔なんて写っていないだろうと思った。由奈といっしょに見ていたアルバムにこの時の写真はなかった気がする。写りが悪くてアルバムには入れなかったのだろう。そう言えば、近所に住んでいて、ずっといっしょにいたのにアルバムの中には吉田の写真が一枚もなかった。
朝目覚めて、拓斗は吉田に久しぶりに会ってみたいと思った。いや、声だけでもいい。昨日の母親の話だとちゃんと働いているらしい。それをネタに電話してみようと思った。拓斗は朝食を食べながら夢での出来事、吉田のことを由奈に話した。
「写真持ってないか、聞いてみれば？ 意外と高校の写真いっぱい持ってるんじゃない」
「そんなやつではないんだけどなあ。だって、アルバムに一枚も出てこないんだよ？ でもまあ聞いてみるけど」
「写真をひとり占めしてるんじゃないの？ 焼き増しとかめんどくさいじゃん、インスタントカメラって」
拓斗は通勤電車の中でＳＮＳからメッセージを送ってみた。反応がないので寝ているのかもしれない。確か実家近くのビデオ屋は二十四時間営業だった。吉田は夜が遅く、朝もまだ寝ているのかもしれない。とりあえず、昼間に電話する旨を追加でメッセージとして送り、拓斗は仕事についた。会社で仕事を始めて一時間くらい経った頃にスマホの振動を感じた。誰かからのメッセージだ。拓斗は吉田からだと感じ、トイレに行ってスマホを出す。
「すまん！ 今起きた。一時間後に電話くれたら大丈夫」
その時間であれば拓斗も休憩で外に出ている。十分に電話する時間は確保できそうだった。
「久しぶり」
「おお。このあいだ、お前のお袋さんに会ったぞ」
「聞いた。聞いた。お前店長になったらしいな」
「高校の時からバイトしてるから、もう十年以上たつけど、やっと店長になれたよ」
「今度また借りに行くよ」
「頼むわ。でも、お前東京だろ？ 帰省した時に顔でも見せてくれよ」
「そうだな。奥さんも連れてくよ」
「え、結婚してんの？」
「来月が結婚式。入籍ってのはもうしてるけど」
「そりゃ、おめでとうございます」
「式の招待状送るよ。ただ、地元勢は一人なんだ。来てくれるか？」
拓斗は断られることを覚悟した。結婚式はもう目前に迫っていた。店長という責任ある立場なら休みを取るのも一苦労なはずだ。それに来ても話す人間が周りにいなくて、完全にアウェイな雰囲気だろう。誘うほうがどうかしているのかもしれない。ただ、拓斗には昨日の夢が思い出された。吉田を呼ぶために見た夢だったのだと思えるのだ。
「いいよ。行って祝わないとな。地元代表みたいで、逆にかっここいいよ。休みも取れるからご心配なく」
「親族席に入るってのもありだな。うちの家族なら話せるだろ」
「そのへんは任せるよ」
「ところでさ、俺の高校の頃の写真なんか持ってない？ 生い立ちムービーっていうのを披露宴で流すんだけど、あんまり当時の写真がなくてさ」
「写真かあ。俺もお前も写りたがるような高校生じゃなかったからなあ。いちおう探してみるけど」
「おう、じゃあよろしくな」
数日後、夕食を由奈と食べているところに吉田から連絡が入った。写真が見つかったというのだ。
「ちっちゃい時の写真はいっぱいあるんだけどな。きのこ狩りとか覚えてるか？ まあそういうのはいらないんだよな。で、高校の頃の写真が一枚だけあったんだ。現像されてるから、お前の家まで送るよ」
「どんな写真なんだよ？」
「お前が俺のバイト先で撮ってるんだ。まあ見ればいろいろ思い出すって。俺もこんな写真撮ったことさえ忘れてたしさ。ちょっとまたこれから仕事に戻るんで、電話切るぜ。郵送するからな、住所はＳＮＳから送っといて」
電話を切って、写真が一枚見つかったことを由奈に話した。由奈はガッツポーズで喜びを表した。
「やったね。どんな写真なの？」
「要領を得ない電話だったらから何とも。多分、吉田のバイトのビデオ屋に遊びに行った写真かな。高校の仲間でおしかけて馬鹿やってたし。よくある男子高校生の写真じゃないかな」
「うん、そういうのでも良しとしよう。あるだけましってこと」
吉田からの写真を最初に手にしたのは由奈だった。会社から帰ると由奈が封筒を片手に玄関にやってくる。
「お帰り。吉田さんからとってもいい写真が届いたよ」
「いいね。見せてよ」
そこには若い、高校時代の拓斗と吉田、そして母が写っていた。拓斗と吉田は学生服、母はツイードのスーツという出で立ちだった。写真の右下には日付が刻印されていて、それを見て拓斗は気がつき、思い出した。
「これ、卒業式の日だ」
「卒業式の日になんで、ビデオ屋なのよ」
「吉田のバイト先。あいつ卒業式の後、すぐにバイト入っててさ。卒業証書とかも置きっ放しで帰りやがるから、先生が俺に渡して来いって言って」
「近所だから？」
「そうそう。それで、一旦家に戻ってから母といっしょに吉田のバイト先まで行ったんだ。母は会員証の更新か何か用事があったんだよ。そこで当時の店の店長さんが卒業式だからって言って、写真を撮ってくれたんだよ確か」
「それにしても時代を感じる一枚よね」
「店の中で撮ってるから、後ろの棚のビデオがそのまま写ってるしな」
「ＶＨＳが並んでるあたりが渋いよね。もっといい背景なかったのかって一瞬、思っちゃうけど、お母さん嬉しそうに写ってるし。何かいいね、この写真」
吉田の送ってくれた写真は、安っぽく、うす汚かったが拓斗にはその写真が輝いて見えた。写真の中の母は息子の未来の幸せを願っているようだった。拓斗はこの写真を送ってくれた吉田に感謝した。そして結婚式が終わったらアルバムの最後のページにそれをしまっておこうと決めた。
了
拓斗は、由奈から強く念を押されて電話を切った。ベッドの中で横になっていた拓斗は、すでに眠る態勢ができあがっていたが念のために目覚まし時計を再度確認する。いつもなら寝坊したとしても由奈が起こしてくれるが、実家に戻っていて今夜はいなかった。起こしてくれる相手がいないので、頼みの綱は完全に目覚まし時計だけだ。
由奈は結婚式の準備に追われ、今週は実家に戻っていた。明日は式場での打ち合わせがある。拓斗と由奈は今年の七月に入籍を済ませ、結婚式は十一月を予定していた。式場の下見は去年からスタートし、時間はあっという間に過ぎていった。ウェディングプランナーから提示される、様々な趣向を凝らしたプランを見るたび、拓斗は幸せを感じずにはいられなかった。こんな感覚に浸れるのは花嫁だけかと思っていたが、男である拓斗も浮かれ気分になるほど結婚式が楽しみになってきていた。
由奈とは式場の前で待ち合わせた。拓斗は遅刻せずに到着した。新婦である由奈の熱の入れようはさすが女性だと思わせるもので、打ち合わせであっても手を抜かない。拓斗は以前、今日のような打ち合わせで遅刻し、ひどく怒られたことがある。もうそんな修羅場は御免こうむりたいため、気合いを入れて、拓斗は待ち合わせ場所に立っている。
式場は都内の高級ホテルに併設されていた。二人の予算から少しオーバーしていたが、ウェディングプランナーの人柄に惹かれここに決めたのだ。プランナーは女性で、大人びた口調が印象的だったが、実年齢は拓斗や由奈よりも少し下だった。彼女のおかげで拓斗は結婚に実感が持てたと言っていい。そして、式までの長い時間が退屈なものではなく、楽しみで期待を寄せるものに変化していったのも彼女のおかげだった。拓斗が入り口のところで少し待っていると由奈がやってきた。由奈は拓斗をみとめると手を振った。
「待った？ 遅刻しないなんて、拓斗にしては偉いじゃない」
「さっき着いたばかりだよ。そりゃ、大事な結婚式の打ち合わせだからね、遅刻はしないよ」
二人は受付でプランナーの夏井を呼んだ。すぐに打ち合わせルームに通された。ほどなくして夏井が現れる。紺色のスーツ姿で首元にはスカーフが巻かれていた。凛とした大人の代表という感じだ。
「朝早くからすいません。早速ですけど今日はまず、披露宴で流す映像についてご相談させてください」
最近の披露宴の主流はオープニングで映画さながらのムービーを流しゲストを惹きつけ、その他の演出にも同じように映像を使うことが多いそうだ。例えば、料理の紹介にもわざわざ料理番組のパロディ映像を使用することがあるくらいらしい。もちろん、料理の紹介に無駄なお金を使いたくないので拓斗達はオープニングと二人のプロフィールムービーをプランナーの夏井に頼むことにした。
「オープニングに関しては、お二人の現在の写真を数枚いただければ、お好きなテイストに合わせて演出と編集をさせていただきます。プロフィールムービーに関しては二人の生い立ちがわかる写真を数十点ご用意いただきたいと思っています」
「赤ちゃんの頃の写真もですよね？」
拓斗は夏井に質問した。昔の写真は実家の母に聞いて取り寄せる必要があった。
「そうですね。生まれてすぐから幼少期までで数枚、幼稚園、小中高など各時代ごとに数枚をご用意いただければと思います。恐らく、お手元にはないかと思いますので、ご家族に聞いてみてください。ご家族にとっても、写真の整理は子供の結婚を改めて身近に感じるとても良い機会かと思います」
「うちの両親もすごく楽しみにしてて、もう勝手に写真選んじゃってるんですよ」
「それは助かりますね。次回の打ち合わせを二週間後にして、その時までに集まりそうですか？」
「はい、大丈夫です。拓斗は？」
「実家にはアルバムがあるだろうから、すぐに取り寄せるよ。写真はスキャナーなんかで読み取ってデータにした方がいいですか？」
「こちらで責任をもってスキャンしますのでご安心ください。古い写真ですと扱いが丁寧でなければなりませんから、プロに任せてください」
夏井には全幅の信頼を置いていた。夏井は手元の手帳に決まったことをメモし話を続けた。
「写真のスライドを見ていただくだけで、ゲストの方はもとより、ご親戚の皆様も本当に二人の成長を見守ってよかったと思ってくれるはずです。結婚式には感動させる仕掛けがいくつも施されてますが、私は写真のスライドショーで新郎新婦の生い立ちから馴れ初めまでを伝えるムービーの上映が一番好きです。赤の他人の私ですら、感じ入るものがあるんです。ご当人であるお二人にとっても思い出に残る披露宴の演出になるはずです」
打ち合わせは午前中に終わった。夏井に見送られて拓斗と由奈は式場を出た。夏の盛りが終わり、いっときではあるが寒くもなく暑くもない、暖かな気候が巡ってきた。結婚式本番までは後一ヶ月程度を残すところとなった。拓斗にとって駅まで歩く道のりは軽やかで心地よかった。久しぶりに手をつないで歩く。柔らかな由奈の手を握るとすぐに反応が返ってきて拓斗は得も言われぬ幸福さに包まれていた。
夜、拓斗は母に電話した。写真を送ってもらうためだ。一昔前なら家の固定電話に電話していたが、今や母もスマホユーザーで、直接掛けることの方が多い。拓斗の母はすぐに出た。
「もしもし、どうしたの？ 結婚の準備うまくいってる？」
「うん、順調。今日も打ち合わせだったよ」
お互いの近況を報告しあってから拓斗は用件を切り出した。
「披露宴でさ、写真のスライドショーを流してくれるんだけど俺の小さい時の写真を適当に見繕って送ってくれないかな？」
「いいわよ。あんたがこっちにいる高校生までの写真ならアルバムに全部入ってるから。早速明日送るわ。写真は自分で選んでみなさいな。昔の写真をじっくり見るってのは面白いもんよ」
「なんだよそれ。じゃあ待ってるよ」
母は本当にすぐに送ってくれたようで、二日後には実家からアルバムが宅配便で届けられた。十冊もあり、全部見ていくのは結構な重労働に思えた。とりあえず、一番古いものから順番に由奈と見ていくことにした。
「うわあ、かわいいね。拓斗もこんなにかわいい時期があったんだね」
「誰でも赤ちゃん時代はかわいいもんだろ。今の写真は使わず、全部この時代の写真使っちゃおうかな」
「それじゃあ意味ないでしょ。成長してる過程を流さなきゃ」
拓斗が写った幼少の写真だけで二人は盛り上がっていた。何ページにも渡って拓斗の愛らしい姿が続いた。分娩室での生まれたての写真もあれば、家の中で祖父と祖母に頬ずりされて泣く拓斗の写真もあった。お風呂に入れられているところや近所に出て、夕闇をバックに撮られた写真もあった。とにかく、たくさんの笑顔と泣き顔に溢れた拓斗の写真がそこにはあった。
「私もね、実家で赤ちゃんの頃の写真見せてもらったんだけど、こんなにたくさんの枚数はなかったよ」
それなら拓斗も見たことがある。両親に抱きかかえられ愚図る由奈、満面の笑みを父親や母親に見守られながら浮かべる由奈。枚数は確かに、拓斗が今見ている自分の写真より少なかったかもしれない。しかし、一番の違いは枚数ではない。撮られた構図やシーンでもない。拓斗と由奈の写真には決定的な違いがあった。
「ごめんね、涙が出てきちゃった。この写真見てると、本当に拓斗のお母さんやおじいちゃん、おばあちゃんの気持ちがわかるよ。幸せになってね、元気に成長してねっていう気持ちが」
由奈は大粒の涙を流しながら、拓斗の手を握りしめてきた。拓斗は改めて赤ちゃん時代の写真を何枚も見る。そこに父親の姿はなかった。普通ならあるべきはずの父親との写真が一枚もない。ツーショットも集合写真も何もなかった。拓斗が生まれた時、すでに父親は他界していたのだ。写真を連続して見るとき幸福な家庭の印象と同時に父親がいない喪失感も合わせて拓斗は感じることができた。自分には父親がいないという実感。ただ、そのせいで寂しさや嫌な思いを感じたことは一度もなかった。それは即ち、母を含めた他の家族が父の代わりを必死になって務めてくれたことを表わしてもいた。父の不在を埋めるために、どれだけ多くの配慮が拓斗になされてきたか。写真を見ればそれが理解できる。そして、アルバム全冊を送ってきた母のメッセージすらも拓斗は感じていた。母が拓斗を育てるためにしてきた苦労と愛情の深さを、写真の一枚一枚が如実に語っている。遠く離れて暮らしていても、幸せを願っているよという母の強い気持ちが伝わってきた。
「親父が死んだ後に生まれてきたから、みんな形見みたいに思ったんだろうな。生まれ変わりみたいな」
「そうだね。少しでも拓斗が寂しがらないように、こうやって祝福されて生まれてきたんだよね」
アルバムの写真がその時代の人達の気持ちや感動を雄弁に語っていた。写真にも行間がある。そこには写しきれていない気持ちや願いがある。祖母にしても仕事で家にいない母の代わりを常にしてくれた。祖父はまるで父親のように、肩車をしてくれ、少し大きくなるとキャッチボールをしてくれた。そこにある愛情や思いが写真には表れている。今まで忘れていた古い記憶がたった一枚の写真から思い出され、当時の大人達の感情までが手に取るようにわかった。いつのまにか拓斗も泣いていた。アルバムのページをめくると笑顔で写る母親が目に飛び込んできた。相当若く、写真の中の拓斗に笑いかけている。きっと当時、父が亡くなり意気消沈していたはずなのに、頑張って拓斗を産んでくれた。拓斗にはその当時の母の悲痛と歓喜が想像できた。結婚後まもなくして交通事故で死んでしまった父親。その時、母は妊娠していた。拓斗は大きくなって、その事故のことを聞かされた。父は出張からの帰り高速道路を走行していた。深夜だったそうだ。並走する一台のトラックが父の運転する車に側面から当たってきたため、一瞬ハンドル操作を誤り、父を乗せた車は、横転し大破。居眠り運転のトラックがもたらした事故により父は帰らぬ人になった。祖父母に父の小さい頃や青年時代、結婚直後の写真を見せてもらったことがある。拓斗にそっくりだった。紛れもなく拓斗はその事故死した父の息子なのだ。亡き夫の、亡き息子の忘れ形見として拓斗は手塩にかけて育てられてきたのだ。結婚という節目に立ち、過去をかえりみて改めて家族への感謝の念を感じていた。
時間をかけて由奈とアルバムのページをめくっていった。小さい頃の記憶などほとんど覚えていないつもりだったが写真を目にするとその頃の光景が脳裏に蘇った。確かにそこに父はいなかった。しかし、母や祖父母が常にいてくれ、拓斗をあやし、遊んでくれていた。時に厳しく怒られることもあったが、大抵のわがままは聞いてくれたように思う。遅れて戻ってきた記憶を噛みしめるように拓斗はアルバムをめくってゆく。写真には写されていない記憶も同時に思い出す。祖父が連れて行ってくれた祭り、祖母と出かけたデパートの屋上の遊園地。友達の家に泊まることを母に連絡を入れずにいたことでひどく心配させてしまったこともあった。一瞬を切り取ったに過ぎない写真であったが、一度見ると様々な記憶の洪水に飲み込まれていく。その途中にある母の苦悩や希望も写真は、確かにそこに残していた。親の心子知らずとはよく言ったもので、本当に子供時代の拓斗は母親の心情などお構いなしだった。
「あっという間に十冊目のアルバムだね」
「高校時代は写真が少ないと思うんだ。ほとんど撮ってない気がするな」
高校生くらいからだろうか、母親とのコミュニケーションが煩わしくなった。中学は父親がいないこともあってか、母に気を遣っていたところがあった。しかし、高校になると自分中心の生活が大切になった。部活もあったし友達とつるむことの方が多くなる一方だった。学校での出来事も逐一報告するようなことはしなくなり、拓斗の情報は母親に届かなくなった。家族旅行だけは中学のうちは続けていたが、それも高校になると拓斗は行かなくなった。勉強も忙しくなっていた時期だ。そんなに嫌なつもりで断ったわけでもなかった。しかし、断った高一の次の年から恒例だった旅行はなくなった。母は勉強も部活もあるからねと言ってくれた。本当は行きたかったのだろう。当時の拓斗はそんな母の気持ちには全く気が付かなかった。もし、行っていればその分、目の前のアルバムの中に写真が増えたはずだ。
結婚式のスライドショー用にと思って、拓斗と由奈はアルバムから高校生の頃の写真を見ていたが、友達との写真もほとんどなかった。あるのは強制的に買わされるクラスの集合写真くらいだった。それは紛れもない成長の証ではあるが、数が少なすぎた。披露宴のスライドショーは当然母も見る。当時の写真があれば、拓斗にとっては懐かしい光景ではあるが、母にとっては拓斗の成長を実感できる瞬間になるだろう。アルバムには収められていない母達の知らない拓斗の姿を用意し、見せてあげることはできないか。少し拓斗は後悔していた。もっと写真を撮っておけばよかった。せめて友達との写真でもあれば母を含む家族はどれだけ嬉しいだろう。写真くらい残しときなさいよと、当時の拓斗にいちいち言わなかったのは思春期の拓斗の気持ちや考えを優先してくれたからなのだろうか。
「そういえばさ、今思い出したけど、高校の卒業式には出たいって言って、母が来たんだ」
アルバムの最後の方をちらちらとめくりながら、拓斗は由奈に語っていた。
母親は仕事を休み、卒業式に来た。拓斗はその翌日には上京することになっていた。母が一生懸命に育てた息子と撮れる写真はその卒業式が最後になる。大学の入学式は遠方である上、仕事でどうしても休めないという。だから、母と子揃って記念になる写真を地元で撮ろうとするなら、高校の卒業式をおいて他に機会はもうなかった。
「その時の写真とかないの？ 普通撮るもんよ。卒業式でしょ？」
「あればいいんだけどね。俺、写真も撮らず、話もろくにせずにすぐに帰ったんだ」
「信じられない。これだから男子は。お母さん、息子の成長した姿を写真に残したかったんじゃない？ もう本当に拓斗は馬鹿だなあ」
「しょうがないじゃん。その頃は親の気持ちなんて考えたこともないんだから」
「とりあえず、写真は私が何枚か選んどくから、お母さんにお礼の電話入れたら？ まだアルバム届いたこと言ってないでしょ？」
拓斗は由奈に言われるがまま、隣の部屋に行き、母に電話を入れた。発信音が一度だけ鳴って、この前と同様に母はすぐに出た。
「ちゃんと届いたよ。ありがとう」
「どう？ 自分の赤ちゃんの写真とかよく見たことなかったでしょ。もっとたくさん撮っておけばよかったわね」
「あれでもすごく多いよ。あんまり多いと見きれないし」
さきほどまでは一枚一枚の写真を前に感動が去来し、母親への感謝の念に堪えなかったが、いざ電話してみるとそんなことは恥ずかしくて口にできなかった。しばらくの無言の後、母親が話題を変えるように旧友の話を始めた。
「そういえば、吉田くん。覚えてるわよね？ あの子、ビデオ屋のコスモで店長になったそうよ。この前、借りたＤＶＤ返しに行ったら会ってね。それに、品揃えがよくなった気もするのよね。若い人の感性で選ばれた品揃えって言うのかしらね」
「へーそうなんだ。久しぶりに連絡してみるかな。結婚の報告もかねて」
「今度、実家に帰ったら寄ってあげなさい」
そこで母親との電話を切った。結婚式には地元勢は誰も誘っていなかった。かつては仲の良かった友達も今ではみんな疎遠だった。近所の吉田なら誘ったら来てくれるかもしれない。アルバムをめくったせいか少しだけ拓斗は郷愁を感じていた。
母親との電話を終えて、拓斗はリビングに戻った。由奈はずっとアルバムを見ていたようだ。
「ねえ、高校の頃もそうなんだけどさ、大学以降の写真はあるの？」
「あんまりないなあ手元には。最近の写真は由奈が持ってるだろ？」
「最近のはね。でも大学のはないよ」
拓斗が上京して以降の写真も是非スライドショーに入れたいと思った。自分の成長の証とその軌跡を見てもらいたかった。それがせめてもの恩返しになればいい。そんな気持ちはスライドショーの中で流れる写真の行間にも表れるだろう。
「ＳＮＳに誰かあげてるんじゃないの？ 数年前からのさかのぼればさ」
由奈に言われて、早速、目ぼしい友人達のＳＮＳ上にあげられた写真を見ていくことにした。由奈の予想は見事に的中し、数十分のうちに拓斗の大学時代の写真は集まった。やはり問題は高校の写真だった。アルバムにもほとんど入っていない上、ＳＮＳに今さらあげるやつがいなかった。それに拓斗には写真を撮った記憶がてんでなかった。当時の同級生にかけあったところでクラスの集合写真くらいしかないだろう。それはすでに拓斗も持っているものだ。
「高校時代のはどうしようね。撮ったの忘れてるとかさ」
「そうだね。少し考えてみるよ」
拓斗はその日の夢で昔の思い出の中にいた。きのこ狩りに出掛けた時のことだ。祖父も祖母も若かった。母なんて、今の拓斗と同じくらいに見えた。近所の子供も何人かいっしょに預かっての小旅行だった。その中に吉田がいた。母との電話で久々に名前を思い出した、あの吉田だ。幼少の頃はもちろん、高校までいっしょだった。近所のため、仲が良かったのだ。夢の中では意識はあったが、声をかけたり行動することはできないようだった。拓斗本人の目線に合わせてその世界を目に収めることだけができた。拓斗は吉田とずっと話をしていた。きのこ狩りにはほとんど興味がないようだった。帰る頃になって皆で記念写真を撮ろうということになった。夕日が沈みかけている。きのこ園の人に祖母がインスタントカメラを手渡す。その人はフラッシュを焚かずに写真を撮った。母も祖父母も、その場の誰もそれを指摘せずに拓斗達は帰ることになった。恐らく暗くて、みんなの顔なんて写っていないだろうと思った。由奈といっしょに見ていたアルバムにこの時の写真はなかった気がする。写りが悪くてアルバムには入れなかったのだろう。そう言えば、近所に住んでいて、ずっといっしょにいたのにアルバムの中には吉田の写真が一枚もなかった。
朝目覚めて、拓斗は吉田に久しぶりに会ってみたいと思った。いや、声だけでもいい。昨日の母親の話だとちゃんと働いているらしい。それをネタに電話してみようと思った。拓斗は朝食を食べながら夢での出来事、吉田のことを由奈に話した。
「写真持ってないか、聞いてみれば？ 意外と高校の写真いっぱい持ってるんじゃない」
「そんなやつではないんだけどなあ。だって、アルバムに一枚も出てこないんだよ？ でもまあ聞いてみるけど」
「写真をひとり占めしてるんじゃないの？ 焼き増しとかめんどくさいじゃん、インスタントカメラって」
拓斗は通勤電車の中でＳＮＳからメッセージを送ってみた。反応がないので寝ているのかもしれない。確か実家近くのビデオ屋は二十四時間営業だった。吉田は夜が遅く、朝もまだ寝ているのかもしれない。とりあえず、昼間に電話する旨を追加でメッセージとして送り、拓斗は仕事についた。会社で仕事を始めて一時間くらい経った頃にスマホの振動を感じた。誰かからのメッセージだ。拓斗は吉田からだと感じ、トイレに行ってスマホを出す。
「すまん！ 今起きた。一時間後に電話くれたら大丈夫」
その時間であれば拓斗も休憩で外に出ている。十分に電話する時間は確保できそうだった。
「久しぶり」
「おお。このあいだ、お前のお袋さんに会ったぞ」
「聞いた。聞いた。お前店長になったらしいな」
「高校の時からバイトしてるから、もう十年以上たつけど、やっと店長になれたよ」
「今度また借りに行くよ」
「頼むわ。でも、お前東京だろ？ 帰省した時に顔でも見せてくれよ」
「そうだな。奥さんも連れてくよ」
「え、結婚してんの？」
「来月が結婚式。入籍ってのはもうしてるけど」
「そりゃ、おめでとうございます」
「式の招待状送るよ。ただ、地元勢は一人なんだ。来てくれるか？」
拓斗は断られることを覚悟した。結婚式はもう目前に迫っていた。店長という責任ある立場なら休みを取るのも一苦労なはずだ。それに来ても話す人間が周りにいなくて、完全にアウェイな雰囲気だろう。誘うほうがどうかしているのかもしれない。ただ、拓斗には昨日の夢が思い出された。吉田を呼ぶために見た夢だったのだと思えるのだ。
「いいよ。行って祝わないとな。地元代表みたいで、逆にかっここいいよ。休みも取れるからご心配なく」
「親族席に入るってのもありだな。うちの家族なら話せるだろ」
「そのへんは任せるよ」
「ところでさ、俺の高校の頃の写真なんか持ってない？ 生い立ちムービーっていうのを披露宴で流すんだけど、あんまり当時の写真がなくてさ」
「写真かあ。俺もお前も写りたがるような高校生じゃなかったからなあ。いちおう探してみるけど」
「おう、じゃあよろしくな」
数日後、夕食を由奈と食べているところに吉田から連絡が入った。写真が見つかったというのだ。
「ちっちゃい時の写真はいっぱいあるんだけどな。きのこ狩りとか覚えてるか？ まあそういうのはいらないんだよな。で、高校の頃の写真が一枚だけあったんだ。現像されてるから、お前の家まで送るよ」
「どんな写真なんだよ？」
「お前が俺のバイト先で撮ってるんだ。まあ見ればいろいろ思い出すって。俺もこんな写真撮ったことさえ忘れてたしさ。ちょっとまたこれから仕事に戻るんで、電話切るぜ。郵送するからな、住所はＳＮＳから送っといて」
電話を切って、写真が一枚見つかったことを由奈に話した。由奈はガッツポーズで喜びを表した。
「やったね。どんな写真なの？」
「要領を得ない電話だったらから何とも。多分、吉田のバイトのビデオ屋に遊びに行った写真かな。高校の仲間でおしかけて馬鹿やってたし。よくある男子高校生の写真じゃないかな」
「うん、そういうのでも良しとしよう。あるだけましってこと」
吉田からの写真を最初に手にしたのは由奈だった。会社から帰ると由奈が封筒を片手に玄関にやってくる。
「お帰り。吉田さんからとってもいい写真が届いたよ」
「いいね。見せてよ」
そこには若い、高校時代の拓斗と吉田、そして母が写っていた。拓斗と吉田は学生服、母はツイードのスーツという出で立ちだった。写真の右下には日付が刻印されていて、それを見て拓斗は気がつき、思い出した。
「これ、卒業式の日だ」
「卒業式の日になんで、ビデオ屋なのよ」
「吉田のバイト先。あいつ卒業式の後、すぐにバイト入っててさ。卒業証書とかも置きっ放しで帰りやがるから、先生が俺に渡して来いって言って」
「近所だから？」
「そうそう。それで、一旦家に戻ってから母といっしょに吉田のバイト先まで行ったんだ。母は会員証の更新か何か用事があったんだよ。そこで当時の店の店長さんが卒業式だからって言って、写真を撮ってくれたんだよ確か」
「それにしても時代を感じる一枚よね」
「店の中で撮ってるから、後ろの棚のビデオがそのまま写ってるしな」
「ＶＨＳが並んでるあたりが渋いよね。もっといい背景なかったのかって一瞬、思っちゃうけど、お母さん嬉しそうに写ってるし。何かいいね、この写真」
吉田の送ってくれた写真は、安っぽく、うす汚かったが拓斗にはその写真が輝いて見えた。写真の中の母は息子の未来の幸せを願っているようだった。拓斗はこの写真を送ってくれた吉田に感謝した。そして結婚式が終わったらアルバムの最後のページにそれをしまっておこうと決めた。
了
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