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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八回 無味無臭的「コメディー/ナンセンス/ダメ男 - 25AM」 編集済

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どうせ何もはっきりしない。この先も明確に指し示されるようなことはないだろう。しかし目の前にあるものは必要以上に鮮やかで、確かな輪郭はくっきりと浮かび上がってくる。言葉なんていうものは本当にないのかもしれない。

何をそんなに彷徨っているのか。何が悩みっていうものになっているのだろう? それともまったく悩みがないのか? - 動物のような眼をとおして見ている? もしくは動物のように見ていない? - どちらにしたところで問題だ。 物事をそのままの状態で見つめることは現代社会では決して安全なこととは言えない。だからどんなものにも名称を付けて言葉で呼ぶことにする。

そのような作業は最も名付けにくいものにまで及ぶ。その試みが成功していると思い込んで名づけ癖はさらに拍車がかかる。言葉の世界はさらに込み入って複雑で奥が深くて溺れそうな気分になる。明確な認識を獲得しようと望むものほど言葉のギクシャクに絡み取られ先に進めない足踏みを言葉とともに続ける。

25時のコンビニ。正常な時間とは言えない。24時を1時間もすぎてしまっている。24時は深夜0時とも呼ばれる1日の境目である。そんな時間にも地下鉄が走っているのだから世話はない。終着駅までたどり着いた電車は一斉に乗客を吐き出した。その中の多くは酔いどれ顔なのだが意外とシラフな顔も多い。そんなときの酔っていない顔というのは逆にとことんシラフに見える。

何人かのさらに酔いどれた乗客たちはまだ電車の中である。人間としての自然な姿である。全ての乗客が足並みを揃えて車両から降りるということのほうにこそ不自然がある。揃える、揃えない、揃いに揃って。流れ出るものの中に残りカスとして電車のところどころにへばりついている。他の何かともよく似ているそんな状況がそこにはあるのだけれど、そういった説得力に満ちたものに対してあえて逆らってみるということが文明としての一つのあり方なのだろう。その上で、この酔っ払いたちというのは文明からさえも脱却している聖なる存在とでも呼べるものなのか。

天使の乗客たちは電車の中というよりも夢の中に居場所を見つけている。かといってそこにいつまでもいることはできない。走ってくる警備員たちにひとりひとり電車の中の世界に引き戻されてくる。警備員たちの仕事には抜かりがない。ひとりの乗客がなかなか起きないからといって、あきらめて次へと移るというようなことはない。非常に文明的である。ほんとうに起きないものを連れてきて起こせるのかどうか試してみたいくらいだ。警備員たちはきっとどのようにか起こしてみせるだろう。今日もまた見事にぜんいんが起こされた。見事なショーだ。最後の残りカスも吐き出される。観客はいないけれども。安心して電車は寝宿へと向かう。陽気にヘッドライトを点滅させて。心情的にはどのようなのか不明だが終着駅から動かないわけではない。振り返ると警備員たちぜんいんも電車の外に降りていて整列しているように見える。もちろんワレワレもといった表情を浮かべる。こんなところで模範を示されるのも迷惑な話だ。言葉の暴力が可能なのなら模範の暴力もかなりのレベルで可能だろう。1日の最後になるかもしれない虚ろな気持ちを引きずりながら地上へのらせん階段を上る。

深夜のコンビニの前に途方にくれるサラリーマン姿をみつける。なにも異常な景色ではない。ネクタイの緩みとベルトの緩みがしっかりとコーディネートされていてこの場所にいるべきでないことを表している。アルコールと公共交通機関の組み合わせは現代人にとってのワープ発生装置なのか? それほど彼は楽しんでいるようには見えないけれど、実は大いに楽しめるシチュエーションだ。それとも寝覚めでしっかり認識していないだけで気づいてみると笑いが止まらないほど楽しくなるかもしれない。ものごとへの情感を時が経たのちに発見するのは決して驚くべきことでない。

今日は見当たらなかったけれど、数回に一度は改札の内側ギリギリでなんとか引き返す方法がないかと駅員に問い詰めるものたちがいる。そのあいだにも内側からあの警備員たちによって改札外に押し出されてしまう。逆方向の最終列車はとっくに旅立っている。使用状況をかんがみればごもっともなのだけれど、理解するには質問者たちは酔っぱらいすぎている。全行程の端から端までは1時間強としたところで、逆サイドの終着駅でも鏡に映すように同じことが起こっていることに変わりはない。質問をしようとしている訳だから根っからの勤勉なものたちだ。ただ今はほんの少し血中のアルコール濃度が高くなっているだけで。

たとえ酔っ払いたちの欲求どおりに走らせたところでそのものどもが目的地までたどり着くことができるとは限らない。へたすると電車の運行がエンドレスの状況に陥ってしまうだけだろう。酔っ払いたちは電車に揺られて目的地とへ向かうところでさらにまた乗り過ごし、反対側の終着駅からもさらにまた電車を走らせなければいけない。美しいエンドレスだ。

見方によれば電車なんてそんなものなのかもしれないのだけれど、どこかで終わらせるというようなルールを作っておきたいのだろう。ここが終わりですよと警備員たちに言わせることのできるように。そうでなかったとしたら、無数の酔っ払いたちを一気にたたき起こすゾンビバスターのゲームさながらのあの状況は作れない。

現在に至るまで、話の内容を頭からお尻まで完全に聴けた試しはないけれども、改札前後で時間稼ぎをしたり電子マネーのチャージをしたりなどの努力によってうかがう限り、天使たちの訴えは間違いなく興味深い。まさか本当に逆向きの電車を走らせようとしているというのか? 彼らの言葉の裏側には何か他の目論見があるやもしれない? もっとクリエイティブな意味合いも含まれているだろう。単語単語でしか耳に入ってこないので、ゆっくり歩くだけではなく立ち止まったりもしたのだけれどなかなか上手く聴き取れない。録音でも出来ることなら何度も聞いてみるだろう。仮に聴き取りができたとしても、その一度の内容によって全体を把握できるだろうか。やはりそこにいてその状況を総括するのがベストだろう。口にしていないこれからの声さえも読み取ってみようと思う。そのために駅員として働くことを考える。

やるせない気持ちで酔っ払いの脇をとおってコンビニに入る。25時のコンビニ。時計は普通に1時と示している。当たり前のことだ。これじゃあ昼の1時と夜の1時と区別がつかない。そして朝の1時とも。そして今は? はっきりしないことは特権でもある。

手に取るものはいつも決まっている。ただそれが何かは分かっていない? いつもの何かだ? 無造作に手に取ってレジに持っていく。 ファンデーション、髭剃り、中性紙。 3人の店員が各々のレジに立っている。3人とも人種が違うようだ。人種が違うと思うことで差別していることになるのか? 違いなく見えることのほうが好ましいのかもしれない。とうめんは何となく3人のひとたちがレジに立っているということにする。性別も明かさない。そこで各々が1つのレジに立っているかもしれないし、1つのレジに2人が立っているかもしれない。いや、3人が立っているかもしれない。邪魔し合ってるかもしれないし。重なり合っているのかもしれない。そうしたら3人いる意味があるのだろうか? そんなものがいるのかどうか分からないけれどももしいるのだとすれば店長というものに聞いてみたいくらいだ。いや、店があるのだったら店長はいるだろう。もしそれなりの人がいないのであればこの3人の1人が店長なのだろう。そうすると話はややこしい。そしてその1人を含めて3人は重なり合っているのかもしれない。そうなのであれば更にややこしい。

そんな中、酔っ払いが入ってくる。外の空気にあたって充分途方に暮れたのだろう。本人にはもちろんそれが充分だがなんだか認識されていない。コンビニの中でとうとつに人工灯を浴びたせいなのかキョロキョロと左右に首を動かす。あんのじょう、店員を問い詰めてる。ここから都心に戻る方法はありますか? そんな響きが店内のお客や店員にこの場所が都心から遥か遠く川だとか空だとか地面だとか何かを越えなければいけないそういった場所のように想像させる。確かに遠くなければそんな質問もでないのは確かなので、実に確からしく確かな質問がそこでされたわけである。

しかしこのダメ男、質問しているレジの場所が悪い。そのレジは重なっている店員のうちの1人残像の場所だったのだ。その場所にいたのは1人とも言えない0.333333333……人ぐらいの何かであって酔っ払いといえどもその3のひとつでも霞のように掬い取ることはできない。重なり合うような場合でも3分の1は残すことルールになっているのだ。つまりそれが残像。残像なくして本体はありえないということだ。本当の本体は重なってしまっているから1たす2わる3でいったい何人なのだろう?

そんな空っぽのまやかしに酔っ払いの声が響く。「ここから都心に戻る方法はありますか?」その音の響きと残像の揺らぎが調和する。そしてそれは人類の歴史としてみても偶然な決して分かすことのできない一致となる。結論とすればどちらにとってみても都合の悪い一致なのである。残像の本体からすれば、残像の場所に戻ることができなくなってしまっているし、酔っ払いにいたっては一生懸命に状況を把握しているところだ。

いったいどういうことなのだろう? 昔はこんなじゃなかったはずだ。こんなことなら残像など残すんじゃなかったらとはよく聞くはなしだ。されど残像を残さないとなると全移動ということになってしまい重なり合いも何もあったものじゃない。移動位置に対象があるのなら押し出すということになる。あたかも右から左へ動いたというだけだ。いや左から右か。少なくともどちらかなのだから、ためしてみればすむことなのだけれど。これくらい簡単に全てのものごとが進むとよい。そのように絞り込めるような見方をすればよいということなのだ。

酔っ払いもようやく事の重大さに気づいてきたようだ。それと同時に酔いが醒め、彼の顔はみるみる青白くなった。木下登。彼の名前だ。好きなものは発芽した豆。子どもの頃は夏になると山へ行きそんな豆を良く食べていたものだ。この期に及んではもうどうでもいいことかもしれないが、彼にももちろん名前があって、今それを自覚したのだ。木下登であるところの私は帰らねばならない、明日の出社に支障をきたさぬようにという現実のついでに。

木下登はれっきとした木下家の跡取りなのだが特に財宝などを隠し持っているというわけではなく、麻雀をやったからといって得意な役がある訳でもない。名前負けするほどの名前ではないのだが、何故だか昔からこの名前に自分がしっくりきていない気がする。家では妻と子供が待っている。いやこんな時間にはもう待っていないだろう。彼が飲んで酔っぱらって帰ることは珍しくない。家族も了承している上での酔っ払い具合なのだ。中学生の息子は受験が控えている。父親が酒を飲んでいるからといって受験に影響させるわけにはいかない。それよりも父親が異常な問題など起こさず働きつづけていることに間接的に感謝するべきだろう。そうして受験勉強に集中できていればいいのであるように。

あれもこれもいったい誰の意思なのであろうか? 子供がそう思っているだろうと父親が思っているそして飲み歩いていることで仕事のうっぷんを晴らしそうすることで働きつづけることができると考える妻の意思だろうと都合よく考えることはやっぱり彼の意思だろう。そんな彼はいま、声が店員の1人であるところの残像に引っかかってしまい離れなくなっていることで帰宅できなくなっている。そもそも彼はどうやったら帰れるのかと調べるためにコンビニに立ち寄ったのだ。まだ1つとして目的は達成されていない。時間の経過さえすれば目標がほぼ達成されていく会社や家庭にいるのとは違った類のはなしだ。彼にはいったい本当にそんな家族なんているのだろうかとさえ疑問に思えてくる。しかし、彼であるところの木下登は本名であって、嫉妬することなかれ彼にはしっかりとそんな家族がいるのである。ただ家族がそんな心配をしてくれているのかどうかは大きな疑問なのだが。

忘れていた何かを思い出したように木下登は声を上げた。その意識した時点と声として音が出た時点の差はひとの反応時間の平均の0カンマ1秒に限りなく近い。着衣の状態で体重を測るときの服の重さぐらいの誤差だろうと考えればよいだろうか。「すみません、トイレ貸してください!」その瞬間、絡まっていた残像が吹き飛んだ。そうなのか、押してもだめなら引いてみな、ならぬ、引いてもだめなら押してみればよかっただけなのか。たったそれだけのこと? 言いきった言葉のキレがよかったのだろうか? サ行から始めたセンテンスが効いたのだろうか? 言葉の並びが妙だったのだろうか? それとも、最後に付けた感嘆符なのか? そんなことはいい、トイレに行こう。その瞬間だけ正気に戻る。やっかいなものたちを寄せ付けないようにおそるおそる動く。どうやらこのコンビニは尋常ではない、誰かの異常な想像物なのかもしれない。一刻も早くこの空間から逃げ出さねばならない。みなさんも日常的に考えることですよね。それより、このサラリーマン、トイレだけ借りて何も買わないなんて失礼なヤツですよねって心配しなくてもいいですよ。社会的な体裁だけで木下登はチョコレートを1枚買うことにした。あらためて、どうして木下登であるところの彼がチョコレートを買わなければいけないのだろうという疑問は承知の上の思考なのだ。

ズレちゃいないか? どうやらこの店員たちは実際に分身していたわけでも早い動きをつづけていたわけではない。ただ単純に見えていたものが時間的にズレていただけなのだろう。1時間前の映像、2時間前の映像、3時間前の映像がだらしなくゆっくりと流されているようだ。それでは実体は? と言ってはみたがこの3人の店員の実体には興味がない。そもそも都市生活においてスレちがうひとりひとりの実体はひとりひとりの映像にメンドウ臭くつきまとっているだけだ。何の役に立ったこともない。この3人がそんなひとびとを象徴していると考えてみたところで何の論理的矛盾も発生しない。

コンビニを出る。いつもなら苦手な交番の前をとおる。やはり警察は視線を外ににらみをきかせている。ところで眼光っていうのは物質の状態に影響を及ぼすものだろうか。こんないかつい警察だってしょせんは眼球に映っているだけ、これは映像、単純な写像なんだと思う。見方を変えればこんなに冷静になることができる。警察は交番の前の歩道のスペースに踏み出して、肩のあたりまである木の棒を垂直に立て、たまに地面から持ち上げて力を抜くことで棒にかかっている重力を確かめる。ドンドンという重い響きがコンクリートの地面と棒の先で生まれる。そんな音というのも、しょせん乾いた空気の振動なのだけれど威圧的と呼べるものなのだろう。それでも物足りなく感じた時にはさらに地面に対して力を加える。音がさらに遠くまで響く。この警察の中にはどんな警戒のバロメーターが働いているのだろう。ただでさえ狭い歩道で3分の1を塞いでいるのであるが、そんな不平を表す共同幻想的な表情を浮かべるわけにはいかない。すぐに彼の睨みが飛んでくるし、地面を小突く音を大きくすることだろう。

降り始めた雨は静かで純粋な視覚効果となっている。ジトっと感じた瞬間、身体に水分が染みわたった。この水蒸気の内に身体を一致させられそうになる。もう何処に帰るわけでもないのでこの状態に飲まれてしまってもよい。そしてまた木下登なんていう名前に意味がなくなっていく。警察に尋問された時にはきちんと返せるようにと用意していた名前であった。耳鼻科へいくときに受付で名前が出てこないのは耳鼻科ならではだと思っていたのだがどうやらそうではないらしい。今もこうして名前が出なくなっている。今はそうして名前が出ない。

音のない世界。はっきりとした水の感覚。顔にまとわっているのは水滴なのだが、その少し手前ではあくまで蒸気として漂っている。顔にぶつかる蒸気と水滴の境目。存在するであろうその境目はちょうど視点のフォーカスができるかどうかの距離。水滴が水滴としてまとわりつくのなら苦労はないのだが。もしかして自分が蒸気だと信じていた数センチ前のものも水滴なのかもしれない。

水滴だと見えてくるものと水蒸気だと見えてくるものがともに街頭の光を照り返していて、水滴と水蒸気の光そのものとして見える。そしてさらに水滴か水蒸気かの区別がつかなくなる。さきほどまでははっきりと水蒸気だと思っていたのに。それが本当かどうかは別としてもはっきりと分からないことは好ましくない。その理由は言葉として表せられないからだ。言葉の世界においては決して美しい状況ではない。オッカムの剃刀でなくとも短く効率的に表現できることこそが言葉の世界でも重要視されるはずだ。

そんな言葉が何と関係あるのだろうと考えたとき、さらにものごとがはっきりとしなくなる。さきほどまでは蒸気だと感じられていたものを水滴かもしれないというといたった着想は視覚によってもたらされたものだろう。できもしない数センチ前のフォーカスをこころみて蒸気と水滴の境目を見つけようとした視覚によってそれまで蒸気だったものが蒸気の可能性と水滴の可能性、たとえば50パーセントずつを持ち、境目の世界を築き上げた。

自分が生まれ育った環境はどちらかといえば蒸気の状態に近かった。それは液状の世界で、決して自分が液状であることさえも意識させられることはなかった。それで何不自由させられることはなかったので、固化世界に来たときは苦労した。さきほどの店員たちのように気化物質たちが固体状に見せている例もあるだろうし(少なくともわたしはそう信じている)、逆に固体物質たちが気化することによってさまざまな場所でのスパイ活動をする可能性を作っている。そういった物質形状移動を規制するという案もあるにはあるがそれは科学倫理に逆らうということで採用されていない。つまり純粋な目的での形状移動はいまのところ規制なしでやりたい放題の状態になっているのだ。気体だと思っていたものが液体であったり、固体であるべきものが気体に変わってしまっているという懸念を残しても。さらにはその変化においてどうっていうことのないという態度が流行しているようだ。

彼、この蒸気の中で名前を失くして、さらにはどの形状であるのかはっきりしなくなってしまったこの男は、その事実を飲み込むわけにはいかない。彼にとっては少なくとも今は液体に近いという自感をしている。水がみずみずしい。わかりきった表現だ。それでいてこの表現の中には水の中にみずがありそれでいて感覚を味わうことができるというように世界を開け広げてくれるような意味合いがこもっている。自分はみずみずしいのだろうか? それが本当に自分自身が液化できているかどうかのバロメーターになる。しかしながらはっきりとみずみずしいといえるほどの自感はない。それでもどうか液体であるようにそうおもって蒸気の中に自身を気持ち紛れさせてみる。

これでなんとかなるとは思わない。けれどもこれでなんとかなると考えてやってみないわけにはいかない。そして彼は完全に液体と気体の間の状態に陥る。その思いの力によって。どちらでもない。先ほどの店員たちのようにカジュアルな気化作用ではない。この蒸気の中で蒸気を目指して固体から液体を越えて一気に気化しようとする。それがどれだけ危険なことかは分かっていなかったのだろう。一度固体の姿を作ってしまったゆえ(ここまで地下鉄に乗ってきたりするために)、彼にはひとまず液化をする必要があったのだ。そのため一度液化を完了させて通常であれば最低でも6時間はあいだをあけて待つべきである。そのあとに気化するなりを開始すればよかったのであるが、急ぎの彼はというよりも彼の思いは固体から一息で期待を目指してしまったのだ。そのことによって液化されきれていない固体部が残ったままに気化を開始してしまったのだ。一般的にいって固体が気体になることがあるがその場合に固体はぜんぶが一度液体になっていてそのあと一斉に気体になる。それは足並みをそろえてこぼれがないように液体になっていることの証明でもあるのだ。

そんな形状の法則が支配する中で彼、この男、名前も失くして、さらには形態も、気化に失敗した液化になりそこないの固体を抱えた物質を含むその総体はその法則の中においてもどこに行くわけではなく彷徨うのであった。そういった例が以前にあったのかどうかは分からないけれど総体としての彼(今では性別さえあやしい)は新しい形態へと移ろうとしているところだった。そもそもどうして3つの形態だけなのだろうか? どうせ分けたいのであれば2つのほうがはっきりしている。2つのうちのどちらかということにすれば、こっちでなければあっちだというように簡単に状態を示されることになる。最終的に新形態にたどりついた彼もしくは彼女は結果として今までに存在することのなかった形態へとたどりついた。何か努力をしてそこにいたったというよりも、ただどこかの場所に陥ったというほうが相応しい表現のようでもある。

結局、そんな新しい状態に陥った彼もしくは彼女もしくはそのどちらでもないなにか、は、物質の三態を気体と固体だけにしてはどうかと思い当たる。その場合においては液状は中間の状態で単純に気体から固体へもしくは固体から気体へと移っている途中の状態ということになる。そうだとすればそもそもの彼のジレンマなど存在しないのだ。どちらかの状態に落ち着くまで待っていればよいだけだ。そこに必要以上の時間がかかることもない。間もなくしてどちらかの状態に落ち着くのだ。

そう思った際のこの自意識を取り巻いていた霧は薄まり始めていた。水滴を照らしていた光の中に含まれていたものに信号の青や赤があったことにも気が付く。先ほどの警察も頭が三角形に尖ったポリスボックスの中に収まっている。往来のないところで外に出て突っ立ってっているのは意味のないことなのだろう。そしてコンビニの中を覗いてみる。あの3人の店員は1つずつのレジへと配置されている。白色人種、黄色人種、黒色人種と綺麗に並んでいる。そのものたちが互いに話しているのは同一の言語のようだ。同一の言語ということは訛りがあるということでもあるのだが。訛りがないといえばそれは各々分かれての言語となる。昨日の言語。今日の言語。明日の言語。歯が痛いときの言語。機嫌がよいときの言語。個性を生かすといくことはそういうことだろうか。

そして街灯の明るさ、信号の色、交番の灯りを制するような大きな光が周りを包む。この変化はときの動きによるものなのだ。微かに残った霧の気配までが光の強さにひれ伏しているようだ。空気の中に浮かぶ塵にその表情が顕れる。霧が開けて時間も生まれた。弱い光たちはだんだんと自粛を始める。色のついた光たちはかろうじて存在意義を保つ。ドラスティックに起きる変化に街はゆっくりとそしてその分だけ確実に対応している。夕暮れ時とはわけが違う。何がこれまで疼いていたのだろう。しっかりはっきりと変化が齎されるのだ。大きな光によることで。それさえあれば。明るみのもと。何処までも見えないものと鮮明にはっきり見えるもの。驚きとともに。

間もなく動き始めた地下鉄がその自意識も運んでいく。他のものたちと同じように。何処へ行くっていっても反対方向へ向かえばいいのだ。朝からの仕事があるひとたちもいる。スーツなんてもう着替えなくてもよい。走る地下鉄は都心に向かうにつれて塊に近づく。すべての自意識はひっぱがされている。何処かにくっつくことなどない。

わたしにもかつては木下登のような名前があった気がする。木ノ下登。そのときにカタカナのノを書き入れていたかどうかははっきりしない。けれども木下登に対して嫉妬をしていることは確かだ。それでも確かにそれはわたしの名前だったのだ。

(完)

コメント(12)

コンビニ店員の箇所が私はお気に入りです。
こういう文章や語り口が好きでした。

「1つのレジに2人が立っているかもしれない。いや、3人が立っているかもしれない。邪魔し合ってるかもしれないし。重なり合っているのかもしれない。そうしたら3人いる意味があるのだろうか? いるのかどうか分からないけれども店長に聞いてみたいくらいだ。いや、店があるのだったら店長はいるだろう。もしそれなりの人がいなければこの3人の1人が店長なのだろう。そうすると話はややこしい。3人は重なり合っているのかもしれない。そうすると更にややこしい。」
>>[1]

言葉が通じていたことが喜びです。
読み取っていただき感謝しています!
>>[3]

前回の快楽と併せて読んでいただき、ありがとうございます!
まだまだ読みにくいところなどありましたら教えてください。
1度読んだだけでは、理解しきれなかったですが、自分が好きな類いの、作中議論の多い作品だと思いました。
'オッカムの剃刀でなくとも短く効率的に表現できることこそが言葉の世界でも重要視されるはずだ。 '
このあとに続く蒸気と水滴の境界の議論など、論じられていることが興味深く、それが一万文字の中に収まっているのが不思議な感じでした。
終電を逃した酔っ払いが、天使……や、質問者……のように異なる単語で表現されているのがおもしろいと思いました。
作品全体を通して、日常で起こりうる出来事を、異化する視点で見(たり考えたりし)ていくのは、新たな、豊饒な世界への引き出しを引くようですね。
自分には書けない作風なので、勉強になるのと同時に、交番を過ぎたところあたりからはあまり理解ができませんでした。
>>[7]さん
ありがとうございます!

”自分が好きな類いの、作中議論の多い作品だと思いました”

ここから脱却しようと考えていたところ。そこまて意識してそうしているわけではないのですがこの間の話で少し回りくどいのかなと思ってました。

一万文字にできるだけ詰め込もうとは意識していますが上記の話で詰め込むものがどうなのかを考えてみます。
>>[8]
ありがとうございます!

勉強にはしないほうがいいと思います……
個性的な作風をお持ちで羨ましい限りです。

”作品全体を通して、日常で起こりうる出来事を、異化する視点で見(たり考えたりし)ていくのは、新たな、豊饒な世界への引き出しを引くようですね”

うまく説明していただきありがとうございます。異化する視点なるあたり、知識を感じさせられのと同時にまるで自分の文章に関してのものではないようです。実のところはそんな豊饒な世界でもありません。どちらかといえば言葉についている装飾をとりのぞきたい気持ちです。
ナンセンス文学ってこういう感じだなと思いながら読みました。
普段日常の生活や、生きていることって、純粋に流れていくようで、実は細かいところでかなり頑張って意味づけをしながら無理やりこじつけている部分ってあるのかなと思っています。
自分に名前があって、人間として生きているっていう事からしても、それだけで頑張っていることなんだと思っています。
ナンセンス文学はそういうのを全部解体して、気づかされてくれるので、個人的には「究極の癒し系」だと思っています。

ただ、「しっかりした、頭のいい感じ」「ちゃんとした賢い感じ」というのが文章全体に流れているように思いました。
個人的には、もっともっと意味がぐっちゃんぐっちゃんになってて、頭が悪くて、気持ちよくなる文体のほうが好きなのですが、
ただ、「10000字の文章ずっとそのペースかよ」、というような文字の羅列レベルのものになっちゃうと、もはや文学としては成立してないので、10000字でストーリー性が一応ありながらなるべくナンセンスの極みを追求しようとすると、こういう感じになるんだなって思いながら読みました。

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