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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第7回 おたけさん作「カッコーの巣の中で」

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通夜の1時間前、棺に入った妻の顔を眺めながら、安藤嗣治は、この人は美しいまま死んだんだな、と思った。最後に、記録を消すという化粧を自分の人生に塗って、綺麗になって死んでいった。その行為は、人間として当然なことなのだろうが、結婚生活のパートナーとしての信頼関係というのは、その程度のものなのだなと改めて感じる。
唐突な死だった。膵臓ガンだと医師に説明されたが、その説明は、嗣治の頭には、ほとんど入らなかった。そして、妻の病状を理解する前に、彼女はこの世を去ってしまった。
皮肉なことに、彼女の死後、嗣治は、彼女の病状だけでなく、彼女自身のこともよく理解していなかったことを思い知らされた。
棺の前に立ち尽くす彼は、胸ポケットに入っている赤色の洋形封筒を取り出す。表には、黒字で「夏帆より」と妻の名前が弱々しく書かれており、既に開封している封筒の中には、3枚の手紙が入っていた。それは、死の淵にあった妻が嗣治に宛てたものであった。
嗣治は、それを細かく千切って、紙吹雪のように妻の顔に振りかけてしまいたい衝動に駆られた。しかし、なんとか自制し、ただひたすらに美しいままの彼女を眺め続けた。

「私が死んだら、読んで。」
見舞客も少なく、ひっそりとしている平日の病院。その病室の中で、やせ細って、緩やかな死へと向かっている夏帆の手から、一つの洋形封筒が嗣治に差し出された。嗣治は、その便せんを優しく受け取り、その不吉な赤色を隠すようにして、さっと胸ポケットにしまう。
「必ず読むよ。約束する。」
夏帆は、満足そうに微笑む。ここに来て、ずっと笑顔が見られなかったので、嗣治は少しだけ救われた気持ちになる。このまま妻が笑顔もなく逝ってしまうというのは、嗣治だけでなく、集まった彼女の両親や姉弟にも深い後悔を残すことになる。
「お母さんは、いつ元気になるの?」
小学2年生になる息子の泰樹が、不思議そうに嗣治に尋ねる。嗣治が何か言おうとしたが、それを夏帆の、か細くなってしまった声が遮る。
「お母さんは、今日、泰樹に会って元気をもらったわ。それが私の中で育って、きっと、すぐに元気になると思う。」
その「私の中で育つ」というフレーズが、妙にガンのことと重なっていて、病室の大人たちの間には張りつめた空気が流れる。しかし、そんなことを知る由もない泰樹は、元気になるという言葉が聞けただけで嬉しそうであった。
そして、この数時間後、「私の中で育った」存在に身体を蝕まれきった夏帆は、その生涯を終えた。享年34歳であった。
「もう帰っちゃうの? お母さんとは、もう会えないの?」
人の死というのを、朧げながらも理解している泰樹は、ベソをかきながら、エレベーターの中で大人たちに質問をする。嗣治は、泣きじゃくる息子をゆっくりと抱きかかえ、「また会えるよ。だから、帰って、パパと一緒に寝よう。」と言うと、息子は泣きながらも頷いていた。
駐車場のある地下階につき、エレベーターの扉が開く。
「すみません。急いでるんで。」
病院に似つかわしくない開襟シャツを着た茶髪の中年男性が、こちらがエレベーターを降りていないのに乗り込んでくる。おそらく、こちらと同じ立場の人なので、慌てる気持ちは分からなくはないが、それをやってどうなるというのかと思ってしまう。しかし、嗣治には、そんな立場の人間に何か言うことができる気力もなく、嗣治たちは男性を避けながら、エレベーターを降りた。そして、エレベーター乗り場の横に置かれたソファーに座り込んでしまった義母の周囲に、みんなで集まり、今後の流れを話し合った。
「どうかしました?」
先ほどから、しきりに何かを気にしているように見える義父に対して、嗣治は、娘の死に対してとは異なる戸惑いのようなものを感じていた。質問された義父は、上の空のようで、「ああ」と答えるだけだったが、義母が、
「さっき、お父さんと話したのですけど、もしよければ、嗣治さんと泰樹君は、近くのホテルに泊まったらどうかと思いまして。でも、それだと泰樹君は、落ち着かないかもしれませんものね。」
と、動揺している義父に代わって提案した。確かに微妙な提案だった。近くにいた方が良いのは分かるが、こちらとしては泰樹の方を落ち着かせたい。結局、嗣治は、嫁の両親の提案を断って、息子と2人きりで車に乗り、東戸塚にあるマンションへと帰った。

妻の死は、嗣治にある現実を突きつけた。それは、彼と夏帆の家族とは、夏帆がいなくなれば全くの他人としてのスタートなのだということだ。
彼にとって、妻との鎹〈かすがい〉であった泰樹も、彼との関係性でいうと他人であると言っても過言ではない。なぜなら、泰樹は、前夫との間の子どもで、嗣治とは血がつながっていないのだ。そして、嗣治自身、幼稚園のときから育ててきた泰樹ではあったが、未だに泰樹と自分と直接繋がっているのではなく、夏帆を経由して繋がっているという意識があった。
その晩、泰樹が寝静まってから、嗣治は、夏帆の手紙を開いた。それは、嗣治の心を掻き乱し、彼は声を殺して泣いた。そこには、楽しかった思い出から感謝の言葉、そして結婚してくれて救われたことなどが、紙一杯に書かれていた。
しかし、ふと冷静になった嗣治の心には、生前の妻との間に存在した壁のようなものを、この手紙からも感じた。死ぬ前に愛する人に宛てる手紙の模範文のような内容に、化粧のようなものを感じ、嗣治は、子どもがめくれている壁紙を剥がしたがるように、それを無性に剥がしたくなってしまった。それは、出逢ってから今まで、彼女の内面に触れたことが無いのではないかという、ある種の無力感を克服したい欲求とも繋がっていた。
そんな嗣治の目に映ったのが、彼女の機種変更前のスマホだった。彼女は、入院する少し前に機種変更したのだが、色が気に入っていたらしく、インテリアとして彼女の部屋に置かれていた。嗣治は頭では、これもそのまま棺に入れて燃やすべきだと思った。しかし、手は自然とそれに伸び、充電してしまう。そして、主電源を入れると「Hello」という言葉が浮かび上がってきて、簡易なロックが表示されたので、妻がやっていたような線を引いて、それを外す。嗣治は、何をやっているんだと思いながらも、自分を止められなかった。
難なくメインメニューにたどり着くと、忘れっぽい夏帆がユーザー名とパスワードを書き記したメモ帳を見つけ、それを使って、ネットのフリーメールのメールボックスを開いた。だが、さすがにそこは空になっていた。どうやら、夏帆は病室で新しいスマホを使って消したのだろう。嗣治は、さすがだな、と感心しつつ、最近流行りの無料のメッセンジャーの方を起動させた。
意外にも、そこにはデータが残っていた。どうやら、彼女は、この手の連絡手段がサーバーにデータが残るのではなく、スマホ本体にデータが残ることを知らなかったようだ。
嗣治は、人生で初めて猥雑なコンテンツに触れる少年のように、そのいけないものを暴いていった。そして、そこに残されているやり取りを見ていくうちに、彼は手紙を破り捨てたい衝動に駆られていき、涙など枯れてしまったのだった。

「ちょっと、今、なんつったのよ。」
妻の棺の前に立ち尽くし、記憶をたどっていた嗣治に、夏帆の姉である村田裕美が激しく詰め寄る。裕美は、ネイリストとして働いて、都心で独身生活を謳歌しており、一人で生きることに決めているせいか、妙な強さを持っている。嗣治は、そんな義姉の怒りの理由を訝ったが、すぐに自分の「この人は美しいまま死んだんだな」という呟きが、心の中でなく、口に出していってしまっていたことに気がつく。だが、義姉と口論になるのは面倒なので、嗣治は「何も言ってませんよ」とあくまで、しらを切った。だが、義姉は引き下がることなく、
「嘘つかないで。あなたは言ったわよ。美しいまま死んだ、って。何よ、恨み言があるんなら言いなさいよ。妹は言いたくても言えなくて、そして、死んだのよ。あんた、卑怯じゃない。」
こちらだって、その妹に関して、言いたいことは山ほどあるのだが、それは胸にしまい込んで、嗣治は、ただ姉のヒステリックな怒りを黙って聞いていた。数分経った頃、娘の怒声に気がついた義母が駆けつけてきて、娘を黙らせた後、嗣治に必死に謝った。嗣治も、義母と義姉に頭を下げて、ようやくその場は収まったのだが、義母の温和な人柄に触れて、嗣治は自分の溜飲が下がるのを感じた。何より、義母はまだ自分との関係性を保とうとしていることを知って、安堵した。

通夜の参列者に対して、機械人形のように次々と頭を下げていく中で、嗣治は、見覚えのある男に遭遇した。服装は、当然、黒のスーツだが、髪の色は相変わらず、茶色であり、そのけだるそうな顔つきは、あの日と同じだった。病院でも遭遇して、葬儀にも参列する。これが、夏帆がやり取りしていた男に違いない。
そう確信してた嗣治は、茶髪の男の元へ歩み寄ろうとしたが、彼の腕は力強く握りしめられ、動けなくなった。
「嗣治くん、今日だけは堪忍して。お願いやから。」
今にも飛び出しそうになっている嗣治の腕を掴んだのは、義父の村田博文だった。嗣治は、渋い顔をしたまま、その腕を何事もなかったかのように振りほどき、その場に再び立って、来場者に虚無の挨拶を続けた。

「俺のこと、バカにしてるんですか。」
西鎌倉にある村田家での通夜が一通り終了し、疲れきって奥の部屋で寝てしまった泰樹以外の面々で後片付けをしている際、嗣治はそう言い放った。それはまるで、鏡のように平らな水面に、こぶし大の石を投げ込んだようであり、義姉弟は、驚いたアホウドリのように、ぎょっとした表情で嗣治の方を振り返る。
「奴が葬儀に来るだけならまだしも、病室にも来てたでしょ。あんたらのうちの誰かが教えないと分からないでしょうに。」
「夏帆が教えたんだ。」
振り返りもせず、黙々と食器類の片付けをしていた義父が、背中を向けたまま嗣治に答える。
「彼が通夜に参列したのも、夏帆の望みだ。それでは理由にならないかね。」
義父は、病院の窓口での事務手続きかのように淡々と語る。
「前夫であるだけなら構わないし、単なる浮気相手だとしても俺に分からないように友人として勝手に参列する分にはいいですよ。でも、浮気相手で前夫である人間を呼ぶなんて、俺は一体なんなんですか。」
義父は、黙っている。彼は知っていることを、「知らなかった」と答えて、自分が嘘をついた罪悪感を背負い続けるような人間ではない。義父が、常に、清廉潔白でなければ気が済まない人柄であるからこそ、嗣治は彼に冷たいナイフのような事実を突きつける。
「最後に夏帆が俺に渡した赤い封筒を覚えているでしょう。あの中の手紙に書いてあったんですよ。夏帆が、前夫である奴と、2年前からずっと浮気してたってね。」
嗣治は、わざと嘘をついた。それは、人間関係を繋ぐ嘘ではなく、刃のように切り刻むための嘘である。昔読んだ時代小説の一節にこうあった。「正直とは、白刃なり。修羅場に臨めば、人はその刀を抜いて斬りつけ合うなり」と。
「いい加減にしてくれないかしら。黙って、自分の妻を見送ることも、あなたには出来ないの?」
義姉が蔑むような視線を送ってくる。だが、嗣治は、もう引く気は無かった。
「あんたの妹が自分勝手だから言ってるのさ。自分が綺麗になって死にたいのか知らんが、秘密にしておけば良いことを…」
嗣治が喋っている途中で、義弟が「勝手してたのは、あんただろ。姉さんを放っておいて、自分のことばっかしやがって。」と言いながら、嗣治につかみかかろうとするが、義母が制した。
「お義父さん、俺が言いたいのは、こういうことをされると、俺は泰樹との関係をどう考えれば良いのか分からなくなるということです。」
「あんた、泰樹の親でしょう。関係が分からないとか言わないでよ。」
義姉が、手に持った花瓶を投げてきそうな剣幕で叫ぶ。だが、嗣治は怯むことなく、
「お義父さんたちに言われるなら当然納得するが、あんたみたいな親になったことがない人間に、何言われる筋合いもない。」
嗣治は、この義姉に対して我慢がならなかった。義弟の方も、同じくである。義姉と義弟は、一見すると仲が良さそうだが、嗣治に言わせてみれば、共通の利害関係を持っているに過ぎない。村田家は、鎌倉の海に近いところに家があり、それは高級住宅街と言っても差し支えない場所に隣接している恵まれた土地だった。その土地を相続して、住まおうとしているのか、義姉も義弟も未だに賃貸物件に住み続けている。嗣治が思うに、結婚秒読みだと言われている義弟の方が、この家に住まうのにふさわしいだろうが、義姉の方も、この場所で女一人で、結婚できるがしなかったセレブというのを気取りながら生活をしたいのだろう。正月の団らんの席でも、2人の会話の節々に、そういった相続の話が出てくることがあり、義父母は少々苦々しそうであった。
頼りにならない家族とは早々に縁を切って、自分の力で成り上がっていった嗣治にとって、他人に頼った人生設計の義姉弟は、以前から順当に嫌いであり、相手をしたくなかった。特に、義姉は子ども嫌いなくせに、泰樹の教育に口を挿んでくるので、嗣治にとっては、前々からうっとうしい存在でもある。
「言いたいことは分かった。嗣治君、向こうで話しよう。母さん。その2人を頼んだよ。」
義父は、そう言い残して、すたすたと客間の方に向かっていた。

「夏帆と前夫の浮気が本当なら、君は、本当ならもっと怒り狂っていい立場なはずだ。でも、君はそうしない。」
畳敷きの客間に置かれた座卓を挟み、向かい側に座った義父が、鷹の掛け軸を背に、ゆっくりとした口調で喋る。
「私は分かってるんだよ。君がそうしないのではなく、そうできないってことくらい。」
元弁護士である義父は、昔を思い出したかのように粛々と問いつめてくる。そして、どのような弱みを握られているのか分からない嗣治は、黙って聞くしかなかった。
「君は、結婚する前に、君の父親のことについては話してくれたし、私も会いに行ったから分かる。」
夏帆と籍を入れる前、義父から頼まれて、嗣治は彼と2人で嗣治の父と会いに行った。肝硬変で、長い間、関西の病院に入院していた嗣治の父は、元々、大手企業の支店に勤め続けていたが、素行が悪く、度々暴力沙汰を起こし、最後には酔っぱらって道でぶつかった他人を殴って傷害罪として警察にお世話になり、平社員に降格させられた人間である。さらに、日常でもテレビ番組やゲーム、スナックなどで人生を消費し、自分の世界に引きこもり、責任を放棄していた。なので、嗣治は、父を弱い人間だと思っていた。当然、嗣治たちが会いに行ったときも、父は、相変わらず病室でテレビに熱中しており、彼が義父に最初に聞いたことも好きなテレビ番組とゲームをするかどうかであり、結婚の話など聞きたくない様子であった。その後も、嗣治の父は現実の話をしようとせず、義父も仕方なく、無理に話を合わせていた。そんな父が亡くなってから既に3年も経つのだなと思うと、あんな父親でもいた方がよかったのだろうかと思ってしまう。
「父親のことは、仕方ないと思ったし、夏帆ももう長くはないと知って、受け入れたようだった。でもね。」
義父は、喋り辛いのか、言葉を詰まらす。嗣治も、ここまで来ると、次にくる話がだいたい想像できた。
「でも、君は、実の姉のことを結婚が決まるときぐらいまで話していなかった。」
「ええ。でも、彼女はもう、私の人生とは関係ないですから。」
嗣治は、答えを頭の中で用意していたので、よどみなく喋れた。しかし、義父の目は蔑みの色を帯びている。
「悪いけど、それは嘘だ。君は、結婚してからも姉に、結構な金額のお金を渡していただろう。少なくとも、ちょうど今から3年前には渡したはずだ。」
この言葉には、面を喰らった。俺は、手に持っていた湯呑みを落としそうになってしまった。自分が独身のときに貯めていた金を使ったので、そこで足がつくことは無い。そうすると、答えは一つだろう。
「調べたんですか?」
「ああ、人を使ってね。弁護士時代のつてが生きてるから。でも、分かってくれ。私自身が安心したいからやっただけなんだ。私が誰にも相談せず、独断でね。当然、自分の心の中にしまうつもりだったし、実際にそうした。」
そして、調べてみると、義父の家族を脅かすような光景が広がっていたということなのだろう。"
「私は、当然、その事実を夏帆にも伝えなかった。でも、夏帆の方から、君の姉の話についての相談を受けたんだ。つまり、夏帆はそのことを知ってたんだ。」義父はため息をつき、呆れたような口調になる。
「嗣治くん。秘密を抱えているなら、携帯にパスワード付きのロックくらいはかけるべきだと思うがね。それが、優しさというものじゃないかな。」
気まずくなったのか、義父は、席を立ち、涼しい風を提供してくれる縁側に佇んで、一服していた。その煙草の紫煙が、ゆらゆらして、外へと流れていく。
「君がもっと早く事実を話してくれていれば、こんなことにならなかったと思う。」
義父は、俺の方を見ずに、無感動に語る。
「娘に結婚もさせなかっただろう。もっと言えば、娘も結婚しなかったと思う。」
ふと、顔を上げると、いつの間にか廊下に、涙を溜めて、今にも泣きそうにした義母が立ち尽くしていた。そして、涙の粒が、まるで雨が降り始める時のように、ぽたぽたと廊下の板の上に落ちていった。俺は、彼女の方を向いて、がむしゃらに、何度も頭を下げた。自分を殺してしまいたかった。結局、他人に迷惑をかけてまで実現する幸せなど無いのだろう。俺は何度も頭を下げた。
「もういいから。本当に、もういいから。」
気がつくと、煙草を片手に持った義父のしわくちゃの涙声が聞こえていた。そして、その手にある煙草から灰が落ち、それが綺麗に編みこまれた井草の畳を焦がす。嗣治は、自分をその灰だと思った。綺麗なものに汚点を作る灰であると。

翌日、葬儀が終わると、亡き妻も灰になった。火葬される妻を見て、嗣治は、自分と村田家との関係性が燃えてなくなっていくのを感じた。そして、嗣治は、その関係性が無くなったかどうかを確かめたくなったのか、家の整理などを行いたいことを理由に、泰樹を預かってくれるように義父母に頼んだ。泰樹が夏休みだったのもあり、義父母は快く引き受けてくれ、義姉たちも反発はしなかった。
「パパは、また戻ってくるから。それまでいい子にしていたら、海に行って、かき氷食べに行こうな。」
泰樹は、明るく嬉しそうにして「うんっ」と言う。本当に良い子だと嗣治は思いながら、泰樹の頭を撫でる。
「良かったな、泰樹。じゃあ、明後日までいい子にしてたら、爺ちゃんが近くでアイスを買ってやろう。」
側にいた義父が、泰樹にそう言いつつ嗣治に微笑みかける。泰樹のことを任せて良いということなのだろう。義父の思わぬ一言に安心した嗣治は、愛車の運転席に乗ってから不意に涙が込み上げてきた。

嗣治を迎えてくれた我が家は、暖かみを失ってしまい、冷蔵庫に入れられた昨晩の残り物のように冷たくなって横たわっていた。そのがらんとした部屋の中にポツンと置かれた食卓に独り座って、嗣治は考え事をする。内容は、もちろん姉のことだった。
もし、俺の身にもなってくれと言おうものなら、姉は、私の方が可哀想に決まっている。あんたは立派な仕事があるじゃない、と言うだろう。そして、また万引きを行うのだ。約3年前に久しぶりに会ったとき、姉は新しい男の話をしていた。だらしが無くて困っているとか、可愛いところがあるとか、少なくとも俺にとってはくだらない話だ。いや、重要な話かもしれない。その男は、俺が姉に与えた金で暮らすことになるのだから。
数ヶ月後、再び姉から連絡が入った。姉の連絡を無視していると、姉から会社に電話が架かってきた。ちょうど俺が新しいシステムの開発について打ち合わせをするために、発注先の企業に行っていた時に架かってきたらしく、電話先で、最初は「親が危篤だから今すぐ弟に代わってくれ。」と言っていたらしいが、打ち合わせに行っていることを伝えると、「嘘つくんじゃないわよ。弟はパソコンに張り付いて仕事をしているのは知ってるの。私をバカにするんじゃないわよ。」と喚いていたのだと言う。俺は、姉が可哀想とか、自分が可哀想とかということを感じる前に、何も無い人間ほど強いものはないと素直に感心してしまった。
そして、週末、義父が言ったように、姉に金を渡しに行ったのだった。姉は、泣きながらお礼を言っていたが、いつその金を返すのかの話は、遂に出してこなかったし、嗣治も再び会うのが嫌だったので、今の今までその話は出していない。義父の話だと、そのやりとりのメールを、夏帆は見てしまっていたということなのだろう。
結局、夏帆の俺に対する不信は、俺の姉のことから始まったようだと嗣治は思う。その不信には、姉という存在が迷惑をかけてくることもさながら、今まで金のことなどについて相談しなかったことも含まれていただろう。しかも、幸せな家庭しか知らない夏帆にとって、その恐怖は増長したのだろうと、嗣治は初めて理解した。よく考えると、俺の家族のうち、半数が前科持ちなのだ。そんな社会の異端者と関わりたくないというのは、真っ当な人なら正常な思考であろう。
俺は、自宅の小さな和室の片隅にある亡くなった母の遺影に向かい、手を合わせて、なぜ、あんな人間と結婚したのか、と心の中で質問した。
母は、生前言っていた。「自分にも分からない」と。そして、仏壇に手を合わせる俺の目の前で、線香の煙がゆらゆらと揺れていた。

翌日、気持ちの整理がつかない嗣治は、ちょうど金曜なのもあり、大学からの友人である朝倉を飲みに誘ってみた。朝倉には、妻の病状が悪いということは報せていたし、都合が付けば通夜にも参加してもらう予定だったが、彼は仕事で参加できなかったため、その負い目を感じているのか、松戸市にある調剤薬局からわざわざ駆けつけてきてくれるとの返事がきた。
だが、朝倉が指定した時間までには、まだ6時間以上あった。その間、何をしようかと迷った嗣治は、百貨店のネット通販用のサイト作成に係る仕様書が遅れていることを思い出し、それを完成させるために、ひとけの無い職場に行くことにした。
飯田橋にあるオフィスに入ると、ちょうど同じフロアで働いている同期の亀梨香織が休日出勤しているところに遭遇した。妻が亡くなって休んでいたことを知っている彼女は、嗣治に、泰樹くんは大丈夫なの、と聞いてきたが、義父母に預けたことを伝えると安堵した様子だった。
「だったら、仕事も家庭も忘れて、一時だけでも、ゆっくりなさいよ。あなたが倒れたら、泰樹君は頼る相手を失くすんだからね。」
嗣治は、気の置けない亀梨に、妻の携帯履歴、そして、村田家との一悶着について、一通り話した。
「奥さんの行動は、私には、理解できないわね。今度ばかりは、あなたに同情するわ。」
亀梨は、両親が、父親の不倫を理由に大学生のときに離婚しており、経済的に苦労したという経緯があるので、不実な態度を極端に嫌っている節がある。時々、不快に思うこともあったこの姿勢が、今の嗣治には心地よかった。
「妻にとって、俺って何だったんだろうな。」
「財布でしょ。」
亀梨は即答する。
「だって、前の夫と離婚しても会い続けるなんて、どう考えてもおかしいじゃない。そんなに好きなら、彼女が彼を支えてあげればよかったんじゃないかしら。」
夏帆が経済的な理由から前夫と離婚し、俺とくっついた経緯を知っている亀梨は、不味そうにスタバのコーヒーを啜る。典型的なキャリアウーマンであり、夫との二馬力で、子ども2人を育てながら母親の生活をも支え続けている彼女にとって、ただ守られているだけの女性は、敵のような存在なのかもしれない。

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「今だから言うけど」
亀梨は、画面に向かって作業していたのをやめ、隣のデスクに座っている俺に向き直って、
「安藤君は、結婚相手を間違えたのよ。これからは、優しいとこを利用されないようになさい。」
それに対し、嗣治が、「同期には、いつも利用されてるけど、それはいいのかな」と冗談まじりに言うと、「それは借りを返さないといけないんだから、仕方ないでしょ」と笑いながら言われてしまった。そして、亀梨は、急にバッグの中からクッキーの缶を出し、押し付けるように渡してきて、泰樹に渡すように命じてくる。入社当時から変わらない強引なところに、嗣治はよく分からないが安らぎを覚える。
「泰樹君のために、再婚した方が良いと思うわ。あくまで、おせっかいな同期の意見として聞いといて。」
嗣治は、「ああ」と曖昧な返事を返す。そして、これ以上、おせっかいな同期に気を遣わせないために、自分の机の上にあったノートパソコンを専用のバッグに詰め込んで、飲み会の場所である新橋まで行き、そこで作業をすることにした。


陽が暮れてから、いつも朝倉と2人で会うときに使う新橋のバーに行くと、先に来ていた朝倉は、既に一杯飲み始めていた。嗣治は、先に来た方に一杯分は奢らないといけないという、いつから決まったか忘れたこのルールを、こんな日にも適用する友人のしたたかさに笑ってしまう。
「これから、どうやって泰樹と向き合えば良いんだろうな。」
店の片隅にあるいつもの席に座って、2人揃ってウィスキーを飲みながら、気兼ねなく話す。嗣治は、一人になって考えて、妻のことが許せないのではなく、これから泰樹とどうやって向き合えば良いかを不安に感じており、それをうまく解決できない自分に苛立っていることに気づいていた。
「まずは、逃げないことだろうな。」
子どもをもっていないどころか、結婚すらせず、仕事を一時的に辞めては、海外に行くという自由気ままな生活を繰り返している朝倉が、まるで全てを知っているかのように語る。
「男なんてのはサイフも同然さ。でも、子どもとちゃんと向き合えば、父親であることもできる。しっかりしろよ。」
意外にまともなアドバイスに、この親友が答えを考えてきてくれたのだということを知る。嗣治は、黙って頷いて、込み上げてくる感情を抑えた。そう、サイフであることは当たり前なことなのだろう。それは、動物が狩りをして、子どもに餌を与えるのと同じで、自然なことなのだ。
その後も、ぐだぐだ飲んでから、2人は埠頭の方に歩いて行った。夏の夜風が気持ちよく、大学時代にキャンパス内の原っぱで飲んでいたのを2人で思い出していた。
「彼女は、精神的なもので、不倫したんだろうな。」
大学時代からの友人だからこその単刀直入な物言いだった。
「そうだろうな。」
嗣治は、止めていた煙草に火をつけて、彼女のことを想う。考えてみると、彼女が亡くなってから初めて能動的に顔を思い浮かべたかもしれない。自分は酷い男だと、眼下の暗い海に紫煙を吐きながら思う。なぜ、彼女は自分に相談してくれなかったのだろう。だが、それは無理な話だった。相談すると言うのは、離婚について相談するという意味に他ならないのだ。
「やっぱり嫌だよな。今まで幸せな家庭だったのに、普通じゃない人たちと家族となるなんて。」
彼女は、幸せと愛情いっぱいの家庭に育ったからこそ、尚更だっただろう。それに、よく「家族に迷惑をかけたくない」ということを言っていたのが、今更ながらに思い出された。だから、経済力のない前夫とも離婚したのだ。
「そうなのかもしれないな。彼女は親姉弟が大事だったんだろう。それに、今の親世代は、子どもに絶対に幸せになってほしいという気持ちが強いからな。よい相手と結婚して、経済的に充実した家庭にして、よい教育を受けさせて、よい人生を歩ませる。それができないと親失格だと感じ、ひどい場合には精神疾患になる人もいるって精神科の医者が言ってたよ。子どもには子どもの人生があるから、なんとかやっていくだろうし、そもそも子どもとしては、親が気丈夫に構えてくれているのが、一番だろうにね。」
潮臭い匂いを運ぶ風が、顔に吹き付ける。
「俺は、彼女と結婚すべきじゃなかったのかな。」
嗣治の呟きは、風に乗って暗闇の向こうに飛ばされる。
「今、それを言っても仕方ないだろう。」
嗣治は、朝倉に背中を叩かれた。その通りだ。考えるべきことはそんなことじゃない。潮風に吹かれて、暗闇に煙草の灰が吸い込まれていく。そして、嗣治の迷いも風に吹かれて意識の向こうに消えていった。

月曜の上野公園は、人が少ないものだと嗣治は勝手に思っていたが、夏休みに入っているせいか、動物園や美術館を目当てにした人たちと公園をただ楽しみたい人で、公園には溢れかえっていた。
彼は本当に来るのだろうか。待ち合わせ場所に指定したカフェのテラス席で嗣治は心配そうに時計を見つめた。午前10時35分。約束の時間を5分過ぎていた。通常の社会人であれば立派な遅刻であるが、あの男はそのような常識は持ち合わせてないんだろうと、嗣治は思わず決めつけてしまう。
今日、この場所で、夏帆の前夫である開業美容師の吉川龍二と会うことに決めたのは、ケリをつけるためだった。夏帆の携帯には、浮気のことだけではなく、中絶のことも書かれていた。つまり、2人は、浮気をしていただけでなく、その間には泰樹以外の子どもも出来ていたのである。嗣治は、このことを朝倉にも、当然、村田家の人間にも言わなかった。というより、言えなかったというのが正しいだろう。彼も、このことだけは事実を問いただして、自分だけの秘密として墓場まで持っていこうと考えていた。
「安藤さんですよね。」
現れた龍二の出で立ちは、病院ですれ違ったときと同じものだった。わざわざあの時のことを思い出される格好で来るとは、いい度胸だと嗣治は心の中で舌打する。席に着くように嗣治が伝えると、龍二は悠々と座り、呑気にアイスコーヒーを注文し始めた。
「しかし、平日で、しかもこの暑さだというのに、えらい混んでますね。俺なんて、いつも冷房が効いたところにずっといるから、倒れちゃいそうですよ。」
美容室に髪を切りにいったときのようなたわいのない会話が始まり、嗣治はうんざりする。時間の無駄だと思い、早速本題を切り出す。
「いつから、夏帆と、また会うようになったんですか。」
努めて冷静に話す嗣治に、龍二も作り笑いを止めて、翳りのある表情で話し始めた。彼の説明によると、夏帆と再び連絡を取るようになったのは、3年前の秋からで、最初は、互いの近況について連絡する程度だったが、次第に夏帆が新しい結婚生活の愚痴をこぼすようになったのだという。その内容を見て、龍二はもしかしたら、よりを戻せるかもしれないと思ったらしい。
「会おうと誘ったのは、確かに俺だけど、そうするように仕向けたのは夏帆です。」
龍二の話は、ラインのやり取りとも一致しており、確かに、11月の待つ頃から、夏帆から思わせぶりな内容のメッセージが目立つようになっていた。
その後も、嗣治が質問し、龍二が事務的に質問に答える形で会話は進んでいった。再び会うようになり、泰樹の様子も聞いて、写真も見せてもらい、生活の愚痴を聞き、そして、夏帆の美しさに再び惹かれるようになるまで時間はかからなかったのだと言う。不倫の理由について、夏帆は、嗣治が仕事に打ち込みすぎて、家に一人でいることが多いために寂しさに耐えられなかったと言っていたらしい。そして、龍二は、欲望に勝てず不倫は受け入れてしまった。ありがちな話であり、嗣治は人生の陳腐さを忌々しく感じた。
「その後のことは、想像に任せます。さすがに喋り辛い。」
龍二は、複雑な表情を浮かべる。だが、嗣治は、自分が本当に知りたいことを訊けていなかった。
「俺も別に、あんたが彼女とセックスした回数なんて興味ないから。ただ、中絶の話については、喋ってもらう。」
龍二は、中絶という言葉を聞いて黙ってしまった。いつの間にか運ばれてきていたアイスコーヒーのグラスの氷が溶けて、氷がグラスにぶつかり、カランという音が、静けさに支配されたパラソルの下で響く。
「本当に聞きたいのか?」
「ああ、聞きたい。」
龍二は腕を組んで無精髭をさすりながら、うなった。
「なぜ、知りたいのか理由を教えてくれないか。」
今までにない真剣なまなざしで、龍二は嗣治を見据える。
「俺は、真実を知りたい。ただ、それだけだ。裁判を起こしたりするつもりはない。」
「そういうことなら…」
龍二は、気が進まないという感じで、ポツリポツリと話し始める。
「夏帆が妊娠したと言い始めたのは、去年の春ぐらいのことだった。正直、俺は驚いたし、天罰だと思った。でも、蓋を開けてみると、俺が思っていたのとは違う状況だということが分かった。」
テーブルの上に、龍二のバッグから出されたA4サイズの封筒が置かれる。龍二が中身を取り出すと、それは書類の束であり、一目見て、何かの検査結果だと分かった。
「これは、DNAの検査結果だ。胎児と俺の遺伝子は一致しなかった。つまり…」
「もういい。ありがとう。」
白い太陽が輝く真夏の日差しの中、嗣治の視界は、その白光に覆われたようになってしまい、耳鳴りすら聞こえる。受け入れられなかった。しかし、病院の検査結果は、嗣治に残酷な事実を伝えている。そして、その事実は、嗣治にさらなる質問をすることを求めていた。
「なぜ、堕ろしたんだろう。」
蚊の鳴くような声の嗣治の問いかけに、戸惑った様子を見せながらも龍二は「言っていいのか」と切り出す。
知らない、と嘘をついてくれればいいのに、と嗣治は思ってしまうが、聞かないと後悔するのは目に見えているので、彼は弱々しくも頷いた。
「夏帆は言ってたよ。『私は、嗣治さんのことを理解できない。嗣治さんの家族のことはもっと理解できない。だから、嗣治さんとの間の子どものことも、きっと理解できないと思う。だから、産めない』とね。」
これは、夏帆が自分に相談するのは不可能なことだと、嗣治は思った。おそらく、村田家の人々にも出来なかったのだろう。そうしたら、嗣治との間に話し合いの場を持つことになるだろうし、そうなれば、再び離婚の話になってしまう。夏帆にとっても、二度目の離婚は避けたかっただろうし、龍二のところに戻ることは出来ない。そうすると、今の結婚生活を維持するしかない。そんな中での決断だったのだろう。
嗣治はパズルを完成させた。しかし、完成した絵は幸福などではなく、言いようの無い虚しさであった。
「何か聞きたいことがあれば、いつでも連絡ください。」
龍二の真摯な申し出に、嗣治も「こちらこそ、よろしくお願いします。」と丁重に答える。そうして、龍二は黒と赤のお洒落な麦わら帽を被って、席を立ち、嗣治に丁寧におじぎをする。
「すみません。最後に、一つだけお願いがあります。」
すぐには立ち去らなかった龍二が、もう一度深々と頭を下げる。頼みとは、いつか泰樹と会いたいということだった。嗣治は、あまりにムシのいい頼みに不快感を覚え、断ろうかとも思ったが、今日、洗いざらい話してくれた感謝を示さないのは、人としてどうなのかと思ってしまい、結局、いつの日か会いに来てくださいと、時期は曖昧にしたが、許可してしまった。
「ありがとうございます。」
感動しているのか、少し震えている声で龍二はお礼を言い、そして、ゆっくりと夏の陽炎の向こうへ消えていった。

龍二との話を終えると、嗣治は、その足で村田家に向かい、義父母と話をした。話題はもちろん泰樹のことであり、嗣治が今の生活に慣れるまで、週の半分程度は、泰樹を村田家に預けることにした。村田家にいるときは、泰樹は学校まで電車で通わないといけないのだが、元々電車に乗るのが好きだったし、今日は午前中、義父が村田家のある西鎌倉から学校がある東戸塚まで連れて行ったらしく、泰樹自身も祖父母の家から通うことに不安は感じてないようだったと義父が教えてくれた。
話がまとまり、嗣治が泰樹を呼ぶと喜んでやって来たが、やはり一人で母親のいなくなったマンションの一室にいるときより、表情が明るい。
嗣治は、家に帰る途中の電車の中で、泰樹に、おじいちゃんとおばあちゃんの家は楽しいかと尋ねた。すると、泰樹は笑顔になって、家で起きたことや学校まで散歩した道中起こったことを話してくれた。
「でもね、マンションでテレビを見たり、ゲームをしたりしているのも楽しいよ。」
嗣治は、帰って一緒にゲームするか、と答えた。すると、泰樹は嬉しそうにはしゃぎ、電車の周囲の人たちも微笑ましく、その光景を眺めている。
本当に優しい子だ。嗣治は、泰樹の嬉しそうな顔を見て、しみじみとそう思った。

次の日、嗣治は、出社した後、以前からお世話になっていて、今は人事課にいる清瀬課長に相談に行った。彼には、父や姉のことは以前相談していたので知っており、妻の葬儀にも参列してくれていた。相変わらずの紳士的な態度に、嗣治は恐縮するばかりで、課長は現状の説明も黙って頷きながら聞いてくれた。
「今、息子に逆に気を遣わせていて、申し訳なくて。本当は、泰樹に自分のことに集中してほしいんです。」
その言葉を受けて、課長は、ある提案をしてくれた。


「本当に行かないと行けないのかね。」
清瀬課長から提案を受けたロンドン出向について、嗣治は、会社からの業務命令で、既に決定しているものだと、事実をゆがめて義父に伝えた。義父は、嗣治の無責任さを問うような感じで、最初は詰め寄って来たが、社内での決定事項だから仕方が無いこと、ロンドンに行けば、さすがに姉は連絡してこないし、姉は村田家の場所は知らないこと、また、マンションでの泰樹の様子を話して、泰樹自身が自分のことに集中できる環境が必要であることを伝えると、少しは納得してくれたようであった。本当は、ロンドン出向は希望者が行くものなので、嗣治は嘘をついたことになるが、それは必要な嘘だと自分に言い聞かせた。
そして、翌年の1月、時期外れではあったが、嗣治は、英国の協力会社に出向するためにロンドンへと飛び立った。このとき既に、泰樹は、祖父母の家から学校に通うようになっていた。
旅客機の窓の外に広がる空港の日常を眺めつつ、嗣治は思う。自分は逃げたかったのだと。自分の姉だけでなく、亡くなった嫁の家族、そして、血のつながっていない息子から。
そんな断絶の願いを叶えるかのように、飛行機は滑走路を加速し、やがて大空へと飛び立ち、嗣治と彼の思い出が横たわる日本の大地とを切り離した。

嗣治が渡英してから、4年数ヶ月後となる4月、中学1年生になったばかりの泰樹がロンドンにやって来た。嗣治は、最初、2年ほどで帰国すると義父には伝えていたが、帰っても自分の居場所は、村田家、そして日本には無いと考え、会社に頼んで出向期間を延ばしてもらっていたのだった。会社としても、近年、海外出向に行きたがる社員は、嗣治のような中堅のポストになると、まずおらず、助かっているようであったので難なく延長が認められていたのだった。
ヒースロー空港に到着した泰樹は、6年生の夏休みのときにあったときよりも、さらに背丈が伸びており、日本人の平均身長より少し高いくらいの嗣治は、息子に追い越されはしないかと、少しヒヤヒヤする。
2人は、ロンドン市内に向かうため、空港で名物の2階建てバスに乗ることにし、その間、ぎこちない会話を繰り返した。
「そういえば、母さんの友だちという人が来て。」
見晴らしのいい2階席に座り、バスが出発してから、泰樹が、ポツリポツリと話す。
「なぜか、2人で客間で話をすることになったのだけど、そのときに『自分が泰樹君の父親なんだ』とか言い始めて。」
嗣治は、黙って聞いていた。というより、頭が真っ白になって何も言うことができなかった。
「でも、その1ヶ月くらい前に、じいちゃんから経緯を聞かされてたんだ。父さんの家族のことや俺の出生のことも。だから、何も驚かなかったし、その人には『僕の父親はロンドンにいますけど。』と伝えたら、『そうだよな。』と苦笑いしながら言ってたよ。どうやら、彼は、じいちゃんが俺に経緯を話したのを知ってたみたいだね。」
「お前は、それでよかったのか。」
嗣治は、力を振り絞って聞いてみる。だが、泰樹は、ひょうきんな感じで、
「何言ってんの。本当のことじゃん。父さんがロンドンにいるって。すごいよ。ロンドンで仕事してるなんて普通の人ではできないよ。」
泰樹は誇らしげにしてくれる。嗣治は「泰樹もできるようになるよ」と、月並みなことしか言えない。
「そうだ、これを渡しておかないと。」
出てきたのは、腕時計だった。俺が持っているドイツ製の腕時計の新しいモデルのようだった。
「好きな形かな、と思って。」
どうやら義父がお金を出してくれたらしい。結局、いろんな人に気を遣わせている自分が申し訳なかった。
「泰樹、時間があってないぞ。」
嗣治は明るく努めようとして、些細なことを泰樹に聞いてみる。
「あってるよ。」
泰樹は、ふてくされた感じで言う。
「それ、日本時間だよ。向こうは今ちょうど、午後9時なんだ。じいちゃんたちは、寝てる頃かな。」
気まずくは無い、ちょっとした沈黙が流れる。
「それを着けて、帰って来てよ。待ってるからさ。」
泰樹の力強い声に、嗣治は声が出ず、ただ頷くしか無かった。
泣きそうになっている情けない顔を見られまいと、嗣治は泰樹とは反対の方向の景色を見る。バスは、バッキンガム宮殿やセント・ジェームズパークを通り過ぎ、ちょうどビッグベンがあるウエストミンスター橋のあたりに差し掛かっていたが、嗣治の目には、その有名な時計台の文字盤がぼやけてしか見えず、その周囲に広がる街並も、スーラの点描画のようにしか見えなかった。そのような幻想的な風景に包まれていると、嗣治は、何だか夏帆がどこか近くにいるような気がして、心の中で「許してくれ。そして、ありがとう」と呟いた。
泰樹が会いに来た翌月の5月、嗣治は、彼の部門を取り仕切っているシニアマネージャーのジェームズに、ホームパーティーに誘われ、彼の別荘があるウェールズ地方へと足を運んだ。周囲を湖と緑に囲まれ、所々に古城の跡がみられる環境は、まるで指輪物語の世界に入り込んだような感じがして、都会の喧噪で疲れた嗣治にとっては嬉しいひとときだった。
別荘に着くと早速、ジェームズが出迎えてくれ、宿泊場所として、彼の所有する木造のコテージを案内してくれた。彼が言うには、既に同僚の何人かは到着しているらしい。
嗣治が、案内された部屋に入ると、その部屋の奥にある出窓が全開になっており、そこから、新緑の木々を吹き抜けて森の香りをまとった、爽やかな風が入り込む。そして、その風は五線譜となって、鳥のさえずりをも一緒に運んできて、その爽やかな雰囲気に包まれた嗣治は、心地よい初夏を感じた。
「こっちに来てごらん。」
ジェームズに呼ばれて、開け放たれた出窓の近くに行ってみると、窓の左下にある、屋根の少し出っ張っている部分に鳥の巣ができていた。そこでは、お腹をすかせた雛鳥たちが、ピィピィと鳴いて、親の帰りを待ちわびている。
「これは、ツグミさ。おっ、向こうの樹の方をごらん。親鳥が帰ってきたぞ。」
なんだか興奮しているジェームズが指差した先には、親鳥が力強く飛んできており、親鳥は巣に降り立つと、雛たちの口に自分の中で消化した餌を入れてやっていた。まだ羽毛が少しだけ生えてきただけの雛鳥が親から餌を懸命にもらおうとする姿と、それに応えようとする親鳥の姿は、見ていて微笑ましいものがあった。そして、嬉しそうにじっと鳥たちを見つめている嗣治の肩を、ジェームズが軽く叩く。
「これを使って、あの樹の枝の分岐しているあたりを見てごらん。」
差し出された双眼鏡を使って、庭先にある樹の、ジェームズが指したあたりを見てみると、そこにも鳥の巣があった。
「倍率を高くすれば、向こうの雛も見えるはずだ。どうだ。こっちよりも大きいだろう。」
ジェームズのいう通り、向こうにいる雛は巣からはみ出しそうなほど大きく、ツグミの2、3倍はあるように思われた。そこにも、親鳥と思われるツグミが飛んできて、雛に餌を与えている。
「あれは、カッコーだ。ツグミの巣を借りて、育っているのさ。」
嗣治は、双眼鏡の倍率を高くして、眺め続けた。自分とは姿形が全く異なるカッコーの雛に、ツグミは、こちらの巣と変わらず、懸命に餌を与えている。その姿には、何らかの迷いのようなものは感じられず、むしろ信頼関係があるように見えた。
「あれも親子なんですか。」
嗣治が、困惑した表情で聞くと、ジェームズは不思議そうな顔をして、
「親が子を、自分の時間を使って、せっせと育てているんだ。当然、親子さ。」
と力強く言い、嗣治の顔を見て、微笑みながら、
「君もそろそろ日本に帰らないとな。」
嗣治は、なぜ、自分がここに呼ばれたのか、ようやく理解した。ジェームズも、嗣治が自分の意図に気付いたことに満足したのか、階段の方に向かって歩いていき、
「しばらく、バードウォッチングをしていたらいいよ。準備ができたら呼ぶから。」
と言い残して、きしむ階段を降りていってしまった。
部屋に残された嗣治は再び、渡された双眼鏡で、ツグミがカッコーの子どもをせっせと育てているのを見る。あのツグミにとって、カッコーは愛しい子どもであり、彼らは親子なのである。やがて巣立っていくカッコーを見て、ツグミは自分の遺伝子を残せなかったことを嘆きはしないだろう。それよりも、わが子が巣立っていくのを優しく見守るのだろう、と嗣治は、濡れてしまった双眼鏡のレンズを拭きながら思った。
嗣治は、嘘をつき続けなければならないと思っていた。血のつながっていないのも親子だという嘘だ。でも、それを嘘じゃないと思うこともできるのだ。つまり、それが「信じる」ということなのかもしれない。
嗣治は、さらにもう一度、ツグミとカッコーを双眼鏡で覗く。ツグミは懸命に餌を与え、カッコーは嬉しそうにそれを飲み込む。その様子は、どう見ても親子だと嗣治は思った。そう、ツグミとカッコーは、まぎれもない親子なのだ。
そう心の底から思えた嗣治に、はるばる日本から世界を旅してやって来た、柔らかな西風が吹いてきて、優しく彼の肩を抱いた。
【お詫び】
泣ける話を書くのが難しく、悩んでいるうちに規定の2倍もの膨大な量になってしまいました。それでも削ると話が分からなくなってしまう部分もあり、でも、今から一から書くのは難しいので、この状態で載せてしまいました。申し訳ありません。
ホームドラマってことになるのかな。様々な人物の生き様が上手く描けていると思いました^_^
「カッコーの巣の上で」という映画のタイトルが思い浮かびました。
ただ、テーマは異端ではなく、血のつながりなんですね。
もっと父子の関係に比重が置かれていれば、涙がたくさん流れたと思いました。
(ほとんどが主人公とその妻の真実の話でしたので、悲しくはなりましたが)
>>[7]  コメントありがとうございます(^^)
そう言ってもらえると嬉しいです!基本的に、各人物、自分が出逢った人や映画の登場人物などをモデルにして書きました。たとえば、主人公と龍二は、『そして父になる』の福山とリリー・フランキーをイメージしました。
>>[8]  ご指摘ありがとうございます!
おっしゃる通り、キャッチーだと思ったので、タイトルは『カッコーの巣の上で』から拝借しました。

テーマは、血の繋がりで、映画『そして父になる』で考えさせられたので、それについて考えました。
あと、主人公と妻の真実の話を書くことで、嘘をつくことの大切さというか、真実を求めることのおろかさというか、信じることの大切さのようなものを書いたつもりです。ちょうどNHKで、カズオ・イシグロの番組をやっていて、彼が戦後のフランス人の話(フランス人にもナチス協力者がたくさんいたのに、戦後はド・ゴールの号令のもと、みんなレジスタンスとしてナチスと戦ったということになった)を引き合いに出して、社会が崩壊しないように嘘を信じることにした、ということを語っていて、それが面白いなと思ったので、そうしました。

そして、父子の関係があまり描写されてないことに、読み返して気づきました。肉さんのおっしゃる通り、そこにスポットライトを当てれば、泣かせるシーンをたくさん作ることができそうです!母親が死んでから、マンションの部屋で二人がベッドの中とかで話すシーンとかあればよかったのかもですね。
>>[11]  ロクでもない血が流れているどうしようもなさに感情移入いただきありがとうございます! これが一番描きたかった、自分の中で一番悲しいことだと思っているので、伝わったようで良かったです。

ご指摘、その通りだと思います。勉強になります。
同僚のシーンを、そのように使うことは思い付きませんでした。そのような方法を使って、説明的な場面を減らしていけば、読みやすくなりそうですし、もっと物語も自然な感じになりそうな気がします。今後、生かしたいです。ありがとうございます!

気の強い、ちょっと嫌な女性は、経験に基づいて書いているのかもしれません。もっと、おしとやかで、優しい女性を書けるようになりたいです(苦笑)
心理描写が深く、よく考え込まれた作品だな〜と思いました。
嗣治ばかり責められて(義理の家族に)、可哀相……と思っていたところに、「財布でしょ」と突っ放してくれる同僚の亀梨さんがいてよかったです。

一読したときについてたコメントまで見たときには、「血のつながり→前の夫と妻の間の子供とのつながり」なのかと思っていましたが、妻の実家(と)のつながり、嗣治の実家とのつながり……といった全部が血のつながりというテーマに沿って書かれた作品だったのですね。
個人的には「ロクでもない血が流れているどうしようもなさ」がわからないせいか、嗣治が実父に向ける目の冷たさにはちょっと悲しくなりました。
泰樹とのこれからがハッピーな方向にオープンエンディングしてるだけに、血がつながっている家族とは?と(お父さん亡くなってますが。でもどうにもならない関係性というのがどうしようもなさ、ってことなんですかね?)。

そういう点も含めて、文芸部部会で発表する作品……ではありますが、読書会で話し合える作品、話し合うのにピッタリな作品だと思いました。
コメントか遅くなり、ごめんなさい。
たくさんの登場人物がいる割には、ちゃんと人間関係がわかり、各人物のキャラクターもすぐに入ってきたため、まずはその点に技術力の高さを感じました。

また、このような作品を書けるほど、多くの文学作品を読み込んでいらしたり、人を観察しておられるのだろうなと思いました。
字数制限の前ではもっと削らざるを得ないかもしれませんが、私は、思いきって4万〜10万字ぐらいの作品にされてもいいのではないかと思います。

とても面白い作品をありがとうございました。

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