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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第五回テーマ たかーき作「宝物」

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朝。
陽射しが差し込んできた。
いつからだろう、朝の陽射しを、辛い一日の始まりとしか捉えなくなったのは。

7月が終わった。
何も、変わらなかった。
8月も、もう2日になる。この先も、暑い夏が終わるとか、寒い冬が来るとか言った事はどうでもよく、
「ずっとこんな日が続く」気がした。
もうすぐ12歳の誕生日を迎えるというのに、心はずっと曇天だ。

晴子は、この恭子の家の居候だ。
幼いながらずっと家の中で炊事、洗濯、掃除の日々。
誰もが、我慢をしなさいと教えられていた。
我慢するのが当たり前。欲しい物は無くて当たり前。皆そうして生きるが当たり前。
学校でも家でも、辛い仕事をしている。いつかきっと、こんな日々が終わるのを信じて。

夜は地獄だ。
街灯は付いていないし、家の中にも光はほとんどない。電灯は光が外に漏れないよう、側面を暗く塗られ、下に僅かな明かりが落ちるようになっているだけ。
その日も夜がやって来た。
晴子の苦痛は増す一方だ。
とても薄い明かり僅かな雑穀米に僅かな魚。
しかし、他に比べ晴子のは心なしか、更に量が少なかった。

少しでも誰かが優しくしてくれたなら。
晴子もきっと報われたに違いない。

「晴子さん?」
抑揚のない声で、恭子の母が、晴子に語りかける。
感情を押さえ込む事に慣れた晴子も、その声の持つ威圧感には耐えられなかった。
「は…はい」
晴子は、自分でも震えているのがわかった。
「あなたのご飯、他の人より多いわね。あなたが盛ったのよね?」女主人の声は乾ききっていた。
晴子にはそうは思えなかった。
「申し訳ありません」でも晴子は何も言い返せず、ただ女主人の言う事を聞くしかなかった。
「皆、我慢しているのよ。悪いけどやり直して頂戴」
「母さん。お腹すいたわ」娘の恭子は、晴子の目を見ず言った。

こんな夜は、早く終わってほしい。
夜は朝の陽射しを待ちわびた。

しかし、いざ陽射しに当たると、やはり辛い一日が始まったとしか思えない。
3日、今日も学校に行き、家でも苦しい仕事が続いた。
今日はサツマイモが採れなかった。今晩は昨日より食事も少ないだろう。
空腹のまま、その日も夜になった。


ほんの3年前、晴子は6人家族で平凡に暮らしていた。
3年前、歳の離れた一番上の兄が、船で戦場に向かった。それ以来音沙汰はない。
「大丈夫。必ず生きて帰ってくるよ」
晴子達は、片時も長男のことが忘れられなかった。それ以来、ただいまをずっと待ちわびている。

1年半前、年の近い二人の兄もまた、この街を去った。
次男は、軍需工場で働くため。
そのすぐ後、三男は、疎開といって田舎の離島に旅立った。
家には、母と父と晴子が残された。

末子の晴子は唯一の女の子だった。
今はモンペしか着られないけど、母には、晴子に着て貰いたい物があった。
それは、母が大切にしている一着の和服だ。
それは誰が見ても、非常に美しい物で、高級生地である事が分かった。
おそらく大変に高価だ。取り立てて目立った柄がある訳でないのに、模様も色遣いも実に洗練されていた。
そこはかとない、しかし凛として強い美しさが確かにあった。

贅沢のできない時局の中、決して着れないが、母はこれを、将来の晴子の宝物と考えていた。
空襲警報が鳴ると、そのかさ張る着物もわざわざ持って避難した。
ある日、晴子を元気づけるため、夜暗い家の中で、母はその着物を着て見せた事がある。
晴子は、毎日の苦しさにその着物の美しさを重ね、自分も何があってもその着物のように強く美しくありたいと思った。
「この着物は晴子にあげる。大きくなったら、きっと私より素敵にこれを着てね」

しかし、やがて両親すら晴子のもとを離れる事になった。
建物疎開と言って、空襲を避けるため民家が強制的に取り壊されたのだ。
補償などなかった。路頭に迷った三人は、家々を何日も回って頭を下げた。
そのうち何とか晴子だけは、晴子の友人、恭子の家に預かって貰う運びとなった。
食べ物もままならない中預かって貰う精一杯の礼として、母が恭子の両親に差し出したのは、晴子のために大切にしておいた、あの着物だった。

晴子には、母と父がどこで生き延びているのかわからない。
戦場の長男の事も気掛りだった。
晴子は本当に一人になった。
でも「私だけ辛い訳じゃない。優しい恭ちゃんの家に引き取って貰えた。私は体が弱いから甘えているだけだ」
だから、空腹のまま家で厳しい作業をし倒れかけても、何度もあの不快な空襲警報に叩き起こされても、絶対泣くもんかと思った。
あの恭子たちの家族に渡した着物も、返されないと決まった訳ではなかった。
恭子にも、あの着物が晴子にとって宝物だと知っていた。戦争が終わったら返して貰うんだ。晴子に残された、それが最後の希望だった。

…そんな晴子の回想を、恭子の声が妨げた。
「晴ちゃん。ごめん。あなたの分はもうないわ」
僅かなお菓子を平らげ、恭子は晴子に謝った。
「ううん。いいの。私はお世話になっているから」
「ごめんね」謝罪の言葉は、日を追うごとに形式的になった。


辛い時、晴子は、ある事を思い出す。

5年前、記憶は晴子の脳裏にずっと焼き付いていた。
その都市には、大きな洋風の建物があり、川の畔に聳える姿は幼い晴子の憧れだった。
すでに戦争は始まっていたが、一度だけ、母とあの洋館に行ける事になった。
その日洋館では、お菓子のお披露目の催し物があったが、その合間に日本舞踊のイベントがあった。
おかっぱ頭の小さな晴子の記憶に刻まれたのは、それを舞う美しい女性の姿だった。
扇を手に舞うその姿を、晴子は記憶にずっと留めている。
洋風建築の中で、その東洋の美である着物の色彩が映えた。

恭子と初めて知り合ったのはその日だ。
共に親子で洋館の催し物に来ていて、偶々隣の席にいたのが、晴子と同じ年の恭子だった。
恭子の家は、洋館の近くに位置していた。
恭子は晴子とその日行動を共にし、日舞も手をつないで一緒に見入った。
私たちもいつか、一緒に立派な着物を着て踊ろう。幼い二人は誓い合った。

思い出は、晴子がその宝物の着物に触れる度、強くなっていった。
だが、今その着物は、恭子の家に厄介になる時、礼として渡されてしまった。
それでも恭子は言ってくれた。
「母さん。これは、晴ちゃんにとって大事な物だから、戦争が終わったらきっと晴ちゃんに返してあげて。晴ちゃんが大きくなったら、この着物を着て、あの建物で踊るんだからね」

でも晴子が居候になる事は、恭子たちの貴重な食料を食いつぶす事を意味した。
恭子は、晴子に段々冷たくなった。

(晴子はいつしか、毎晩空想に浸るようになっていた。
あの洋館の中。
そこにいるのは大人になった晴子だ。
一杯お菓子を頂いている。家族もみんな一緒だ。
やがて本日の出し物と称し、日舞のお披露目の時間になる。
「おや、晴子がいないぞ?」と家族が気づく。
舞台を見ると、なんと着物を着て舞っているのが、晴子なのだ。
とびきり素敵なあの宝物の着物で、扇を持って舞う姿。
その笑顔は、会場中を幸せにする。きっと新聞記者が沢山取材に来るに違いない。
母や家族、恭子は、その様子を見て彼女がこんなに立派になった事を喜ぶ。
晴子は思う。夢が叶ったんだと)


朝。
また夜が明け陽射しは差し込んだ。
今日は少し気分がいい。昨夜のあの洋館での空想に元気を貰った。
最近、ちょっと疲れていたんだ。今日は頑張ろう。

だが、その昼、事件が起きた。
家事を晴子に任せていた恭子が、奥から「晴ちゃん」と、声をかけてきた。
その姿を振り返って、晴子は思わず、言葉を失った。

まだ晴子と同様背丈の低い恭子が、晴子すら着た事のなかった、あの和服を着ていたのだ。
「晴ちゃん。私の着物初めて着てみたの。ブカブカだけど、似合うかなあ?」
私の着物、恭子はそう呼んだ。
紛れもなく、晴子が大人になったら着る、宝物の着物だ。

「恭ちゃん!どうしてそれを?」
「だって、私のだもの。母さんが着付けしてくれたよ。でも、全然ブカブカだね」
「恭ちゃん…それは私の、私のだって確かに言ってくれたよね…?」
晴子は、か細い震え声を上げ恭子に訴えた。
「これは晴ちゃんに食べ物をあげるお礼として貰った筈よ。晴ちゃんには別の着物をあげる」
「だって、また奨励館でその着物を着て踊ってねって、言ってくれたじゃない」
奨励館とは、あの洋館の名だ。
「それは、戦争が終わったら、ってお話でしょ。でも戦争は終わらないじゃない。だからもう、こっそり着ちゃうの。人に見られないようにね。晴ちゃんだけに特別に見せてあげているんだからね!」
そういうと恭子は、とびきり明るく笑ってみせた。
「そんな事ない…戦争は終わるから、恭子ちゃんやめて」
しかし恭子は、それには答えずに、
「そうだ!これ母さんから、晴ちゃんにって。うちの大事な物だけどあげる。一日早いけど、お誕生日祝いよ」
そう言って一着の別の着物を取り出し、晴子に渡した。

それはある意味、立派な着物だったかもしれない。
しかし、晴子は何も言葉にできなかった。

大きな日の丸を背景に、沢山の日本の戦闘機が敵艦隊を爆撃している絵柄の着物だった。


夜の闇を一体、何日経験しただろう。
酷い空腹と、突然鳴るかもしれない空襲警報に怯えながら、今日も寝なければならない。
そういえば、明日は誕生日であることを思い出した。でも、だから何だというのだ。
明日も嫌な陽射しが差し込む。また辛い一日が始まる。

「戦場の兄さんに比べれば、私なんて…」

いつもなら、あの奨励館の空想をする所だ。
しかし、晴子はあの心地よい世界にもう入れなかった。

奨励館の入り口は封鎖されている。
中から、晴子の着物を誰かがこっちを睨む。
恭子だ。
その恭子と一緒に、晴子の家族もいる。全員、灰色の肌をしていて、目付きは死んだ魚のよう。
晴子は締め出されたのだ。
「お前がもっと頑張らないからだ。
欲しがりません、勝つまでは。贅沢は敵だ。」
みんなが、目でそう言っているのが聞こえた。

とうとう自分の空想の世界すら居場所を無くした。
絶望的な空腹、誰も彼もに見捨てられそうな孤独。魂が遠ざかっていく感じ。
晴子は今、自分にはもう何も残されていない事に気付いた。
今日は空腹がひどい。もう頭も回らない。


「…晴子。」
何者かが、晴子を呼ぶ声がした。
とうとう幻聴が聞こえてきたのか。
「大丈夫かい?晴子。」
その声は何度も晴子の耳元でささやく。
晴子は自分がもう、おかしくなってしまうのだと思った。

…いや?
その声は、確かに聞こえた。この夜中に、晴子の傍に、その声はした。

「…兄さん?」
晴子は言った。しかし、そんな筈はない、とも思った。
「晴子。」
その声は、しかし間違いなく、長男だった。呉の港から戦場に飛び立ち、消息のない兄の声だ。
「兄さんなの?」
晴子は暗闇の中、目を開けた。
その時、晴子は思わず息を飲んだ。

白い光に全身を包まれ、穏やかな笑顔を浮かべた、凛々しい兄の姿がそこにあったのだ。
晴子が薄い掛布団から頭をあげると、彼は晴子の足元に立って、まぶしい光を放っていた。
晴子を見るとにこりと微笑する彼は、旅立っていった時と同じ服のままだ。

言葉の出ない彼女に、その光は、言った。
「ごめんな、帰りが遅くなって。みんなに心配かけて」
名状しがたい恐ろしさと飛び上がりたい程の喜びで、混乱しながら晴子は尋ねた。
「兄さんなんで…ここに?」
兄は答えた。
「明日は、お前の誕生日じゃないか。お前の顔を見たくなったんだ。母さんや父さんとも別々になって、寂しかっただろう?」
それは、本当に兄としか思えなかった。
「ほ、本当に兄さんなの?なんで、そんな姿を…。
兄さんは幽霊になってしまったの?
絶対に返ってくるって、ただいまを待ってたのに、兄さんは…命を…」
「俺は今、魂だけここに来たんだ。お前にお誕生日のお祝いをしようと思って。
晴子…ただいま。」

兄がそう言った時、希望を信じて耐え続けてきた、晴子の細い糸がプツリと切れた。
その瞬間、晴子の中にあった名前のない感情は、全て悲しみに変わり涙となって止めどなく溢れた。
「晴子」
兄は、晴子を抱きしめた。それは確かに抱かれている感触があった。兄の感触として、肌から伝わってきた。
しかし、その兄の姿は、晴子以外の誰にも見えていなかった。
「もう…嫌。戦争は嫌。」
晴子は、兄の姿をした光に震える声を絞り出した。
「辛かったよね、晴子」
そう言われると、自分よりもっと辛かっただろう兄を思い、弱音を吐いちゃいけないと思った。しかし感情は抑えると余計に溢れ、もう止めることができなかった。

「もう…何も考えたくない。死にたい」
「晴子。死にたいなんて言うな」
長男は晴子を抱きしめながら言った。

「晴子。俺が、晴子が望んでいる物を見せてやるよ」
その兄の姿をした光は、晴子に優しくそう語りかけた。
「…どういう事?」
「明日は、お前の誕生日だろう?お前に、素晴らしい物を見せてやる」
と、兄は優しく笑った。
「そんなことが、できるの?」
「できるさ。ほんの短い間なら」
「でも兄さん」と晴子は言った。
「もう要らない。兄さんは死んでしまったんでしょう?母さんも父さんもいないの。あの着物ももう私の物じゃない。何も残ってない。もう何も要らない!」
「晴子そうじゃない」と長男は言った。「全部、見せてあげるって言ってるんだ」
「どういう事?」と、晴子は問いかけた。

「まあ、見ててご覧」
そう言うと、彼は、光そのものになった。
光は晴子を包み、その夜の闇を包んだ。
「!?」晴子は呆気にとられた。一体何が、どうなっているのだろう?世界がぐるぐると回っている。


目を覚ますと、朝の日差しが突然入ってきた。
晴子の視界がパッと明るくなる。
夢を見ていたの?
いきなり何が起こったのか、わからなかった。夕べのことは全部、夢だったのか。
太陽が明るい。
なんだろう?陽射しとはこんなにも綺麗な物だったか。

「晴ちゃん、晴ちゃん!」
そう叫びながら寝室に、恭子が入ってきた。
「聞いた?戦争は終わったんだよ」

晴子は、急いでラジオの前に駆けだした。
臨時ニュースの音が、大きく鳴り響いている。
それは、わかりやすい言葉で語られていた。
実は今月の2日から、停戦が進んでおり、本日昭和20年8月5日、正式に戦争をやめるという合意に至ったというものだ。
各国は、疲弊した日本のために食料支援、復興支援などを快く協力する、という。
出征していた部隊は既に、日本に向かって帰還を進めているという。

ドンドンドン。
そこに突然、玄関の扉をたたく音が聞こえた。
晴子はハッとした。何度も聞きなれた音は、大きさやリズムだけでもわかる。
晴子は、それが母が扉をたたく音だという事をすぐ察した。
「母さん!」
真っ先に玄関に飛び出した。ガラガラと、扉を開けると両親がそこにいた。
「母さん!父さん!」
晴子は母と父に抱きついた。
二人の外見は、非常に汚らしい姿になって、衰弱しているようだったが、表情は元気で心から喜んでくれているのが分かった。

家を失ってから、どこに住んでいたのか。晴子たちには心配をかけまいとしたのか、何も言わなかった。

まさか橋の下で生活を?
晴子は、自分だけをここに預けてくれた両親の思いを、今更のように感じ取った。二人だけに大変な苦労を押し付けたんだ、と自分に責任を感じた。
「大丈夫よ晴子。今まで寂しかったでしょう。本当に良かった。お前が今日、無事に12歳を迎えられて」
晴子はもう何も考えられずに、泣きじゃくってしまった。
「晴子は強いな、よく頑張った」晴子を父も慰めた。

二人は、どこから持ってきたのだろう、紙袋に、結構な量の缶詰と、アメリカのお菓子を持っていた。
なんでもそれは、今まで敵だった筈のアメリカ兵たちが、物資不足の日本に配慮して帰還兵たちに缶詰とお菓子を大量にくれた、というのだ。
今、呉の港にたくさんの船が帰還してきていて、その食料があちこちで配られているのだ、という。

更に休む間もなく、川の方から、あの聳え立つ洋館、奨励館を尻目に、こちらに歩いてくる3人の若者たちがいた。
それを見て叫んだのは、恭子だった。
「あ、兄さん!」
一人は、恭子の兄だった。疎開先からずっと帰ってこれなかったが、戦争が終わってやっと戻ってきたのだ。
恭子は全速力で走り寄っていった。

晴子は、恭子の兄の隣にいた二人を見た。
「あっ、兄さん!」
晴子も、同じ言葉を発した。そう、それは疎開していた次男と三男だった。
恭子のお兄さんと一緒に、帰ってきたのだ。おそらくは、そこに晴子達もいるという噂を、聞いていたのだろう。

「晴子!良かったあ!」
次男、三男も、晴子と抱擁を交わした。
「兄さん。みんなでまた会えるなんて、本当に…」
晴子の目からまた涙が溢れ、言葉が続かなくなった。
その日、学童疎開から帰ってきた大勢の子供たちが、家族との再開を喜んでいた。
三男は、手にさつまいもを持っていた。疎開先で栽培した物だという。

恭子の家族が、晴子の家族一同をもてなした。
皆、手に結構な量の食料を持って帰ってきたので、その日は晴子たちは、久しぶりにご馳走にありつけた。
恭子の家族と、晴子の家族は、沢山食べ、一同で笑いあった。
次男と三男は疎開先の苦労話を、晴子と恭子はこの家での暮らしについて、面白そうに話をした。まるで今までの苦しみが、家族が再開する日のために取っておいた、笑い話の種でしかなかったかのように。
お菓子もたくさん食べた。それは奨励館であの日食べたお菓子に似ていた。戦争が厳しさを増す前の、最後にした贅沢の味。
こんな贅沢、してもいいのかな。晴子は心配になるほどだった。
「ねえ。晴ちゃん」
恭子が、晴子に話しかけてきた。
「…このお菓子、まるであの時の奨励館で食べたお菓子みたいよね!」
「うん。私も、今同じ事を思ってた!」晴子は、恭子の事を見て言った。久しぶりに、気持ちが通じた気がした。
「晴ちゃん。このお菓子も美味しそうだから、一緒に食べよう」
そう言うと恭子は、自らの分は少なめに、晴子の分が明らかに多くなるように、分けてくれた。
「晴ちゃん」
恭子の眼には、涙が溢れていた。
「今まで、本当にごめんね。食べ物が少ないからって、私…」

涙ぐむ恭子を晴子は抱きしめた。
「恭子ちゃん。いいの。私にずっとご飯を食べさせてくれて。私を今日まで生かしてくれて。本当にありがとう」

昼を過ぎ、皆が空腹を十分に満たした頃、晴子達はかつて自分たちの取り壊された家があった場所に行くことにした。

そこは更地だった。
戦争が終わり、改めてその姿を見るとまた泣いてしまうのでは、とも思っていた。
だが、行ってみると少し涙は出たが、絶望的な気分にはならなかった。
「日本中で空襲があった。でも、ここは空襲で焼かれたわけじゃない」
「戦争には負けても、私たちやこの街は、戦争の苦しさには勝ったんだ」
晴子達は、もう一度ここに我が家を再建できるのはいつかと前向きに話し出した。
遠い先かもしれないし、別の場所かもしれない、でもいつか家を建てるんだ。

「ここに兄さんがいてくれたら…」
次男が、長男を想って言った。
唯一帰れなかった長男を想い、誰もが沈黙した。しかし晴子は、それでもなお寂しくなかった。
昨日、兄さんに会えたんだもの。抱きしめて貰ったんだもの。皆にはその事は言わなかった。


(「晴子。今日は思い切り喜んでくれ。俺にできるのは、それだけだ」)


その夜は、恭子たちの家に全員が泊めて貰う事になった。
灯火管制も解除されたから、明かりを煌々と付け思い切り談笑した。
「晴ちゃん」
そこへ恭子が、こっそり晴子に着物を渡した。あの厳めしい絵が描いてある物ではない。
晴子の宝物の着物だ。
「それは、恭ちゃんのだから…」
と晴子は、冷静な声で言った。
「いいえ。これは晴ちゃんのよ!」恭子はそれをはねのけた。「晴ちゃんの宝物。約束通り返すよ」
「晴子さん。皆さんお待ちかねよ」
と、恭子の母が優しく促した。
その意図は明らかだった。今日、晴子がこの着物を着なさいという事だ。

皆が談笑し、語らっている部屋に、恥ずかしそうに晴子は現れた。

「晴子!」
その姿を見た母は叫んだ。
「本当に似合っているわ!」
母はその姿を見て涙を流した。
「大きくなったなあ、晴子!もうちょっとでピッタリになるぞ」
父、次男、三男もその姿を見て称えてくれた。
「晴ちゃん。素敵よ」
恭子は、その姿を見て心から晴子を褒めた。

12歳の体にはブカブカで、丈は合っていなかったけれど、
晴子は、あの宝物の着物を立派に着ていた。
一同は、代わる代わるそんな晴子を抱きしめた。
「晴ちゃん。お誕生日おめでとう!」

戦争が終わり、できなかったことができる。
私たちは生き残ったんだ。
晴子も無事に12歳の今日を迎え、この着物も空襲などで焼けなかった。
街も、無事に残った。そしてみんなと再会できたんだ!
この着物も、初めて着た。
こんな最高の誕生日になるなんて、思ってもみなかった。

「大人になったら、きっと、あそこでこの着物を披露しよう」
晴子は未来を夢見た。そして窓からのぞく奨励館の姿を見た。

(そこに何故か、一機のB29がまだ飛んでいた。
けれど、もう空襲の心配はないと思った。戦争は、終わったんだから)

夜、一家はずっと楽しく話した。
だが流石に全身を長い日々の疲れが覆い、今日で戦争が終わったのだという安堵から、明かりをつけたまま、すっかり寝てしまった。晴子も着物を大事にたたみ、寝床についていた。
明日からの素晴らしい日々を感じて。

明日の陽射しは、きっと綺麗だろう。

「…晴子」
長男の姿をした光は、寝静まった寝室に現れ、夢を見ている晴子に語りかけた。
言葉が届いているのかはわからない。

「人に、調子のいい時と、悪い時もあるように、人間全体にも、そういうリズムがある。
今の時代は、ちょっと、悪い時なのかもな。
生まれてくる時代は選べない。
その中で最大限人は幸せになる事はできるけど、大きな流れには、飲まれてしまうんだと思う」

晴子は、相変わらず幸せそうな寝顔を浮かべている。

「戦争は簡単には終わらない。
俺たちは逆らえない。
だからせめて、晴子の誕生日だけでも、幸せにしてあげたかった。
ごめんな。
最後にみんなで会えて、本当に良かった。
晴子、誕生日おめでとう」

兄の姿は消えてなくなり、付け放しの明かりが、フッと消えた。
家族揃って寝ていた筈の暗闇の中には、晴子一人だけがいた。


(晴子は、まだ夢を見ていた。
それが、最後の夢となった。

あの洋館、産業奨励館の中だ。
そこには大人になった晴子の姿。
今日は、家族や恭子たちだけではなく、街中から多くの人が集まった。
その日、産業奨励館ではある催し物が開かれていて、晴子はその催し物の会長になっていた。
その夢では、戦争中に奇跡的に大きな空襲を受けなかった晴子達の住む街、広島市は、平和の素晴らしさを明るく、前向きに世界に発信する「希望の都市」となっており、産業奨励館は、その希望の象徴、という事になっていた。
その夢では、晴子の誕生日8月5日が、終戦記念日だった。自分の誕生日が、こんな重大な日に当たったことに、晴子は使命のようなものを感じていた。
「敗戦の屈辱に負けず、この広島から日本の繁栄を願う」それがその会の趣旨だ。

夢の最後は、広島中の人を前に産業奨励館で、日本舞踊を舞う晴子の姿。
晴子は、この日のために練習した、とっておきの舞を踊った。
それはかつて晴子が見た美しい日本女性の舞を越えていた。
あらゆる絶望を乗り越え、希望を捨てなかった晴子のそれは、力強くも、完璧な美しさだった。
勿論、着ているのはあの着物だ。
なぜならそれは、子供時代の晴子と共に苦しい戦争を生き抜いた、宝物だから…)


8月6日。
晴子は夢から覚めた。
落ちてきたのは、一日遅れの誕生日祝いだったのだろうか。

晴子は、強い強い陽射しに包まれた。

(終)

コメント(20)

初投稿です。よろしくお願いします。
お題通り「陽射し、和服、広島」をテーマに書きましたが、時間をかけて書いたためギリギリになりました。

頑張って、文章的にわかりにくいところとかは無くしたつもりですが、どうでしょうか。わかりにくいところとかあれば仰って下さい。

読み返してみたら、なんか結局この長男は何がやりたかったのか?もうちょっといい使い方無かったのか?という感じになっちゃったのが反省点でした。

全体の要旨は、
要は夢とか希望が見える展開にしておいて、最後の最後に結局、それすらあらがえないほど強大でどうしようもないエネルギーに、私たちは飲み込まれてしまうという不条理。
そこまでどうしようもないほど巨大な不条理こそが戦争なんだっていう事を書きたかったのかなという感じです。

あと、もちろん右でも左でも政治的な意図はありません。戦争は怖いなーってだけです。

息を詰めて最後まで一気に読みました。
ごくごく些細な描写の改善点はある気もしますが、特に分かりにくいと感じた箇所はありませんでした。
全体的に抑制が効いていて、続きを読みたくなる文章でした。

善悪ではなく、窮すれば鈍し、倉廩実ちて則ち礼節を知る、そんな当たり前な人間の様を感じました。

三つのテーマの使いどころがとても丁寧で巧いな、と感じます。
着物は辛い現実を生き抜く唯一の心の支えとして分かりやすく、また、夢と現実の対比も良かったです。
舞台が広島市であることを最後まで明かさなかった仕掛けも効果的だったと思います。
この物語を読むと、産業奨励館に対し「原爆ドーム」と名づけるのは、実にセンスのないネーミングだな、と思いました。

そして、なんといっても「朝の日射し」が作品全体を貫き繰り返し登場するのが見事でした。
辛い一日の象徴でしかなかった日射しが、暖かな希望の日射しに変わり、最後は鮮烈で残酷なモノへと変わる…。

「なんか結局この長男は何がやりたかったのか」とありますが、弱い個人の力では抗いようもない運命を前に、せめても「望む全部を見せ」、幸福な夢の中で全てを終わらせてあげたい。晴子の兄がなしたのは、そんな悲しいほどにささやか過ぎる願いだったのかな、と僕は感じました。
わかりにくいところはありませんでした。
展開もテンポよく、読みやすいです。恭子やその母の嫌な感じも着物を通して、描かれているなど希望⇔絶望の構造の仕掛けもわかりやすかったです。
建物疎開などのリアリティのある言葉選びも、世界観を出していると思います。

テーマ3つを自然と盛り込んだ上に、戦時中の史実もねじ曲げないで書いてあり、今回は、堅実な作品だと思いました。

8月5日に見た夢には、晴子の切ない願望が詰まっていますが、その夢の中を描くことによって、
夢が幸せであればある程、つらい現実を強調させています。

その、現実と夢の中の対比も凄く上手でした。


>>[2] ありがとうございます。
恭子との関係は、結構書きやすかった気がします。といっても自分は男なので、女の子同士の人間関係ってこんな感じで大体あってるのか?というのは書いてるといつも悩みます(笑)
「陽射し」の使い方は悩んだんですが、色々考えてみて、この形に落ち着きました。

ラストの想像が付いたとすれば読んでいてつまらなかったですよね。
何があればよかったんだろう?ちょっと考えてみます。
>>[3] お褒め頂き、ありがとうございます。
文章自体が稚拙な気は自分でもしています。あと段落を区切って小説っぽくするのではなく、私は箇条書きのように短文短文で区切ってしまうのも癖なので、直した方がいいのかなと思っています。
あとは全体的に、後半はダレて推敲がおろそかになったかもしれません。

おっしゃって頂いたように、広島を最後まで明かさなかったのは狙っていました。
ただ今回はテーマが広島って最初に決まっていますから意味ないかもしれませんが(笑)
あと、洋館が実は「原爆ドーム」なんだってことも、最後に気づいてもらえればいいなという思いで書きました。
産業奨励館って何?と思った読者がググってみたら、実は原爆ドームでした、というのがわかって、そういう事だったのか!なんていう風になればいいかなと思っていました。

長男につきましては、わざわざ原爆投下の前日だけ力を発揮するんだったら、(どうせ霊で何でもできそうだから)原爆自体無かったことにしたり、せめて6日に原爆落ちるから逃げろとアドバイスするとかすればいいんじゃ?
という、現実的な突込みが入る気がしまして。
で、「晴子の誕生日が8月5日」という設定も、そこの矛盾を無くすために土壇場で付け加えました。

>>[4] ありがとうございます。
テンポがよかったと言っていただくのはうれしいです。
そうですね、希望と絶望を交互に繰り返しています。どうせなら最後は希望で終わりたかったですが・・・。

今回初めて投稿なので、色々勉強してから書きました。
>>[6] ありがとうございます。
私はいつも空想的な小説を身勝手に書くので、戦時中の話を書くとか、適当なこと書いたら問題にされるのではないかと、勉強して書こうとは思いました。特にいい加減なことは書いてなかったでしょうか?
現実との対比が上手いと言っていただけるのは嬉しいです。
いいですね。
三題噺として本当にうまく三つとも使われていて、すべて代替不可能なものになっています。

一文が短いのと、会話文が続いてしまうのはいつもは私としてはうん? と思っていますが、Mixiの横文字だと行間を空けることもあって読みやすいですね。
内容はとても好みです。いや、好みとも違うんですが、この突き飛ばされ方というのはすごく好きです。私は途中で『無理矢理なハッピーエンド』を作り出そうとしているのかと思い込み、そこは興ざめでしたが、ラストでもってかれました。
このお話にはこれしかラストはないでしょうね。求めていたストーリーの展開がきたことがすごく嬉しいです。

ただ、これはあくまでも私見ですが、戦時中の日常ってそんなに悲惨なことばかりだったのかな、という思いもあるんですよね。あまりにも悲惨な部分ばかり注目されすぎているような気がします。後世からみたらわからない部分かもしれませんが、もっと戦時中の楽しい日常があってもいいのかなと思います。
これはたかーきさんの作品のみならず、日本の戦争を扱った作品のほとんどに言えますが。
>>[11]
ありがとうございます。
三題噺として上手く収まったのは、自分ではまぐれと思っています。
「陽射し」をどう使うかは、書いていったらたまたまこの形に収まった感じです。

文章の書き方は、はっきり言って稚拙なものが多いと思います。
一文を短く箇条書きのように書くのは前からの癖で、mixiでばかり作品を書いてきたせいだと思います。それは以前は、「俺はこういう作風なんだ!」と言い張って逃げていました(笑)
ただ、人に「小説」を書いてます、と自称するからにはそういう部分も直した方がいいのかなって思っております。

結局はこれしかラストはないんですよね。私もそう思います。
最初は本当に8月5日に終戦するっていう、「歴史のIF」みたいのを書いてハッピーエンドにしようと思っていましたが、
「結局あらがえずに無念のまま亡くなりました」という風に書くのが筋ってもんだろ、と思いました。
(何をもって「筋」だと思ったかは自分でも整理できてないのですが)

私がこの話を悲惨な話にしたのは、単にそういう話が好きだからっていう事かもしれません。
私の勝手な都合で、悲惨にしたということは認めます(笑)

「過去にはこんな大変なことがあったんだ」という物語を持っていた方が、「だから私たちは頑張ろう」と思えるとか、そういう意味で都合のいい部分があると思います。で、その「大変な過去」の代表格として、第二次大戦(ないし他の戦争)の歴史を、いわば利用しているっていう部分はあるかもしれません。
もしかしたら、そうやって無理に「大変な時代」に塗り替えられてしまって、実際それほどでもなかったと思う方々にとっては、いい迷惑だ、ということもあるかもしれないとは思っています。

実際農村とかでは、「気づいたら戦争終わってた」という方もいらっしゃるそうですし、
大変な思いしながら生活してても、なんだかんだ言っても笑う時は笑うっていう人間の当たり前のことはしていると思いますし、
「あえて戦時中を舞台にコミカルな話を書く」でも全然不可能じゃないとも思いますし。
>>[12] ありがとうございます。
お褒め頂いて嬉しいです。
最終的にこういう終わり方にしよう、と思って書いていました。
小説全体のリズムとしては、ラスト手前で晴子に良い思いをさせてやってからのドカン、と思っていました。
ですので、8月5日の誕生日の描写は、ちょっとやりすぎなくらいハッピーに描いてしまおうという魂胆でしたね。
「そこまでしといて結局原爆落ちるのかよ」っていう突込みが入りそうなくらいが、ちょうどいいと思ったんです。

広島を最後まで明かさないで、物語を進めたかったので、
登場人物には広島弁を喋らせることができませんでした(笑)

笑うことは一切ありませんでしたが、すーっと引き込まれてしまいました。

「気づいたら読み終えていた」と言っても過言ではないほどです。

あれ、8月15日の間違えじゃないかな?と思いきや・・・
「点と点が線つながる感覚」とはこのことかと思いました。

「幸福は主観でしかない」ことを最大限いかした最高の誕生日プレゼントだったのだろうと思いました。

たかーきさんの今後の作品にとっても期待しております。(*^^*)
文芸部では、はじめましてですね。
よろしくお願いします。読み手専門のしかだです。

私は数行で原爆の話だと察しました。読み進むうちに出てきた単語で結末が想定でき、それが確信となった瞬間は辛かったです。読み終わってしばらくは吐きそうになりました。

やっぱりそうだよな、という結末ですが、もう少し救いがあっても良かったのかな…。
>>[15]
昨日はありがとうございました。
また作品を発表させていただくので、その際はお読みいただければ幸いです。

この話は、おっしゃる通り、展開が途中でわかってしまう事は事実だと思いますが、
その上でこうやって評価していただけるのはとても嬉しいです。
もし、三題話のテーマを伏せて読んでいただいたら、展開は途中で分かるのかどうか、気になるところです。

文章の技巧でまだまだ上手ではないところはあるかと思いますが、
引き込まれるように読んでいただいたというのはとても嬉しいですね!
「悲劇の予兆があるからこそ推進力がある」という様な事は私自身、考えたこともなかったので、なるほどと思わせていただきました。
>>[16]
昨日はありがとうございました。
点と点が繋がりましたか?そう言っていただくと、狙い通りに書けたというのが嬉しくなりました。

期待していただき、とてもプレッシャーを感じます(笑)
>>[17]
昨日はありがとうございました。
確かに救いがないですよね。
私は、戦争や原爆の話を書く以上は、無理に美化して書くのではなく事実に真摯に向き合うしかない、と思いがありました。
実際にこれで亡くなった方も、希望を抱いたり大人になることを夢見て、絶対に前向きに生きよう、と思っていたのに一発の原爆で全てが吹き飛んだ、なんてこともあるでしょうし、そういう残酷な話も全部ありのまま描きたかったため、(このテーマという意味では)この結末しか考えられなかったですね。

確かに、読み手の方の精神的負担を考えると酷、というのもあります^^;

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