半蔵門かきもの倶楽部コミュの「持て余す時間の行方」　テーマ：嘘、電気、高校生

「知ってる？富士見坂って東京に二十ヶ所以上あるんだよ」
僕と同期の大崎静子はその坂道を上りながら、散歩している坂道の話をしていた。仕事の休憩時間にはこうして二人で散歩するのが日課となっていた。僕達の散歩コースは先日から、港区を離れ、千代田区に入るようになった。彼女は歩く道に関して、そのいわれや関係することを調べて僕に教えてくれる。
「ふじみ？富士山が見えるってこと？全然、見えねーじゃん」
「今では、都内に本当に富士山が見える富士見坂は数カ所しかないんだって。それも本当に晴れた日で空気も澄んでないと駄目だって話よ。すごいでしょ？」
「お前の知識はすごいけど、ここから見えないのは残念だな」
「千代田区の富士見坂は三つ。でも、そのどれからも富士山は望めないそうよ」
参議院議長公邸を右手にして赤坂見附から伸びる坂道を上りながら僕と大崎は永田町方面へと足を伸ばす。四月になって暖かい日が続いていたが、今日は少し風があり涼しい。僕は上ってきた道を振り返る。僕達二人以外に坂を上る人はいなかった。
「田中って二時からミーティングだっけ？」
僕は大崎の方へ顔を向ける。身長は僕より、少し低いくらいだった。ヒールを履くと同じくらいになる。百六十センチはあるだろう。顔は美形だった。同期百人の中でも、人気女子数名に数えられる。でも、僕はそんな彼女に対して綺麗だとか可愛いだとかという感情を持ったことはなかった。仮に好きになれば、可愛いと漠然と感じる程度だろう。だから、なのだろうか、彼女は僕とよくつるんでくれる。同期で一番、仲がいいのは大崎だった。大崎も田中と一番仲がいいと公言している。でも、僕は大崎に言い寄らない。それが彼女にとってはいいのかもしれない。ニュートラルに接してくる僕が新鮮で、信用も置けるのだろう。
「そうだね。今日はミーティングがあるから、永田町とか国会とかは今度攻めよう」
　スマホで時間を確認するとミーティングまであと三十分だった。僕達は急いで会社に戻る。四月に入ったばかりだったがもうほとんど桜は散って、花弁が側道の端に溜まっていた。桜が日常に溶け込んでいない、会社付近では見られない光景だ。同僚達は一日中、オフィスにこもり、道一本隔てた向こうにこういう世界があることを知らないに違いない。会社のほとんどの人間が赤坂近辺で昼食を摂る。昼食後に散歩と行っても、赤坂界隈にあるスターバックスまで足を伸ばすくらいだろう。道路を隔てた隣の区に入る社員など皆無に等しいはずだ。まして僕達は坂道を下りたり、上ったりするのだ。以前は千代田区とは反対方向の港区側で散歩することが多かった。しかし、それも最近では飽きてきていた。だから大崎が趣向を変えようと言ったのだ。そして僕達は先日から千代田区側に足を運んでいる。
「明日から、あっちの方へ行ってみようよ」
そんな大崎の一言に特に異存はなかった。僕達の散歩に目的地はない。僕はただ、外の空気が吸えればそれで良かった。

「田中、お前、休憩時間を何分とってんだ」
急いで戻ったつもりだったが、マネージャーの永島さんから怒られた。ミーティングの時間には間に合っているものの、直前までいない僕に業を煮やして待っていたという。
「すいません。時間を見誤りました。以後気をつけます」
「って何回も聞いてるよ、そのセリフ。お前何年目だよ。新人だってこんなことしねえよ？舐めてんのか。もう新年度は始まってんだよ。気合入れ直せ」
今日の永島さんは機嫌が悪い。恐らく忙しくて、昼食の時間を取れなかったのだ。だから休憩時間を充分過ぎるほど満喫していた僕が疎ましいに違いない。本人だって煙草休憩と称してよく席を外しているにも関わらず、僕が時間いっぱい休憩時間をとることが許せないのだろうか。
「まあいい。もう行くぞ。会議室は”アンペア”だ」
ノートパソコンの画面をたたみ、永島さんが会議室に向かった。僕もその後ろを付いていく。入社五年目になるが、入社当時は会議室の名前によく驚かされた。新興企業、中でもインターネット系の企業では会議室にお洒落な名前を冠しているところが少なくない。アメリカの国立公園からとったり、神話の世界の登場人物からとったりとバラエティに富む。僕の会社に関して言えば創業者の社長が大学で電気工学を学んでいた関係で、電気の単位が部屋の名称に設定されていた。今向かっているアンペアの他に、ボルトやワット、クーロン、ジュール、オームやファラドといった部屋があった。最近、上のフロアに新設された会議室名はジーメンスという名前らしい。確か大崎が教えてくれたが、物知りの彼女は当然、それら全ての単位の意味を知っていた。会議室に入りノートパソコンを開くと大崎からチャットがきていた。
「永島さん、キレてたね。ドンマイ」
「いやになっちゃうよ。サボってるわけでもないのにさ」
適当にチャットをしながら会議の進行を聞いていた。永島さんには僕が議事でも取っているように映っていることだろう。永島さんの方を見ると、その背後の大きな窓の向こうに広がる都会の空が気になった。今日は晴れていた。もっと遠くまで散歩したいという欲求がミーティング中だったが僕を支配していく。
「じゃあこの案件に関してはうちのチームでやります。リーダーは田中でいこうと思います」
突然、会議室に自分の名前が響く。永島さんがこちらを見ていた。周囲の人間も皆こちらに視線を向ける。僕は会議に集中していなかったせいで、状況がうまく飲み込めていなかった。ただ、会議は永島さんのその一言で終わりを告げたようだ。皆が席を立つ。そして最後に部屋を出る永島さんが僕のところにやってきた。
「田中、お前、学生向けの新規コンテンツの企画書作れ」
僕は椅子に座ったまま、永島さんを見つめた。急すぎて状況が飲み込めていない。
「マーケティングはすでに進行中だ。確か、お前の同期がやってたぞ。すげー美人なやつな。向こうのマネージャーとも話は付いてるから、明日にでも俺とお前とその美人と向こうのマネージャーの佐々木さんでミーティングを入れといてくれ。詳しくはその時な。じゃあ俺飯行ってくるから」
「わかりました」
僕の返事を聞いてか、聞かずか、言いたことだけ言い終えると、永島さんは会議室から出て行った。僕は立ち上がり、窓の方へ向かった。取り残された部屋でただ一人、ビルの外へ目を向け、広い東京の街並みと下界を行き交う車を眺めて息をついた。先ほどの散歩コースはここからではうまく見えないが、すぐにでもそのコースの続きを歩きたかった。
　自席に戻ると、僕は大崎にチャットを送った。先ほどのミーティングのことを伝えるためだ。ただ、一瞬気になることがあり、キーボードを打つ手を止めて、永島さんの席に目をやった。席にはいなかった。永島さんはよく、気配もなく、僕の後ろに立ち、画面を盗み見する。チャットばかりして、サボるなと小言を言ってくる。食事に行くとは言っていたが、念のため部署の人間の予定が集約されているウェブスケジュールを見てみた。永島さんはさっきの会議の後は、外出の予定になっていた。恐らく遅めの昼食を摂ってから商談相手のところに出向くのだろう。そのまま直帰で、もう今日は顔を合わせることはない。
「なあ、田中。コンビニ行こうよ。あたし杏仁食べたい」
大崎からチャットが来ていた。その誘いに乗らない手はない。僕も小腹が空いていたし、甘いものが欲しかった。
「じゃあ下のロビーのいつものとこで、五分後ね」
このビルには他の会社もたくさん入っている。そのためロビーは来客など、多数の人でごった返していた。僕達は互いを見つけやすいように、一階ロビーに飾られている巨大絵画の下を集合場所にしていた。大崎はまだ来ていなかった。背後の絵画を大崎が来るまで眺めて待つ。ロビーの喧騒を背にし、絵と対峙する。いつもぼんやりとは眺めていたが、なかなか圧倒される絵だった。美術館にでも行かなければお目にかかれないような巨大なキャンバスの下に題名が記された白いプレートがあった。そこには虚構と現実と書かれていた。作者は外国人だったが全く知らない。一九世紀の人物らしい。赤と黒で二人の女性が描かれている。芸術の心得がない僕だったが、大崎ならば何か知っているかもしれなかった。
「お待たせ、田中」
「ねえ大崎、この絵って有名なの？」
「なになに、藪から棒に。この絵自体が有名かどうかはわからないけど、この絵をここに飾った人物ならわかるよ」
「誰なの？まさか大崎とか？」
「そんなわけないでしょ。このビルのオーナーよ。こっちに書いてあるわ”神田武彦”寄贈って」
確かこの会社が入っているビルにも神田という文字が入っていた。その神田氏が美術品の蒐集家でこの絵を自分のビルのロビーに飾っているらしい。
「神田一族が所有するビルのロビーには大体、絵が飾ってあるの。このビルにはこの絵。私達はウソを作り出して、インターネット上で売るのが商売だから、そのエールとしては上出来なんじゃない。そんなことよりさ、杏仁買いに行こうよ」
大崎の説明を聞いて僕は納得した。僕も嘘を秘めて生きている。だからきっとこの絵に吸い込まれるように見入ったに違いなかった。
「何、深刻そうな顔してるのよ。どのコンビニに行く？」
「そうだな。もう永島さんいないから、少しサボっても大丈夫だから座れるところにしよう」
　イートインスペースが用意されているコンビニは貴重だった。会社に戻らずして、休憩できるからだ。会社のリフレッシュルームはそのネーミングとは裏腹に全く気分転換にならなかった。社員が絶えず行き来する上、すぐに声を掛けられる。その点、外のコンビニではそのような問題はなかった。都会のオアシスとはまさにコンビニのイートインスペースのことだと思う。僕達は時間があるのをいいことに、会社のビル向かいにあるコンビニには行かず、あえて遠くのコンビニに来た。山王神社前の交差点を渡り、プルデンシャルタワー横の坂道を上る。上った先には日比谷高校があり、下校する高校生達とすれ違う。何が面白いのか大笑いしながら彼らは坂を下っていく。僕にも彼らのような青春時代があったのだろうがそれは遠い昔のことだった。当時、すれ違うサラリーマンをいちいち気にも留めなかった。今の僕はスーツを着ていないので、高校生から見ればひょっとすると大学生とかにしか見えないかもしれない。それでも彼らの視界に入ったところで僕のことなど記憶にすら残らないだろう。路傍の石のような存在でしかないのだ。コンビニに着いて、大崎は杏仁豆腐を、僕はティラミスを買った。イートインスペースに座り、先ほどチャットで流れてしまった話題に移る。大崎がずっと話し、僕は聞き役に徹した。買ったティラミスにはまだ手を付けていなかった。
「ねえ、高校生を対象にマーケティングするらしいの。でね、高校生を社内に呼んでヒアリングするんだってさ」
仕事の話題も大崎となら気楽にできた。
「とりあえず明日、ミーティングだけはセットしといたよ」
「ありがと。その時に詳細は話すと思うけど、もうすでにマーケティング援助の会社の選定は済んでいて、どういう要件で、ヒアリング対象を集めるかが明日の話し合いの中心になると思うわ。ねえ、そのティラミス一口くれない？」
大崎は杏仁豆腐を食べていたスプーンで僕が買ったティラミスをすくい取った。僕は大崎の話をずっと聞いているだけで、まだティラミスには手を付けていなかった。茶色い部分が抜き去られ、ティラミスの白い部分が露わになる。僕は大崎が広げた穴をさらに拡大するように食べ始めた。

「今日のランチはどうする？」
出社してすぐに大崎からチャットが入った。永島さんと佐々木さんとのミーティングは十四時からだった。それまでには戻っていたい。スケジュールを見るために、ウェブブラウザからスケジュールページを出そうとアクセスする。その時、間髪入れず、大崎からチャットがくる。チャットが来ると、画面上のアイコンが明滅するようになっていて、それが連続するあたり、彼女がいかに楽しみにしているかがよくわかる。もちろん彼女が楽しみにしているのは散歩の方である。
「散歩しなきゃ会社に来てる意味ないしね。十四時までに戻るというのも大事だけど、散歩できないとその後のミーティングで私は本来の力を出せないよ」
今日は十四時の予定まで何の予定も入っていなかった。大崎のスケジュールも念のため、調べると僕と同様だった。今すぐにでもランチに出掛けても問題なさそうだ。僕も日々の散歩を楽しみにしていた。充分に歩く時間を確保するには、店に入って食べるよりもコンビニで買って公園なんかで食べるのがいいかもしれない。それを大崎に提案したところ、二つ返事で了解が来た。大崎も同じ考えだったらしい。
「じゃあ、昨日歩けていない方角を目指そうか」
例の如く、一階ロビーに集まり、僕達は昨日の夕方行ったコンビニの方向へ歩を進めた。行き先はそのコンビニの向こう側だ。千代田区の落ち着いた雰囲気は都会であって都会ではない。いわゆる永田町と呼ばれる界隈で、自民党本部などが目立ち、議員会館などもある。少し歩けば霞ヶ関であり、日本の中枢を僕達は散歩コースにしていることになる。プルデンシャルタワー横の坂道を上る。気温は高く二十度前後だった。坂道を上るだけで全身が熱く、僕はシャツの袖をめくって腕まくりをする。この坂を上り切れば日比谷高校があるが、昨日とは時間帯が違う。下校の集団とすれ違うこともないだろう。ところが、高校を過ぎたところで金髪の高校生が僕達を追い越した。
「あいつサボってるのかな？」
「俺もサボったりしてたなあ。だからあんまり気にならないけど。でも、時間的に昼休みなんじゃないの」
僕達の小声の会話が聞こえたのだろうか、前を行くその高校生は後ろを振り返る。僕達を見比べると、すぐに前を向き、歩調を速めて行ってしまった。信号が見えた。赤に変わる前に彼は渡ってしまった。そして、僕達が昼食を買おうとしているコンビニに入っていった。
「あ、あいつ入ったよ」
信号が変わって僕達もコンビニに入った。昼時でかなり混んでいた。高校生はまだ弁当コーナーで何を買うか思案しているようだった。僕達はおにぎりやパンと飲み物を選び、列に並んだ。会計を済ませ、店を出るときもまだその高校生は買うものを決め切れていないようで、腕を組んで真剣に悩んでいた。
「青春だよね。あれも一種の。何を食べるのか長時間考えるっていうさ。田中もああいう感じだったの？」
「確かにあったかもああいう時期。コンビニで弁当とかお菓子とか決めるのに、優柔不断過ぎて結局決められないの」
「今でもその癖直ってないよ。さっきだって私が決めたじゃん？そのおにぎり」
僕が手から提げているコンビニの袋にはおにぎりが三つとお茶のペットボトルが入っていた。おにぎりのうち二つは鮭とツナマヨだが、もう一つの牛しぐれは大崎が選んでくれたものだった。
「あそこに座って食べようか」
コンビニのイートインスペースは混んでいて座れなかったため、外に出てしばらく歩いた。僕が指を指して示したのはビルの外のスペースだった。腰掛けられるようにブロックがいくつか並んでいた。すでに何人かが座り、昼食を摂ったり、スマホをいじったりしている。僕達も彼らにならって同じように座り、昼食を摂った。
「まだ時間的には余裕だね。国会議事堂でも見に行こうか。国会図書館でもいいね」
食べ終えた僕達は散歩のことしか考えていなかった。今日が会社のある一日であることや会社員であるという事実すらも忘れてしまえる瞬間だった。まだまだ社会人に成れきれていない。そういう実感はあったがいつまでもこのような日々を続けていていいのかと時々不安になることもあった。不意に僕はそのような気持ちを大崎にぶつけてみたくなった。
「今を楽しめばいいじゃん。どうせいつかは偉くなって、こうしてサボったりできなくなるって。お互いさ、いつ異動になるかもわからないし、転職するのが普通のご時世なんだから、今のこの環境を謳歌しようよ、田中。さっさと食べて散歩しよ」
楽天的な大崎といると救われる気持ちになる。大崎にも言っていない自分の本心があるということに罪悪感を覚えた。
「田中、あそこにさっきの高校生がいる。昼ごはんをここで食べるのか。何か変だね」
散歩に向かおうとビルの合間を抜けているとき、そこで休憩を過ごす人々に混ざって先ほどの高校生がいるのが見えた。弁当を黙々と食べ、時々スマホをいじっている。金髪の彼がこの空間にいるのが変だった。周りはスーツの大人達ばかりだったが彼だけは制服を着てしかも金髪だ。異様な雰囲気があった。またも、彼は僕達の方を見た。そして目があった気がした。
「やば、聞こえてんのかな、この距離で。さっきより離れてるけど」
「たまたまよ。さっもう行こうよ田中。時間なくなっちゃう」
帰りは首相公邸横の坂道を下り、溜池山王方面から赤坂へ戻った。警察車両が多く、人通りが少ない。高層ビルは多いのに人が少ないので東京にしてそこは都会の様相とは異なった。警護に当たる警察官は横を通り過ぎる僕達を一顧だにしない。
「首相公邸と官邸の違い知ってる？」
「え、いっしょじゃないの？」
「違うんだな。これが」
「教えてくれないのかよ」
「たまには田中も自分で調べなよ。会議って場所どこだっけ？」
「確かボルトだよ」
「ほんと、しびれる名前にしてくれちゃってさ。直感的に何階だかわかんないよね。普通、階名に連番とかじゃない？」
大崎の憤りはごもっともだ。僕達はこの後も脈絡のない会話を続けながら、会社へと急いだ。赤坂に戻るとその喧騒は都会そのもので、やはり僕には不釣合いだと思った。
　今日は文句を言われないように早めに会議室に入った。永島さんは前の時間もミーティングだったため、ほぼ予定時刻ちょうどにやってきた。
「すいません、ぎりぎりになって」
永島さんが大崎の上長である佐々木さんに詫びる。佐々木さんは笑顔で返し、会議を開始した。永島さんと僕がいるのが第一セクションと呼ばれる課で主にモバイルコンテンツの企画業務を担っていた。大崎がいるのが第二セクションと呼ばれる課でマーケティング業務を担っていた。その長がそれぞれ永島さんと佐々木さんだった。その上にはいわゆる部であるモバイルビジネス事業部があった。会社にはその他にも事業部があったが、僕や大崎は入社時からこの部にいて他は知らなかった。永島さんはもともと他の部の人間だったという。
「田中くんをプロジェクトマネージャーに据えるということでいいんですよね永島さん？」
「はい、もちろんです。こいつは舐めたやつですが、まあ仕事はきっちりこなすので問題ないかと」
僕抜きで話が進んでいく感は否めないが、何かを任せてもらえるのはこの僕でも嬉しかった。暇があればサボったり、休憩時間も人より多めに取ったりと、怠惰に過ごしつつも与えられた仕事があればそつなくこなす。評価されたいわけではない。それは僕の性格のなせる技なのかもしれない。
「じゃあ、企画の調整やシステム開発部との配信連携は任せたよ。続いて、マーケの話を僕の方からします」
そう言うと佐々木さんはノートパソコンに室内のディスプレイモニタのコードをつないで資料を映しだした。
「今回の案件用にマーケティング会社を使って高校生を集めて、市場調査をしようと考えています。そこで田中くんと大崎さんに高校生のアテンドをお願いしたいんだ。この中では一番二人が高校生に年齢が近いしね。と言っても二人もおじさん、おばさんかもね。彼らから見たら」
「田中、可愛い女子高生がいても手を出すなよ」
「永島さんじゃないんだから出しませんよ」
その後も佐々木さんからの説明が続いた。終わり際になって、資料をメールで送ってくれることになった。
「私から送るわ。ヒアリングの日程も候補日を書いておくから」
結局メールは大崎が送ってくれることになり、そこで会議はお開きとなった。僕と大崎は残りの時間、その会議室で詳細を話し合った。
「今送ったメール開いてくれる？」
大崎が送ってくれたメールを開く。田中さん、と普段決して呼ばない敬称付きの宛名に僕は笑ってしまう。ただ、僕の笑みに大崎は気づかない。すっかり大崎が仕事モードなので僕も切り替えて大崎に倣う。
「場所はうちでやるのか。来週火曜の午後三時から五時までね。なるほど。でも意外と少ないな、来る人。もっとたくさん来るのかと思った。五人なんだな」
大崎は資料をディスプレイに映した。そこには参加予定者のプロフィールが出ていた。
「いいよね。この子たち、こういうアルバイトで簡単にお金もらえるんだから。私もこんな楽なのあるんだったらやっとけば良かった」
「俺達が子供の時はインターネットも今ほど普及していなかったし、スマホもないしさ無理じゃない」
「田中はほんと夢も希望もないことしか言わないんだから」

　次の週になった。僕は以前から温めていた若年層向けのデジタルコンテンツを企画書に起こしていた。そこに高校生受けしそうなエッセンスを入れる。ただ、これでは完全に主観でしかないので、実際に高校生にこの企画書と実物のコンテンツを見てもらう。
「田中、大変。欠席者が出たって連絡があったよ」
大崎からチャットがきた。すかさず僕は返事をする。
「マーケティング会社の方で補充してくれるんじゃないの？」
「とりあえず田中、コンビニ行こうよ。杏仁が食べたい」
この日、ランチの後は大雨で散歩を断念していた。だが、夕方になって雨は止んだ。散歩したいという欲求が僕達二人の原動力だった。いつものロビーで待ち合わせることにした。僕は先に着いたので、巨大な絵画を見ながら大崎を待った。虚実をテーマにしたこの絵に僕は惹かれている。大崎が言っていたように僕達の仕事は、インターネット上にデジタルでコンテンツを生み出し、売ることだ。現実には存在しないものを売るのだ。だから虚像であると大崎は言いたいのだろう。僕はその虚を作り出す人間なのだ。そして僕自身も自分を騙して働いている。本当は会社にいたくなかった。ただ、大崎との散歩や他愛の無い会話にほだされて、今日まで働いているだけだった。
「おい、田中。なんか暗いよ」
「ちょっと絵を見ながら、考えてたんだ。雨が止んで良かったな散歩できるし」
「そういえば、この絵撤去されるかもしれないんだって。総務にいる同期に聞いたんだけどね」
「まじで、何で？」
大崎が好きな杏仁豆腐の置いてあるコンビニに向けて、僕達は歩き出した。夕方唐突に止んだ雨のせいで通行人は皆、傘を持って歩いていた。気楽にも手ぶらなのは僕達だけだった。仮に雨が降れば戻ればいいし、走ってコンビニで傘を買っても良かった。
「何でもね、オーナーが引退するんだって。オーナーは今、代表取締役社長なんだけど、代表権の無い会長になるのね。で、実権を握るのが、現在専務の息子さん。つまり実質的なオーナーはその次期社長になるわけ」
「なんだよただの世代交代じゃないか。どの会社にもあるし」
「所有ビルの調度品の中にはレンタル品も多いらしいの。それで、そのレンタル契約を経費削減の名のもとに次期社長は全て切ろうという腹積もりみたい。この絵は現オーナーのコレクションらしいけどこれだけ残すのは変だから、一斉に撤去ってわけ」
「お前は本当に物知りで事情通だな」
「まあね」
あの絵が見られなくなるのは寂しい気がする。ただ僕にはどうしようもできない問題だった。
「ねえ田中。あそこにまた金髪の高校生がいる」
大崎の指差す方を見ると確かにこの前の高校生がいた。今日も一人だった。
「あいつに声かけてみるか。今度のヒアリングに。来てくれるかもしれない」
そう言うと僕は小走りに彼に近づいていった。断られるかもしれない。それでも良かった。今はただ目の前に現れた金髪の高校生の意見が聞いてみたい。彼の手にも傘は無かった。