ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

半蔵門かきもの倶楽部コミュの第120回『TACO(タコ)』チャーリー作(三大噺:梅雨・逮捕・ライム)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 出来心だった、と言うほかに弁解の余地はない。
 今朝、僕は生まれて初めて盗みを働いた。



 通勤ラッシュで混雑する駅でのことだった。
 電車がホームに着き、扉が開いて、乗客たちがぞろぞろ降りていく中、僕は前を歩いていた男のバッグからペットボトルを盗った。
 男は、ウーバーイーツに代用できそうな角ばった大きなリュックサックを背負っていて、側面のポケットにはペットボトルが収まっていた。【ライム】味の炭酸水で、五百ミリリットル入りのそこそこ大きな物だった。中身にはほとんど手をつけておらず、男の歩みに合わせて揺れる水面には、炭酸の気泡が浮かんでいる。
 改札行きのエスカレーターが混み合っているせいで、雑踏の歩行速度は杖をつく老人のそれよりものろい。
 男の真後ろに張り付き、エスカレーターに乗って隙を窺う。アドレナリンが分泌され、ドラマのベタな演出のように心臓の鼓動がはっきり聞こえ、僕は息をすることも忘れていた。男と周囲の人々の一挙手一投足に目を走らせながら、前方のリュックへ注意深く手を伸ばす。ペットボトルのキャップを指で摘まみ、そーっと慎重に、かつ迅速に持ち上げる。するっ、と音もなくボトルはポケットから抜け、指にずっしりした重みが伝わった。
 畑に植わった大根を引き抜くよりも容易い。いとも簡単に盗めてしまった。
 視界に入らない背中のリュックからスッたためか、男はちらとも気づいた様子はない。
 それどころか、僕の横や後ろの人間すら感づいてはいないようだ。
 スリのビギナーズラックとでも言うべきなのだろうか。




 目的を達成して、少しは満足感を覚えるかと思ったものの、早くも僕は後悔し始めていた。
 というより、なぜこんなことをしてしまったのか、我ながら自分の行いがあまりに不可解だった。
 動機がよくわからない。自分でも説明に窮するものを、人に正確に伝えるのはほとんど不可能だ。もちろん、他人の飲みかけのペットボトルが欲しくて盗んだわけではない。
 強いて理由を挙げるなら、「むしゃくしゃしていたから」としか言いようがなかった。




 ここ最近、ずっとイライラが溜まりに溜まっていたのは事実である。
 【梅雨】の不快な湿気。この季節は決まって片頭痛が続く。低気圧のせいらしいが、原因が天気では手の打ちようがなく、頭痛薬を飲んでも効いたためしがない。
 NISAに手を出した翌日に、トランプ関税のせいで株価が急落して大損したこともあった。新卒からコツコツ苦労して貯めた金が、ものの数分で吹っ飛んだ。あと十年くらいで死ぬだろう年寄りのトランプとは違い、三十半ばの僕は平均寿命までまだ半世紀近く残されている。そのためには、今のうちから多少でも貯蓄しなければならない。海の向こうで、世界を意のままに牛耳る王様気取りの老害に、僕は無性に腹が立った。
 仕事や将来の不安からくるストレスも、イライラに拍車をかけていた。出版デビューを目指し、二十代から十年以上小説を書いて文学賞に応募し続けているのに、未だに最終選考に残ったことすらない。
 生活のためと割り切って新卒で入った会社では、去年から中間管理職を任せられるようになり、部下を指導して束ねる役割が期待されている。自分の業務だけに集中してさえいれば良かった二十代と異なり、部下の仕事にまで気を配らなければならないプレッシャーに四六時中心が休まらない。
 小説に費やせる時間は、増える残業時間と反比例するようにどんどん目減りしていく。もう若いとは言えない年齢に差し掛かっているにもかかわらず、ちっとも執筆がはかどらない現状に、言いようのない焦りとやり場のないやきもきした感情が心で渦を巻いていた。


 そんな折、電車で乗り合わせたのが、例のウーバーイーツのリュックを背負った男だった。




 今朝は明け方から土砂降りの雨だったせいで、いつも以上に電車は混んでいた。
 入り口にはなんとか高校と書かれたジャージを着た男子生徒が集団で乗っていて、やむなく僕はドアの前のわずかなスペースで身を縮こまらせていた。
 そこへ、男が乗ってきた。
 背負ったリュックも大きいが、それと釣り合わせたかのように男の図体もデカかった。
 一目見るだけで、男が不摂生な生活を送り、身だしなみに気を使っていないのは明白だった。
 でっぷりと肥えた肥満体に、短パンからはみ出た尻の割れ目。寝ぐせも直さず、無精ひげも剃っていない。生地が変色するくらいTシャツに汗が滲み、しょっちゅう腕や袖で額の汗を拭っている。何日も放置した酢の物のような体臭が車内に漂い、あまりの臭さに僕は鼻をもぎ取りたくなった。
 男の振る舞いも、目に余るものがあった。
 男はリュックを背中に背負ったままだった。人にぶつかっても全く意に介していない様子で、その態度が一層周りを苛立たせた。イヤホンから漏れるカシャカシャした音は周囲に丸聞こえで、何が楽しいのか、時々くくくと腹を震わせて笑った。
 あからさまに、男子生徒たちは肥満男のことをバカにしていた。腐った生ごみを見るような目でじろじろ眺め、嘲笑していた。男の隣に立っていた女性は、強烈な体臭に耐え切れずハンカチで鼻を覆い、後ろの中年男性は電車の揺れでリュックがぶつかるたび、舌打ちを繰り返し、殺気立った目で男を睨みつけた。
 それでも男はちっとも動じなかった。いや、極端なまでに空気が読めていなかったと言ったほうが良いかもしれない。
 生徒たちのからかいも女性の仕草も男性の舌打ちも、男の半径数メートルに醸成された殺伐とした空気にも、まるで気づいていない様子だった。
 自分の存在がどれだけ周囲に煙たがられているか知ろうとせず、スマホに見入って、自分だけの世界に閉じ込もってヘラヘラしていた。
 取り立てて、男が僕に何か迷惑行為を働いたわけではない。
 しかし男の振る舞いは、見ているだけで僕をイラつかせるものがあった。
 男の何もかもが、マナー違反であり非合法であり、悪であるかのように感じられ、男を懲らしめてやりたい気持ちに駆られた。これだけ周りの人々に迷惑をかけているのだから、男が罰せられるのは必然であるというふうにさえ思った。
 ……いや、本当のことを言えば、それは建前かもしれない。
 単に、僕は苛立った感情を誰かにぶつけたかっただけなのかもしれない。
 誰からも歓迎されていない男なら何をしてもかまわないという不純な理由付けのもと、たまたま目についた男に八つ当たりしたかっただけなのだ。




 せっかく男から盗んだペットボトルを、僕は完全に持て余していた。
 いつまでも盗品を手にしたままでは、人を刺し殺した後に血のついたナイフを持って歩くようなものである。しかも被害者は目の前にいて、いつスリに気づいてもおかしくはない。
 隠そうにも、五百ミリリットル入りのペットボトルは、自前の薄っぺらいビジネスバッグにはどう頑張っても入りそうになく、エスカレーターに乗っているからその場に捨てるわけにもいかない。
 今さらながら、後悔の念が恐怖心や焦燥感に変わっていく。
 たかだかペットボトルを盗んだだけでも【お縄になってしまう】ものなのだろうか。それが原因で、最悪の場合、会社を解雇されてしまう可能性はあるのだろうか……。
 そんな後ろ向きな妄想が入道雲のようにとめどなく頭の中に湧き、ペットボトルを持つ手は冷や汗でぐっしょり濡れた。
 このエスカレーターさえ降りてしまえば、あとはバレる心配はない。
 昇った先の改札階は、複数の鉄道が乗り入れるただっ広い空間で、外へ出る出口は二、三か所あるし、トイレもあったはずだ。ゴミ箱があった記憶はないが、証拠隠滅に困っても最悪トイレに放置しておけばいい。
 頭で計算を働かせていると、ふいに目の前の人影が揺れた。
 ぎょっとして顔を上げると、肥満男は並んでいる列から横にそれて、エスカレーターを歩いて昇り始めた。急用でも思い出したのだろうか。
 僕はそっと胸を撫で下ろし、深いため息をついた。宇宙ステーションに滞在していた飛行士が何年かぶりに地球に帰還したかような心地である。男に勘付いた様子は見られなかったから、あとは証拠品さえ処分してしまえば、もうバレる心配はない。
 念のためエスカレーターを降りた先でも、周囲に目を走らせて警戒した。しかし男はもう改札を出て行ったようで、人ごみの中にそれらしい姿は見当たらなかった。
 僕はすっかり安心して、仕事の始業まで時間があることをスマホで確認してからゴミ箱を探そうと歩き出した。
 

 そのときだった。
 ドスン。
 前を見ていなかったせいで、僕はこちらに歩いてきた人物に思い切り体当たりしていた。
 正確には、それは相手が胸に抱えたバッグだったらしい。ごわごわした素材で、妙に角ばっているようだった。
 慌てて相手の顔を見た瞬間、僕は頭が真っ白になった。
 あの肥満男が目の前にいたのだ。
 しかも男の視線は、はっきりと僕が右手に持ったペットボトルをとらえていた。
 言うまでもなく、男はあのウーバーイーツのリュックを前に抱えている。ペットボトルがなくなったことに気づいているのは、もはや自明の理だった。
 サーっという音を立てて、全身の血の気が引いていくような感覚に襲われた。
 肥満男は困惑したような顔で、何かを確かめるように僕とペットボトルを交互に見つめた。
 男の表情を見るうち、相手の心の声が手に取るようにわかる気がした。僕を見る男の視線には、はっきりと疑いの色が混じっていたからだ。彼は僕が盗んだのではないかと疑っているに違いなかった。
 男がペットボトルを指差し、それ、と言いかけたとき、僕はあらぬことを口走っていた。
「落としましたよ」
 男も驚いたようだが、それ以上に驚いたのは他ならぬ僕自身だった。
 親切を装い、さも落とし物を手渡すかのように、僕は平然と男に向けてペットボトルを差し出した。
 平常心であろうと極力努めたはずだったが、情けないことに僕の手はぶるぶると小刻みに震えている。
 この手の震えは何なのだろう。男に盗みがバレて動揺しているのか。はたまた保身のために、とっさについた嘘がバレないか、緊張しているのか。あるいは、その両方か。
 男はあからさまに気味悪がっているような、怪訝な表情を浮かべていた。それだけ僕の言動は挙動不審に映ったに違いない。
 男は僕に煮え切らないような視線を投げかけたまま、差し出したペットボトルを受け取った。その後も何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わずに改札の方へ歩いていった。

 その後ろ姿が、人ごみに紛れて見えなくなっても、僕の手の震えは一向に収まる気配はなかった。




          ***




 この日は一日中、全く仕事が手につかなかった。
 上長とミーティングしていても、部下に業務の指導をしていても、どこか心ここにあらずといった感じで、ずっと白昼夢を見ているかのようだった。
 おかげで大小問わずミスを繰り返し、ちっとも仕事のできない部下から逆に心配され、上司の注意勧告と渋面を何度も拝み、尻拭いのためにいつもの倍、残業をする羽目になった。
 やっと仕事を片付けて家に帰れる段になっても、僕はなんとなく会社に留まってぐずぐずしていた。
 フロアが消灯時間になり、ビルから閉め出されてしまうと、行き場をなくした僕は近くにある公園に向かった。いつも昼休憩はここで取るのが常なのだが、今日はそんな余裕は皆無だった。
 深夜の公園には人影はなく、都会の喧騒が嘘であるかのように静まり返っている。
 ベンチに腰を下ろすと、冷たい感触が尻にじんわり伝わってきた。初めてベンチが濡れていることに気づき、今朝は土砂降りの雨が降っていたことをようやく思い出した。


 あのとき男に対してちゃんと謝るべきだった。
 そんな思いが、今ごろになって頭をぐるぐる巡っている。
 僕は自分を蹴り倒して、思いっきり顔面をブン殴ってやりたい衝動に駆られる。
 冷静になった今だから、そんなふうに殊勝になっているだけかもしれず、いざ同じ状況になったら、小心者で卑怯な僕は同じように嘘をついてしまうのだろう。結局、僕は自分で自分を殴る勇気すらないのだ。
 これまでの人生で、人には褒められないようなことや人を傷つけるようなことを少なからずしでかしてきた。その中でも、群を抜いて今日の振る舞いはいただけなかった。それは、単に窃盗を犯したという犯罪行為だけを指しているのではない。バレないよう証拠を隠滅しようとしたり、明らかにバレているにもかかわらず保身のために嘘を貫き通してしまったことも含めてだ。
 終電を逃してしまい帰る手段もなく、漫然とSNSを眺めていると、トレンドに入った『TACO』という言葉が目に留まった。
 何だろうと思ってタップすると、『Trump Always Chickens Out』という英文の頭文字を取った造語だった。

 Trump Always Chickens Out.
 トランプは、いつもビビってやめる。という意味になるだろうか。

 トランプ関税などと言われ、強気の高関税を課すと豪語するトランプだが、一方で株価や米国債が急落すれば、すぐに関税政策を引っ込めてしまう。自己中心的ワガママ放題に振る舞っているように見えるものの、結局は自分を良く見せたいがためにいきがっているだけ、という皮肉を込めた言葉なんだそうだ。
 リンク先のニュースサイトで意味を知って、僕は思わず吹き出してしまった。
 まるで、今朝の僕の振る舞いを皮肉っているかのようである。
 イライラした感情の赴くまま、悪意のない相手に八つ当たりしようと意気込んだはいいものの、その実、相手にバレたら見苦しい嘘をついて引き下がってしまう。
 客観的に自分を見つめれば見つめるほど、愚かしいにもほどがある。
 ニュース記事によると、トランプは『TACO』がアメリカの金融市場でトレンドになっていることに、ひどくご立腹の様子だった。
 だが「俺はチキン(腰抜け)じゃない」と、顔を真っ赤にして感情的に否定すればするほど、かえってチキンのように見えてしまうのは僕だけだろうか。


 せめて、僕は自分がチキンであることぐらい、素直に認めよう。
 盗みを認めるほどの勇気はないにしても、せめてそれぐらいの勇気は持ち合わせていたい。
 そうでなければ、イライラの原因になったトランプと僕は同類になってしまうだろうから。




<了>




参考文献

米金融市場で「TACO」流行 トランプ氏皮肉る造語
(時事通信)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025060300363&g=int

「そんなことは二度と言うな」ウォール街で広がる造語「TACO」にトランプ氏が不快感
(ロイター)
https://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvC3FAITYCKTNT4IA90RYMEOTDHU/



コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

半蔵門かきもの倶楽部 更新情報

半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。