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歴史雑学コミュの最強軍人

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貴様らが知ってる最強の軍人や、司令官のエピソードを話ましょう。
近代、古代など問わず?また信憑性がうすい逸話程度でもokです。

コメント(29)

>>[1] そんな感じ。
張遼が5000で10万に勝った!とか
アレクサンダー大王が雨の様に降る矢の中を無傷で通過したとか
じゃあ、趙雲にしようかな。

三国志、劉備玄徳の配下だった趙雲のエピソードと言えばやはり長坂橋の逃亡戦。
曹操軍に追われた劉備は民を引き連れて逃亡する。曹操の軍は何万という軍勢。そこでしんがりを務めるのはこれまた万夫不当の張飛翼徳。橋で一喝すると数万の曹軍を震え上がらせたというんだけど、これはまあ置いといて。
その数万の曹軍の中を単騎で駆けた将が一人。それが趙雲子龍。実際は百騎ほど率いていたらしいけど、まあそこはご愛嬌。単騎としておきましょうよ。その方がカッコいいでしょ?

曹操軍数万の中を槍を振り回して突っ込むのには理由があった。劉備の子、阿斗と嫁の甘夫人が逃亡中に居なくなっていたのだ。
それに気付いた趙雲は元来た道を駆ける。後続に続く兵らに聞きながら道を辿る。
いよいよ追い掛ける曹軍を目前に漸く甘夫人と阿斗を発見。
しかし、甘夫人は「私が居ては逃げ切れないでしょう。この子だけでも」と、趙雲へまだ赤子の我が子を預けると自ら井戸の中へ飛び降りて命を断つ。
甘夫人を助けることが叶わなかった趙雲は自分を責めるが、それでも託された次代だけは守らねばと一念発起。
その時既に周囲は曹軍で固められていた。
趙雲は片手に阿斗を抱き、もう片方手には槍を携え、馬の腹を蹴る。幾万の軍勢に雄叫びを上げ、槍を振り回した。
曹操がその光景を高台から見下ろし、「あの者が欲しい。殺さずに捕らえよ」と指示を出すほどの勇猛果敢な猛将ぶり。
不殺(ころさず)の命令もあり、しかも趙雲は槍の名手である。殺さずに捕らえることは至難の技だった。
そうして趙雲は曹軍数万の中を単騎で突破を成し遂げてみせたのだ。

おまけ
趙雲は抱いた阿斗を劉備へ届けることが叶う。
阿斗を手渡した趙雲は「夫人を助けることは叶いませんでした。申し訳御座いません。」と、劉備に涙を溢して報告した。
劉備はそれを受け、抱いた阿斗を憎々し気に睨むと「この童めがっ!」と、天上へ掲げて地面に叩きつけようとする。慌てて周りの家臣が止めて阿斗は二度目の生命の危機を脱した。
劉備曰く。
「嫁や子はいつでも作れる。しかし優れた将は簡単には手に入らないのだ。よくぞ生きて戻った、趙雲よ!」
泣きながらそう言い、劉備は趙雲を強く、強く抱き締めた。
「勿体無き…お言葉…っ」
趙雲の瞳からも滝のように涙が零れたという。


どうよこれ?書き方小説みたいじゃね?
>>[3] 小説でしておきましょうとは書かないw
劉備はわざと見捨てたんだよね。儒教の教えらしい。
まあ大将や有能な部下がが死ぬぐらいなら合理的な考えである。
曹操もカクの謀略にはめられて長男と典韋殺されながらなんとか逃げたよね。しかもそのあとカクを雇って相当役に立ってる。 カクはすごいが、典韋って他になにしたんだろ?
あと大史慈w一騎討ちしたあとどこいったw
豪傑いわれてるくせに全く話にでないぞw
強いわけではないが鳥居強右衛門という
徳川家臣の奥平家に使えていた雑兵の話
奥平家は信玄の死後、徳川に寝返ったことで武田勝頼の怒りを買っていた。
長篠城を守る奥平貞治だったかな。
まあそいつが500で籠城してるのに対して武田勝頼15000で包囲。まあリンチですわな。
しかも兵糧庫を焼かれ絶対絶命。
徳川家に援軍を要請したいが、囲まれすぎてもうマヂ無理って思ってたらこの雑兵の強右衛門が行ってくるわ言い出す。
奥平の殿さんも雑兵に任せていけるんかいな思ったけどどうせもう皆死ぬし、一か八か任そかいうことなった。
ほんで、すねえもん。この包囲をキセキテキニ掻い潜る
んで岡崎城に到着したら家康も信長に援軍頼んでて38000人が2日ぐらいで長篠着くよ〜いわれた。

朗報聞いて帰ってきた強右衛門は武田軍に捕らえられる。
おまはんこの包囲かいくぐったんかいなと勝頼は、家来にする代わりに援軍は来ないと伝えろと強右衛門に言う。援軍くるまえに奥平の士気下げて拠点落とさ不味いからね。
強右衛門は快く承諾

んで、長篠城に向かって
「あと2日もすれば徳川、織田軍が援軍に来る!もうすこしの辛抱だ!」と叫び、長篠城側の士気が一気にあがる。
武田勝頼、激おこで強右衛門をそっこーで磔にして殺しちゃうが、この強右衛門の命懸けの行為により、援軍到着まで落城せず、世に有名な長篠の戦いてま織田、徳川軍は圧勝。重臣のほとんどが討死する大打撃
武田家は滅亡の道を歩むのであった。
>>[4]

え?劉備わざと見捨てたの?(;´д`)
ちょっと、えー…('A`)
趙雲無駄に奮闘www

典韋はまあ、許チョとか捕まえたりしなかったっけ?
あとはほら、死ぬ時が劇的だから。
大史慈はね。まあ、ほら、…あれ?www
>>[6] 力比べしただけじゃなかったっけ?旗立てるやつ。
まあ、大史慈よりは活躍してそうだけど。
いつ死んだのかもわからんし、もしかしたらまだ生きてるんじゃね?
劉備はわざとどころか、馬車を軽くするために突き落としたんだったと思う
>>[8]

突き落とした!?え、マジですか?('A`)
何が仁のご仁だよ(;´д`)
>>[9] しらべたら、馬車が壊れたから見捨てたらしい。
あと13歳ぐらいだった劉備の長男も劉備を庇って殺されてたような…
まあ、自分の命が惜しいというよりは仕事で家庭を省みないタイプなんじゃね?
>>[10]

ああ…あ時代が時代だからね…
でもショックだわぁ('A`)
孫家の娘も気に入らないけどね!
>>[11] さっき書いた13ぐらいの息子はフィクションらしいわw
まあでも、見捨てて逃げたのは本当
まあたしかに手段は選ばんが、あんだけ常時負けまくる武将が討死せず生き残って国を作ったのはすごいことだと思うよ。
>>[12]

うーん、配下に恵まれてたのかな?運が良かっただけ?
>>[13] 日本人なら何回切腹していたことかw
まあ、生き延びることが難しい世界で国を作ったんだし、名将っちゃ名将じゃないかな。
歴史なんか運を掴む方が実力以上に大事なをわじゃない?秀吉や家康も運の部分がでかいし、生き延びて時期を待つのも名将かなと。
>>[14]

なるほどねぇ。
信長なんかは実力派って感じ?
曹操も割と何回も死にそうになってるよね?
帝国陸軍の最強軍人でパッと出るのは小野田さんとfoxと呼ばれた男の栄大尉とちょっと釣りしに行って来ると行って台湾独立を死守した陸軍少将の話かな。
あとで分かる範囲でアップする。
>>[15] 信長も一か八かの戦を抜けてきたから、もちろん運はあるけど、やっぱり三英傑でも一番戦略眼がすごいんじゃないかな。桶狭間の戦いは官渡の戦いにちょっと似てるかもね。
どっちもこの辺りで死んでたらほとんど歴史に残らなかっただろうし、英雄になれるタイミングまで生き延びれたのは運ではあるw
まあ、劉備もたしかに家来はよかったんだろうけど、大国を代表できる名将だろうね。
そのへん一番長く頑張ったのは家康だけど。
>>[16] ほう!第一次すか?
あとで僕も近代の人かこうかな
>>[18]
みんな大東亜戦争の時だよ。
サイパンの大場栄大尉の話にはヤクザ出の一等兵の人も居るけどこの人も凄い。
>>[19] 船坂弘って人もバケモノですねw
>>[20]
船坂弘って初耳!
調べても良いけどせっかくだからアップして(^o^)

俺はまずは小野田さんからアップするよ〜!
舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。戦後は大盛堂書店を開き、代表取締役会長を務めた。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。 その白兵戦におけるあまりの戦果から、個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載っている。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道・射撃の技能に習熟していた。
アンガウルの戦い
アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は、第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで弘は多大な戦果を上げることになる。擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷したといわれる。水際作戦により中隊が壊滅する中、弘は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

3日目には、弘も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやって来た軍医は、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して立ち去って行ったという。

瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。 これについて弘は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。
弘は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。実際、弘の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長、鬼の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった[3]。

しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出していた。弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を図ったが、手榴弾は不発であった。弘は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという[4][5]。
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、弘は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。
弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

その後、数日の捕虜訊問を経て、弘はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ(弘は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし孚虜となっても弘の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している[7][8]。さらに、弘は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F.V.CRENSHAW 、生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。

個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、「船坂軍曹は、激戦ののち重傷、最後に敵将に一矢を報いんとして──中略──三日間意識不明、死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、奇跡的に復員帰国した」とある。
>>[27]
最早、ミステリーの世界だねwww
稀にこういう体質の人が居るらしいけど根性が凄い!
>>[28] もしこの世にドラクエの薬草があったとしても死ぬレベルすよw

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