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ドイツ歌曲コミュの歌い方について

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こんにちは。私はいま趣味で声楽を習っています。

ドイツ歌曲に興味があって歌ってみたいと思っているのですが、歌い方は皆さんどうされているのでしょうか?ベルカントで歌っていますか?それともベルカント?

専門的な勉強をしたことがないので歌い方はどうするべきなのか分からず悩んでいます。

ご存知の方、是非アドバイスいただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

コメント(34)

おだぱん様、はじめまして。

私も趣味で声楽やってました。

で、そのときものの本で読んだのですが、ドイツ式とベルカントでは発声の仕方や息の溜め方がちがうらしいです(基本の発声方法は変わらないとは思いますが)。それというのももともと民族的な体格の違いが影響しており、どちらかというと身長の低いイタリア人は小さいからだからいかにして自然に呼吸にのせて美しい無理のないよく通る声を生み出すかという観点からあの歌い方を定着させ、また、体格の大きいドイツ人については息を吐き出す力が強いので、イメージ上、胸、喉あたりにエネルギーが溜まって重くて深い響きを生み出しているみたいなことを書いてありました。
 日本人の体格については、顔の骨格とかはちょっと無視して、イタリア寄りなのでベルカントのほうが効率よくなめらかな声を出せるとのことです。
 ただ、日本に声楽が入ってきたとき、ドイツ式の教育が先に導入されたため、学校(音楽学校は別かもしれませんが)とかではそんな歌い方も習ったような気がします(ある世代以上の教則本としてコールユーブンゲンの使用率がコンコーネを上回ってた)。歌う前には息を溜めて〜いうて。体の特徴からいえばきっとベルカントの歌い方でいいのではないかと思います。

あとは「イタリア歌曲=うたい」である一方「リート=語り」であるので、歌い流してしまわないように歌詞の内容をある程度分析し、理解したうえで歌うことが必要不可欠かと。発音においては子音をはっきり前にだす、そしてできれば案外発音が難しかったり妙に歌詞をつめこんでたりするのでドイツ語会話とかもよく聞いてみる(某番組でやってますよね)ことが必要かと思います。

私のイメージではイタリア歌曲(おもにアリア)=大技感動系、ドイツ歌曲=小技ジワジワ感動系な感じがしていて、後者のストイック感にかなりはまってます(^^)。

専門家でもないのに知った顔して長くなりました、すみません。きっと専門教育を受けた方がたくさんいらっしゃると思いますので、私もコメント楽しみにしてます。一緒に勉強させてください(笑)。
その人に体格にあった発声法はその人にしかない、というのが僕の信条です。

ドイツにもイタリアにも色々な人がいますから、十把一絡げに語れないと思います。小柄なドイツ人は?長身のイタリア人は?ドイツとイタリアのハーフは?と考えれば自明と思いますが。

歌い方(HowTo)に悩むより、好きな曲を、好きに歌っていくのが良いのではないでしょうか。所詮正解は存在しないのですから。
こんにちは〜!
私も趣味(とは言いたくないケド・・・)声楽を勉強しています。

私もTsuyoshiさんの意見に賛成かな。

発声(というか表現全て)において、正解は無いですよ。間違いはありますケドね(^^;
レッスンを進めながら、自分が何を選択していくかが重要だと思います。選択肢は沢山あります。頭でっかちの凝り固まった発声、表現にならない為には自分を信じることが大切ですよ♪
はじめまして。

誤解かもしれませんが、イタリア・オペラのハイバリトンの音域って、
ドイツリートのテノールの音域のようです。

ワタシは、ベルカントの発声というのが良く分かりません。
イタリアものを本格的に学んだことがありません。

始めた頃から、すぐにドイツ・リートを歌ってましたし、
「これがベルカントだ」と言う先生にもあまり会いませんでした。

それよりも、テノール(ソプラノ)になる発声、
バリトン(メゾ)になる発声というのがあるような気がします。

ワタシは、バスバリトンの声域で始めましたが、
9年間かかって、テノール化しました。

上手くいけば、バリトンもできるのではないかと思っています。
テノール式の発声では、超低音は出ませんが…。

オペラの特定の役などが頭にあるわけではなく、
多くの作品を作曲された「原調」で歌いたいのです。

音域を拡大することは、ワタシには重要です。
追加です。

高音は出るけど低音は出ない人、逆の人。
ファルセットが出る人、出ない人。

いろいろな人がいるみたいです。
個人個人に対する正しい発声は存在すると思います。

声楽の場合、自分の声にあった曲をやるのが良いのかな。
それが、「正解」ではないでしょうか?

好きな曲を好きなように歌うと言うのは、なかなか難しいですね。
多分テノールやバリトンという声部は、音域じゃなくて音色で決まるのじゃないでしょうか。

ベルカントというのは、「良い声」くらいの意味しかない、何の方法論も示していない呼称だと思いますよ。あまりに多くの点で、声を自然に美しく、均一に出すために注意しなくてはならないので、1.ほにゃらら、2.ほねれれ、と、料理のレシピみたいに HowTo が示せないんだと思います。

結局、自分に聞こえてる音も頼りにならないわけで、歌ってる時の身体の感じを体得するしかないという。というわけで、しかるべきトレーナーに聞いて貰って、「もっとこういうイメージで」などとイメージと体感を調節していかないといけません。

そして重要なことは、共鳴腔は最初から発達していない、という点です。
言い替えると、高音を出したことがない人は、高音に使われる共鳴腔が育っていないので、正しいイメージ、息の流れが一瞬できたとしてもきれいに響かないかも知れません。
つまり、共鳴腔を育てつつ、イメージと体感の関係を調整しつつ、そしてそれを覚えつつ、なんてことをやりながら、言葉のニュアンス(母音子音の音価のステージ効果、音楽上の効果)、デュナーミク、アゴーギク、、、、、考えないといけないことがいっぱい。

というわけで、面倒臭いので「ベルカント唱法」と一言で片付けられちゃうんでしょうw

ただ、幸運なことに、言葉に思いを込めたり、音楽の流れに乗ったりすると、多くのことは自動的にできてしまう場合があります。音楽に対する集中力が、実は非常に大事なんだと思います。

とまぁ、偉そうに言っても僕は我流です。
声はプロフから辿れるので、こんなこと言ってるやつが趣味で年に1回ステージでどんな声を出しているかは聞けますw

ちなみに本場では、歌曲を原調で歌うことに何の意味もないようです。むしろ、自分の音域に合わせて転調しないと、なぜ?と思われるようです。
Tsuyoshiさん

> 多分テノールやバリトンという声部は、音域じゃなくて音色で決まるのじゃないでしょうか。

ワタシの場合、テノール音域になる発声とバリトン音域になる発声があります。
多分、音色も変わります。

> ちなみに本場では、歌曲を原調で歌うことに何の意味もないようです。むしろ、自分の音域に合わせて転調しないと、なぜ?と思われるようです。

何の意味もないとは思いません。
不適切な移調は、原曲のイメージを損ねると思います。

プライベートでは、何をしても良いと思いますが、
他人に聴かせるのなら、自分に合った曲を選ぶべきでしょう。

バスバリトンの『水車小屋』は、あまり聴きたくないです。
ま、そうなると好き嫌いの問題ですからねー。^^;

最初 Fritz Wunderlich (テノール)で詩人の恋にはまったのですが、その後、Hans Hotter や Cesare Siepi なんてもろにバス歌手が歌ってるのに出会いましたが、僕はそれほど違和感なく聞けました。全然違う良さですね。

僕の場合、水車小屋も、んー、女声は抜きにしてw(ごめんなさい!>女声の方)、いろんな声部で聴いてみたいですねぇ。

ちなみに今は亡き名バリトン、Hermann Prey が渋谷オーチャードで水車小屋のコンサートをやった時は聴きに行きました。やはり良さがありましたよ。非常に繊細でした。
#セビリアの理髪師で「フィーガロ!ソンクワッ!」(だっけ?)ってやってる姿とは全然違いましたねw
Tsuyoshiさん

バリトン&バス歌手による素晴らしい演奏があることは否定しません。
Shura Gehrmanの英語版『水車小屋』とか。 ← かなりのイロモノ

でも、こういう演奏は「歌手の音楽」であって、
「作曲者の音楽」ではないのかもしれません。

古楽器が好きなので、ハンマーフリューゲルで伴奏した、
シューベルトが聴いてみたいです。

プレガルディエンよりは、ヘフリガーの方が好きです。
ヘフリガーの『冬の旅』、再販されないのかな?

曲の本来の姿(に近いもの)を知ることは重要だと思います。
なるほど。
僕ももともと「原調派」だったので良くわかりますよ。

以下、考えてみると…的な雑談ですから、反論だと思わないで頂けるとありがたいです。つまり、わたにゃんさんの言うことに100%同意しています。

「演奏家」が出てきた、つまり作曲する人と演奏する人が分離し始めたのって、いつくらいでしたっけ?
きっとその時代以降の作曲家は、自分で演奏する以外の局面を想定してるでしょうね。

でも作曲家も馬鹿じゃないから自分が死ぬことも知ってるし、死んで後もその曲が残って欲しいと思っていたはずだから、ということは、本人以外が演奏することを真に願っていたでしょうね。そして音楽が人それぞれ違うこともわかっていたでしょう。ということは、自分の意図したとおりに演奏されないことも認めていたのではないかと考えられませんかね。

プッチーニの楽譜には事細かに指示があるとか、昔の作曲家のにはないとか、作曲家によってどの程度自分の意図を再現して欲しいかは違うようですね。

「作曲家の音楽」の通りにやって欲しい、というのが、果たして作曲家の意志なのかはわかりませんよね。それは演奏する人のこだわりでしょうね。もし作曲家が原調以外許さないなら、そう書いてあるはずだし。

しかし考えてみると、作曲家の音楽が絶対なら、演奏家の意味って何でしょうね。一回だけ作曲家が演奏して、あとはそれを博物館に飾っておけば良いのに、なぜ、楽譜にするんでしょうね。

しかし最近の奇をてらったオペラの演出とか、好きになれません。いかに演奏家の解釈は自由だと言っても、音楽は学問じゃないし、実験場でもないわけで、鑑賞してみて、精神に働きかけてくる「良い」ものでなければ、「良くない」と思いますwやっぱりオーソドックスってのはあると思うんですよね。

というわけで、演奏家の好い加減な解釈を嫌った指揮者って聞いたので、最近ショルティにはまっています。
ずっとTsuyoshiさんとわたにゃんさんの「原調」論を興味深くよんでました。
ちょっと参加します。個人的な感想ですが。
SCHUBERTが歌曲を作曲する際、友人のテノールの声のイメージで作曲した、と記述されている手紙や文献が残されています。
不適切な移調は曲のイメージをこわすと言うのであれば、作曲家がイメージした歌手以外は歌ってはいけなくならないのは何故でしょう?
またディスカウは「(リートを歌うには)1本の均質化された声の響きが必要である。」と言っています。
この考え方はベルカントにも通じとおもいます。
音の高低、リズムにとらわれることなく、均質な声が望まれると。
ならば原調で歌うことより、均質な響きの声を駆使して作曲家が書いた曲を歌うほうが望ましいのでは?と思います。
わざわざ原調で歌って「響きのない」声で演奏するのがいいのでしょうか?
乱暴な言い方をすれば(声)は声帯と言う名のリードを鳴らすことです。アルトサックスにバリトンサックスの曲を演奏させるよりは、移調させ、その楽器が一番いい音をだせるところで演奏させるのがいいのでは?と思いますが、いかがでしょうか?
ディスカウはご周知のようにバリトンです。もちろんバリトン用の楽譜で歌ってます。
ディスカウも曲のイメージを崩していると思われますか?
みるてさん

> 不適切な移調は曲のイメージをこわすと言うのであれば、作曲家がイメージした歌手以外は歌ってはいけなくならないのは何故でしょう?

既に過去の存在である作曲者より、
現代に生きる歌手の方が愛されてるということでしょうか?

古楽器での演奏が出現して、オリジナルに近い響きが復元され、
最新の研究による原典版の楽譜も出版されてるのですから、

原典から出発する演奏も否定されるべきではないと思いますが…。
ただ、原典版の楽譜でも、むやみに低く移調した楽譜があります。

> またディスカウは「(リートを歌うには)1本の均質化された声の響きが必要である。」と言っています。
> この考え方はベルカントにも通じとおもいます。
> 音の高低、リズムにとらわれることなく、均質な声が望まれると。

「ベルカント」、「均質な声」というのが良く分かりません。
中〜高音域をピアニッシモで歌う場合、

ほとんどファルセットに近い声で歌うことがありますが、
それは間違いだということでしょうか?

フィッシャー=ディースカウもこのような発声を多用し、
レーヴェのバラードなど、多彩な音色で歌っていると思うのですが…。

> ディスカウはご周知のようにバリトンです。もちろんバリトン用の楽譜で歌ってます。
> ディスカウも曲のイメージを崩していると思われますか?

曲によっては壊していると思います。
長3度下げた曲の色合いがオリジナルと同じだとは思えません。

以下、余談です。

シューベルトの『こびと』の「低声版」の楽譜をご存知でしょうか?
例えば、「ペータース」の「原典版」です。

いつ作られたものかは分かりませんが、
ピアノの左手が随所でオクターヴ上げされています。

昔のピアノは音域が狭かったので、
低く移調するとき音が足りなくなる場合があります。

古楽器で伴奏する演奏がなかなか一般的にならないのは、
原調に近いキイでの演奏を余儀なくされるからかも知れません。

このような「移調に伴う編曲」の例は他にもありそうです。
私は大学中退後、7年ほどレッスンには行ってなくて、リートに関しても知識がないのでどなたかわたしの疑問にお答えいただければと思います。
 私は大学にいた約2年間リートを勉強していました。実は、まわりの人より音域が低く、原調よりすこし低めの楽譜で歌っていました。それの方がいい響きで歌うことができました。で、私の疑問は、魔王を歌っている女性歌手はいますか?どの歌曲も男性、女性どちらが歌ってもOKなのでしょうか。もしかしたら、つまらない疑問かもしれませんが、どなたかよろしくお願いします。
りおっぺさん>

> 魔王を歌っている女性歌手はいますか?
ジェシー・ノーマンのレコーディングがあります。

所謂「男歌」「女歌」の区別は存在すると思います。
だけど、あまり歌詞の内容が歌い手の性別に照らしてとんちんかんにならなければ、男が女歌を、女が男歌を歌ってもいいと思います。
でもさすがに同じシューベルトの「グレートヒェン」を男性が歌うのは見たことありません。やっぱり歌詞や曲が性を選ぶのでしょう。

歌の内容をよく吟味したうえで、これを私が歌えるか、という感覚的な判断に任せるのがよいのではないでしょうか。
良く本来は女性が男性に向かって歌う歌詞を逆にするのに、代名詞を入れ替えたりしますよね。「彼女の〜」とか言ってるところを「彼の〜」とか。
男性女性は違和感次第ですが、やはりルードヴィッヒの冬の旅は一度聞けば、充分でした。移調については連作での曲の繋がりを考えると、全曲を移調するべきなのに、一部の曲のみの移調はやや不自然かも知れません。
トミーさん

> 移調については連作での曲の繋がりを考えると、全曲を移調するべきなのに、一部の曲のみの移調はやや不自然かも知れません。

同感です。
ただ、一律に移調すると、曲によって伴奏が困難になることはあるようです。

いわゆる「歌曲集」でなくとも、シューベルトやシューマンやブラームスは、
数曲をセットにして、同じ作品番号で出版しています。

その中には、複数の歌手によって歌われることを想定したと思われるものもあり、
一人の歌手が原調で歌うのが困難な場合もあります(シューマン「作品49」など)。

また、一人の歌手によって歌われることを想定した曲集もあると思います。
その中での高い音や低い音や調性には作曲者の意図があり、

歌いやすい音域に均質化すべきではないと思います(シューマン「作品90」など)。
つまり、「美しく響かない曲」と言うのもアリだと思います。

どちらにせよ、安易な移調を行うことは、原曲のイメェヂを損なうと思います。
ホッターに音友ホールで質問したことがありますが、「移調した場合はより明るい声質で歌わなければならない事があり、水車等の一部の曲は歌わない」とのことでした。
つまり音の高さと音色は別物ということのようです。
確かに水車の娘のセリフ部分はある程度それらしく歌うべきでしょうし、シュワルツコップは「リートはいろいろな声を必要とする」と言っていました。
また伴奏のムーアも「移調して暗く感じられたなら、私がもっと明るく弾くべきだった。」と書いていますから。
要は原調でも移調でもよい演奏とそうでないものがあり、移調の場合は、より注意深さが必要のようです。
私自身はテナーよりはバリトンを聴くことが多いのですが、やはり自分の声域だからなのか、それとも生で聴いた事のある歌手を優先しているのか微妙です。
ヴンダーリッヒは聴きたかったし、シュライヤーも悪くはなかったのですが、ポストリッジは迷っています。
はじめまして。
ドイツの音大の入試や講習会、コンクールの要綱にはリートに関して「性別を考慮した選曲をすること」と明記してあります。
つまり女性は「水車屋」や「詩人の恋」、男性は「女の愛と生涯」を歌ってはいけないということです。

ベルリンでカウンターテノール・ ヨッヘン コヴァルスキのリーダーアーベントに行き、「詩人の恋」を聴きました。
でもあの声でどちらかというと「女の愛と生涯」を聴いてみたいと思いました・・・・。
最近、思うのですが、
シューベルトの歌曲の多くは、コンサート用ではない…。

つまり、ホールで歌うのではなく、家庭用の音楽なんです。
ささやくような軽い発声で歌ってたのではないでしょうか?

それが、演奏形態の変化やピアノの改良(改悪かも)に伴い、
声量が求められるようになったのです。

その結果、高音域を多用する作品が歌いにくくなり、
場合によっては不適切な移調が行われるようになったのだと思います。

また、シューベルトには、かなり低い音も出てきますが、
やはり、現代の演奏形態では、困難を伴います。

「シューベルトは歌いにくい」としばしば言われるのは、
現代の発声法とオリジナルの発声法のギャップが原因だと思います。
初カキコさせていただきます

ドイツの発声は深いとか重いとかいう言葉を多々耳にしますが、あまりドイツは深い、イタリアは明るいみたいなことは関係ない気がします。
スタイルの問題です。語るように歌う曲なのか、いい声を聴かせる曲なのか、レガートでさらっと歌うべきなのか。。。など
 
ドイツリートの場合は、語る。言葉や情景がもっとも重要視されます。単語単語ひとつづつに、表情があり、音色が絶妙に変わっていくのが魅力だとおもいます。
発声は基本的には何を歌うにしても同じでしょう。そもそも、ベルカントは歌い方を意味する言葉ではありませんし。
多くの一流歌手がオペラとリート共に得意としているのは、基本が一緒だからではないでしょうか。土台が違うのだったら、オペラ歌手とリート歌手は全く切り離されるべきです。

移調論。興味深いですね。
連作歌曲に関しては、やはり曲のつながり上、原調で歌って欲しいというのが正直なところです。
でも、原調で歌っていない録音が悪いとは思いません。
要はその曲の内容をどれだけ確実に表現できるか。
「美しく響かない曲」というのは、作曲家が濁した様は音色、響かない声を期待して書いているなどであれば分かりますが、美しい声を大前提にかかれている曲の場合、最低限美しい必要があります。
移調した方が、歌い手にとって作曲家の意図が表現しやすいのであれば、むしろ移調すべきだと思いますが…
まだまだ若輩のバリトンですが、発言させていただきます。
あくまで演奏者としての意見です。


上にも書かれていることですが、歌い手それぞれには個性があります。
楽器としての声帯・身体。それに人格もです。

再生芸術としてのクラシックを思うとき、
作曲家の意思をちゃんと汲み取って演奏することは不可欠です。
でも再生(=再び生かす)ためには「今」を生きる必要もあります。
そのために、それぞれの歌い手に合わせた移調も許されるのでは?
と思います。

F.ヴンダリッヒの「詩人の恋」に衝撃を受けました。
でもバリトンのM.ゲルネの演奏もすばらしいです。
ヴンダリッヒは儚く美しく、ゲルネは柔らかく繊細で哀しいです。

それぞれの人格・個性とすばらしい楽曲が合わさって、
再生芸術としてのクラシックの新しい地平が見えていくのではないでしょうか。


以上のような考えから、歌い方もひとつが正解でないと思います。
(一定のレヴェル上の話ではありますが。)
国籍ではなく、作曲家や時代によっても変わりますし。
シューベルトとシューマンでさえ明らかな違いがあると思っています。
久々に書いてみます。

シューベルトの時代は、現代より低めのピッチだったので、
 ワタシは、430Hzくらいで練習しています。

当たり前のことですが、かなり楽です。

シューベルトの生きてた頃は、
 鉄フレームのピアノは、まだなかったので、

音量のないピアノに合わせる必要があったはずです。

曲によっては、ささやくように 歌った、
 言い換えれば、低いEとかも十分聴こえた、と思います。

余談ですが、『白鳥の歌』 のハイネ歌曲は、
 モーツァルトの時代のピアノでも弾けるくらい音域がせまいです。

最晩年の作品でありながら、冒険的な作品でありながら、
 そのように作曲されてます。

『白鳥の歌』は、ヴァン・ダム&アファナシエフによる、
 あえて「低声」で挑んだ、過激な録音もありますが、

もはや、「解釈」ではなく、「ファンタジィ」だと思います。
この録音は、けっこう気に入っていますが…。

個人的には、

 楽譜を徹底的に研究し、オリジナルの響きを模索する演奏と、
 逆に、全く新しい視点(編曲含む)で挑む演奏に、

どちらも「挑戦」であるが故か、強く惹かれます。

有名曲ばかりを並べて、自分のキィに直して、無難に歌う、
 アマチュア的な演奏は、もう面白くないです。
みなさんのお話を聞いていると、声楽のどこからどこまでを発声と捉え、どこからどこまでを表現とするかがなんとなく人によって違っているのではないかと思います。
私はオペラアリアを歌う音色で、ドイツリートを歌うのを聞きたくはありませんが、どちらも発声が同じ、と言われればきっと半数の人はそういうものを想像されるのではないでしょうか?
オペラとリートでは同じ人が歌っていても、世界的に有名な人ほど声の使い分けができているように思います。
あきらかに息の流し方、支えの取り方、声の飛ばし方が違いますよね?
それを発声というのか、表現と捉えるのか。
また、歌曲でもイタリア、フランス、ドイツ、ロシア…すべて響かせる場所が違うように思います。それは言語自体の持つ響きと発声のバランスによって生み出される音色の違いでしょう。それをイタリア発声、ドイツ発声、フランス発声と分類するか否か。

なんにせよ、まずは自分の声が一番素敵に響く発声を探すことだと思います。
それがベースにあれば、それにたとえば支えをプラスして力強さを出したり、
薄くとって繊細さを表現したり、使える声をプラスしていけると思うので。
うたねこさん

うたねこさんのおっしゃっていることに共感です

私はそういう音色の違いをテクニックや表現の差ではなく「スタイル・様式」の違いだととらえていますが。
私も移調したバリトンの方がしっくりします。ただしより明るい声を使えるテクニックは必要でしょう。
コンサートでホッター、プライ、ディスカウ、シュライヤー、ヘフリガーなどを聴いている場合はCDやDVDも楽しめますが、若手はまだまだのような気がします。
せめてNHKあたりが映像を再放送してくれればいいのですが。
マーラーの亡き子を女性が歌っていますけど、歌詞は父親なのでやや気になります
シューベルトの粉屋と冬、シューマンの詩人もそうですが
さすがにシューマンの女性のはカウンターテナーまでですけど

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