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文学哲学読書会コミュの「苦海浄土」石牟礼道子

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水俣病は精神、身体的病気に収まるものではなく、社会的、世界的な病気である。

最初は謎の伝染病として部落から差別され、径を歩くこともままならず、線路の上を歩いて病院から帰ってきた。

原因がわかり、賠償金の話となると、チッソによって生活している市民と、120人の患者とどちらが大事だと糾弾された(今では潜在的患者も含め万単位で患者がいると思われる)。チッソは賠償金を少なくしようと白紙委任状をとろうとした)

賠償金が払われるとなると、「ニセ患者」がいるとされた。

チッソが排水浄化機なるものを建てたが、実際には有機水銀はダダ漏れだった。

近代化がされている矛盾がすべて現れていた。60年後には合わせ鏡のようにフクシマが現れた。

コメント(17)

近代化を根源とする世界病である水俣病に対しチッソに対し政府に対し、どのように立ち向かっていこうとするのか。

石牟礼道子は言う。
「独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といってしまえばこと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代の呪術師とおならねばならぬ。」
石牟礼道子の一つの表徴にいくつもの意味と現象をたぐり寄せようとする文体を鶴見和子は「石牟礼道子語」とよんだ。たとえば次の文章のように。

「―水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんぞ俺がかかるか。
彼はいつもそういっていたのだった。彼にとっては水俣病などというものはありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、そちらの側が棄て去ってかえりみない道義を、このことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。」
本当に無垢の民ひとりひとりのたった一度しかない人生を傷め、傷つけ、苦しませ、泣かせながら巨利をむさぼった独占資本の非道と無人情は、

反省しても反省しきれないと思います。
私は、土本典昭のDVD「みなまた日記」と「回想、川本輝夫」を持っています。
「映像作家の眸は真実を超えて、二十一世紀への踏み出しは、より深い哲学なしには手がかりがないことを教えてくれる」・・・石牟礼道子推薦の言葉より。
>>[3] 近代化というのはシステムなんですね。今の社長が不祥事を起こしても、社長が替わればそれでよしという。東京のチッソ本社に座り込んだ患者さんが言ってます。「国なんてどこにもなかった」と。
>>[4] 土本さんの映画は残念ながら未見ですがいつかは見ないといけないと思います。
>>[005]

そんな国じゃいけないと思います!
これからの日本と政治指導者は、変わらなければならない!
石牟礼道子のアニミズムは発光する。その時彼女は巫女となる。

「石の神さんも在らすぞ、あの石は、爺やんが網に、沖でかかったこらした神さんぞ。あんまり神さんに形の似とらいたで、爺やんが沖で拝んで、自分にもお前どんがためにも護り神さんになってもらおうと思うて、この家に連れ申してきて焼酎(おみき)ばあげたけん、もう魂の入っておらす」
また石牟礼道子は「未開」の世界にも開けていく。近代化以前の「未開」の世界を。

「話に効けば東京の竹輪は腐った魚でつくるちゅうばい、炊いても食うても当たるげな。さすれば東京に居らす人たちゃ一生ぶえんの魚の味も知らず、陽さんにも当たらんかぼそか暮らしで一生終わるわけじゃ。わしどんからすれば東京ンものはぐらしか(かわいそう)。
 それにくらべりゃ、わしども漁師は天下さまの暮らしじゃござっせんか。たまの日曜に都のの衆たちは汽車に乗って海岸にいたて、高か銭出して旅館にまでも泊まって、舟借りて釣りにゆかすという。
 そら海の上はよかもね。
 そら海の上におればわがひとりの天下じゃもね。」
「未開」の労働観としても興味深い。今村仁司の「仕事」によれば、南太平洋にあるニュー・ブリテン島のマエンゲ族の、一日あたりの平均労働時間は4時間だという。マエンゲ族では美しく畑を作ることが賛美される。貨幣によりすべての価値が数量化されて単色となった世界とは違う、豊かな世界だといえる。同じような豊かさは不知火の海にもあった。
「まだ海に濁りのいらぬ梅雨の前の夏のはじめには、食うて食うて(魚が餌を食う)時を忘れて夜の明けることのある。
 こりゃよんべはえらいエビスさまのわれわれが舟についてとらしたわい。だいぶ舟も沖に流された。さてよか風のここらあたりで吹き起こってくれれば一息に帆を上げて戻りつけるが。
 すると、そういう朝に限って、あの油凪ぎに逢うとでごす。
 不知火海のべた凪ぎに油を流したように凪ぎ渡って、そよりとも風のでん。そういうときは帆をあげて一渡りにはしり渡って戻るちゅうわけにゃいかん。さあそういうときが焼酎ののみごろで。
 いつ風が来ても上げらるるように帆綱をゆるめておいて。
 かかよい、飯炊け、おるが刺身とる。ちゅうわけで、かかは米とく海の水で。
 沖の美しか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかものか、あねさんあんた食うことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて、かすかな潮の風味のして。
 かかは飯炊く、わしゃ魚ばこしらえる。わが釣った魚のうちからいちばん気に入ったやつの鱗ばはいで舷の潮でちゃぶちゃぶ洗うて。鯛じゃろとおこぜじゃろと、肥えとるかやせとるか姿のよしあしのあったでござす。あぶらのっとるかやせとるかそんときの食いごろのある。鯛もあんまり太かとよりゃ目の下七、八寸しとるのがわしどんの口にゃあう。鱗ばはいで腹とってまな板も包丁もふなばたの水で洗えばそれから先は洗うちゃならん。骨から離して三枚にした先は沖の潮ででも、洗えば味は無かごとなってしまうでごわす。
 そこで鯛の刺身を山盛りに盛り上げて、飯の蒸るるあいだに、かかさま、いっちょ、やろうかいちゅうてまずかかに(焼酎を)さす。
 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをただで、わが要ると思うしことってその日を暮らす。
 これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。
しかしこのような「未開」は、その豊かさの代償に、識字率の低下と権威主義に楽々と飲み込まれる危険もあった。

成文法は異なった文化の衝突の際に生まれたという。同じ文化同士では慣習法で済んだものが、違った文明を持ったものと出会うと、お互いに納得できた言葉を使う必要がある。
そしてそのような法律の言葉の前では、言葉を持たなかった「未開」はあたかも存在しなかったもののように扱われてしまうのだ。

そして「国会議員の、お父様、お母様」という言葉に示されるように権威主義に
安易に跪いてしまうのだった。
「苦海浄土」が公害を告発するノンフィクションを超えているところは、近代の持つ暴力性を根本から明らかにしているところにある。
石牟礼道子はこの作品を「一人浄瑠璃」といい、ある人は私小説だという。私は根こぎの告発をしているところに価値があると思う。

完全に根こぎにされた人間は私たちの周りに意外と多く存在する。ホームレスであり、ネット喫茶で寝泊まりする者であり、ホームレスを襲撃する若者である。「苦海浄土」の射程距離は限りなく広い。
苦海浄土に登場する漁民、患者たちは雄弁である。でも実際はそうでなかったと、渡辺京二は解説で述べている。
おそらく半分以上、石牟礼道子の創作だといえる。ただそれは創作以上の真実を持っている。漁民、患者たちの心を、耳で聞いた以上に呼び寄せている。彼女が巫女と呼ばれるゆえんである。

この本を読んでつらい現実に面あたりさせられるが、深い共感にも包まれる。私自身もこのような声を聞こえられるのではないか。そう思わせる力がある。
>>[013]

>「苦海浄土」が公害を告発するノンフィクションを超えているところは、近代の持つ暴力性を根本から明らかにしているところにある。……根こぎの告発をしている……。


なるほど〜
>>[15] 福島で同じようなことが繰り返されているのだと思います。初歩的な手違い。根拠のない楽観論。風評被害。原発による補償金に頼る自治体。そして根こぎ。

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