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文学哲学読書会コミュの「贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学」岩野卓司

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贈与とは、贈り物を与えることであり、極めて単純な意味の言葉である。ところが日常的な贈与について少し反省してみると、贈与が僕らの心や行動を知らないうちに縛るものであることがわかる。例えば、人からプレゼントをもらったとき、お返しをしなければ悪いなと思うことがある。別にお返しを要求されているわけではないのだが、そのままにしておくと相手に借りを作った気分になり、なんとなく罪悪感を感じてしまう。

ところで、昨今この贈与が注目されている。2010年の欧州の金融危機、プレカリアートの増加、ウォール街の反貧困デモなどを見ていると、いつ資本主義が限界を迎えてもおかしくないような気がしてくる。経済的な格差が肯定され、しかも今のような資本主義がこのまま続くと格差は広がる一方で、中産階級は確実に没落していく。
資本主義の批判はマルクス以来綿々と続いているが、近年では市場経済にとってかわると原理として贈与に期待が寄せられている。資本主義が生きすぎると経済が優先され、交換による利益の獲得のため、人間関係などは切り捨てられていく。それに対して、贈与は経済的にみれば損失である。贈与を基盤として社会・経済のモデルを考えると、消費や利他性を重視したり、切り捨てられた人間関係を再び考え直すことができるのだ。
日本でも、柄谷行人は「世界史の構造」で資本主義や国民国家を乗り越える新たな世界史の段階として「世界共和国」を構想する。この「共和国」なるものは理想的な国際連合のことであるが、そこでの国家関係や人間関係の基本は、お互いに援助し合ったり軍備を放棄し合ったりする、贈与の互酬性である。

コメント(12)

マルセル・モース(1)

贈与の慣習は面倒くさい。どうして面倒くさいのだろう。それは物の受け渡しが人間関係を表しているからである。年賀状のやりとりは、仕事仲間であれ友達同士であれ、相手との関係を確認する物である。チョコレートも恋人の関係や仕事上の付き合いを表している。つまり、物の贈与とお返しはただそれだけの行為ではなく、人間関係が反映された行為なのである。
それでは商取引はどうだろう。資本主義社会は経済的な利益と効率を優先する傾向がある。だから、人間関係は利益に結びつかなければ見捨てられていく。ここには贈与を巡る面倒くさい関係は存在しない。

人類学者マルセル・モースは、失われた贈与交換を現代によみがえらせて、いきすぎた資本主義を改善しようとした。
モースの研究をみていこう。
1)贈り物にはお返しの義務があること
 贈り物は一見すると自発的に行われているように見える場合もあるが、実際は本人の意思をこえたところで義務として課せられているのである。
2)研究の対象が未開社会であること
 ヨーロッパの歴史を遡っていくと、現代の未開人の場合と同じように贈与交換の原理が見いだされる。
3)贈与交換が市場の起源であること
 贈与に対しては必ず返礼があるということから、信用という概念が生じる。

ニュージーランドの先住民族であるマオリ族は、財産を人に送るときに一つの決まりがあった。贈り物を受け取ったら、受け取った物は送り主にお返しをしなければならない。品物には「ハウ」という物の霊が宿っており、このハウが贈与とお返しを引き起こすと考えられていたからである。お返しをしない不届き者にはハウが死の罰を与える。

北米の先住民族はポトラッチという行為をした。ある部族の首長が別の部族の首長に贈り物をしたとする。そうしたら受け取った首長はそれより多くの贈り物を相手の首長に返さなければならない。より多くの富を与えた方がこの勝負の勝者であるから、決着がつくまで何回も贈与の戦いが繰り広げられる。
マルセル・モース(2)

個人同士であれ、部族同士であれ、贈与交換が行われるためには平和でなくてはならない。未開人の贈与の知恵は平和の維持と結びついているのだ。
現代でも先進国から発展途上国に対する経済援助が贈与による戦争回避につながっているのではないだろうか。また国家の社会保障も国家によるお返しの贈与とも考えられる。モースも失業保険、供済組合、年金公庫などを考えていた。

しかし、贈与には危険性をはらんでいる。ポトラッチでは与えること、受け取ること、お返しをすることの3つの義務のいずれを怠っても罰を受ける。神話では霊による死の罰であり、現実では地位や権威の喪失である。また自分の身の丈以上の財産を相手に贈与したり破壊したりして、破滅してしまう場合もあるのではないだろうか。
古代ゲルマンではgiftという語は贈与という意味があるが、もう一つ毒という意味がある。ファルマコンというギリシャ語には薬という意味があるが、同時に毒という意味もある。
クロード・レヴィ=ストロース(1)

フランスの小料理屋で定食にワインが添えられている。そのワインをどうするかというと、客達は自分のグラスに注がずに、隣の客のグラスに注ぎ出すのである。隣人が知り合いであろうとなかろうとかまわない。注がれた客の方もお返しに自分の隣人のグラスに自分のワインを注ぐのである。ワインを贈与し合うことで人間関係が作り出されていくのだ。レヴィ=ストロースは料理は体になくてはならない物であるが、ワインは体にとって贅沢品である。料理は滋養を与え、ワインは面目を施してくれると述べている。

レヴィ=ストロースはワイン交換は近親相姦のタブーと同じだという。インセストの禁止は単に禁止であるばかりではない。それは何かをすることを禁じると同時に、何かをするように命令するのだ。女性は贈り物の一つに過ぎない。しかも互酬贈与の形式でのみ獲得できる贈り物の最高のものなのだ。

例えばブラジルのナンビクァラ族では二つの部族の間の戦争が終わり和解すると、いくつもの贈与交換が行われ、その最後に花嫁の交換が行われる。花嫁は平和と友情の最終的な証なのである。
クロード・レヴィ=ストロース(2)

サンタクロースはなぜ子供達に贈り物をするのだろうか。実はクリスマスの日には子供達は積極的におやつをもらいに各家々を巡っていたそうだ。
秋が深まり冬になると夜がだんだん長くなる。そうなると人々の生命力が弱まり、生命力を脅かされる危険な季節となる。生者の世界に死者が戻ってくる。死者は生者を脅かしたり責めたりして、生者からの奉仕や贈与を受け取ることによって両者の間に「蘇りの世界」が作り上げられる。ついに冬至がやってくると生命が勝利する。クリスマスには、贈り物に包まれた死者は,生者の世界を立ち去り、次の年の秋まで、生者がこの世界で平和に暮らすことを認めてくれるのである。
バタイユ(1)

どうして僕らは酒を飲んだりゲームをしたりするのだろうか。酒を飲んだりゲームで気晴らしをしたりするのは、翌日また働くための英気を養っているのであり、再び生産的活動をするための消費であるということもできる。しかし消費はそれだけのものだろうか。飲酒が楽しく楽しくてなかったり、ゲームへの熱中で後先を忘れたりするのは、消費自体が目的となっているからではないだろうか。バタイユは消費が生産の目的とならないありかたの典型として「奢侈、喪、戦争、祭礼、豪華な記念碑の建立、賭け事、見世物、倒錯的な性行為」をあげている。

モースはポトラッチを与えておかえしを受けないことが理想的だと述べているが、バタイユはポトラッチによる獲得の欲望の裏には経済的損失や破壊への欲望があるとみている。ここに贈与と「消費のための消費」の結びつきがある。
バタイユからすれば贈与も社会のウンコに他ならない。
バタイユ(2)

世界各地、太陽を神とする信仰は多い。太陽の光は大地に恵みをもたらしてくれる。
バタイユは光を注ぐ太陽の行為を無償の贈与、つまり何の見返りも求めない贈与と規定した。太陽から与えられるエネルギーは地球上のエネルギーとしては過剰なものとなる。しかし成長や繁殖には限界がある。エネルギーが限界に達したときに大きな破壊的な消費が生じるとバタイユはいう。
人類が成長の限界を迎えたときに起きた破壊的な消費が2度の世界大戦であるという。太陽が与えてくれたエネルギーはあらゆる生命への恵みであると共に、破壊や戦争をもたらす危険な物でもある。バタイユは「呪われた部分」とよぶ。

冷戦期となり第3次世界大戦の可能性が高まったとき、バタイユはアメリカが西ヨーロッパ諸国に無償で経済援助を行った欧州復興計画(マーシャル・プラン)に注目した。これこそ太陽の贈与に近い一方的な贈与だと考えた。
シモーヌ・ヴェイユ

ヴェイユは他人のための自己犠牲ないし自己贈与を実践したり計画していたが、これは「偽装された自殺」とはいえないだろうか。バタイユはこれを彼女の「不吉な面」と直感したのではないだろうか。
ヴェイユは「最前線看護婦部隊編成計画」を立案したが、これは戦争の最前線に看護部隊を派遣するというプランであったが、ド・ゴールからは狂気の沙汰と評価された。このような純粋な愛による犠牲という自己贈与は、他者の救済と結びつき、必ず死と関わりを持つ。この過激な愛をヴェイユ自身は「愛の狂気」と呼んだ。しかし狂気という言葉は必ずしもネガティブな意味で使われてない。この愛は「この世」の愛、人間の理性の尺度に収まる愛ではもはやなく、神や神々の愛だからである。

「愛の狂気」は1)過剰である。理性によって制御されることなく、とめどもなく湧き上がってくる。というのも、それは神や神々が命令する間からである。2)愛の狂気は神や神々による正義であらねばならない。そしてこの正義は「同情」に基づかなければならない。3)愛の狂気はこの世の価値に左右されない。
ヴェイユの自己犠牲は殉教というものからほど遠いように思われる。死後の名誉、天国の約束、宗教への大義への従属のいずれかに殉教なる物が関わっている限り、それは神の純粋な命令によるものではなく、教団や教会のある種世俗的な価値観に支えられている物なのではないだろうか。この点でイスラム教のテロとは一線を画する。

愛の贈与は「捨てること」とも関連している。モースが指摘し、バタイユが強調したが、人間は物を破壊したり捨てることで与えることの代用をする。ヴェイユにとってはこれは所有した物や権利を捨て去ることである。
捨てることは愛の贈与であり、それにより神と一体化できるという発想は、神秘主義の発想である。愛の狂気はいっさいの所有や権利を捨てる神秘家の行為と同じである。ただ、多くの神秘家が修道院に閉じこもり観想的な生活を送るのに対して、ヴェイユはスペイン内戦での義勇兵としての活動や「最前線看護婦部隊編成計画」での活動へと向かっていく。
愛の狂気によって捨てることは、神学的な観点からは「脱-創造」と定義される。これはキリスト教の神は無から万物を創造したので、被造物は神の根源においては無である。だからあらゆる物を捨て去り自分を無化することによってのみ、被造物は本当の「存在」を得られるということである。

デリダ(1)

誰かからの贈り物があったとしよう。その際に、受け取った人がこれを贈与だと認めたら、この贈与は贈与でなくなってしまう。
これはどういうことか。私たちが贈り物を受け取って、返礼を考えたならば、それは贈与ではなく交換なのだ。贈与の定義を徹底してぎりぎりの限界まで推し進めれば、少しでも「返すこと」と結びついてしまうと、贈与は交換になってしまう。

デリダ(2)

死の贈与
誰かのために死ぬこと(武士の切腹、特攻隊)、自殺、戦争などが死の贈与だと考えられる。
デリダは「死を与える」でアブラハムとイサクの逸話を引いてくる。聖書ではアブラハムが神に命じられ、自分の息子イサクを神の生け贄にしようとした。アブラハムがイサクに手をかける直前に、神が「その子に手を出すな」と言われ、代わりに(突然現れた)雄羊を生け贄にしたという話である。
イサクから「捧げ物にする子羊はどこにありますか?」と聞かれると「私の子よ、焼き尽くす捧げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」と答える。アブラハムは嘘は言っていない。しかしこの奇妙な返事は、デリダは「彼はいかなる人間の言語も語っていない」という。
神はアブラハムに対して信仰心をたたえ、子孫の繁栄を約束した。これによって贈与から神と人との交換に変容した。

デリダはあるシンポジウムで、自分がフランスの哲学者としてここで語っていることで、アフリカや南米の飢えた子供達と関わることがないという点で、彼らを裏切っていると語っている。
ジャン=リュック・マリオン(1)

ハイデッガーと贈与
ハイデッガーは「存在はある」といっている。細かくみていくと、この語は「存在が存在を与える」と訳すことができる。この言い回しはドイツ語でなければできない。ハイデッガーはドイツ語でしか哲学はできないといっているそうだ。また別のところでハイデッガーのいうことを解釈すれば「存在の自己贈与は運命として最も深い次元で歴史を動かしており、これは根源的に思索する者の言葉に表れてくる」ということになる。

マリオンの方法
モースやレヴィ=ストロースは贈与交換こそ贈与の本来的な姿であるという。現象学者であるマリオンは贈与に対しもう一度現象学的還元を行う。
『受け取る人』 交通遺児や災害費者者のような社会的に恵まれない人に寄付をする場合、普通は直接渡すわけではない。大抵はNPOや支援団体に寄付して、そこから恵まれない人たちに渡してもらう形をとる。この贈与にはお返しはない。また贈与した相手が「恩知らず」だった場合も同じである。
『与える人』 遺産の例をとってみよう。「遺産」も贈与の一つであるが、「与える人」は死んでしまっている。遺産を受け取った人はお返しができない。
『贈り物』 婚約や結婚の指輪を贈与しあい交換するとき、そこで大切なのは彼らの愛の絆であり、結婚の約束である。「指輪」という贈り物を対象として眺めただけならば、その価値は分からない。

これによって何がはっきりするのだろうか。それは『受け取る人』も『与える人』も『贈り物』も私たちの意識の関係においてのみ存在しているということである。還元の結果、贈与は客観的に実在する者ではなく、意識に内在する現れとして捉えられる。
ジャン=リュック・マリオン(2)

従来、哲学者はプラトンを別にして、愛を例えば善や真理などよりも劣っている者と考えていた。マリオンは贈与と並んで愛が最重要の概念とした。
哲学は知の最終的な根源を求めようとする。しかし「それで何になるのか」という問いを突きつけられると十分ではない。マリオンは「エロス的還元」を提唱する。マリオンは「私は愛されているのか?」という問いを提起する。「私は愛されているのか」と自問したとき、誰かに愛されているという愛の保証があれば、確かに僕らは安心するだろう。この場合、私たちは愛の贈与を求めている。しかしそれが十分でなかったらどうであろうか。失望、不安、嫉妬などの感情にさいなまされる。そこで、頭の中で自分が愛されていることを思い浮かべ、それを信じ込めば、他人に愛を求める必要はない。しかしそれは長続きしない。マリオンは「いわゆる自己愛より根源的な自己嫌悪を自分の中に見いだす」と述べる。

求める愛だけではこのようなジレンマに陥る。そこで愛について考えを深めると、愛は求めるものではなく与えるものとなる。自分の愛する相手をただ愛する以外に、愛の根拠はない。人はただ愛するが故に愛するだけなのだ。愛の贈与がうまくいこうが不首尾に終わろうが、私たちは何も計算しないでただただ贈与するだけである。ここに、保証、計算、互酬性、エコノミーといった要因を還元した後に現れる、愛の贈与の本質がある。

「与える愛」についてもう少し具体的に考えてみる。『与える愛』は相手に決して見返りを求めない無償の愛である。例えば敬虔なキリスト教徒達はあらゆる所有物、あらゆる知識を捨て去ることによって、神と一体化しようとする。この場合、捨てることも与えることの一種なのであり、彼らは神に対し「捨てる」という「贈与」を行ったとしても、見返りとして救済も天国も神に求めることはない。敬虔なキリスト教徒が、神の愛において全てを放棄して神に与えること、ここに「エロス的還元」の完成した姿があるのではないだろうか。
結論

「贈与論」は人間中心主義の発想の中に収まってしまうものなのだろうか。
モースは『贈与論』の中で、贈与交換は人と人との関係にとどまらず、「神聖な存在」とも関係を持っていると主張している。マオリの贈与では、森の霊であるハウが物に宿っていると考えられていた。ヴェイユの愛の狂気でも、神や神々の命令や神の「脱-創造」と深く関わっていた。マリオンも根源的な贈与を神の愛と結びつけて考えようとしていた。バタイユは太陽による贈与を語っていた。

贈与は動物間にも認められる。チンパンジーには毛繕いの習慣がある。また食物分配の習慣もある。哺乳類では授乳というかたちで母親が子供に贈与している。

人類学者のクレーバーは、人々が「共通のプロジェクト」のもとで働いているとき、各人は「その能力に応じて」貢献し、「その必要」に応じて与えられるという「原理」のもとで働いていると主張する。
「水道を修理している誰かが「スパナをとってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「その代わりに何をくれる?」などと応答することはない。その理由は単に効率にある。真剣に何事かを達成することを考えているなら、最も効率的な方法はあきらかに、能力に従って任務を分配し、それを遂行するため必要な物を与え合うことである。ほとんどの資本主義企業がその内部ではコミュニズム的に創業していることこそ、資本主義のスキャンダルの一つである、ということさえできる。」

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