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名言集コミュの12月の名言集

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コメント(24)

【割れ窓理論】


岩田松雄氏の心に響く言葉より…


建物の窓ガラスが割れたまま放置していると、やがて他の窓もすべて割られてしまう…。

これはアメリカの犯罪学者、ジョージ・ケリングが提唱した「割れ窓理論」という考え方です。


1980年代のニューヨークはアメリカ有数の犯罪都市でしたが、94年にジュリアーニ市長が「家族連れにも安心な街にする」と宣言しました。

このケリングを顧問にし、「割れ窓理論」を応用して治安対策に取り組みました。

地下鉄の落書きを完全に消すなど、街全体を徹底的にきれいにしたところ、それに伴って治安も良くなっていったそうです。


考えてみると、いつもゴミ一つ落ちていないディズニーランドでは、誰もゴミをポイ捨てしようとはしません。

人間は、このように他人や環境にとても影響されやすいものなのです。


脳科学者・中野信子さんの本には、自分が運がいいと思った人は運が良くなる、と書かれていました。

逆を考えると、運が悪いと思った人は運が悪くなる、ネガティブな人にはネガティブなことが起こる。

ネガティブな人たちとネガティブな話ばかりしていては、幸運は間違いなく逃げていきます。


常に誰かの悪口やグチを言っているネガティブな人とつき合っていると感化され、どうしても自分もそのような人になってしまいます。

だからこそ、いい人とつき合うべきです。

プラスの影響を受けるような人とつき合って、自分をポジティブにする。

そのほうが絶対に幸せになることは明らかです。


だれかの悪口で、場が盛り上がることはたしかにあります。

でも、人は意外と冷静に見ているものです。

悪口を言っている人に対して、何となく警戒してしまうはずです。

きっとこの人は自分のことも他の場所で悪口を言っているに違いない、と感じてしまうからです。

そのような人は尊敬されるはずがありません。


『「情」と「理」話し方の法則』三笠書房



「人は善悪(ぜんあく)の友による」ということわざがある。

人は付き合う友だち次第で、良くもなれば悪くもなるということだが、まさに、「朱(しゅ)に交(まじ)われば赤くなる」ということ。


「旅は、どこへ行くかより、誰と行くかが大事」という言葉があるように、人生も誰とどう過ごすかが大事だ。

自分が変わりたければ、まず、環境を変えたり、つき合う人を変えること。


ポジティブな人とつきあえば、ポジティブになる。

運をよくするには、運がいい人とつきあうこと。
【安心して愚痴を言える人】


松下幸之助氏の心に響く言葉より…


社長でも部長でも課長でも、愚痴や悩みをいえる部下が大勢の中に一人でもあれば、非常に精神的に楽になると思う。

それによって、自分の持てる力を十分に発揮することができるようになる。

けれども、よく働く人はたくさんあっても、自分の悩みを訴える部下がなかったら疲れてくる。

それで、いい知恵も出ないし、自分の働きが鈍ってくるということも起こり得るわけである。


実は、私自身が多少神経質なところもあって、そういうことを身をもって体験してきた。

私の今日あることの一つの大きな原因としては、そのような人に比較的恵まれたことがあげられると思う。

いろいろと煩悶した時に、それをうまく聞いてくれる人が、私の場合はわりと多かった。


だから幸いにして愚痴がいえた。

それで、少々のことでも愚痴をいって、気がスッっとする。

晴れ晴れとした気分になって、力いっぱいに仕事に打ちこめるというような姿で、今日までやってこれたわけである。


だから、相当の仕事をする人、何らかの意図を持って事業をしようというような人は、そういった愚痴をいえる部下をかたらわらに置いておくことが望ましいと思う。

もちろん非常に働きがあって立派な仕事をする部下、現実に商売をして大きな成果をあげるという人が大切なのはいうまでもないことである。

しかし、そういう人だけでなく、働きはそれほどでなくても、愚痴をうまく聞いてくれるような人がいないと、事業に成功し、社会人として成功することはむずかしいのではないかと思う。


太閤さんにとって、加藤清正とか福島正則といった武勇にすぐれた部下ももちろん必要だったが、そういう人だけでなく、その心の憂(う)さを汲みとって晴らすことのできる石田三成がいたことによって、太閤さんの知恵才覚なり、働きが非常にのびた。

それで天下がとれたし、そこに三成の存在意義というものもあったのだろうと考える。


『人事万華鏡』PHP文庫


愚痴や泣き言は、まわりを不快にするから決していってはいけない、とはよく言われることだ。

たしかに、始終(しじゅう)まわりの人に愚痴や泣き言ばかりをいっているような人からは、友人は離れていく。


だが、人生には時として、大きくへこむこともあるし、泣きたくなるような悲しいことや嫌なこともある。

そんなとき、誰かに自分の愚痴や泣き言をいえないとしたら、その負のパワーは、自分の心の中に澱(おり)のようにどんどんとたまってしまう。


いつも心を爽快(そうかい)に明るく保っておくには、心のマイナス要因をそのたびに一掃して溜めないようにするしかない。

決して裏切らないでずっと味方でいてくれるような人には、弱い自分を見せることも、愚痴をいうこともできる。


安心して愚痴を言える友がいる人は幸せだ。
【不老長生の秘訣】


無能唱元氏の心に響く言葉より…


先日、テレビで「アルプスの少女ハイジ」という有名な児童小説をアニメにした番組を見ておりました。

その日のタイトルは「クララのしあわせ」というのです。

このクララというのは、両足が動かず車椅子の生活をしている少女です。

このクララがハイジに招かれて、アルプスの山の中へ来て暮らすようになったのです。


そして、この日、ハイジの仲良しである近所の盲目のおばあさんの家に行き、そこでクララはおばあさんに本を読んであげます。

クララは聡明な子で、本を読むのが好きなので、とてもうまく読むことができました。

読み終わった時、おばあさんは感動して、お礼をいい、

「まるで天使の声のようでした」といったのです。


この時、クララの胸の中に名伏しがたい歓喜の思いが沸き起こりました。

急に黙ってしまったクララにハイジたちは心配して、口々にどうしたのか?と尋ねました。


すると、

「嬉しいんです!」

とクララは叫んだのです。

「こんなに嬉しい気持ちは生まれて初めてです!」


思えば、車椅子の生活は、他人の厄介になるばかりでした。

このアルプスへ来るにも大勢の人の手を借りて、やっと来ることができたのです。

クララの人生はそれまで、すべてが人の助けで生きてこれたといえます。

ところが、この日、本を読んであげて、それにおばあさんが心から感動して、お礼をいってくれたのです。


「自分でも、人の役に立つことができる!」

これが解った時、クララの喜びは、まるで洪水のように胸の中にあふれたのです。


みなさん。自己重要感を高めるもっとも効果的な答えがここに示されております。

それは、

「他人の役にたつ」ことです。


人々はこの故にボランティア活動をします。

それは、社会のためでも道徳のためでもなく、他人を救うという崇高な目的でもなく、まず第一に、自分自身を救うためなのです。


アドラーという世界的に有名な精神科医は次のようにいっております。

「うつ病やノイローゼなどの患者は、私のいうとおりにすれば、二週間で治ってしまう。

それは、人をどうやったら喜ばせることができるか?ということを考え始めることである」


ところが面白いことに、多くの患者はそれに対して、

「ああ、それなら簡単だ。それはいつでも私のやっていることだ。それなのにやつらは少しもそれに感謝せんのですよ」といまいましげにいうとのことです。

「彼らは他人のことなど考えていない」とアドラーはいいます。

「彼らは自分のことばかり考えています。そしてそれが彼らの病気の原因なのです」


自己重要感がうまく充足されないで、その弊害が嵩じて行くと、遂に精神病にさえなるのですが、このような無明の道を照らすともしびこそ、この、

「人を喜ばそう」とする行為なのです。

これこそ、人間の五大本能の中でもっとも重要と思われる自己重要感を高めるための最高の技術(敢えて技術といいます)だといっても過言ではないでありましょう。


他人の顔に喜びの微笑を浮かべることができれば、あなたの顔にも微笑が浮かぶことでしょう。

そして、あなたの心身はより一層若やぐであろうことは疑いありません。

すなわち、不老長生のための最高の秘訣がここに示されているのであります。


『君の霊格を高めよ』竹井出版


自分の自己重要感が高い人は、人の自己重要感も高めることができる。

反対に自分の自己重要感が低い人は、人の自己重要感などおかまいなしだ。

たとえば、自分だけが勝手にペラペラとしゃべり、人の話などまったく聞かない人。


自己重要感の高い人は、人から感謝の言葉をもらっている人、愛情やあたたかい言葉をたくさんもらっている人。

「人を喜ばそう」とするからこそ、人から感謝や、愛やあたたかい言葉をもらうことができる。


「不老長生の秘訣」は、「人を喜ばす」こと。

自己重要感を高める生き方をしたい。
>>[1]

まさに そうなんでしょうね!(^^)
あとは 気持ちのありようなんですが…

ありの〜 ままに〜♪
>>[2]

これって ガス抜きが必要ということですね!(^^)

たまには サボりたい♪(*^.^*)
>>[4]

>>[5] えだ豆 さん

もう12月ですね。

来年のえだ豆さん用の休みの多い

カレンダーを手に入れましたか?

今年は何とか年を越せそうですが

後何年、年を越せるのか

そんな事を考えても仕方がないので

毎日を精一杯頑張って過ごしたいです。
【怒りは二次感情】


心理カウンセラー、衛藤信之氏の心に響く言葉より…


「つい人に腹を立ててしまう」という人がいます。

自分でわかっていても「つい」やってしまうことがたくさんありますね。

この「つい人に腹を立ててしまう」というのは、自分で自分の感情を止めることができないということです。


上司が何か言うとすぐカチンとくるとか、そのあとでケンカ腰になるとか。

これは心理的に言えば、「子どもっぽい」わけです。


たとえば幼稚園で子どもが仲よく遊んでいる姿を思い描いてください。

ケンちゃんが大事にしているオモチャをサトシくんに取られました。

すると、泣きながらケンちゃんはサトシくんを突き飛ばしました。


たとえば日曜日の平和な家庭。

大学生のタクヤくんは父親の車を借りて、彼女とドライブしようと思っています。

するとソファで新聞を読んでいた父親がひとこと。

「おいタクヤ、今日はお母さんと買い物に行くから、車は使うなよ」

「なんだよ、もっと早く言えよ」とタクヤくんは車のキーをテーブルに投げ出します。


たとえばテニスの試合。

勝利を予想されていたシンゴくんが、格下の相手に負けてしまいました。

ゲームセットの声と同時に、ラケットをコートに叩きつけるシンゴくん。


これらの例は、欲求不満がダイレクトに行動に出てしまったものです。

どれも子どもっぽくて攻撃的ですね。


「怒り」という感情は、心理学では「第二感情」に分類されます。

「びっくりした」とか「がっかりした」という「第一感情」に引き続いて起こってくるもので、何かが起こってすぐに湧いてくる感情ではありません。

前の例でいえば、何か期待していたことと違うことが起こり、その期待を裏切った人々に対して怒りが湧いてくる、という図式です。


ですから、「つい腹を立てる」ということでいえば、「腹が立つ」ことの前にあるびっくりした自分の感情を探さなければいけません。

そして、それを表現する。

「私はこんな期待をしていたのだ」「会えなくて寂しかった」と相手に正直に伝えましょう。


自分を出すと負けると思っている人に、私はいつもこう言います。

「あなたは幸せになりたいの?勝負に勝ちたいの?」


『こころのエステ』サンマーク文庫


社会人になった自分の娘が遅くなって帰ってきたとき、父親が玄関で仁王(におう)立ちになり、「今までどこをほっつき歩いていたんだ!今、何時だと思っているんだ!門限は10時だぞ!」と怒鳴っているようなシーンがテレビでよくある。

怒りは二次感情だと言われる。

それは、なぜ怒鳴ってしまったかを冷静になってみて考えると、遅くなって、とても「心配だった」、「不安だった」という一次感情、つまり、怒りの奥にある感情、「本当の自分の気持ち」があるからだ。


昨今、公共の場で突如として、大声で怒鳴ったりキレてしまう人は多い。

人前で見境(みさかい)なくカッとなって怒鳴ったり怒ったりする人は、心理学でいうと感情の制御ができない「子ども」。

真の大人とは、自分の感情を制御できる人のことを言う。


怒り出しそうなときは…

「心配」、「不安」、「さびしさ」、「つらさ」、「悲しさ」、「期待はずれ」、「絶望」といった自分の一次感情を探る必要がある。


怒る前に、「一次感情は?」と自分に問いかけたい。
【雑用という仕事はない】


小林正観さんの心に響く言葉より…


渡辺和子さんは、二・二六事件で暗殺された教育総監・渡辺錠太郎氏の娘です。

九歳のとき目の前で父が殺されました。


彼女は二十代後半になってアメリカの修道会に入り、十年ほどして帰国しました。

現在は岡山県のノートルダム清心学園の理事長をされていて、多くの素晴らしい本をお書きになっています。


渡邉和子さんがその修道会にいたときのことです。

食事の準備のために、食卓にお皿を配っていた渡辺和子さんに、あるシスターが寄ってきて訊ねたそうです。


「あなたは今、何を考えながらお皿を配っていますか?」

渡辺和子さんは戸惑いつつ、「いえ、何も考えていません」と答えました。

そのときシスターは、

「あんたは時間を無駄にしています。

なぜ、このお皿を使う人の幸せを祈りながら配らないのですか。

この世に雑用という仕事はないのですよ」

そう教えてくれたというのです。


炊事も洗濯も掃除も、また子どもの世話も会社の仕事も、「しなければならないこと」と考えると、その通りです。

しかし、そこに

「この食事をいただいた人が元気になってくれるように」

「この服を着る人が幸せになってくれるように」

「この廊下を歩く人が笑顔で過ごせるように」

「この仕事で関わる人が、みんな幸せになってくれるように」

と念をこめたら、それは単なる雑用ではなく、また単なる仕事でもありません。


そのように考えていくと、「ねばならない」という作業や仕事はなくなるのではないでしょうか。

日常におけるすべてのことは、周りの人たちの元気や幸せを祈る大切な手段になるのです。


宿泊業の人にこの話をしたところ、大半の人が「宿泊業はとても素晴らしい仕事だったんですね」と言いました。

食事を作り、風呂を沸かし、部屋や廊下を掃除し、それらすべての作業が、「泊まりに来てくれる人の幸せを祈れることだった」ことに気がついたからです。


「ねばならない」と思っていたことでも、実はそれが「幸せを念じられること」だと気がつくと、もっと、そういう時間や場所がほしいと思えるようになるのではないでしょうか。

そしてその念は、必ず目に見えるかたちで現れてきます。

そうなればもう、「ねばならない」と思っていたことも、楽しくて仕方がなくなるのです。


『22世紀への伝言』廣済堂出版


齋藤一人さんはこう語っている。

「人の幸せを願うようになると、心が豊かになるんです。

心が豊かになると、人相も変わってくるんです」(愛のセラピー)より


他人の喜びを我が事のように喜び、幸せを願うなら、それはいつか自分に返ってくる。

反対に、人の不幸や失敗を願えば、心が貧しく、冷たい人間となり、結局は自ら不運を招くことになる。


「この世に雑用という仕事はない」

すべての作業や仕事は、周りの人たちの元気や幸せを祈る大切な手段。

他人の幸せを念じられる人でありたい。
【誰かに助けられて生きている】


元カリスマ講師、木下晴弘氏の心に響く言葉より…


「どんな人間も、誰かに助けられて生きている」ということについて、当時私は、生徒に「牛丼」の話をしてきました。

「お前たち、牛丼を食べたくなったら、たとえば吉野家に行くだろう。

食べたあとは食事代を300円だか400円だか払うよな。

ところでお前ら、そのあと店を出るとき、ちゃんとありがとうと言っているか?」


みな戸惑った顔をしています。

普通、「ありがとう」は店の人がお客に言うものです。

「お前たちもそう思うよな」と確認したあと、話を続けます。


「でも大間違いだ。

なぜかといえば、もしあの牛丼が1杯5万円だったら、お前らは食べに行くか?」

当然ながらみな行かないと答えます。


「行かないよな。

あれ、一杯数百円だから行くわけだ。

ここで、よく考えてくれ。

お前たちは今、おなかがすいたという問題を抱えたわけだ。

これはお前たち一人ではどうあがいても解決できないだろう?」


子どもたちの反論はわかっているので、すぐにこう言い足します。



「もちろん、コンビニに行くというのもダメだ。

なぜなら、そこにあるおにぎりもサンドイッチも自分で作ったものではないからだ。

くどいようだが、お母さんに作ってもらうのも同じ理由でダメ。

お前たちが普段、何げなく米やパンを食べているが、『なんてラッキーだ』とは思わないか?

だって、作ってもいないのに。

一人で米を作れるか?

稲はどこから持ってくる?

台風や害虫からどうやって守る?

ビニールハウスでなんていうなよ。

ビニールはどうやって作るんだ?

ほらみろ。

人間は自分ひとりでは空腹を満たすという問題さえ解決できなんだ。

でも、その問題解決をしてくれる人がいる。

たとえば、それが吉野家というわけだろう。

だからあのお金で、あの味のものが、あの短い待ち時間で食べられる。

それが極めて有効な問題解決になるから、お前たちは行ってお金を払って食べるんだろう。

もし誰かが自分の前にある大きな壁を取り払い、問題を解決してくれたら、お前たちはその人に何て言う?」



「ありがとう」という答えが返ります。

「そう、ありがとうって言うよな。

だから、吉野家でお前たちがありがとうって言うのは当たり前だろう」


煎(せん)じ詰めると、仕事というのは問題を解決することなのです。

だから、その問題を解決したときには当然のこととして、解決した相手から感謝の言葉が返ってきます。


たとえば、営業などはじかに人と向き合う仕事だから、直接言葉が返ってきます。

一方で、直接には感謝の言葉返ってこない仕事があります。

経理など社内の事務仕事の場合、相手から感謝の言葉を聞く機会はあまりありません。

でもそういう仕事に携わる人がいるから、ものごとが回っているわけです。


結局、自分が何かをする、行動するというのは、誰かがそれによって助られているということになります。

そして人間というのは、誰かのために力を出すときに最も力を発揮できるのです。


『涙の数だけ大きくなれる!』フォレスト出版


レストランや食堂あるいは、コンビニ等のお店で、「ありがとう」とか「ごちそうさま」とお礼を言う人は少ない。

お金を払っているのだから、サービスされて当然、という気持ちがあるからだ。

同様に、いつも家庭で食事を作ってくれたり洗濯をしてくれる妻にお礼をいう人も少ない。


魚を採ってきたり、お米や野菜や肉や塩やお醤油を作る人がいて初めて、料理を作り始めることができる。

すべてのことは「誰かに助けられて生きている」。

見えない陰で助けてくれている誰かがいる。

それを、お蔭(かげ)様という。


ジョンレノンが日本語の中で一番好きな言葉は「おかげさま」だったという。

世界の中で、最も美しい言葉だと言っていたそうだ。


「誰かに助けられて生きている」

誰に対しても…

お陰様の気持ちを込めて、「ありがとう」を伝えたい。
【価値を見出す力】


藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…


月刊誌『致知』の取材を通して、数多くの経営者に接してきたが、一業をなした人には、突出(つきだ)して二つの共通した要素があるのを感じないわけにはいかない。

一つは、「価値を見出す力」である。

自分の置かれた環境、そこに結ばれる縁、たずさわる仕事等々に、多くの人はさしたる感興(かんきょう)も覚えず、それらはたまたまのもの、ありきたりのものと見なしがちである。

だが、一業を成した人はそこに独特の強烈な価値を見出すのだ。


もう一つは、価値を「信じる力」である。

京セラ創業時、セラミック製造の作業は埃(ほこり)まみれ泥まみれ、汚い、きつい、厳しいの典型的な3K職場であった。

若い社員の顔にはうんざりした色が浮かぶ。


深夜作業を終えると、そんな若い社員と膝(ひざ)を突き合わせてラーメンをすすりながら、稲盛氏は熱っぽく語り続けた。

自分たちがやっているのは世界の誰もやっていない仕事なのだ、自分たちは世界の先頭を走っているのだ、と。


仕事に見出した価値。

それを強烈に信じていたのである。

そして、それば京セラのベースをつくったことはいうまでもない。


価値を見出す力。

その価値を信じる力。

これこそ信念の力である。


信じ念じる力が道のないところに道をつくり、人を偉大な高みに押し上げていくのである。


『プロの条件』致知出版社


『石切職人』という有名な寓話がある。

新しい教会を建設している現場で、三人の石切職人が働いていた。


三人の石切職人に「あなたは、今何をしているのか」と尋ねたところ。

一人目は、「お金を稼いでいるのさ!」

二人目は、「この大きくて固い石を切るのに、悪戦苦闘しているのさ!」

三人目は、目を輝かせ、こう答えた。

「多くの人々の心の安らぎの場となる、素晴らしい教会を造っているのです」


自分の仕事に価値を見出せない人は、人生の大半を無駄に過ごすことになる。

価値を見いだすとは、仕事にしろ、家事や、ボランティアにしろ、それが人の役に立ち、気持ちを明るくし、世の中を豊かにさせていることに気づくこと。

人の役に立っていることが確信できたら、己の心に限りない力がわいてくる。


今、目の前にある仕事に…

価値を見いだし、その価値を信じる力を養いたい。
【ケネディ大統領が一番尊敬した日本人】


カリスマ講師、寺松輝彦氏の心に響く言葉より…


年間およそ3万の人が自殺している。

事業の失敗、家庭の崩壊、多額の借金、癌宣告、介護疲れ、人の裏切り、孤立感。

追いつめられて、「できない」「ムリだ」「だれも信じられない」「孤独だ」と思いこんだとき、死を選ぶのかもしれない。


中古車販売会社の社長・大山氏も覚悟を決めた一人だった。

自分には1億ほどの生命保険をかけていた。

中古車販売の事業が振るわず、銀行からの借入金の負債や取引先の未払いなど6億円の債務があった。


しかし、最後の一線までは踏み切れない。

悶々とした日が続いていた。

すでに、42歳の大山は円形脱毛症になっていた。


ふと入った本屋で立ち読みして衝撃を受け、自宅に買って帰り一晩で読み通したのが、「上杉鷹山(ようざん)」について書かれた本だった。

上杉鷹山の事績に勇気づけられて、大山は「生きよう」と思った。



上杉謙信以来の名門米沢藩は、財政赤字で借金が膨れ、収入の15万石すべてを返済にまわしても百年以上はかかる状態だった。

明和元(1764)年、ついに藩主上杉重定は、幕府へ版籍を奉還したいと尾張藩主徳川宗勝に相談した。

どうにもやっていけないから、いっそ領地をすべて返上すると前代未聞の話を持ち込んだのだ。

驚いた宗勝は、考え直すように説得したうえで重定を隠居させ、九州の遠縁の高鍋藩から養子を入れ、藩政改革を進めようとした。

その養子が上杉治憲(はるのり・鷹山)だったのである。


鷹山は改革を進める。

だが小藩出身の養子であることから改革方針は軽んじられて、格式にこだわる家老たちの反対にあう。

重臣らの非協力のなか、自ら倹約を徹底した。

粗末な木綿の服を着て、一汁一菜の食事で通した。

さらに華美な儀式や慣習を質素にした。


荒地の開墾を行い、漆(うるし)やこうぞなどの特産物の育成をした。

人を派遣して学ばせ、織物や紙すきの技術導入も図った。

不要な組織の整理で、藩士たちの無駄な城勤めからの解放を進めた。

手が空いた下級藩士たちは、開墾や特産物の栽培に力を注ぎ、武家の婦人たちは織物や紙漉きに精を出した。


やがて藩内の産物や加工品が藩外や江戸でも売れるようになった。

ようやく財政改革の成果が出そうになってきたとき、武士が百姓町人の真似をするなどもってのほかと、改革を快く思わない重職7名が連署して改革阻止の行動に出た。

しかし改革に期待を寄せる下級武士団から鷹山は支持され、この改革妨害を乗り切った。


「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

鷹山はこの歌を残している。


アメリカの35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者団に尊敬する日本人は誰かと質問されて、上杉鷹山と答えたエピソードがある。


「できない」と諦めるか。

「できる」と考えられるか。

リーダーシップを発揮するうえで、決定的な違いが出る。


「できる」という意識に立つ。

この意識は、その人の人格から現れる。


上杉鷹山は、幼いころから細井平洲(へいしゅう)という学者について学んだ。

藩主たるもの、どういう考え方と行いをしなければならないかを教わり、人格を磨いた。


『偉人はかく教える』致知出版社



何か問題に突き当たったとき、「これは無理だ、できない」と思うのか、「もしかしたら何とかなるかもしれない」と思うのかで、道は大きく分かれる。

無理だと思えば、そこから先に一歩も進むことはないが、できるかもしれないと思えば、いつか問題を解決できるチャンスを得たことになる。

「できるかもしれない」、という根拠のない自信や、ばくぜんとした思いこみは、人生においてはとても大事だ。



滝口長太郎氏の「打つ手は無限」という、心に響く素晴らしい詩がある。


『打つ手は 無限』

すばらしい名画よりも

とても素敵な宝石よりも

もっともっと大切なものを私はもっている

どんな時でも、どんな苦しい場合でも

愚痴を言わない

参ったと泣き言を言わない

何か方法はないだろうか

何か方法はあるはずだ

周囲を見回してみよう

いろんな角度から眺めてみよう

人の知恵も借りてみよう

必ず何とかなるものである

なぜなら打つ手は常に無限であるからだ



どんな難問でも、できるかもしれない、と思えば、いつかできる可能性がある。

なぜなら、打つ手は無限だからだ。


困難なときは、上杉鷹山のエピソードを思い起こしたい。
【完全な失敗に終わることはない】


ジョージ・ビーム氏の心に響く言葉より…


「野心的な試みに取り組んでみて、

たとえ失敗したとしても、

完全な失敗に終わるということは

まずありえない」

(ラリー・ペイジ)


世界中の道路にカメラを搭載した車を走らせ、360度方向の景色を撮影。

それによって画面上で歩行者の目線を再現した、人気サービスのストリートビュー。


しかし、当初は、たまたま見られたくない姿を撮影された人や、家の中の様子まで写真に映り込んでしまった人などから、プライバシー侵害だと猛反発が上がった。

だが、グーグルはそこで引き下がらない。

失敗を活かし、今度は家の中が写らないように、撮影車のカメラの位置を調整したり、人の顔や車のナンバープレートを認識して自動的にぼかしをかける機能を開発したのだ。


こうしてサービスを個々人のプライバシーに配慮するレベルにまで洗練させた。

そして結果的に、その過程で、同社の「顔認識技術」の精度は飛躍的に向上した。

これぞグーグルの「転んでもタダでは起きない精神だろう」


『グーグルをつくった男たちが「10年後」を教えてくれる』三笠書房



「ビジネスの新陳代謝が激しいシリコンバレーで、成功のための黄金律が発見された。それは、思い悩んでグズグズといつまでも事業を始めずにいるよりも、とりあえず始めてから方向修正や改善を積み重ねていったほうが、早く成功に結びつく、という成功哲学だ(エリック・リース)」(同書より引用)


完璧を目指してしまう人は、新しいことを始めるのを躊躇(ちゅうちょ)してしまうことが多い。

失敗を恐れているからだ。

しかし、準備が整うのを待っていたら、好機を逸(いっ)してしまう。

とにかく走り出すこと。

そして、そののちに改善や修正していくしかない。


「たとえ失敗したとしても、完全な失敗に終わるということはまずありえない」。

どんな失敗の中にも、必ず得るものは隠されている。


走りながら考える人でありたい。
【人は死なない】


東京大学医学部付属病院集中治療部部長、矢作直樹氏の心に響く言葉より…


死は考え過ぎるといけませんが、時々、それを思うことで「豊かな生」を手に入れることができます。

それ以前の自分と、それ以降の自分による対話がそこにあります。

長いのか短いのかわかりませんが、いわゆる人生という旅の中において、自分のお役目も励みながら、あるいはお役目を探しながら、感謝しつつ日々を全うする。

そのうちにゴールがやって来るという人生で必要なのは「幸福感」でしょう。


誰もが避けられない死というイベントを意識することで、限られた時間の中で豊かな生に向かって歩こうとする、私たちの幸福感はそんなところから滲(にじ)み出て来ます。

さらにそこで大切なのは、「人は死なない」という事実を知ることです。


今回の生で授かった肉体は滅びますが、私たちの魂は死ぬことがありません。

まずはそこに気づくこと。

そうでないと唯物論者のように現世利益にしがみついて単に死を怖がることになります。

この先もまだ数えきれないほど生まれ変わるというのに、今の生の利益にしがみつくなんて、これほどバカバカしいことはありません。


その仕組みがわかると、滲み出た幸福感の中に「また会える」という感情が生まれ始めます。

他界した大事な人や愛しい人とはあちらの世界で会えるし、次回の転生後も(前の生のことは覚えていませんが)違う役割で会えるでしょう。

そもそも大事な人や愛しい人は、いつも私たちのすぐそばにいます。

私たちが死を迎える日、つまり現世を卒業するその日まで彼らは優しい眼差しで見守ってくれているのです。


その仕組みを踏まえると、残りの人生を心配する必要がなくなります。

対人関係やお金の問題など、いろいろなストレスを抱えているにせよ、それも今回の人生において、自分に対する「課題」がそういう形で出ているだけの話です。

解決できないレベルの課題は絶対にやって来ません。

必ず解決のための糸口があります。

その糸口を探すことこそ、人生における最上の学びなのです。


臨死体験というテーマでも、この20年くらいの間に実にさまざまな立場の方々が講演や著書でその体験談を発表しています。

脳神経外科の世界的権威である医師エベン・アレグザンダー(元ハーバード大学メディカルスクール准教授)が自らの臨死体験を著書にまとめた本もベストセラーになりました(脳神経外科医が見た死後の世界・早川書房刊)。

向こうの世界の様子が詳細に描かれているのが興味深い点です。

レイモンド・ムーディやエリザベス・キュープラー・ロスなど、多くの実績を持つ欧米の医師たちが死後世界の実相を克明に語る向きは、海の向こうではかなり増えています。

しかし、私たちの住む日本ではそうした情報自体をまだオカルトと忌避する風潮が強いのも残念ながら事実です。


なぜ私がそんな突飛なことをここで言うのか?

理由は簡単です。

人間は知らないことへの対処がこの世で一番怖いからです。

知らないこと、知らない人、知らない世界、知らない作法、知らない手続き、知らない知識…

私たちが常に怖がり不信感を持つのは「未知のもの」です。

逆にそれらがわかると心の中にある恐怖心は消え去るのです。


『ご縁とお役目』ワニブックス「PLUS」新書


矢作氏は、「寿命とはこの世で魂を磨く期間」と言っている。

我々がこの世に生を受けた目的は、魂を磨き、少しでも多くのお役目を果たしてあの世に行くこと。

人の役に立ち、人から必要とされる人となること。

だから、辛い事、困難なこと、嫌なこと、面倒なことも、自分の魂を磨くための大事な砥石(といし)。


人は、生まれたら必ず死ぬ、という定めがある。

そして、死に対しては誰しも恐怖心を持っている。

しかし、もし、「輪廻」という生まれ変わりの考え方を理解できたら、その恐怖心も少しは薄れる。


「人は死なない」

肉体は滅びるが、魂は死ぬことがない。

己の魂を磨き続ける人生でありたい。
【受けたものに、上乗せして返す気持ち】


佐藤政樹氏の心に響く言葉より…


就活に失敗し、大学は卒業したものの、フリーターになった私は、何をしたらいいのかまったくわからないまま、アルバイト先とアパートを往復する毎日でした。

そのころ私は、受験生にチラシを配るアルバイトをしていました。

地方からやってきた受験生は、合格して上京したら、まず家を借りなければいけません。

そんな受験生に、前もって仕込んでおくための不動産のチラシです。


でも、スタッフの管理がかなりゆるく、がんばっても、適当にやっても変わらない。

それどころか、チラシだけ持って帰って、家で捨ててしまってもまったくバレないような仕事でした。


そのアルバイトに、私と同年代くらいの、金髪の青年がいました。

金色に染めた髪にピアスをして、穴の開いたジーンズを履き、チャラチャラ感にあふれています。


切れ長の目をしたその青年は、その見た目とは大きなギャップがあり、まったくやる気のない人の分のチラシも配るくらいの勢いで、目の前の受験生一人ひとりに心を込めてチラシを渡しています。

「お願いします!」という、その言葉の奥からは、まるで「試験がんばってくださいね!」と聞こえてくるかのようでした。

それでも私は、「なんかがんばっちゃってる、まじめなヤツがいるなぁ」くらいにしか考えていませんでした。


そんな彼と、アルバイト後の移動で一緒になり、話をする機会がありました。

「ずいぶん一生けんめいだね」と私が言うと、その彼が私の人生を変えるひと言を雷のように頭に落とし込んだのです。


「お金をもらうんだから、ちょっとでも上乗せして返すくらいの気持ちでやらなきゃダメっしょ!!」


初めて聞いた言葉でした。

言われたことをただやっているだけ。

むしろ適当にやっていた自分が恥ずかしくなるような…。


これまでの私は、自分にとって関わりのあることには一応向き合ってはきたものの、自分の人生には関係ないと思えるものには、「これはオレには関係のないことだから、エネルギーを使うだけムダ」と選別をして生きていました。

何をやってもダメで、お先真っ暗、八方ふさがりの状態だった私は、何をやってもまったく報われない、今の現実が起きている原因の一つが「自分に関係ないことには向き合わない」という、この考えなんだと、彼の言葉からなぜか感じたのです。


「受けたものに“上乗せして返す”気持ちを持つ心」


その言葉が頭の中をグルグル回り続け、そして時差はありましたが、次第に手のひらを固く握り締めるように、“ハートがグッと決まる”のを感じました。

『関係ないと思うようなことでも、“今、目の前にあること”にしっかり向き合って生きていくように、自分を変えよう』…と。

ここからなのです。

たくさんの不思議な演出が起きたり、人生を導く出逢いがむこうからやってきたりし始めたのは!


『幸運は、なぜ「むこう」からやってくるのか』Gakken


佐藤政樹氏は、23歳のフリーターから、絶対に無理といわれた、『劇団四季』のトップ、気象予報士合格というW合格を果たした。


斎藤一人さんはこう語る。

『倍働けば、お給料を倍くれる、そういうところで、「私は倍働きます」っていう人はいくらでもいるんだよね。だけど、倍働いても同じ給料しかもらえないところで「倍働きます」ってやってると、光輝いちゃうんだよ。そういう人って、めったにいないんだよな』(斎藤一人とみっちゃん先生が行く)より


誰もやらないこと、めったにないことは、燦然(さんぜん)と光り輝く。

しかし、誰もがやっていることだったら、それは埋もれてしまう。


仕事も、頼まれごとも、そして何かをしてもらったときのお礼も…。

「受けたものに“上乗せして返す”気持ちを持つ」


中村文昭さんは、それを「相手の予測を上回れ」という。

人から何かを頼まれたら、試されていると思って、相手の予測を上回って驚かせ、喜ばせる。


受けたものを、上乗せして返す人でありたい。
【秀吉の可愛げ】


木村耕一氏の心に響く言葉より…


豊臣秀吉と明智光秀が、ともに織田信長の家臣として、近江(現在の滋賀県)の琵琶湖の周辺を守っていたころの話である。

光秀は、信長から坂本に城を築くように命じられた。


ある日、建設工事の指揮をしていた光秀は、この近くの「唐崎」という土地は、『古今和歌集』や『新古今和歌集』に出てくる歌の名勝であることに気づいた。

今では荒廃して何も残っていないが、ここに松の大木が茂っていたはずである。

光秀は、唐崎に新しい松を植えて名勝を復活させたいと思った。


どこかに、ふさわしい松はないかと探していたところ、ちょうど琵琶湖の北方に、枝振りのいい松の大木を発見したのである。

しかし、そこは敵の領地であった。

光秀は、秀吉の部隊にも応援を頼んで松を掘り起こして運搬する作戦に出た。

ところが、首尾よく松を船に積み込んだと思った時、

「グワーン」

という銃声が響いた。

小谷城の浅井軍に見つかったのだ。

秀吉の部隊も応戦し、日暮れ前にはようやく撃退することができたが、数人の死傷者を出してしまったのである。


前線の最も有能な二人の司令官が、信長の許しを得ずに、かってな行動をとって損害を出したのだ。

岐阜にいた信長は「バカめっ」と叫び、厳しい叱責の使者を、光秀と秀吉の元へ送った。

この時の二人の態度には、その後の人生を象徴するように、非常に大きな開きがあった。


使者がやがて岐阜に帰ってきた。

藤吉郎のもとに行った使者は、

「木下どのはたいそうな恐縮ぶりで、これは腹を切らねばならぬと飛びあがり、真赤な顔でこの岐阜の方角にむかってさんざ叩頭(こうとう)なされました」

と報告したから、信長はわっと大口をあけて笑い、まるで猿めの動作がみえるようだ…と言った。

その使者とともに藤吉郎からも使者が同行しており、近江でとれた山菜、魚介などを信長に進上した。


が、光秀に差しむけた使者は、ひどく理屈っぽいことを報告した。

「明智殿の言葉でござりまする」

として唐崎の松がいかに古歌に名高きものであるかを説き、それを復活して天下に評判を広めしめることこそ殿の御威光、御仁慈を世に知らしめる良策であると存じまする、というものであった。

この口上に信長は激怒し、

「わしにものを教える気か」

とどなった。

その奇行の釈明がこうも理屈っぽく、とりようによってはこう憎々しげでは、光秀を愛してやれる余地がない。

…可愛げがない。

というのが、信長の本音であったろう。

むろん、光秀からはその心根の可愛らしさをあらわすような進物は、蜆(しじみ)一折もとどかない。

司馬遼太郎の『国盗り物語』より


『思いやりのこころ』1万年堂出版


松下幸之助が、成功する人の条件の第一にあげたのが「可愛げがある人」。

可愛げがあるとは、「言い訳をしない」、「一途(いちず)である」、「黙々とがんばる」、「素直」、「完璧ではなく隙(すき)がある」、「明るくてめげない」、「愛嬌(あいきょう)がある」等々のことをいう。

だから、上司や年上の人から引きがあり、周りの人からも人気がある。


その真逆にあるのが、理屈っぽい人。

理屈っぽい人は、人から好かれない。

理屈っぽさは人を冷えびえとさせるが、可愛げや愛嬌は人の心を温かくする。


可愛げのある人でありたい。
【人のことは言えない】


井内由佳氏の心に響く言葉より…


よく、商店の店主や中小企業の社長さんが、人を採用するときに「いい人が来ますように」と言って相談しに来られます。

厳しい言い方になりますが、自分がいい人じゃなければ、いい人は来ないのです。

神さまは「同じような人が集まる」と言います。

いい人に来てほしいなら、自分がいい人になること。

そのためには、まず自分を知ること。


自分を知ると、たとえば、撮られた覚えのないビデオに映っていた自分の姿を見たときのように、「人のことは言えない」と思うくらい謙虚な気持ちになるものです。

そして、他の人がいかに素晴らしいかがわかり、尊敬や感謝の気持ちが湧き出てきます。


逆に、自分の姿をまだ知らないうちは、人の粗(あら)がよく見えるものだから、不満や批判が心を埋め尽くし、人に対して「変わってほしい、何かをしてほしい」と思う気持ちが強いものです。

そういう状態の人は、誰かに「何かをしてあげたい」という気持ちにはなれせん。

神さまは「したことをされる」といつも言っています。

つまり、人をうれしい気分にさせることが出来ない人は、あまりしあわせにはなれないということでしょう。


でも、いくら人をうれしい気分にさせるといっても、口先だけでそれをしたときは、かえって始末の悪いことになります。

結局は、そのうち本心が露呈して相手をがっかりさせることになるからです。

心にもないことは、あとあと厄介で、自分の運も落としますから、言わないことです。


『わたし、少しだけ神さまとお話できるんです。』幻冬舎文庫


人の欠点ばかり目につく人は、自分を知らない人。

人の長所ばかりが目に着く人は、自分の姿を知っている人。

つまり、不平不満や愚痴や悪口、批判ばかりしている人は、己を知らない傲慢な人。


「いくら、技術に優れ、スーパースターでも…、その上には、勝者が、チャンピオンがいる」(元サッカー選手、監督・ヨハン・クライフ)

上には上がいる。

それが分からずに、威張(いば)る人は恥ずかしい、身の程(ほど)知らず。


「人のことは言えない」

自分に欠点があるように、人にも欠点はある。


そして、人をうれしい気分にさせることができない人は、あまりしあわせにはなれない。

どんなときも、人をうれしい気分にさせる人でありたい。
【損得ばかり考えていると】


元博報堂制作部長、高橋宜行氏の心に響く言葉より…


主張、意見、提案などメッセージの確立で、コミュニケーションの80%は成立すると言われています。

しかし、本当に相手とつながるには、どんなメッセージを送るか、その提案力にかかっています。

ところが、そこに軸足を置かず勘違いをし、つい小手先の「ウケ狙い」な表現を最優先してしまいます。


拍手を欲しがり、大向こうをうならせようとする。

そして、「目立たせる」だけで、「表現している」という錯覚をしてしまっているのです。


心ある先輩は声を大にして言います。

「ウケたかウケなかったか、売れたか、売れなかったか、に焦点をあてるだけでは、人間いやしくなっていく」

「コミュニケーションは、相手に何をしてあげたいのか、どうなって欲しいのか、その想いの強さと熱さで決まるのだ」と。


確かに今は、人を幸せにすることや、心や文化、さらには社会全体が企業のテーマとなってきています。

提案は、モノと社会との間にあるものです。


「明るく楽しくする方法」「先をよくする方法」を探し、創り出す。

人や社会へのこだわり、そして執着心を持つことで人を巻き込めるのです。


『人真似(マネ)は、自分の否定だ』ディスカヴァー


損得ばかり考えていると、人はいやしくなる。

損得は、自分だけの利益。


自分が、

目立つか、目立たないか。

ウケるか、ウケないか。

売れるか、売れないか。


そうではなく…

人や、まわりを、

どれだけ、明るくできるか。

どれだけ、元気にできるか。

どれだけ、幸せにできるか。


『「明るく楽しくする方法」「先をよくする方法」を探し、創り出す』

まわりを喜ばせる人でありたい。
【人生をおもしろくするコツ】


吉沢久子氏の心に響く言葉より…


たとえば、一泊二日の旅行が決まったとき、「そんなに短いと、どこもまわれない」とグチをいうのか、あるいは短い旅でも行けると決まったら「やったあ」と張り切って旅の準備にかかるのか。

ここが人生をおもしろくするかどうかの分かれ目だといえるかもしれません。


ささいなことでもたのしめる知恵をもった人を、私は「たのしみ上手」と呼んでいます。

この例でいえば、後者のたのしみ上手の人は、旅の前にいろいろと調べるから、そこから知識も増えて好奇心がいやがうえにも高まり、旅先でもさまざまな発見があることでしょう。

かたや、たのしむことを放棄してしぶしぶ旅に出た人は、何を見ても興味がわかず、時間だけがたって心も体も消耗するばかり。


同じ旅でも、その質がまったく違ってきます。

とくに年をとったら人生をたのしむことがいちばん。

どのみち、もうすべてを請け負う体力も気力もないのですから、嫌なことは放っておいてもよいのではないでしょうか。


とはいえ、世の中にたのしいことなんてそう転がっているものではありません。

だから、たのしみを自分でつくるのです。

それはゼロから何かを生みだすということでなくていい。


肝心なのは、目の前のことをたのしいと思えるかどうか。

そういった意味でも、いろいろなものに興味をもつことは有効です。


たとえば編みものが好きな人は、それが嫌いな人の知らない快楽を知っています。

関心を寄せる対象が多いほど、人生をたのしむチャンスは多くなるともいえるでしょう。


また、あれもしたい、これもしたいという好奇心があると、すごく若々しく生きられると、脳の専門家の方がいっていました。

とくに女性は、たのしく生きる知恵をもたなければソンだと私は思っています。


『人間、最後はひとり。』さくら舎


人間、生まれたときもひとりなら、この世から去るときもひとり。

しかしつい、人間は一人一人が、自立した個の「ひとり」であることを忘れてしまう。

いつも、まわりに家族や友人、仕事仲間がいるから、つい間違えてしまう。


何かあったとき、人やまわりのせいにすることがそれだ。

最近楽しいことがない、などとまわりにグチをいう。

しかし、人生において、何かおもしろいことや楽しいことが、向こうからひとりでにやってくる、などということはまずない。


たのしそうにしている人は、自ら努力してそうしている。

たのしみは自分でつくっていくもの。

目の前のさもないできごとをおもしろがれるか、つまらなく感じるか、で人生は変わる。


「たのしみ上手」

人生を、おもしろおかしく暮らしたい。
【人は、見かけが100%】


斎藤一人さんの心に響く言葉より…


いいかい。

人は、“見かけ”が100%なんだよ。


世間の人はたいて、「格好をつけるな」とかって言うんだけど、私は昔から、「格好ぐらいつけろよ」って言ってるんです。

なぜなら、人の中身って、外からは見えないんです。

あなたがどんなにすばらしい才能を持っていても、どんなにりっぱな考え方を持っていても、どんなに“いい人”であっても、外見を整えて格好よく見せることをしなかったら、誰もあなたのすばらしさに気づいてくれないよ。


世間は冷たいとか、言ってるんじゃないの。

他人のすばらしさをわざわざ探し出してくれる人は珍しい、めったにいないよっていうことなんです。

しかも、人は“見た目”通りなんです。


例えば、「私は何十年も前に華道の世界に入って、今は師範をしています」

と言う人がいるとするでしょ。

でも身なりも、立ち居振る舞いも、どれを取っても“品がない”としたら、どう思いますかっていうことなんです。

この人は、何十年もお花をやっていて、師範にまでなったのに、相も変わらず品がよくならない、そんな性質を持っているんです。


その性質が“見た目”に出ている。

「私は華道のナントカ流の師範です」と言うと同時に、その残念さがわかるんです。


いつ洗濯したんだか、よくわからないようなシャツ着て、スラックスの線も消えちゃってるっていう人を想像してごらん。

「あの人は身なりをかまわないけど、家は億万長者なのよ」っておかしいと思わなきゃダメですよ。

だって「人は“見かけ”によらない」という考え方が間違っているんですから。


家は億万長者でお金もあるのに、ちゃんと清潔にしようと思わないという性質が出てる。

その汚い格好で周りに不快感を与えているのに、平気でいられる。

そいう性質が外見に表れているんです。


「この人はお金持ちなのに、だらしがないわ」って、あなたは思うでしょ?

ということは、“見た目”にだらしない性格が出ているのが、わかっているんです。


あなたは、そういうだらしない人と「友達になりたい」とか「いっしょに仕事をしたい」と思うかい?

思わないよね。

だったら格好ぐらいつけなよって。

スーパーのバーゲンで買ったシャツだっていいの。

きれいに洗濯されてて、清潔な感じがするようなシャツを着てくださいって言っているんです。


外見を整えて、自分をより高く、魅力的に見せないといけないよ。

人は“見た目”で判断するんだから。

身なりが残念だったばかりに、他人になめられたままで、楽しく幸せに生きることはできないよっていうことです。


あなたの今の外見に、あなたの生きざまから考え方まで、全部“あなた自身”が出ているんです。

それを人は、見ていないようで、実はよく見てるんです。

“見た目”で、あなたはどういう人間で、親しくつきあうべき人間かどうか判断されているんです。


もちろん、みんな心がきれいで性格のいい人とつきあいたいよね。

だけど、性格がいいだけじゃダメなの。

性格がよくて成功しているだけでもダメなんです。

なぜかというと、「成功していて格好いいうえに、性格もいい人」っているんです。ほんとうに。

そういう人と「性格はいいけど、成功していなくて“見た目”も残念な人」がいるときに、あなたはどちらの人により魅力を感じますか、ということなんだよね。


『21世紀は男も女も“見た目”が100%』マキノ出版


夫婦でやっているラーメン屋さんで、味はいいけどダンナがいつも奥さんを怒鳴っていて、夫婦ともいつもくたびれた汚い白衣をきているような店があったとする。

その店の隣に、味がよくて、夫婦とも清潔でパリッとした白衣を着て、夫婦の会話も気持ちがよくて、笑顔のある店ができたとしたら、怒鳴っている店はいつか閑古鳥が鳴き、笑顔で気持ちがいい店の方が必ず繁盛する。


日本そうじ協会というところで、「掃除道」の話を聞いたことがある。

そこでは、自分の部屋や、車や、仕事場の掃除の状態が今のあなたを表わしている「通信簿」だという。

もし、ゴミ屋敷になってしまっているなら、何事もいつも後回しにし、面倒くさがりやの、だらしのない「性格と習慣」を持っているということになる。


それは外見も同じで、「見た目」にその人のすべてがにじみ出る。

「人は、見かけが100%」

つねに、もっと魅力的になるように、性格とともに外見を磨き続けたい。
【先の見通しがどれほど利くか】


SBホールディングス社長、北尾吉孝氏の心に響く言葉より…


ソフトバンクの孫さんが、創業当初たった2人のアルバイトに対して、

「豆腐屋さんの心意気でやるぞ!豆腐を1丁、2丁と数えるのと同じように、1兆、2兆と数えられるような規模の会社にする。これからはコンピュータの時代がくる。情報革命で、すべてが圧倒的に変わる時代がくる。そのためにやるんだ」

と言われていました。


これは孫さんの夢というより願望・希望であったとも言えますが、片方で世の中確実に「デジタル情報社会」に向かって進んで行く、という彼のビジョンには予見性がありその分野での事業を展開するのですから、その分野が飛躍すればその事業は飛躍すると想定したのもまた妥当だと思うのです。

デジタル情報革命というのは私がソフトバンク在籍時、孫さんが

「全社を挙げてあらゆる経営資源をインターネットに」

と言われて取り組み始めたものですが、我々はこの大革命でデジタルの世界が「シンカ(深化・進化)」し、大変な広がりを見せて行くに違いないと考えて共に歩み、そして今日それが現実となっているわけです。


つまり、私が金融分野でやってきたことや孫さんが語ってきたことというのは、決してホラでなく一種の確信に因るものであって、それは現実に進んで行く方向を正確に予見しているだけのことだと言えなくもないでしょう。


人間の知恵というものに関して言うと、かつて私は「その人がどれほど前途を見通し得るか否かによって、計ることが出来るんではないかと思うのであります」という森信三先生の御考えをツイートしました。

あるいは「人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにあるのです。人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです」とツイートしたこともあります。


私にとって知恵というのは、知識をベースにして未来の事柄を如何にして推し量るかとか、あるいは直観力をどう働かせて様々な問題を処理して行くかといった具合に、知識を超えたものであり、学んで理解する「学知」とは異質なものです。

森先生は「人間の知恵とは、(一)先の見通しがどれほど利くか、(二)どれほど他人の気持ちの察しがつくか、(三)何事についても、どれほどバランスを心得ているか、ということでしょう」と言われております。


『人生を維新す』経済界


事業でいうなら、「先の見通しがどれほど利くか」、個人でいうなら「どれほど他人の気持ちの察しがつくか」。

事業において、先の見通しが利かなければ、早晩その会社は変化の激しいこの競争場裏から去らなければならなくなる。

個人において、他人の気持ちの察しがつかなければ、次々と友人は去り、最後は家族からも愛想を尽かされるだろう。


将来の見通しの有無は、広範な知識や情報の集積の多寡による。

また、自分の器以上には、相手を理解することはできない。

自分の器が小さければ、その小さい範囲でしか相手のことはわからない。

自分の心や魂を磨き器を大きくすればするほど、多くの人の気持ちを察することができる。


先の見通しが利き、他人の気持ちの察しがつく人でありたい。
【運に巡り合いたいのなら】


林修氏の心に響く言葉より


自分の好きなことを仕事としてやっていくことができる人は、本当に幸運だと思います。

僕自身、そんなことはほとんどできていません。

やりたくもない予備校講師を長年やってきたことで、ようやく自分が一番やりたい本を書くという仕事の依頼を次々といただけるようになりました。


ところが、本を書くより好きだとはとても言えないテレビの出演の依頼も多数いただけるようになり、肝心な本を書く時間をほとんど捻出できない状況です。

だったら、テレビの仕事を断ればいいではないか、という声も聞こえてきそうです。

それはもっともですが、「それはちょっと違う」と言いたいのも事実です。


みなさんは、自分の「交換可能性」ということについて考えたことがありますか?

僕は、このことに絶えず自覚的です。

仕事を断ることは簡単ですが、僕でなければできない仕事などほとんどありません。


そう、僕にできる仕事は、基本的には他の誰でもできるのです。

にもかかわらず、相手はぜひ僕に、と依頼してくれた…。

どこに断る理由があるのでしょうか?

ありがたくお受けして、そこで全力を尽くすだけです。


そして、依頼してくれた相手が、「やっぱり林さんにお願いしてよかった」とほほ笑んでくれれば、それでよいではありませんか。

こういった「交換可能性」は、すべての人に当てはまる話なのです。


「オレがいなかったら、この会社は立ち行かないよ」

こんな妄言はありません。

その人がもしいなくなっても、おそらくその会社はしっかり営業を続けるでしょう。

組織とはそういうものであり、また、そういうふうに組織づくりを行うべきなんです。


そんなふうに、誰しもが「交換可能性」に脅かされるように生きているなかで、『アンパンマン』の作者であるやなせたかしさんは、次のようにおっしゃっています。


『運に巡り合いたいのならば、なんでも引き受けてみるといい』


自分の好き嫌いなどという小さな物差しにこだわらないことが、運に巡り合う秘訣だ。

そう読み替えることもできるでしょう。

そういうものなんですよ。

これは、僕がいただいたテレビの仕事に全力で向き合ったからこそ出会えた言葉なんです。


『やりたくない仕事に全力で打ち込むことが、やりたい仕事に自分を近づけてくれるという逆説』


そんなふうにも言えるのではないでしょうか。逆に、


『やりたいことにこだわりすぎるがゆえに、逆にやりたいことができなくなってしまうという逆説』


これもまた真実のような気がします。

会社に入って、最初に配属されたのが希望した部署ではなかったと、モチベーションが下がってしまう人がいます。

ひどい場合は、それだけで会社を辞めてしまう人さえいます。


「僕にはそれはできません」「私はこれしかやりません」と拒否することが、結果的には自分の可能性を狭めることになる場合が少なくないのです。

自分にどんなポテンシャルが眠っているのかは、案外自分ではわからないもの。

第三者が客観的に見たうえでの、「この人にはこの仕事をやらせてみよう」という判断は、意外に正しい場合が多いのです。


ですから、自分のモノサシにこだわって、まだわからない未知の才能が花咲く可能性をつぶしてしまうのはもったいない。

やなせさんのような、こんな仕事もやってみるか、という柔軟な姿勢から好結果は生まれるものなのです。


『林修の仕事言論』青春出版社



幸運も不運も、人が運んでくるもの。

運の悪い人と巡り合えば運は悪くなり、運のいい人と巡り合えば運はよくなる。


「運は自分が引き寄せるもの」、と考えるより、「運は人が運んできてくれるもの」と考えた方が謙虚で可愛げがあり、運の女神には好かれやすい。

もちろん、自助努力なしの、口をあけてただ待っているだけの人頼りの姿勢では、運はやってこないのは言うまでもない。


人から頼まれたり、やる羽目になったことは、テストのようなもの。

頼まれたこと以上のことをして、相手を驚かせたり、喜ばせたらテストは合格。

そこから、運がやってくる。


自分の幅を大きく広げてくれるのは、多くは、人からの無茶な頼みや、無理難題にも思えるオーダー。

運は予期せぬ方角からやってくる。

そして、自分の枠を超えたところに運は存在する。


人からの頼みごとを全力でやり遂げる人に、運は巡ってくる。
【ニュースの宿命】


植西聡氏の心に響く言葉より…


以前、アメリカのジャーナリストが行った調査によると、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストをはじめとするアメリカの新聞のおよそ8割はマイナスの情報に満ちているといいます。

日本の新聞やテレビから流れるニュースも例外ではありません。

犯罪や事故や景気低迷といったマイナスの情報が実に多いことに気づくと思います。


こうしたマイナスの情報に満ちた環境の中で暮らしていたらどうなるでしょう。

マイナスの情報が他者暗示という形となって、その人の心にどんどんインプットされるようになります。

そうなったら、心の中にマイナスのエネルギーが宿るため、悪いモノを引き寄せる結果となります。


これを相殺、もしくはプラスのエネルギーに転じさせるためには、願望をいつも思い出す習慣をつけておくのが良いです。

たとえば、マイホームが欲しいという願望ある人は、まず自分が理想とするタイプの家を雑誌やネットなどで探すようにするのです。

そして、気に入った写真が見つかったら、それを切り取り(ネットならプリントアウト)、部屋などに貼って、暇さえあれば、それを眺めるようにするのです。


小さな写真であれば、定期入れなどに入れて、通勤電車の中やどこかで人と待ち合わせているちょっとした空き時間に眺めるのもいいでしょう。

いずれにしても、自分の願望に関係する写真や絵を手元に置いて、いつもそれを眺めるようにすれば、イメージの世界で自分が本当にそうなったかのような体験をすることができます。


そうなれば、快適で楽しい気分にもなれます。

それはとりもなおさず、心が明るくなり、プラスのエネルギーが宿った証拠なのです。


「マイナスの情報から心を守るために、自分の願望に関係する写真や絵を眺めるようにしよう」


『運気をつかんで離さない人の習慣』徳間書店


新聞や雑誌に限らず、テレビで流れるニュースの大半は暗いニュースだ。

なぜなら、特殊なこと、めったにないことはニュースになるが、当たり前のことや誰もが見かけるようなことはニュースにはならない、というニュースの宿命があるからだ。

だから、どこそこの町で大火事があった、ということは、それ以外のところでは大火事は起きていない、ということになる。

大火事が起きていないところはニュースにはならない。


我々は、メディアを見ていると、暗い話題やマイナスの情報が大半だと、つい思ってしまう。

しかし、よく考えてみればわかるが、暗いニュースが多いのは、本当は暗くない話題、明るい情報が大半だということなのだ。


暗いニュースに一喜一憂せず、明るい話題やプラスの情報に焦点(しょうてん)をあてたい。
【執着を手放す】


小林正観さんの心に響く言葉より…


執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、日本語では「ほとけ」と呼びました。

それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。

自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。


ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。

執着というのは、「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことです。


それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、

「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。そうなるといいなあ」

「そうなると楽しいな」

「そうなると幸せだな」

と思う。

「こうでなきゃイヤだ」

と思ったときに、それが執着になります。


超能力の立場からしても、「こうでなきゃイヤだ」と思ったときは脳波がβ(ベータ)波になって、15%の力でしかものを克服することができませんし、実力でしか表現することができません。

一方、「こうなるとうれしい」「こうなると楽しい」「こうなると幸せだ」と思ったときは脳波がα波になり、不思議な力(85%の潜在能力)が助けてくれます。

超能力的な解決方法とでもいうのでしょうか。

そういう力が、どこからか支援してくれるのです。


こういう考え方もぜひ覚えておいてください。

「こうでなきゃイヤだ」と思ったときは、「やだ」か「ゼロ」しか待っていません。

例えば、「明日晴れなきゃ、やだ」と思ったときには、晴れないと(つまり、雨や曇りだと)、「やだ」なのです。

晴れて当たり前ですから、それが「ゼロ」になります。

「やだ」か「ゼロ」、「マイナス」か「ゼロ」しか待っていません。


一方、「明日晴れたらうれしい」と思ったとしましょう。

晴れなくても、雨でも曇りでも「ゼロ」です。

「晴れたらうれしい」のですから、晴れたときにはその分「プラス」になります。

「プラス」か「ゼロ」しか待っていません。


「晴れたら楽しい」と思ったときには、「ゼロ」か「楽しい」しか待っていないのです。

そういう、ほんの少しの考え方の違いで、未来に待ち受けているものが、完璧に違うのです。


いろいろなものを、「こうでなけイヤだ」「どうしてもこうなってほしい、こうあってほしい」と思うことが執着。

その執着はほとんど自らの手でむんずとつかんでいるところから始まっています。

ちょっと見方を変えて、そのつかんでいる手を放してみたらどうでしょうか。


『この世の悩みがゼロになる』大和書房



経営学者の飯田史彦氏は、経営学の見方から、「生まれ変わり」について述べている。

「生まれ変わり」など絶対にない、怪しい考え方だと思っている人が、亡くなったとき、「あの世があった」としたら、がっかりして、「マイナス」な気持ちになる。

もし、「あの世がなかった」としても、何もないのだからプラスもマイナスもない、「ゼロ」。

反対に、「生まれ変わり」があったら楽しいなと思っている人が、亡くなってあの世に行ったとき、「あの世があった」としたら、思った通りだとうれしくなり、その分「プラス」になる。

もし、「あの世がなかった」としても、ないのだから、「ゼロ」。

だから、「生まれ変わり」を信じた方が得だ、という考え方。


この世における「執着」も同じ。

絶対にこうでなければイヤ、と思う気持ちを捨てること。

「そうであったら楽しいな、でもそうならなくても大丈夫」と執着しない。

見方を変えて、執着を手放したい。
今年も1年 色々と気づきをもらいました(^^)

来年も 書き続けて下さいよ♪

体 そこそこ気をつけて
よいお年を(*^.^*)

お年玉 待ってま〜す(^^)/

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