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御室小学校コミュの駅伝のこと

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1948年生まれです。御室小学校のHPを見たら、大文字駅伝出場決定が書かれていました。おめでとうございます。

私が5、6年の頃ですから、昭和35年頃だと思うのですが、当時、御室小学校だけで学年クラス対抗駅伝をやっていました。校区の一般道路を使ってやっていました。どこがスタート地点だったか覚えていませんが、妙心寺、竜安寺商店街、観光道路、仁和寺、福王子、高雄口、花園駅の周回道路を走りました。警察官がでて交通止めをした記憶が無いので、車も余り走っていないいい時代だったと思います。6年の時は優勝。そのときの記念品(襷かゼッケン)が担任の先生宅に残っていました。

クラスでは、練習のため御室八十八箇所を走り、代表選手の予選をしていました。私も選ばれて、仁和寺駐車場から高雄口まで走ったのを覚えています。

その頃、5、6年生は、学校から愛宕山の山頂まで走って登る、というのもありました。3,4年生が清滝、1,2年生は広沢の池まで走ったり歩いたりで。

今でも駅伝の伝統が受け継がれていることを、うれしく思います。大文字駅伝、頑張ってください。

コメント(23)

わわ!σ(^^)より先輩がやっと現れた!

51年生まれですが3月生まれなので2期下だと推測します。
適応遠足−という名前でした−は我々の年から愛宕山は走って登るのではなく歩いて登っていました。ただ学校からスタートで山頂までの往復全行程徒歩は流石にヘバりましたね。今の小学生に出来るかなぁ?

学校内のクラス対抗駅伝は知りませんでした。観光道路−きぬかけの路−はその頃からあったのですか?確か小学校の高学年の頃まで龍安寺の山門を下がった処に駐車場があったと記憶していたので…
》警察官がでて交通止めをした
我々の頃はソロソロ交通量も増えてきたので毎朝登校時に6年生が一条通りと正門前の交通整理に当たっていたことを思い出しました。マダ集団登校は無く1年生でも各自バラバラに自宅から学校へ向っていました。
そうですか。それでは私が今のところ最年長ですか?

そうです。適応遠足でしたね。「学校から愛宕山の山頂まで走って登る」と書きましたが、個々人の力に応じてですから、すべて走って登るのも、途中で歩くのも自由だった気がします。

私の4歳上の兄は、走るのが得意で、5、6年とも学年1位。私は、ひ弱で辛うじて山頂にたどり着く始末で、兄を知っている先生から「君もよく頑張ったね」と言われ、何となく気恥ずかしかった思い出があります。
娘さんを始めとする後輩の皆さんの頑張りで大文字駅伝出場が決まり、おめでとうございます。
京都に居た5年ぐらい前に、京都テレビで一度、大文字駅伝を見ました。ゴールが錦林小学校(亡くなった母が戦前に勤めていた)だったので、よく覚えています。

今は、大阪に移りましたので、応援には行けませんが、娘さん始め後輩たちのご健闘とご活躍をお祈りしています。


「きぬかけの路」は、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、1963年(昭和38年)に開通して以来「観光道路」と呼ばれていた、とあります。これは全線(金閣寺から仁和寺)開通のことと思います。工事は35年前後からだったと思うのですが。おっしゃる通り、竜安寺の駐車場は、開通後直ぐに今の所に移転しなかったのかも知れません。

「きぬかけの路」の顕彰碑がたつ住吉山登り口の辺りは、観光道路開通前は、昔の私の遊び場所でした。「きぬかけの路」と題する井堂雅夫さんの版画でこの辺りが描かれています。懐かしいので私の部屋に掛けています。
版画 日記で拝見してきました。−寒そう ブルブル(((^^)))

画面の丁度左側がボクらの秘密基地(笑)があった辺りです。虎次郎さんとはその辺りでお会いしていたかもしれませんね…
山の中の秘密基地。懐かしい言葉です。住吉山から大内山、衣笠山。原谷から沢池辺りまで、子供だけで行って、あっちこっちに基地を作っていました。
でも、私の甥が御室小学校の頃(30年ぐらい前)には、学校で子供だけの山遊びは禁止だと聞かされて驚いたものです。

そうですね、会っていたのかも。
あの頃は結構、近所の子供たちが縦繫がりで遊んでいましたから。
特に、地蔵盆の時は住吉町、玉津芝町から塔の下町(当時、新興住宅には地蔵尊がおられないので。その後、住吉神社の神輿倉建設の時、地蔵尊が掘り出され、一体は住吉神社前に、もう一体が塔の下町に祭られたと記憶しています)までの広い範囲で子供が集まりましたから。

昭和29年に私の実家(今はなくなりましたが)に引越しいてきたとき、既に地蔵尊が祭られた祠が家の東南の角にありました。
家の押入れには、何故か地蔵盆のときに地蔵尊を安置する3段ぐらいの組み立て式飾り棚が入っていました。母はその後40年間ぐらい地蔵尊と地蔵盆のお世話をしていました。私も高校生になったら、隣に住んでいたK君と共に、おばさん達に混じって、地蔵盆の手伝いをしていました。

K君などは、自分の子供のために地蔵盆の世話をし、その後もしているのでは。彼は私と同い年ですが、住吉神社秋祭りの神輿を担いでいると言いますから、故郷にずっと住み続けるのも、いいものかも。

井堂さんの工房が金閣寺と立命館大の間にあるせいか、龍安寺や住吉山から見た
仁和寺の五重塔など、故郷の景色が描かれており、楽しんでいます。
1982年生まれ、小学校6年生のときに大文字駅伝出場しました。
このころはだいぶメジャーになってきていて、右京区の小学校集めて駅伝の選考会(それまではクジか順番に回ってくるものだったらしい)も行われていました。
私は2区だったかな、仏教大学から北大路通り走りました。懐かしいな。
学校から愛宕山まで歩くって一体何キロあるんでしょうか? 小学生がそれを走って山の頂上まで行く、というのが想像できません。私は69年生まれなのですが八十八箇所までのマラソン大会でひーひー言いながら走ってたのを懐かしく思い出します。そのシーズンになると毎朝運動場を何週か走らされてた様な気がします。それから6年生の時に担任の先生が運動場で枯葉を集めさせて焚き火をしてくださったのが楽しかった。

あの頃は(特に虎次郎さんの頃は)子供達が遊べる範囲が大きくって
自由にのびのびしてたなあ、と思います。

井堂雅夫さんの版画好きです。今度実家帰ったらお店見に行ってこようっと。
京都での全国女子駅伝を見ていて、中学生もすばらしいランナーが多いのは、かなめさんのように、駅伝などを走った方がいるという裾野の広さから来ているような気がしました。でも、ピストルの音が怖くて走り幅跳びに変わったと読んで、思わず苦笑しました。

学校から愛宕山は、確かなことではありませんが、およそ8Kmぐらいではなかったかと。私はひ弱だったので「歩いたり、走ったり」と書きましたが、「歩いたり、歩いたり」に近かったようにように思います。でも、兄は間違いなく走って登ったと言っていました。その後、兄は中、高共に陸上部にいましたから本当だと思います。

確かに昭和30年代は、自由にのびのびした時代だったようです。それでも親や先生からは「ことり」に気をつけるよう」に言われていました。(小鳥ではなく子取りのことで、今で言う誘拐)。「子供一人で妙心寺を抜けてはいけない」などといわれていたように思います。

また、「不良」という厳つい中学生もいました。切り出しナイフなどを持っていました。そんな方を怖いと思いましたが「ガキ大将」に少し毛の生えた程度だったのか、山に一緒に行ったとき切り出しナイフでチャンバラごっこ用の枝を切ってもらった記憶があります。今で言う団塊の世代で、近所には当時、子供があふれていましたから、縦繫がりの集団で、いろいろ学んでいたのでしょうか?

私は不良ではありませんでしたが、その後、文房具屋さんで切り出しナイフを買いました。それで鉛筆を削ったり、竹や木を切っていましたから、切り出しナイフを持つ=不良ではなかったようです。

クリスマスのときは、家から鋸を持ち出し、友達何人かで、はなび池の近くで「もみの木」を切りだし、雪そりや弓を作る「竹」を竜安寺とはなび池の間にある竹やぶから切り出したり。今だったら、集団窃盗で補導されるのでしょうね。
そうやって子供達が集団で遊ぶことは素晴らしい学習になってたことでしょうね。コミュニケーション、想像する、創造する、自分で物事の判断ができるようになる、など。今の子供達は行動範囲も狭そうだし、もちろん子供の数だって少ないし、大人に与えられた事を大人の監督の下にこなしていくみたいなパターンが多いので自分で物事を考えたり創造性を養うってことが少なくなっていますよね。

すみません、駅伝の話から逸れましたね。でも昔の話をこうやって読ませてもらうのは歴史の本を読むよりずっと面白いので是非続けてくださいね。
今はもう走れませんが、駅伝を見るたび心のそこから「ぞわぁ〜」っとします。あの時まだ小学生でしたが、前の人からもらった駅伝のたすきを次の人に絶対つなぎたいみたいな強い思いだけは持っていて、駅伝のたすきが最後までつながったことを聞いたとき、順位はどうあれすごく感動した覚えがあります。今でもぼろぼろになったシューズが、私の家に保管されています。

子供のころの遊び、双ヶ丘か八十八ヵ所によく行っていました。秘密基地作り(男の子みたいですが…)をよくもあきずに毎日のようにやっていたと思います。高学年になると塾に行く子が多くなったり、テレビゲームブームが巻き起こっていたので、外で遊ぶことが少なくなりました。それでも私の家は超古風な家だったので、塾にも行かせてもらえず、テレビゲームも与えてもらえず、自宅で竹ぽっくりとか遊び道具を作って楽しんでいましたよ。
2年後輩とおっしゃるGomiさんや、もっと若いかなめさん、いっちゃんさんからもコメントをいただき、時代は違うのですが同じような体験をMIXI上で共有させてもらいました。これがMIXIの良さであり、楽しさだと改めて経験した次第です。ありがとうございます。

かなめさんが言われるよう、駅伝は前の人から襷を受けて、次の人に襷をつなぎます。おそらく御室小学校に関わった人たちも、このような形でいろいろなものをつないできたのだという想いに駆られています。

今でもあの童謡のような校歌(御室の里の子供たち…という)を歌うと、素直な気持ちになれます。
〉いっちゃんさん
9:》小学生がそれを走って山の頂上まで行く、というのが想像できません。

フィクションですが「麗しの愛宕山鉄道鋼索線」という本があります。
http://www.amazon.co.jp/dp/4897041791/
現代の小学生(嵐電の御室駅から出てスグ車窓から見える小学校の児童)が昭和初期にタイムスリップしてしまうというSFです。嵯峨の迷い込んでお世話になっている家から毎日その小学生が愛宕山に登るという設定や自宅のあった《ある予定地の》嵐電妙心寺の駅から嵯峨の居候先まで歩いて帰るというエピソードもあります。
まぁ作者は長距離の選手だったそうですから割り引い考えても我々よりも年長者は千日詣などでは歩いて愛宕までいっていたそうです。

八十八ヶ所のランニングといえばラグビーの日本代表だった細川選手は−御室出身だそうですが−実家にいた頃は毎朝トレーニングとして1周していたそうです!そりゃ足腰が強くなるわ…
御室小学校から愛宕山を見るとあそこまで走って行こう、などとはとても思えませんわ、大人でも。ま、私は長距離が苦手ですから。ウッシッシ
Gomiさん、小説の紹介有難うございます。小説に地元の地名が出てくるだけで
興奮してしまいます。是非読んでみたいです。

虎次郎さん、校歌を覚えていらっしゃるなんて素晴らしい! メロデイは出てくるのですが歌詞は残念ながら、、、

〉いっちゃんさん
15:》小説の紹介有難うございます。小説に地元の地名が出てくるだけで興奮してしまいます。

あれ?この本は前にも紹介したのに…と思っていたら双中コミュでした(^^)ゞ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4126117&comm_id=131617
そのトピでは「京都花園天授ヶ丘」なんて小説も紹介しています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4860870026/

僕が住んでいた頃は天授ヶ岡は高級住宅街で家の前の駐車場にアストンマーチンが置いてあったり個人持ちのテニスコートが角にあったり明治風の洋館があったりしてハイソサエティな感じの町でしたが、その昔は撮影所があったとか…
ただチト高価な本なので図書館をお勧め と書こうとしていっちゃんさんのプロフを見たらアメリカですか(^^)ゞ

アメリカと言えば虎次郎さん紹介の版画で左手を進むとルーテル教会の牧師さんの家があり庭に芝生が敷き詰められ奥に西海岸風の家屋で、いかにもアメリカ風を感じたものです。何度か遊びに行ったのですが中の造りもTVのアメリカンホームドラマに出てくるのと殆ど同じようなソファーのあるリビングやテーブルのあるダイニングという昭和30年代では羨ましいとしか言えない雰囲気でした。
まだあるのかな?
僕は、平成16年度卒ですが、そん時は大文字駅伝、26位でした手(パー)

もちろん、僕も出ました手(チョキ)
七転び八起きさんやかなめさんのように大文字駅伝に出た方にとっては、駅伝は大きな思い出なんでしょうね。

私は6年生の頃、148cm、30kgでひ弱。運動会の短距離は何時もビリ。でも、中距離はほんの少し走れそうな気がしていたのですが、学年別クラス対抗駅伝の選手に選ばれ、それなりに走れた喜びと自信は、体育苦手意識を少しだけ緩和してくれました。
かなめさんが書いておられたように、皆で襷をつないで走るという駅伝が、私の後押しをしてくれたと思えます。

Gomiさんとは、年齢が近いせいか、記憶が重なっています。天授が丘のテニスコートでは、勝手に入って三角ベースの野球をしていました。明治風の洋館は、たぶん伊吹代議士のご実家では。

ルーテル教会は私の実家の北側にありました。確かにアメリカンでした。今はもうなくなり、和風の豪邸などが建っています。
ここの牧師さんはよくできた方で、前にも書いた地蔵盆をやる場所として、この教会のガレージを貸してくださいました。ルーテル教会と仏教行事の地蔵盆という今思えば奇妙な組み合わせです。もちろん牧師さんの娘さんと息子さんも、町内の子供として参加していました。

30年代には、近所に撮影所はなかったですが、近所のYさんやMさんの豪邸や住吉山では時代劇映画やテレビ映画(山城新吾主演の「白馬童子」?)の撮影がありました。
同級生のお父さんが俳優(確か「大友柳太郎」さん)や映画関係者だったり。玉津芝町には、東映のお姫さま役の「丘さとみ」さんの家がありました。そう言えば子役の「目方まこと」さん(その後、歌手になられました)も近所だった記憶があります。
今思えば、太秦の映画全盛期だったのですね。住吉山の墓地には牧野省三?さんや轟ゆきこ?さんなど映画関係者が寝むっておられるはずです。

ぴかりさんへ

そうです手(パー)
一区を走った人のおかげで、本大会に出場できたようなもんですわーい(嬉しい顔)

まぁ、僕では、ありませんが笑手(パー)

虎次郎さん
》Gomiさんとは、年齢が近いせいか、記憶が重なっています。
それもありますが、住んでいた場所も近かったのでは…
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=239838297&owner_id=2145604
拙日記に上げた昭和の末まで住んでいた家からの眺めをgoogle earthで再現したものですがご近所だったとお判りかと(^_^;

》天授が丘のテニスコートでは、勝手に入って三角ベースの野球をしていました。
コミュずれしますが中学時代テニス部で借りて練習場所にしていました。進学した中学は入学直前に大火事…入った時は校舎の再建工事でグランドや体育館もテニスコートも無く最初は御室校のグランドで練習していましたが、そこもプール工事とかで追い出され天授ヶ岡のテニスコートを借りていました。
脇の草叢やコートの横で着替えをしていたのですが女子もそうだったのかな?チト忘れていますあせあせ(飛び散る汗)

》明治風の洋館は、たぶん伊吹代議士のご実家では。
幹事長の本家宅と元京都帝國大學の教授宅が洋館でした。京大教授と京都帝大教授では社会的地位や収入に雲泥の差があるとは知人の京大教授の言ですがスゴイ洋館でTVか映画のロケで前に人力車を止めて撮影していたのを数度見かけています。 「近所のYさんやMさんの豪邸」での撮影は見たことが無かったですが、その2件の家とも100m四方ぐらいの広大な敷地でした。今でも個人持ちなのかな? Yさんは僕の出身高校の校地を京都府へ寄付された方ですね。
駅伝の話でスタートし、ご近所談義になりましたね。

Yさんが高校の入学式の壇上におられたのには、ビックリしました。
近所を着物姿で下駄を履いて歩いていたおじさんが、挨拶で「英国のイートン・カレッジ?のような学校を作って欲しくて、校地を寄付した」とかいう話をされて、さらにビックリ。

Yさん宅は広くて、我々が遊んでも怒られませんでした。砂利道に敷いてあった小粒の石をパチンコ玉に。池あり、畑あり。屋敷の奥は、はなび池まで続いていて柿の木もあり、勝手にいただいて食べていました。ありがたいことでした。

確か本宅は「指月林」というなって、子供のキャンプ場もある教育施設のようなものになったと記憶しています。

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