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風間 完コミュの風間完小伝 2003/12/27 挿絵画家 風間完が亡くなった日

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風間完が生まれ育ったのは、東京下町。 川や往来する船の情景が、彼の絵心を動かし、やがて画家を志すようにな る。 そして、工芸学校(現千葉大学)卒業後、20歳のときに体験した戦争は、 自分が画家として生きることを確信に変えた。

風間は当時をこう回想している。 「生きている証は、はがきに絵を描いているわずかな時間のみ 絵だけを描いて毎日を送りたい」

戦後、風間はその思いを実行に移した。洋画家として身を立てることを志 したが、30歳を過ぎても、食べてはいけなかった。 そんな姿を見かね、編集者だった兄(三木蒐一)が紹介してくれた仕事、 それが挿絵だった。 風間は思った。「これで絵だけを描いて暮らしていける!」

こうして、全力で取り組んだ風間の初めての挿絵は新聞の連載小説だっ た。(「恋あやめ」作邦枝完二) 明治時代の花町を描きながら、その絵は、洋画らしい、余白を生かした大 胆な構図。 そして、スマートさにあふれていた。

その新鮮な作風が、一人の作家の目に止まる。 あの、大物作家・松本清張だった。 清張は週刊誌連載の「昭和史発掘」の挿絵の画家として、風間完を指名し た。日本が戦争へと向かう時代を描いた内容。文章の重さには風間の絵の スマートさが必要だと思ったという・・・。

風間は少年の日に帰ったように、昭和史の現場である、東京の懐かしい風 景を描き続けた。この時、清張は一切口出しせず、絵の内容や仕上がり全 てを風間に任せたという。

挿絵画家・風間完が多くの作家たちに愛された理由。それは彼らと同じ目 と同じ心を持ち、ひとつの作品を作り上げていくという旅を共に歩んだか らであった。 かつて、38歳の時、風間は10年ぶりにパリに留学していたその時に出会っ たフェルナン・レジェ(20世紀前半に活動したフランスの画家)の作品。 その中に描かれた大胆な線、そして色・・・。 風間は思った。「創作は苦しむだけじゃない!自由闊達に描いていいの だ。」

そんな思いを、胸に秘め続けていた風間は、やがて自分がまさに描きたい と思うものを見つけ出す。 それが、女性像だった。作家・五木寛之と組んだ「青春の門」で、風間は 新たなる挑戦をする。 風景の中心に大胆に描き込まれた女性の顔。それは、自由を求め続けた、 風間の答えだった。

その絵に衝撃を受けた五木寛之は思いをこんな風にコメントしている。 「風間さんの絵は生きている。よし、負けてなるものかと心に燃え上がる ものを感じた。」

続けて取り組んだのは、瀬戸内寂聴、当時、「晴美」の「京まんだら」。 京と祇園に生きる女たちの世界を描いたその作品で、風間の筆は表面上の 美しさだけではなく還暦を過ぎても、風間の創作意欲は衰えることはなく ひたすら、女性像を描き続けた。

そんな中で浮かび上がってきた、ある大きな疑問・・・。 女性の強さ美しさは、いったいどこから来るのか? やがて、風間が描く、女性の背景は暗い色合いのものになってゆく。それ は、女性の中に風間が見た謎! 闇の部分の象徴だった。

女性像を描き続けることで、風間が何を見つけようとしていたのか、長年 交流のあった佐野さんはこう考えている。 世間から注がれる様々な視線を弾き返して、なお美しく光り輝く女性た ち・・・。 風間はその姿を、世評に耐え、絵を描き続ける自分自身に重ね合わせてい た。 女性たちの、たくましい姿、美しさの中に、画家の理想の在り方を見てい たのだ。

80歳を超えても絵筆を離さなかった風間は病に倒れ、締め切りに間に合わ なくなっても尚、病床で雑誌の表紙を描き続けた。 そして、今から4年前の2003年、12月27日風間完は84年の生涯を閉じた。 両手を突き出し、まるで、鉛筆をふるっているような最後の姿だったとい う。

12月27日は、どうしたら、人を惹きつける力を持って絵を描けるの か・・・ その答えを求め続けた一人の画家が、長い闘いを終えた日。

現在、風間完の作品の展示する美術館の建設のお話があるそうです。 http://www.ntv.co.jp/omoii-tv/old_omoii/today/back/0712/1227.html

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