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戦国時代/戦国武将コミュの関ヶ原の戦い、関係者の動向について

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スレが長くなり、内容も少し変わってきたので、新しいスレ立てました。

一次資料として『梵舜日記』を参考にすると
1600年動向
3/2  北政所、豊国社参詣。
3/18 北政所参詣せず。
4/18 京極高次、徳川家康参詣。
4/19 豊国社にて猿楽・能奉納。(4/18〜19 北政所参詣せず)
5/5  東殿局と孝蔵主を名代として送り、湯立てを行う。
5/18 北政所、豊国社参詣。
5/24 最要中段祓の神事。
7/5  宇喜多秀家出陣式。
   石田三成、大谷吉継を佐和山城へ呼ぶ。
7/7  豪姫必勝祈願実施 北政所側近派遣。
   大谷吉継、三成の要請を断り美濃垂井へ帰還。
7/11 大谷吉継、再度佐和山に赴き、三成への協力を伝える。
7/12 石田三成、増田長盛や安国寺恵瓊に協力を要請。
   増田長盛、家康家臣長井直勝に石田・大谷情報を密告。
7/17 三奉行連名で諸大名に徳川家康弾劾状発送。
7/18 毛利輝元夫人、豊国社参詣。(通説ではこの日を西軍決起の日と捉えている)
7/23 宇喜多秀家、豊国社参詣。
8/1  伏見城落城。
8/2  毛利輝元が里神楽を奉納。北政所も同席。
9/15 関ヶ原の戦い
9/17 木下家定、北政所を避難させるため京都来訪。
9/18 秀吉の遺品を豊国社に避難させる。
   北政所、准后(後陽成天皇生母)の屋敷に避難。
10/1  西軍首謀者石田三成、小西行長、安国寺恵瓊等処刑。
10/11 北政所、自らの貴重品を豊国社に運び込む。

これを分析すると、色々と通説への疑問点が出てくるハズです。

○北政所は豊国社参詣を毎月18日に行っていたわけではない。
○石田三成の決起前に、宇喜多秀家が決起していた。(北政所の指示?)
○7/18は西軍の決起集会ではなかった?
○家康と仲が良いはずなら、4/18になぜ参詣しなかったのか?
○戦争状態に陥っている8/2に、北政所は西軍総大将の毛利輝元となぜ、同席しているのか?
○石田三成らの処刑後に、なぜ再度避難しているか?
○准后は「吉川らの裏切りを非難する発言」をしており、西軍側の心情にあった。東軍(もしくは中立)とされる北政所がなぜ彼女の家に逃げこんだのか?

補足
慶長4年4月18日、豊国社の正遷宮祭以降に加藤清正・福島正則らが参詣した記録が無い。

参考として、http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/shirakawa.htmをご覧ください。

コメント(11)

北政所の目的が、この行動から読み取りにくいんですよね。彼女の目的が何だったのかが不明なため、行動が東軍・西軍・中立とでも読み取れる。
ただ、今まで言われていたような「完全東軍派」というワケでは無いというのは確かでしょう。そして淀殿やその側近達も関ヶ原が終わるまで、家康の本心を見抜けなかった(見抜ける能力が無かった)ということは確かなようですね。増田長盛・長束正家の日和見行動はまさしくその証明になるでしょう。
石田三成の決起は家康には予測できていたが、大坂側近には予測できなかったし、石田三成は決起の意思を示すまで、事前に大坂側近衆に連絡しなかった。推定すると、やはり淀殿含めた大坂城にいた連中は、親家康だったということは間違いないでしょう。だから三成は事前に彼らに根回しをしなかったのでしょう。
彼ら大坂側近衆と家康は大坂の陣で干戈を交えているので、後世彼らの関係について誤解が生じたのではないでしょうか。

北政所と宇喜多秀家の関係ですが、養母と養子であり、秀家の妻は秀吉夫妻の養女である豪姫です。そして、関ヶ原では軍が壊滅するまで戦い、敗戦後も家康への臣従を拒み、八丈島で一生を終わった頑固者です(笑)。
北政所が本当に信用していたのは彼と彼女だけだったのかもしれませんね。

個人的には家康に対抗する3つの流れ(上杉景勝・宇喜多秀家・石田三成)があったのではないかと思います。それが有機的に連携させることができなかったのが西軍側の限界だったような気がします。
京極高次はやっぱ奥様の存在が大きいですからねぇ〜。奥様の存在が大きいと、ダンナが小さく見えるのは今も昔も変わらずというトコロでしょうか?(苦笑)

歴史を勉強して思うことは、我々が学校や一般的な本で学んでいる歴史や歴史上の人物については、勝者はより強く美しく、敗者はより弱く醜く描かれているということですね。
残念ながらこのmixiでも一方的に主張されている方が多く、中立の立場で物事を検証していく人間が少ないのが現状です。私としては、時の流れの中で為政者によって改変された人物や歴史を検証していきたいな〜というのが本音です。
そんなワケで「判官びいき」ではなく、検証をもって、色々と考えていきたいと考えてます。

話は本題に戻りますが、関ヶ原〜大坂の陣にて豊臣側が敗れた理由は、関ヶ原で一丸となって徳川家康に当たれなかったのが原因でしょうね。結局15年かけて、戦力を2段階に分けて出すという最悪の戦略を繰り広げております。
関ヶ原で大坂側近衆や淀殿、北政所が一致団結し、毛利輝元を従えて関ヶ原へ繰り出せば、戦わずとも西軍・東軍ともに講和に至ったのではないかと。双方への罰として、石田三成と徳川家康の隠居させれば、それなりに丸く収まったのではないかとも推測できます。
それにより、勢力的には豊臣家有利のままで、家康が勢力を拡大することを封じることができます。そして家康の老衰と秀頼の成長を待つという戦略も取れたのではないかと。
つまり淀殿や側近衆の採った日和見戦略は、最悪の結果を導くことになったということですね。
それに気付かなかった豊臣家側近衆は何とも…。
 果たして、本当に家康の影響力は司馬遼太郎が描写するように大きかったのか、という疑問からちょっと考えて見ました。

 宜しければご一読下さい。

  http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1438580372&owner_id=7171215
   
ちょっと聞いて見たかったのですが
もしかしたらすでにどこかで既出していたらすいません


皆さんは吉川広家の行動をどう評価していますかexclamation & question
あの行動があったから毛利は残った…とか
いや広家がちゃんと動いていたら西軍は勝っていた…とか


自分は真田が東西に別れたのは評価しているのですが毛利が2つに割れたのはやはりいただけなかったと思うんですよねあせあせ(飛び散る汗)

まぁ割れなかったからと言っても西軍が勝っていたとは限りませんが
少なくとも1日決戦にはならなかったのではないかと…


どうでしょうかexclamation & question
あの広家の裏切りともとれる行動は関ヶ原の合戦前後にどのような影響を及ぼしたのでしょうかexclamation & question
あまりにも関ヶ原合戦が短期間で決着がついてしまったので
どうしても戦争は政治の延長上にある、ということを忘れがちな私(笑)

それはさておき
吉川は裏切っていたというよりもグラついてたという方が
正しいような気がします。
毛利家と縁の深い黒田家(長政だけでなく如水)から
いろんな情報を得やすい立場にもあった反面
それらの情報に振り回されてたようにも思います。
輝元ら毛利家首脳は徳川と(毛利家主導の)公儀との間で
揺れ動いている吉川の様子を既に把握していたみたいで
吉川を窓口に徳川方と政治的決着を図ろうとしていた可能性がある
と「関ヶ原前夜」の著者光成氏は論じております。
岐阜城の失陥などがあったとはいえ
豊臣政権の公儀は毛利・石田側であったので
政治的には家康よりも優位にありました。
それを生かして家康側との自派に優位な政治的妥協点を
探ろうとしていた可能性はあると思います。

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