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戦国時代/戦国武将コミュの血天井

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関が原の戦いのときに「捨て殺し」の兵として残されて全滅した
鳥居元忠らがこもった伏見城の床が
供養の為に京都のお寺の天井にされてるんですが、(血天井)
何箇所かに行ったのですが、ずいぶん昔でどこのお寺だったか
忘れてしまいました。

どなたかご存知の方いませんか?
何箇所かにわけられてるのですが、いくつかもわかりません。
できれば全部行きたいのですが。

コメント(22)

タイムリーだったので、コメントさせていただきます。

自分が知っているのは、京都の養源院です。ほかにもあるのかな?

今年の夏に行って来ました!実物はリアル過ぎて泣きそうになりましたよ泣き顔

源光庵というお寺です。

京都市北区鷹峯にあります。
「血天井」と「悟りの窓」が有名です。
わぁ、みなさんありがとうございます。
鳥居元忠の切腹の後が残ってるのはどこのお寺かご存知ですか?
自分も今年の夏に養源院に行って来ました
>場所は三十三間堂の隣りです

向かうまでは「あぁ、そんなのがあるって聞いたことあるなぁ」程度でしたが、実物を見て、説明も聞いたら、その時の鳥居元忠の気持ちを考えてしまい、涙が出てきました。

案内人が次の部屋の説明に移ろうとしてましたが、自分はその天井を魅入ってしまい、何分か(あるいは何秒だったのかもしれませんが)ジッと見ていました。

去り際にはその血天井の下で土下座をして「ご苦労様でした」と言ってしまうほどでした。


追記

ちなみに、鳥居元忠の切腹の痕は「養源院」だったと思います電球

自分は養源院しか行ってませんが、そこでその様な説明を聞きました電球

養源院で間違いないですよ。
2回行って、鳥居元忠公の腸の跡を見てきました。
俵屋宗達の絵も間近で見られますし、徳川家と浅井家の歴代当主も遺骨が納骨されまつってありますし、敷地は小さくて知名度は高くないかもしれませんが、人によっては隣の蓮華王院(三十三間堂)よりも見応えがあるお寺かもしれません。
夏に養源院へ行きました。
血天井の廊下に通されたのですが、係の方がカセットテープと私一人を残し去って行き…。

程無く観光の人達も現れたのですが、みなさん歴史や経緯を余り知らない様子でした。
どちらかと言うと、きもだめし的な感覚で来てる方々だったのが残念。
みなさんありがとうございます。
源光庵、正伝寺、宝泉院、養源院、興聖寺
ですね。
養源院に鳥居元忠様がいるわけですね。
実は一回私も拝見したのです。
ただ、偶然入ったお寺だったので、
どこだったかわからなくなってしまって。
もう一度行きたかったんです。
本当拝みたくなりますよね。神聖な気持ちになるし
胸がしめつけられました。
初めて血天井を見たのは修学旅行で、
それもどこのお寺かわからないんだけど、
最初は気味悪く思ったけれど、いわれを聞いて
本当に供養が必要なんだなあと思いました。

関が原の戦いが始まる前に全滅して、
そのあと関が原の戦いの方の後始末が先で、
ずっと討ち死にした状態で夏場に置きっぱなしになってたから
もう血のあともとれなかったとか。

最初に火蓋を切られた戦場で
最後まで残された戦場・・・。

悲しい戦場。潔い戦場。聖なる戦場。

ぜひ全部のお寺を巡りたいです。
自分も、全部のお寺を回って鳥居殿の供養がしたいです
血天井は一度行ってみたいです。

鳥居元忠が討ち死に覚悟で伏見で戦ったのはわかるんですが、どういう経緯でそうなってしまったのか、どなたか教えて下さいあせあせ(飛び散る汗)
伏見城に残った説はいろいろあるかと思いますが、
私の見解では、石田三成に反旗を翻らせるチャンスを与える為に
家康はまず伊達政宗征伐と銘打って、江戸から東へと軍勢を動かすわけです。
その時、石田三成の陰謀に気づいてないフリとして、
一番西の拠点である伏見城に鳥居元忠を送り込むわけです。
それはもう「死んでくれろ」という意味に等しいわけです。
そして石田三成が家康が東にいった隙にと
反旗を翻してまず伏見城を襲うというわけです。
ここで、素通りされてはいけないのです。
家康が西にとって返してくるまで、時間を稼がなくてはならないと言うわけです。
それで、打って出ては引き、引いては打って出て、
裏切り者をだしてはいけないという難しい局面1800名あまりが戦ったわけです。
ぎりぎりまで戦い、最後の最後に自害して果てたということです。
そのおかげで、石田三成率いる西軍は足止めをくらい、
家康の軍勢は関が原という絶好の戦場までたどり着けたのです。

ちょっと昔読んだ記憶を頼りに書いたので違ってたら訂正お願いします。
諸説はあると思います。
>こもも さん

征伐相手は伊達政宗ではなく、上杉景勝ですよ。
政宗は、三成が家康の計略にはまったのを見て、西にとって返した家康に代わって上杉を牽制しています。
>こももさん、にのこう。さん

ありがとうございますexclamation ×2exclamation ×2鳥居元忠は死を覚悟で、伏見に向かったんですね涙死地とわかりながらもそこに向かっていくなんて…

私も一度供養に行きたいです涙
伏見城について詳しくないんですが鳥居元忠の軍勢だけで守り抜くには不可能だったのですか?
私の評価では鳥居元忠自体、戦に関してはそんなに強いとは思えませんし。他の武将なら守りきることが可能だったのでは?
どなたか詳しく方いたら教えてください!
ルカさん>
ありがとうございます!勉強になりました!
「伏見城を焼き討ちにしたところ、石垣伝いに現れたので、豊臣家鉄砲頭の鈴木孫三郎(重朝)が討ち取った」とも、読んだ事が有るのですが。
 
 自刃? 討ち取られた? どっちが正しいんでしょう?

 ちなみに上記のは、石田三成が真田昌幸に送った書状に、記載されていたそうです。

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