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戦国時代/戦国武将コミュの秀吉の晩年は、頭がおかしくなっていたのか?

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秀吉の晩年は、頭がおかしくなっていたとよく言われていますし、
このコミュのメンバーでも支持している人が多いようですが、
秀吉は本当におかしくなっていたのでしょうか?

秀吉晩年狂気説の代表的なものは、

1.お棄(鶴松)をなくなった悲しみゆえ正常な判断ができなくなり、外征した、

2.蒲生氏郷が外征を聞いたときに、「サルめ、血迷ったか」といった

などがありますが、何一つ、資料的裏付けはありません。

ということで、皆さんに秀吉の晩年を検証してもらいたいのです。

とりあえず、秀吉の晩年の年表を。

1585 九州の惣無事令
1587 九州征伐
   関東に惣無事令
1588 刀狩令
1589 小田原征伐 鶴松誕生
1591 秀長死去
   鶴松(お棄)死去
   秀次に関白をゆずる
   千利休に切腹を命じる
1592 文禄の役
1593 文禄の役休戦
   秀頼誕生
1595 秀次事件 秀次切腹、多数の関係者も処刑される
1597 慶長の役
1598 醍醐の花見
   死去

惣無事令
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4

秀吉狂気説を支持する方は、いつぐらいからおかしくなり始めたのか、
それはどういう行為によって推測されるかなどを言及してくれるとありがたいです。
みなさんの意見をお待ちしております。

コメント(48)

>005
ほぼ同意見。山内一豊でもそういう風に語られてた。一人で出世していったから味方に身内がいなかった。その上、秀長まで死んで、安心できず。羽振りのよさで家臣が多かったようなところがあるから、国内には与えるべき領土がなくなって、海外に眼を向けなければ、【和】を保てなかった。一人でさみしかったのであろう

秀吉の晩年は痴呆症だったのでは??というのを聞いた事があります。
どうなんでしょうね。
全然普通だと思いますよ。


文禄・慶長の役問題

他の国をみても自国統一後は他国侵略を行なっているところが多いです。


利休問題

単に秀吉の下で権力を得た利休が秀吉の機嫌を損なわないようにうまく立ち回れず潰されただけで戦国の世では当たり前でしょう。


秀次問題

秀吉は関白職を形式的にだけ秀次に与えた。それを秀次は実質の伴う職に変えた。その結果、秀次は権力を握る事に成功する。秀吉からすれば、これは想定外の事で、ここでまず秀吉は秀次に対して危機感を覚えた。ただ変えはきかない。そんな状況の中、実子秀頼が誕生した。危険視した養子秀次を関白の座から引きずり下ろし実子秀頼に与えようとするのは当たり前でしょう。
同じく普通だと思います。
ステガマリさんと全く同意見ですが、利休については、利休の権力があまりにも強くなってしまった為の粛清だったと考えています。
こうしてみると、いわゆる通説の狂気派は、ほとんど皆無で、ちょっと驚きました。
では、私が代弁して。ww

>12
>秀次問題
これなどは、耄碌した証拠の一つと言われていますね。
通常は、刑に累が及ぶのは、男子のみですが、
ここでは、側室・女児を含む関係者39人が処刑されています。

>三条河原にて秀次の遺児(4男1女)及び正室・側室併せて39名が処刑され

ただし、関係者すべてが皆殺しにされたわけでは、ないようです。

>秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘のお菊は女児でありまた生後一ヶ月の幼さであったためか助命され、お菊の祖父の弟の子の後藤興義に預けられた。また、真田信繁の側室・隆精院、梅小路氏に嫁いだ娘の二人も難を逃れた。
他にも正室である池田恒興の娘・若御前も助命され、兄・輝政のもとに送り返されている。
http://tinyurl.com/2bo2r9

とはいうものの、これは、やりすぎではないでしょうか?
ほとんど「否定」で進んでるんで安心しましたw
朝鮮出兵に関してですが
秀吉を海外出兵に追い詰めたのが
加藤清正、福嶋正則らの、俗に言う「武闘派」がごねたせいだというのを
井沢元彦氏が「逆説」で書いてて妙に納得しちゃいまして
現在支持する説はそれとなっております。
秀吉自身はわりとしっかりしてたんではないかと。
家康に秀頼のことを頼むというのも、パフォーマンス大好きな秀吉らしいかも。「死ぬまでパフォーマンスかよ」という突っ込みは禁じえませんが。

腑に落ちるからといってそれが史実とも限りませんけどねw
自らを支えた人たらしの能力が、
晩年は全くもってなりをひそめたってとこでしょうか。
朝鮮出兵は、先君のプランをそのまま継承したのかな。
やはり信長は彼の永遠の師匠だったわけでしょうから。
敵のいなくなった人間は自分と戦うしかない
狂ったかどうかはわからないが、あまり統一後の統治者としてふさわしかったとは思わない。

朝鮮出兵なんかも、別にして構わない事だと思うが、もっと国力が整った後にするべきとこであると思うし、もう少し後継者の事などが充分に整った環境にあってからだと思うな。特に日本の場合島国なので、出兵はちょっと、、大陸だといいんですけどね。

統一した後の平和へのパフォーマンスは評価しますが、その他の点で政治的ではないかなと。立場もあったのでしょうが、もう少し統一後に制裁をしなければ、政権が安定しないでしょうし。。
狂ったかは難しいですが。
老いと豊臣家の存続で判断が鈍っているとは思います。

秀頼が生まれた時期が遅いので、そこから来る焦りですかな。
どうしても継がせたいと焦っていたので判断がおかしくなったのではないかと。
てか自分がもし秀吉の立場だったらどうかを考えてみると
結局朝鮮出兵しないか?
天下人に歯向かう人間うざくないか?

狂ってなくね?
狂気説に賛同する人がいなくて、おもしろくないですな。
どちらかというと、通説である狂気説を支持する人が多いと思ったのですが。
こんなトコでわいわい言う人間は、通説を取るほど素直ではないということですよ。
>26
それを言っちゃ、おしまいだよ。ww
あまり、知識がないのですが、やっぱり秀吉と秀長がふたりでひとりの
すばらしい武将みたいなものだったということなんじゃないかなと。
秀吉のすばらしい考えや方向性に対して、秀長の実務や補助がけっこう利いていたのかなと。

すいません、秀長びいきなもので。
ではあえて『狂気』をとりましょうか。軸足をどこにおいて、『狂気』と判断するかはわかりませんが、ただ『精神疾患』というよりは、年齢と本人の性格があいまって、『狂気』といえるでしょう。
自分の身内の台頭(秀次)に危機を感じて、親類・縁者・家臣をことごとく誅するのはやはり正常とはいいがたいでしょう。

秀頼可愛さの妄執+年齢+誇大な野心(征明嚮道等)

統治者として持ち合わせるべき資質を失った心神喪失だったといえるでしょう。
>ソムナムナーさん

秀次問題

秀吉の織田家乗っ取りの手段

世継三法師の後見人の座を得ただけではなく信長の生前に信長の子於次丸を養子にもらっている事から信長の同胞であるという事を理由に他の重臣を押し退け単独で葬儀を行なう事で自分は織田家の家臣ではなく織田家の者だ。自分が織田を仕切って何がおかしい?という空気を織田家臣に植え付ける事に成功しています。


秀次の環境

秀頼は幼なく秀次は自分の養子。自分が織田家を乗っ取った時の環境と似ているんですよね。秀吉は実子に家督を継がせたい。秀次を関白の座から下ろしたとしても生かしておくと自分亡き後おそらく後見人になるだろう。また葬儀も仕切るだろうからこれはまずい。ならば秀次一族を自分が生きているうちに少々強引にでも何かしらの理由をつけて滅ぼしてしまおうとの考えがあってもおかしくないと思いません?
ステガマリ様

確かに『理』は成立しており、動機は合理的に説明できるかも知れませんが、今も当時もですが、同じ事(理をもって身内や身内の関係のあった人間をすべて粛清)し、なおかつそれについてなんら咎めを受けない、後悔の念をもたず粛清されたものへのなんらかの気持ちをもたない人がいた場合客観的にどう判断できるか。

正常な判断ができていたのだろうか、まともであると当時も思われていただろうかと思います。
意図的に『狂気』を演じた『佯狂』とは言えないでしょうか。
やはり子飼いの加藤、福島が朝鮮制圧を建策した可能性がたかい

かれらは戦場で働いてなんぼですから

それでなければ勢い石田治部の力が増しますから
前に狂人かどうかは不明と書いたが、やっぱ狂人に変更。

実際はどうであれ、結果が実を結んでない以上狂人と見なしてよし。

朝鮮出兵も跡取りを秀頼にするのも、結果が実っていれば狂人どころか賢人。でも結果があれでは、狂人だね。
>ひこまろさん

戦国期の人と現代人の感受性の比較をしようとするのは当時と今では考え方が違うので無理があると思いますよ。

「狂っていた」というより「超親バカ状態」に陥ってしまっていた故の過ちとみた方が私としてはしっくりきますね。
親バカゆえの過ちに一票。
いつの世も親バカは周りを巻き込み、悲劇を起こしますよね。
年取ってからの子は可愛いっていいますし(苦笑)。
狂気説を行くとするなれば・・・

秀吉は後ろ盾も無く、かなり年を取ってから急に天下への展望が開けてしまったため、それこそわずかな判断ミスが命取りになる可能性が高い時間が長く続きました。本能寺の変以降・・・どうでしょう、恐らく小牧・長久手で家康を政治的に押さえ込むまで、緊張のしっぱなしでした。
特に後継者のことに関して、「天下人」としてはありえないほど後手に回ってしまった事実や、長年待ち望んだ実子である鶴松の死などが秀吉の心を蝕んだかもしれません。
子飼いの大名にも手柄を立てさせねばならず、養子にもそれなりに持ち上げねばなりません。秀吉も既に高齢ですし、秀吉亡き後、他家が豊臣に取って代わろうとするのは目に見えています。特に武家の長になれなかったという現実は、秀吉にとって最大の悔恨事でありました。
それまでの過度の緊張・先行きの不安に加え高齢のため正常な判断力を失ってしまった秀吉は、子飼いの武将や養子(この場合秀次)らに手柄を立てさせ、武力の誇示をさせる必要性に対し、妄執ともいえる思想にとり憑かれました。それが朝鮮出兵となったわけです。

そして、秀頼が誕生した時、秀吉の頭に思い浮かんだのは、自らが深く関わった織田家の崩壊でした。「秀次は殺さねば、必ず幼い秀頼に取って代わるだろう」この感覚は、自らが招いたものに過ぎませんが、秀吉にとっては恐怖だったことでしょう。こうして秀次は粛清されたのです。
秀次一族の粛正って、鎌倉幕府成立後の粛正の嵐なんかと比較したら、はるかにマシだと感じるんですけどね。
室町幕府でも、弟を養子にして跡を継がせようとして、後から実子が生まれたけど優柔不断な態度を取った為に大混乱の引き金になった義視&義尚の例もありますし、合理的な判断だったと感じます。
鶴丸が1591年に3歳で死ななけりゃ耄碌もましだったかもかもしれんなぁ。

しかし、秀吉は子供生まれませんな。女好きって話が伝わってる割には子供が生まれませんな。

運がない人ですなぁ。

家康と比べてすくないなぁ。
嫁が恐妻家の秀忠でもたしか三人はいるのに。
奇行というより、天下人になったら人間天狗になると思います。

そして、おごりや、欲から考え方も変わると思います。

秀吉の晩年は奇行の様相を呈しますが、秀吉から見れば朝鮮出兵など一連の流れは必然的であったと思います。

まず、明(中国)の政治が徐々に傾きだしたことによって、明から輸入される銭(お金)が、質の悪い物(ニセ札)になり、それが日本国内に増加した。

貨幣の質が下がることによる物価の上昇(インフレ)が起きる。

労働者(民衆)は物価高に苦しむが、戦国時代は終わり、もらえる恩賞(報償・土地など)がない。

加えて、武断派と吏僚派の仲の悪さから、新しい目標を与える必要が出てきた。

スペイン、ポルトガルなど南蛮人は海外に領土を持ち、自分も海外に領土を広げてみたいという個人的な思いと、経済的な面から海外に市場を求めたのではないかと考えています。

秀次に関しまして、秀次の人の良さなんでしょうが、彼は朝鮮出兵の費用に苦しむ大名に、裏から、お金を貸したりしていました。

秀吉の完全な操り人形にならなったために、我が子かわいさで、秀吉は秀次を粛清さざるを得なくなってしまったと思う。

秀吉は、粛清するからには、秀頼に対して刃が向かないように徹底的にやったのであって、はたから見たら残忍で奇行だと思いますが、頭がくるっていたとか、そうゆうのではないように思います。

千利休に関しても、彼は茶人として純粋に侘び茶を徹底的に追求した。

最初は、秀吉と利休は、よい関係だったと思います。

しかし、天下をとって権力としての豪華な茶の湯を好む自分(秀吉)とは対照的に、四畳半以下の茶室を用いた簡素な茶の湯を目指す利休。

当時、茶道は武士に流行っていた、たしなみの1つ。

自分(秀吉)とは別の意味でのカリスマを利休は、誇っていた。

そのカリスマ性が、天下を治めるにあたって目障りになったと思う。

謀反がおきないように、権力は集中させる必要があり、大きな領土はなくとも、偉才を放つ利休も粛清せざるを得なかったのではないでようか。
権力を握ってしまった者の典型だと思うのですが。

秀吉が優秀だったのは、強力な指導者がいたから、そして、本能寺以降は
強力な敵がいたからだと思います。

秀吉の「狂気」は、指導者・強敵のたががはずれた独裁者という所だと
思います。

信長は、天下を意識し、その先を見据えて行動していましたが、秀吉には
降って湧いた天下。
豊臣政権としての体勢はもとより、秀吉自身の人格も準備不足だったのだと
思います。

家康に至っては、用意周到と言うよりは、信長・秀吉の失敗に学んだという
所でしょうか。
ステガマリ様

>戦国期の人と現代人の感受性の比較をしようとするのは当時と今では考え方が違うので無理があると思いますよ。

確かに。観念的にも当時存在しない「言葉」「表現」そして「概念」もありますのでそうかも知れません。ただ今回の秀吉の件で不勉強なもので調べた事はないのですが、ときどき公家や寺社などの日記のようなもので感想を述べている記述が残っていまいかとおもいます。そこでまぁ、当時の秀吉の精神的な部分で述べているものがあれば、「狂気」の根拠になるんじゃないかな・・・と。また出典がさだかではなく申し訳ないのですが、秀吉の死んでいく様をこの世のものとは思えないひどい痩せ方で死んでいったという記述を見たこともあります。心神耗弱というか、なんというか。。。頼るべきものは身内のみ、しかも起請文のように息子の秀頼のことを案じるだけの妄執というか。かなり精神的に危険な域にあったと思うのです。その起点が秀次のあたり・・・ではないかと。
秀吉の痩せた理由及び死因は病気みたいですよ。

病名は定かではないのですが腎臓機能が衰え、副腎・膀胱・生殖器が弱り、更には肺病・神経痛も持っていたとの事。肺病については肺結核・気管支炎・肺がん説があります。

また赤痢だった説もあるみたいです。

とりあえず体はボロボロですね…。
狂っていたとは思いません
天下人という誰も到達したことのない難しいさが
独裁的な部分がきわだったのでしょうか。
また朝鮮出兵に関しては戦国時代の武器需要による好景気の終了.
という問題に直面したからではないでょうか

ある意味独裁者って狂っているものではないでしょうか?

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