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repairman Jackコミュのthe Night World 改 part 1 4 土曜日

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シルヴィア考え直す


バーと知り合いだったのは夫の筈でしたが父親に変っています。

コメント(47)

 ジャックがどのくらい、シープメドウズで凄い勢いで進む作業に見入っていたかわからないが、
ドアベルが鳴った。ホールを透かし見たが、グレーケンはいなくなっており、気配もない。
 そうだ、ドアベルに返事してくれと言ってた、そうしないとな。
 ホールに奇妙なカップルがいた。
最初ビル・ライアンだとはわからなかった・・・
ローマン・カラーに司祭の服装が判断を狂わせた・・・
一緒にいるのはおかしな感じの若い男、目の焦点は合ってないし、唇に縫い目がある、
ぼーっとした顔つき。口の端からヨダレを垂らしてないか?
「ジャック?」ライアンが言った。「君がいるとは思わなかった」
「ここに来るつもりはなかったんだけどな」ジャックは脇によけた。
 ビル・ライアンはジャックより背が高く、ずっと年取っていたが、頑健そうに見えた。
ひどい目に遭い続け、殺伐としてしまったような顔つき、何かに取り憑かれた様な青い目、
余程嫌なものばかり見て来たのだろうか。
ジャックは自分も同じ様に見えるんだろうなと思った。
 ビルは精神疾患らしい友人を連れてリビングルームに入ると、ソファに座らせてやった。
ビルが膝を曲げてやらないと座れもしない様だった。それからジャックの方を見た。
「グレーケンは?」
「マグダの所だ」ライアンには何回か会っているが、あまりよく知らない。
ローマンカラーを指差した。「早すぎるハロウィンか、本物の・・・?」
「過去の事だ。わかってるだろうけど、君の苗字を尋ねた事はないよね」
神父についてあまり聞かれたくないらしい。
「ジャックでいい」ジャックは名前についてあまり話したくない、
そんな訳でソファの男の方に首を振った、何と、ヨダレが顎まで垂れている。
「こいつに何があったんだ?」
「こちらニック・クイン博士だ。昨日穴の中に降りた科学者のうちのひとり・・・彼は生き残った」
 ジャックは新たに畏敬の念を込めて男を見つめた。
「昨日の晩あそこから出てきた物を見たよ・・・」
ライアンはクインの肩に手を置いた。
「ニックはとんでもなく悪いものを見たのではないかと案じてる」
「ああ」ジャックは虚空を見つめる気の毒な男を見た。
ロケット科学者として穴に降り、ゼラニウムになって戻って来たのだ。
「そうなんだろうな。今朝はどこから来たんだい?」
「ワシントン・ハイツからだよ」
「あのあたりはどんな感じだ?」
「そんなにひどくはない。ハーレムに入るまでは何かが起こったのがわからないくらいだ。
ハーレムでもひどい嵐でもあったかな、程度だ。
だが九十丁目から下るあたりは暴動か何かあったかの様だ。そしてこの辺りは・・・」
がっくりして首を振った。「まだ舗石が血だらけだよ」
 ジャックは頷いた。「イーストサイドから歩いて来たあたりは最悪さ」
思い出すと身の毛がよだつ。昨日の晩はよく眠れなかった。
殆どをジーアとヴィッキーの立ち番をしながら、セントラルパークからのテレビを見ていた。
ケーブルニュースチャンネルは一晩中その話ばかりしていたが、映像はなかった。
そこに行ったカメラチームの話は二度と聞かれなかった。
日が昇った少し後に思い切って外に出てみた。
サットンスクエアは静かで、いつもの早朝のように、
サットンプレイスを車が行ったり来たりしていた。空飛ぶ怪物はどこにもいない、
そこでミッドタウンに向かって小走りに進んだ 。
 マディスンとパークの間で警察のバリケードに出くわした。
そこをすり抜け、さらに西に進んだ。五十九番街は悪夢のような有様だった。
ペッシャンコになり、頬がなく、ひからびた死体が舗石の上に散らばり、
あちこちに身体の一部が・・・手足や頭のないトルソーが歩道に落ちているかと思えば、
排水溝の中には脚があり、メイルボックスの上に齧られた指が乗っている。
パークに近づくにつれさらに酷くなっていった。
 セントラルパーク・サウスが最も酷かった・・・死んだ人間、馬車につながれたまま死んだ馬、ひっくり返った車、プラザホテルの横の扉に突っ込んだタクシー。
シティの緊急車両も霊柩車もこのエリアの死体を運ぶために集結していた。
 生きている人間もいた。全員が逃げ出すところだった。
警察がタクシーや一般車の進入を許さなかったので、
アルマーニやプラダを着た連中が自分のスーツケースを抱え、
プラザホテル、パークレーン、セントレジスなどのホテルから出て来ると、
アヴェニューを行ったり来たりしながら一番近い空港へ行く足を探していた。
 ジャックはその中を突っ切ってここへ急いでやって来たのだ。
インターコムが鳴って、今度はライアンが応えた。この家のことをよく知っているようだ。
ドアマンがナッシュ夫人の訪れを告げた。ライアンは問いかけるようにジャックを見た。
「いいんだよ」ジャックが言った。「グレーケンがその人が来ると言ってた」
ライアンは上がって来るよう告げると、ベッドルームの方を覗き見た。
「どうやってあの人の気持ちをを変えさせたのかな」ビルは誰に言うともなくそう言った。
それから肩を竦めると、クインを連れてキッチンに入っていった。
「ニックに何か食べさせたいんだ。君も食べるかい?」
「いや、結構だ」
本当言うとジャックもお腹が減っていたが、苛立ちと不安で食べる気にならなかった。
後でフリオの所でビールを一パイント。いや一ガロン貰おう。
 ドアベルが鳴った。ジャックが開けた。アダムス・ファミリーが外にいた。
少なくともアダムス・ファミリーを思わせる一行だった。
暗い色のドレスに身を包んだしなやかなブルネット、パグスリー、それからアジア人のラーチ。
ウエンズデイはいないが、ゴメスは車椅子に乗っている。
 ウィージーとエディを子供の頃ウエンズデイとパグスリーと言うあだ名で呼んでいたのを
思い出し、胸が詰まった。
 ウィージー・・・ジーズ。胸の中がギュッと詰まったが、飲み下した。
「あの人はここなの?」ブロンドの子供が言って、青い目を見開いてキラキラさせた。戸口から頭を突っ込んでホールを見回している。
「ここだ!わかった、ここにいる!」
「いい子にしててね、ジェフィ」女が言うと、子供の肩に手をかけた。
ジャックを見た。「シルヴィア・ナッシュです」
ジャックはその声が気に入った。声だけで恋に落ちそうだ。
だがジャックはもう別の女に恋をしている。
「ハーイ」そう言って道を開けた。「グレーケンが待ってるぜ」思いついた事があった。
「女性彫刻家にシルヴィア・ナッシュって人がいるな・・・」
女は頭を傾げた。「それは私の事だと思うわ」
ジャックは感動した。「マジか。あんたの作品を一つ持ってるぜ。
クライスラー・ビルディングの盆栽だ」
「買ってくださったの」驚いたようだ。「嬉しいこと」
「ミスター・ヴェイユールは?」車椅子を転がしながら男が言った。
ジャックはリビングルームの方を指差した。「そこらにいるだろう。入ってくれ。座るといい」ジャックは言ってから舌を噛み切りたくなった。この男はもう座っていた。
 男はジャックを見た。「私はアラン・バルマー」そう言って、手を差し出した。
「どこかで会った事があるかな」
 ジャックは手を握った。バルマー・・・何となく聞き覚えがあるが、初めて見る顔だ。
「おれの名はジャックだ・・・気を悪くしないでくれ・・・あんたの事は知らないな」
「私は去年の夏までモンローで医者をしていた。患者で来た事はないかな?」
 ジャックは考えた。何年か前、意識不明になりモンロー・コミュニティ・ホスピタルに
身元不明者として入院した事がある、だがその時じゃない。
二階の窓から逃げ出した、警官が戸口で見張っていたから。
「あまりロングアイランドから外に出ないんだ」
ジャックは後ろから一行がぞろぞろリビングルームに入るのを見守った・・・
デカいアジア人だけはそれに加わらず、油断なくあちこちを見回している。
一行の最後尾に続いたが、戸口で立ち止まった。
リビングルームをざっと見回し、足を踏み入れると戸口の脇に背中を貼り付けて立ち、
身体の前で大きな両手を組んだ。
一本の指にロード・アンド・タイラーのプラスチックの巾着袋を引っ掛けて持っている。
通りにいたらショッピング中の観光客として見過ごされるかもしれないが、
ジャックは棍棒の持ち手が袋から突き出しているのを見過ごさなかった。
ジャックは男の動作に感心した・・・
この年配の大男なのに、スムースで音を立てずその上優雅だ。
全てが白兵戦のコンバットかセキュリティで訓練を受けた事を物語っていた。
ジャックがこの大男を観察しているように、大男の方もジャックを観察しているのに気がついた。
ジャックは男のところまで歩いて行くと、手を出した。「ジャックだ」
大男はお辞儀をして、ジャックの手を短く握った。「バー」深い声で言った。
それがジャックについての評価なのか、自分の名前を名乗ったのか考えている間にも、
大男の視線が一瞬たりともリビングの一箇所に留まっていないのに気がついた。
「ここは安全だ」ジャックは言った。「リラックスしていい」
もう一度お辞儀をすると、バーは一瞬黄色い歯を見せて微笑んだ。
「ああ、わかった。ありがとう」
一瞬たりとも気を緩めないバーをジャックは尊敬した。
「どこでトレーニングを受けた?」
「故郷・・・ヴェトナムで」
こいつはヴェトコンだったのかな。「軍隊か?」
バーはリビングから暗い色の瞳を離さない。「特殊部隊だ」
やっぱりな。
「袋の中に入ってるのは棍棒かい?」
バーはジャックを見た、その目はしばらくジャックの顔を探っていたが、袋を差し出した。
 ジャックは袋を受け取ると口を緩めた。
この重さからするとそう入っていそうにないが、どっちにしてもチェックしてみよう。
棍棒を引っ張り出し、何百個もの小さなきらめくガラスのような歯が、
先端から十インチに渡ってズラリと突き出しているのを見てびっくりした。
「ジーザス、こりゃチューワスプの歯じゃないか」
バーは何も言わなかった。
ジャックは棍棒を試しに何回か振ってみた。小さな歯がどんな働きをするかがわかった。
歯をちりばめたお陰でとてつもない武器になる。
「何匹やっつけた?」
「少しだけ」
「粘液の袋のやつは?あいつもやっつけたのか?」バーは首を振った。
「あいつには気をつけた方がいい」
ジャックはバーに、一部分が溶けて無くなったスニーカーを持ち上げて見せた。
「袋に入ってる粘液でゴムがこうなった。皮膚についたらもっとひどい事になる」
 バーはジャックの包帯を巻かれた腕を見てから目を逸らした。
ジャックは棍棒を袋に戻し、バーに渡した。「おれにもひとつ作ってくれたらありがたいが?」
バーは袋を押し戻した。「これを持っててくれ」
 咄嗟にジャックは断りそうになった。知らないやつから贈り物は受け取らない事にしている。
借りを作るのはきらいだ、特に会ったばかりだ。だが受け取ろうとしていた。
数分前に会ったばかりで、ほんの少し言葉を交わしただけだ・・・
バーは特に殆ど口をきかなかった・・・だが親近感を感じた。
今まで生きてきて、こういう事は滅多になかった。おもしろいな。バーもそう感じてるに違いない。大男は待っていろ、という身振りをした。ジャックは断れなかった。
「あんたのはどうする?必要なんだろう?」
「自分用にもう一つ作る。私の住んでいるところに沢山沢山ある」
「わかった。いただくよ」ジャックは袋を持ち上げると、小脇に抱えた。
「ありがとう、バー。こいつがすごく役に立つ日が来るような気がするよ」
バーは無言で頷くと、リビングルームに目を光らせた
 アランはバーが暗い色の髪の毛で鋭い目つきの男と並んでいるのを見た、なんだか見覚えがある。
この二人の間にはアランには計り知れない何かがあるようだ。
珍しいな・・・バーは家人以外と関わる事が殆どないのに。
アランは二人からシルヴィアとジェフィの方に注意を移した。
「あの人がいるんだよね、マミー?」ジェフィが言っている。
クッションの上でピョンピョン跳ねながらあちこちを見回している。「いるね?」
「そうね」シルヴィアが辛抱強く答えた。「そうお話ししたわね」
「ぜったいうしろの部屋にいるんだよ。行って見てきていい?
「ジェフィ、ちゃんとお座りしてて頂戴。
およそのお宅をうろうろするのはとってもお行儀が悪いわ」
「でも会いたいんだもん!」
シルヴィアは少年の肩に手を回し抱きしめた。「会えるわよ、いい子ね。私もお目にかかるわ。
その為に来たのよ」
かわいそうなシルヴィア。
ヴェイユールが二日前に姿を見せてからジェフィをなだめるのは大変だった。
今日、ここ老人の家を訪ねて来て、少年は巻きのきついバネになったように跳ね飛んでいる。
アランにはわかる。自分も非常におかしな気分だ。
多分昨晩のストレスのせいか、朝飲み込んで来たコーヒーのせいだ。
だがそれだけでこの気分は説明出来ない。
ヴェイユールのせいだ。他には考えられない、アランの中の何かが積極的に・・・
違う熱狂的に・・・この男に呼応しているのだ。
アラン自身も何ヶ月かダ・タイ・ヴァオのホストになっていたせいもあるだろう。
植物状態になって、パワーが・・・存在、自然力、何と言えばいいかわからないが・・・
アランから離れて行った。
だがそのうちの残基が、腹膜と脳膜に木霊すると言うか、或いは脳脊髄軸に電流を送ると言うか、
言い表すのは難しい。ただ言えることは、この老人に引き寄せられ、この老人に信頼を置く、
最初に彼に会った時感じた、暖かな波動を覚えている。
私が感じているように、ジェフィも感じているのでは?
 アランはダ・タイ・ヴァオが新しい住処として選んだのは、間違いなくジェフィだと思っている。
 昨日あの神父と会った。ライアン神父がアパートメントの後ろからやって来た。
ミスター・ヴェイユールがタオルで手を拭きながら後に続いた。
彼の姿が目に入るとアランはまた暖かい物を感じた、身体の芯を暖かく照らし出し、
それが身体から手足の隅々まで沁み渡った。
 そしてジェフィ・・・ジェフィは彼の足元にいた。
老人の元に駆け寄り、抱っこクマのぬいぐるみの様に老人の足にしがみついていた。
ヴェイユールは立ち止まるとにっこりして少年を見下ろし、彼の髪の毛を撫でていた。
「ハロー、ジェフィ。また会えて嬉しいよ」
少年は何も言わずにただ瞳を輝かせヴェイユールを見上げている。
 アランはソファに一人残されたシルヴィアに目をやった、
背骨をまっすぐ伸ばし、固く張り詰めた表情で下唇を噛み、その光景を見つめている。
その目に傷ついた様な色があった・・・そして腹を立てている。
アランはシルヴィアの中に生き物のように、怒りが渦を巻いているのを知っている。
それはここ数ヶ月は沈静化していた、しかしふとした拍子に、牙を剥き、噴き出した時を、
ありありと思い出せる。今正にそれが目を覚まして動き出したのがわかる。
 アランはシルヴィアに同情した。
ジェフィは三歳の時に、自閉症に手を焼いた両親から捨てられ、シルヴィアに引き取られた。
シルヴィアは手を尽くした、心理療法、理学療法、食事療法、作業療法、頭と心をフル活動させ、
自閉症の頑固なバリケードに、諦めることなく何度も何度も立ち向かった。そして奇跡が起こった。ダ・タイ・ヴァオが自閉症の殻を打ち払い、その中に囚われていた子供を解放したのだ。
シルヴィアは遂に探し求めてやまなかった小さな子供を手に入れた。
 しかしその小さな少年は、二日前にシルヴィアの戸口に現れた不思議な老人に
すっかりかかりっきりになってしまったようだ。
 アランは、シルヴィアの痛みを我が事のように感じた。
傍に駆けつけシルヴィアを抱きしめ、わかっているから、いつも一緒だから、と言ってやりたい、
だが車椅子では、シルヴィアの座っている場所にコーヒーテーブルが邪魔で近づけない、
この忌々しい脚では、シルヴィアのそばまでたった六フィート進む事も出来ないのだ。
この脚。時として怒りが爆発しそうになる。
そう、だんだんよくはなっている・・・
ゆっくりだが着実に、手助けなしで何秒かは立っていられる所まで漕ぎつけた。
しかしシルヴィアが自分を必要としてる今、なんの助けにもならない。
ここに座って、無様な車のついた機械に囚われて、愛する女性が苦しむのを見ているしかない。
時として、正にこんな時アランは・・・
耳障りな声がアランの思考を断ち切った。
「あんただ!」
アランは車椅子を回して声の主を探した。
背の高い猫背で、くしゃくしゃの暗い色の髪の毛で覆われた歪な頭蓋骨の男が
キッチンの入り口に立っている。あちらこちらの方向に、絶えず頭をグラグラ揺らしている。
 空気が凍りついた。ジェフィですら静かになった。部屋の中が静止画になったようだ。
最後に入ってきた男の目線は、ジャックと呼ばれた男にひたと据えられた。
「彼はあんたを嫌ってる」
ジャックはそれほど気にしていないようだ。「誰だい?」
「あんたは彼の手を奪った」
「ああ、あいつか」ジャックは肩を竦めた。「お互い様さ。まだやり足りないくらいだな」
背後からビル神父が現われ、優しく男の手を取った。「いいんだよ、ニック。戻ろう・・・」
「ノー」男は神父の手を振り払い、ジャックに向き直った。
「彼はあんたが嫌いだ!あんたは彼を殺しそうになった!」
「ニック・・・」
もう一度向きを変えると震える指でヴェイユールを指した。
「だけど一番はあんただ!あんたの事が大嫌いだ!
彼はみんなを苦しめようとしてるけど、一番苦しめたいのはあんただ」男は自分の頭を指差した。
「ここ!」それから心臓を指差した。
「それからここ!それからあんたをひどく苦しめて苦しめ抜きたいと思ってる!」
 アランはヴェイユールをチラリと見たが、シワの刻まれたその顔には
ショックも恐れも浮かんでいなかった。予想していた通りの事を聞かされたように見えた。
ただ僅かに澄んだ青い目に陰りが見えた。
「行こう、ニック」ライアン神父は言いながらニックをキッチンに連れ戻そうとした。
「大騒ぎし過ぎだよ」
「いさせてあげなさい」ヴェイユールが言って、ニックのそばに行った。
ジェフィも足にしがみついたままついて行った。
「これが君の友達かい?昨日穴の中に降りたうちの一人だね?」
神父は悲しそうに頷いた。「抜け殻です」
 あの穴の中に?昨日の探索の悲しい結末についてニュースで聞いている。
物理学者と地質学者が深みまで降りて、地質学者は搬送中に死んだ。生き残った方か。
下で何があったのだろう?
「前にも見た事がある」ヴェイユールが神父に言った。
「古い時代に時々あった事だ、異界の穴の中から生き残って戻った人間の中に、
まれに、神経が異常に敏感になる者が」ニックと呼ばれた男の方を向いた。
「教えてくれないか、お友達、ラサロムはどこにいる?」
ニックは大窓まで歩いて行きパークを指差した。
アランもその窓まで行って穴を上から見たかったが、
車椅子で家具を避けて行くのは大変そうだった。
「下にいる」ニックが言った。「あそこの下だ。彼に会った。
「心の中を見せてくれた。僕は・・・僕は・・・」
口を動かしていたが、見て来たものを言い表し難いようだ。
「何故だ?」ヴェイユールが言った。「何故下にいるのだろう?」
「彼は変化している」
 初めて、ミスター・ヴェイユールは動揺して見えた、ヴェイユールが不安を感じていると思うと、アランの心の奥底の何かも一緒に不安を感じでいるようだ。
「変化はもう始まったのかね?」
「イエス!」ニックの目がさらに大きく開いた。
「それが完成したらあんたの所に来ようと思ってる!」
「わかっている」ヴェイユールは低い声で言った。「わかっている」
突然ニックの目から光が消えた。視線は宙を泳ぎ肩が落ち込んだ。
ライアン神父がニックの肩を掴んだ。「ニック?ニック?」
しかしニックは答えない。
「具合が悪いのかね?」アランが言った。
もう長い事医療行為を行ってはいないが、反射的にそのモードに入ってしまった。
この男は緊張病に陥っている。
ニックの頭蓋骨変形にアランは気がついた、
さっきの行動は、何かそこに由来があるのかもしれない。だがそうとも言い切れない。
精神分裂症の男を穴に送り込んだりする筈はない。
「こんな風になったのは昨日からなんです・・・下から戻った時からです」
「医者に診せたのですか?」
神父は頷いた。「ありとあらゆる。誰も、どうしたらいいかよくわからなかったのです」
「何故病院に入れておかないのです?適切な治療を見つけ出すまで監視下に置いておくべきです」
ライアン神父は一瞬だけこっちを見た、アランはその目に湛えられた苦悩の底知れぬ深さに
ショックを受けた。すぐに神父は目を逸らした。
「ありがとうございます、ドクター・バルマー、
しかしこれは・・・ニックの持つ疾患には現代医学の手を借りても、
如何ともし難い事がわかっているのです」
 神父はニックの手をとった、若者はすぐに彼の後についてキッチンに入っていった、
残されたアランはこの神父は一体どんな地獄を見て来たのだろうかと考えた。
「では」ミスター・ヴェイユールは言うと、シルヴィアとアランの方を向いた。
ジェフィは相変わらず彼の足にぶら下がっている。
「もう一人ここに来る筈です。そうすれば全員揃うことになります」足元から少年を引き剥がした。
「さあ、ジェフィ。お行儀よく、お母さんの隣にお座り」
渋々ジェフィはそれに従い母親の隣に腰掛けたが、母親の方を見もしなかった。
相変わらずヴェイユールにひたと目を据えている。
「いらして下さる気になってとは嬉しい」グレーケンはシルヴィアに言った。
「選択の余地はありませんでした」シルヴィアは言った。
「あんな夜の後では」眉間にしわを寄せた。
「おかしいですわね・・・あなたは木曜日に我が家においでになり、叩き出され、
金曜日にこんな地獄が世に放たれるとは」
「つながりはありません。保証します、ナッシュ夫人。
穴にもチューワスプにもベリーフライにも私は責任がありません」
「そう仰られましても。あなたのビルディングのまわりは今朝はまるで屠殺場のような有様。
その外にあるロングアイランド、モンローの村のあるナッソーカントリーにも、
ここにダメージを与えたと同じ小さな怪物どもが群れをなしてやって来ました、
ただ一軒の家を襲うために。私どもの家ですわ。何故ですの、ミスター・ヴェイユール?」
「グレーケンとお呼び下さい」老人は言った。「質問の答えはもうご存知だと思いますが?」
 アランはシルヴィアの唇がほんの少し震えているのがわかった。
突然目に涙が溢れそうになっているのに気がついた。アランは胸が痛んだ。
こんなにも感情を露わにしてしまうとは。何年にも渡ってシルヴィアとつき合っている。
人前で感情を表したことなど一度もなかった。
家では素直に自分を出していたが、人前では、バーに負けずとも劣らなかった。
「どうして彼を傷つけようと?」小さな声だった。
アランはシルヴィアがジェフィの名前を言わないようにしたのに気がついた。
グレーケンと呼ぶよう求めた男は悲しげに笑うと、少年の髪をくしゃくしゃにした。
「彼を狙っているのではない。その中に住む者が目的です」
シルヴィアは後ろに寄りかかり目を閉じた。その声は囁きに近かった。
「ダ・タイ・ヴァオ」
アランは安堵の余り椅子の上で脱力した。遂に、何ヶ月もかかって、シルヴィアはそれを認めた。
これでこの問題に対処する事が出来るかもしれない。
「そうです」グレーケンが言った。
「穴からやって来る者たちは本能的に敵意を抱くのですよ、ダ・タイ・ヴァオの様なものにね。
この建物に一緒にいるように言った理由がそれです」
シルヴィアはヴェイユールを見つめた、簡単な提案でも聞いている様な顔をしていた。
シルヴィアが答える前にドアベルが鳴った。
「行ってくれるか、ビル?」グレーケンはキッチンに向かって言った。
「トリース夫妻だと思う」
ライアン神父がキッチンから出てきて戸口に向かった、
グレーケンはちょっと戸惑った顔をしてそっちを見た。
 年かさの女性が一人で入って来た、スレンダーで魅惑的なアッシュブロンド、
ライアン神父を見るとたちまち輝く様な笑顔になった。
その女性と神父は旧知の間柄の様だ。単なる友達以上の関係だとアランは感じた。
 神父が女性に何か尋ねると、女性は首を振った。
神父がキャロル・トリースと紹介し、女性は向こう側の角のソファに腰を下ろした。
神父はその後ろに立ったが、キッチンの入り口から目を離さなかった。
「ご主人にもおいで頂くよう申し上げたが」グレーケンが言った。
キャロルは慌てて首を振った。「仕事で遅れて・・・デンヴァーなんです」
「それはよくない」グレーケンが言った。「ですが、取り敢えず全員が揃った。
何故あなた方がここにいるかお話しする前に、いくらか背景をお伝えしなければならない。
長い話だ。大昔から続くものだ。始まったのは・・・」
 突然窓の外から悲鳴が聞こえた。グレーケンが振り向き、アランも他の全員も窓の方を見た。
 女が浮いていた・・・
ぽっちゃりした中年の女性で白いブラウスとポリエステルのパンツスーツ・・・
窓ガラスの向こう十二フィートくらい離れた空中を上に登っていく、
虚しく身を捩り、向きを変えようとしたり、足を蹴りもがいているが、
何をしても登っていくのを止められない。女の顔はパニックで固まっている。
女の上げる激しい叫び声が二重ガラスの窓を通り抜けて聞こえてくる。
 ここは十二階じゃないか!アランは思った、アラン、バー、ニック以外の全員が窓に駆け寄った。
 現れたと同じくらいあっという間に女は窓ガラスを通り越し、
手を離れた風船のようにぐるぐる回りながら見えなくなった。
 シルヴィアは顔色を無くし唇をひき結んだ。トリース夫人は両手で口を押さえている。
ジャックと言う名の男はグレーケンの方に向き直り途方にくれたような笑い顔をした。
「なんかのギャグなんだよな?」
老人は首を振った。「多分そうではない。あの女性はもう一つの種類の穴、
間隔も場所も無作為にこれから現れる穴の犠牲になった、重力の穴だ」
「何とかならないのですか?」神父が言った。
「どうしようもない。手の届かない所に行ってしまった。ヘリコプターでもあったら・・・」
グレーケンは溜息をついた。「申し訳ないが座って最後まで話を聞いて欲しい。
今こんな事があったからこそ話した方がいい。窓の外で起こったのは事故ではない。
だとしても、私の話すことを信じるのは難しい。
これまでいろいろな事があったから、あなた方が信じてくれるのではないかと
淡い期待を持っている。それにしてもこの二日間に起こった・・・
セントラルパークの底なしの穴、夜の生き物達による初めての襲撃、窓の外のあの不運な女性・・・こう言ったものどもが皆の心の受け入れ態勢を整えてくれたのではないかな。
私を信じる事が重要なのだ、我々が生き延びるために、我々人類の多くが生き延びるために、
これから始まる日々にどう対処していくかが重要になる。
賢く行動する事、己の仕事をする事、相手にしているものを知らなければならない」
 アランは部屋の中を見渡した。
後ろではバーが熱心に聞き耳を立てている、だがジャックと言う男は全て前から知っているようだ。すぐ隣のシルヴィアは、聞くだけの価値があるんだしょうね、と言った顔。
ソファの後ろでうろうろしているライアン神父はどこか遠くを見ている。
アランの印象としては彼もまたグレーケンが言わんとしている話をすでに聞いた事があるようだ。
向こうのソファのキャロルの表情も神父と同じだった。
それからグレーケンの話が始まった。
二つの敵対する勢力が、人間の現実世界とヴェールで隔てられた向こう側に存在する・・・
時代を超え、死ぬ事もなく、和解することは決してなく、形を持たず、
我々の理解を超える巨大な勢力。
一方は人類に敵対し、恐れや邪悪を食らうもの、もう一方は、同袍・・・友人というわけではない、守り神でもなく、守護天使でもない、立場上同袍と言うだけで、簡単に言えば敵方に相対するもの。二つの力の間には終わりなき戦いが繰り広げられ、宇宙を超え、時空を超え、
終わることなく荒れ狂っている。
古代の時にラサロムと言う名の人間が、悪意のある勢力側に連なった、
別の男が同じ古代の時に、相対する勢力の旗手として旗を持つ立場に押しやられた。
そして今、この長年の戦いが、戦場に一方の勢力しかいない、と言う状態で終わろうとしている。
結果は、この部屋に集結した小さなグループにかかっている。
敵対勢力に対し、力を集結しない限り、全ては失われる」
 感情は、アランはグレーケンを信じた・・・
心の奥底で、彼の言うことを信用しろ、と思っていた。
これもまたアランがダ・タイ・ヴァオと絡み合っていることの結果だろう。
理性は反発した。これに?ここに集まったグループに人類の運命がかかっている?
この男の気が狂っていればいいのに。そうでないなら、我々全員に審判の日が来る。
「なぜ我々はそんなに重要なのだろう、その・・・勢力にとって?」
うっかり口に出た。
グレーケンは肩を竦めた。
「そう言った存在の目的を言い当てるのは殆ど不可能だ、
だが長年の体験から出した結論は、我々はどちらの勢力にとっても戦略的な重要性は殆どない。
彼らは、我々の存在を取り合っているらしい。我々は彼らのゲームボード上のコマだ。
ゲームに勝つには多くのコマを集める・・・たぶん全てのコマを集めなければならないのだろう」
「どうして・・・?」
「我々は、異界として知られている側に必要とされている。
異界は命、人生を有意義にするもの全てに敵対する。我々にとって最悪な物によって育つ、
我々の間に行き交う悲惨や苦痛を糧とする。多分我々のネガティブな感情から力を集めている。
となると、我々は単なる栄養価の高いスナックなのかもしれない。
何にしろ、食らう為にここにいるのだ」
「それでもう片方の勢力は」シルヴィアが身を乗り出した。「我々を守ろうとはしないの?」
「人間として我々を気遣ってはいない。同袍という勢力は我々のことなど少しも考えていない。
先史時代に我々を所有する権利を主張し、ただそのままコレクションとして持っていたいだけのようだ。と言うか、そうして来た。異界も我々が欲しい、それで少しばかり攻撃を強めたのだ」
「昨晩、同袍はどこにいたのだろう?」アランが言った。
グレーケンは遠くを見た。「行ってしまったのだ」
「死んだのですか?」
「いや、ただ・・・立ち去った。他に注意を移してしまった。
1941年にちょっとした小競り合いに勝利し、退却した」
「そうなんですか?」アランが言った。
「その同袍とか永遠の戦いとか、勝ったと思ったから、他の所に、行った?
その場所に残って勝ち取ったものを見せびらかす、とか、
せめて少しはそれを眺めるとかしなかったのですか?」
グレーケンはアランを青い目でじっと見つめた、アランはグレーケンのパワーを感じ取った。
「どうだろう、ドクター。チェスをする時、相手のプレイヤーのコマに
何か価値があるから取るのだろうか?そのコマを何かに使おうと思うかな?
試合で相手のナイトのコマを取ったら、そのコマに何らかの思い入れを持つのかな?」
 部屋は死んだように静かになった、息もできないほどだった。
 グレーケンはトリース夫人をチラリと見た。
「どうしてキャロルがここにいるかと思っているかもしれないね。
古代の時にラサロムと言う男が異界側につき、そのエージェントとなった。
それで彼はある意味人間以上の存在になった。
結局十五世紀にラサロムは東ヨーロッパに幽閉された。
そこにずっと閉じ込められたままでいる筈だったが、
ドイツ軍が1941年にうっかり解き放ってしまった。
しかしそこから逃げ出す前に殺された。少なくとも殺されたように見えた」
トリース夫人の打ち拉がれた表情をアランは訝しんだ、
グレーケンが次に話すことが恐ろしい、とでも言うように、誰の顔も見ない。
「運がいいと言うか、稀有な状況の巡り合わせと言うか、
ラサロムは、ジェームス・スティーヴンスの胎児の胚に入り込む事が出来た。
だが、ジム・スティーヴンスの中でラサロムは無力だった。
ジムの身体を通して世界の移り変わりを見る事しか出来ない・・・
ジムがキャロルと結婚し子供が出来るまでは」
 神よ、アランは思った。
シルヴィアが硬直し、息を飲んだのに気がついた。
可哀想なキャロル。
グレーケンは続けた。「ラサロムは子供に移動した・・・その子供になった。
転生してからの十年間、ベビーが成長する間鳴りを潜めて、
周りの世界からパワーを吸い上げていた、戦争や、東南アジアの大虐殺、アフリカの大量殺戮、
中東の憎しみあい、流血、日常に毎日起こる、数えきれない悪意、トゲトゲしい論争、反感、怨恨、残忍な行為。ラサロムは行動する準備をしていた、世界は死んだ、と同袍を欺くよう、
ステージを整えた。
数ヶ月前、ラサロムはこの世界に対抗者はいなくなったのを知った、
多元宇宙に向かって、ここに知的生命体がいると発信するビーコンを消滅する事に成功した。
このゲームでは感性ある世界のみが価値を持つので、同袍は我々に背を向け、
他の世界へとシフトし、我々への関心は、ほぼなくなった。
ラサロムは手始めに水曜日の朝の日の出を遅らせた。
これからどんどんエスカレートしていくのは間違いない」
部屋の後ろからジャックが言った。
「昔は強力なバックアップがあったが、今じゃ自分たちで戦うしかない、って言うんだな。
これはリトルビッグホーンの戦いで、おれたちはインディアン側じゃないって訳だ」
 グレーケンの唇が歪んだ。
「そんな見方もある。だが援軍を呼び込めるチャンスがある、その話をしているのだよ」
「例のネックレスか」ジャックが言った。
ネックレス?アランは思った。何のネックレスだ?
グレーケンは頷いた。「ネックレスと適切な鍛治職人、そして・・・」ジェフィを指した。
「その少年だ」
「もうちょっとハッキリと話すつもりはないのかしら?」シルヴィアが言った。
歯を食いしばりながら話している。「話はそんな与太話だけなの?」
アランも同感だった。
グレーケンはシルヴィアの怒りの爆発にも動じなかった。いつものように微笑んだ。
「端的に言えば、ナッシュ夫人、我々は同袍に、世界は死んでいない、戦いはまだ終結していない、我らはまだ感性を発信し、アドヴァーサリーがこの天体を完璧に手中に納めるよう活動している、
と知らせたいのです。同袍に、シグナルを送らねばならない」
「それで私達にどうしろと?」シルヴィアが言った。
「太古の技術を再構築したい」
「武器を作るの?」
「ある意味では、だが武器というよりは、この場所を指し示すアンテナを立てたいのだ」
「それはどこにあるのですか?」アランが尋ねた。
「ラサロムがルーマニアの山岳地帯で滅びた時、半世紀以上前に、力を放出し尽くし、
キープと呼ばれていた場所に放置されていると思われる」
アランの頭脳は今まで以上に激しくグレーケンの言葉に反発した、
だがアランの心は、感情はこの話を信じろと主張していた。
「わかりました。表面的には」こう言うのを聞いて、シルヴィアがキツい目でアランを睨んだ。
「ルーマニアで焦点となる力を失ったものをどう復活させればいいのです?」
「我々がやるのではない」グレーケンが言った。
焦点となっていた全てのエッセンスは、ラサロムを殺した時に・・・殺したように見えた時に、
吐き出されてしまった。ラサロムが転生への道を踏み出した時、武器の残骸は塵になってしまった」
「なくなってしまったのなら、取り戻すのは不可能ですね」アランが言った。
「なぜその話をしているのです?」
「武器は二つある。もう片方は古代に盗まれ、分解されてしまった・・・
他のものに作り変えられたのだ」
「おお、ジーズ」ジャックが言った。「あのネックレスか」
グレーケンは微笑んだ。「その通り」
「二人で何の話をしているのかしら?」シルヴィアが言った。
アランはシルヴィアの皮一枚下に、怒りが弾け出しそうになっているのを感じた。
「もう一つの武器・・・もう一つの焦点・・・は盗まれ熔かされた。
溶ける段階で、焦点の中の力は解き放たれた。だが熔かされた金属の中にも力は残っていた。
その金属で二つのネックレスが作られ、幾時代か、古代カルトの僧侶と尼僧が所有し、
不老不死に近い効果を得ていた」
「では飛び去った力は?」
身を乗り出して、シルヴィアが言った、その顔は真っ青で固く張り詰めた表情をしている。
 その答えがアランの心の中に閃いた。シルヴィアも同じ事を考えたのではないだろうか。
「長い時代をかけて地球上を彷徨っていた」グレーケンが言った。
「その時々によって様々な呼び方をされていたが、
ついには、ダ・タイ・ヴァオとして知られるようになった」
アランはシルヴィアの口から微かなうめき声が漏れたような気がした、
シルヴィアは目を閉じ、ジェフィを抱いていた手が滑り落ちた。
ちょうどその時アパートメントの何処からか突然声が響いた。
「グレン?グレン?」ピッチを高め、パニック寸前のようだ。
「グレン、私はここでひとりぼっちでいるのよ!どこなの?」
アパートメントの裏側の部屋に向けたグレンの目、
アランはその中に、偽りのない気遣いと落胆が入り混じっているのを見た。
この時初めてアランの信頼感が緩んだ。グレーケンは叫び声の方に足を向けかけ、戸惑っていた。
「私が行きましょう」立っていたソファの後ろからライアン神父が言った。
「私に馴染んでます。安心させられるんじゃないかな」
「ありがとう、ビル」グレーケンは一同の方に向き直った。「妻は病気なのだ」
「お手伝いする事は?」アランが言った。
「多分ないと思う、ドクター・バルマー、お申し出に感謝する」
そう言うグレーケンの目にはなんの希望もなかった。「妻はアルツハイマー症候群なのだ」
アランには何とも言えなかった。「お気の毒です」
だがシルヴィアはすくっと立ち上がった。「これでわかったわ!」
「何がわかったのです、ナッシュ夫人?」グレーケンが困惑したように言った。
シルヴィアはコーヒーテーブル越しにグレーケンに指を突きつけた。
彼女の怒りは解き放たれ、牙を剥き奔り出た。
「気がつくべきだったわ!私の事を低脳だとでも思ってたの?
ここにジェフィを呼びたかったのはこの子を使えば・・・
と言うかこの子の中のパワーを使えば・・・女房が治せると思ってるのよ!」
「あり得ない事だ、ナッシュ夫人」グレーケンはゆっくりと穏やかに言って首を振った。
「ダ・タイ・ヴァオの力はアルツハイマーのように退行性の症状には役に立たない。
和らげる事は出来るかもしれないが、時間を戻す事は出来ない」
「あなたが言ってるだけでしょう」
ジェフィがシルヴィアの袖を引っ張った。
「この人にそんなにどならないで、マム。ともだちなんだから」
アランはシルヴィアが針で刺されたように怯むのを見た。
「行きましょう」シルヴィアは言うと、ジェフィの手を取りソファから離れた。
「だがナッシュ夫人」グレーケンが言った。
「焦点を復活させるにはジェフィが必要だ。
ダ・タイ・ヴァオと武器の金属を融合しなければならない」
「でも金属は持っていない、そうよね」
「今はまだ、しかし・・・」
「ではこれ以上話し合っても仕方がないわ。その魔法の金属を見つけたらお電話をください。
番号はご存知ね。それから話しましょう。その前ではなくてね」
「しかしどこに行くつもりかね?」
「うちに帰るわ。どこに行くと言うの?」
「いや、それはいけない。危険すぎる。ここにいた方が賢明だ。
この建物は私のものだ。空いているアパートメントを選べばいい。ここなら安全だ」
「ここですって?」シルヴィアは戸口で立ち止まった。
「ここは穴の真ん前も同然じゃないの・・・まだ崩れ落ちてないだけでしょ。
モンローの方がいいわ」
「この場所はある意味守られている。ここは最後までとっておかれるだろうからね。
あなたもジェフィもお友だちもその守りを共有出来る」
「まあどうして?この場所がどうしてそう特別なの?」
「私がいるからだ。最後の最後まで私はとっておかれる」
・・・あんたをひどく苦しめて苦しめ抜きたいと思ってる!
アランはニックの言葉を思い出した、
どうしてこの老人を恐ろしそうな様子を見せないのだろうと思った。
「トード・ホールも同じように守られています。アランと私で既に手を打ちましたわ」
 アランは椅子を回してシルヴィアとジェフィを追いかけた。
今朝一番に電話で、直ちに嵐に耐えるスチールシャッターの取り付け業者を探したのだ。
日の沈む前に仕事を終えればボーナスを弾むと持ちかけた。
シャッターで十分なのか今は心配になって来た。
 どうしてここにいない?いいんじゃないか。
この一団といると落ち着く、この共通点のない、あり得ないようなグループとここにいるのが
安全だと感じた。
ここには何かがある。名状しがたい作用、意識化の繋がり。
しかしシルヴィアはその全てを拒否しているようだ。
怒りの芯が解き放たれると、自分の殻に閉じこもり、自分の意見に固執し、テコでも動かない。
こうなったら聞く耳持たないのをアランは知っている。
打つ手なし。アランはこの兆しを察する事を学び・・・嵐が訪れたら・・・
静かに座って好きなようにさせておく。
雲と風が消え去り、シルヴィアが冷静になれば、違うシルヴィアが現れ、話も通じるようになる。
しばらくすれば気持ちも変わるだろう。
シルヴィアの癇癪は時に厄介だし、イライラさせられ、腹立たしい、
だがその怒りもシルヴィアのシルヴィアたる所以なのだ。
アランはシルヴィアらしいシルヴィアを愛している。
 ジェフィは明らかに留まりたがっている。
「行きたくない、マム」
「口答えしないで、ジェフィ」シルヴィアは低い声で言った。「お家に帰る時間よ」
ジェフィはシルヴィアを押しやろうとした。「やだもん!」
「お母さんの言う通りにするのだ、ジェフィ」グレーケンが穏やかに言った。
突然少年は反抗するのをやめた。シルヴィアがグレーケンに向けた顔は感謝とは程遠かった。
「知っておいて欲しいことがある、ナッシュ夫人」グレーケンが言った。
「昨夜お宅を襲撃した生き物の活動は日の入りから夜明けまでだ。彼らは日中は隠れている。
だが誰もが知っているように、昼間は短くなっている」
「しかし限りなく短くなる訳ではない」アランが言った。「ですね?」
グレーケンは答えた。「このパターンは続く。そして加速して行く。
日の出は今日もまた遅くなった。明日はさらに遅れるだろう。日の入りはだんだんと早くなる」
「でもそうなったら・・・」シルヴィアが言った。
「おわかりだね?」グレーケンが言った。「昼間が縮んで行く、暗黒と言う最終地点に向かって。
穴の生き物はどんどん捕食の時間を伸ばして行く、彼らが隠れる時間はどんどん短くなる。
昼間が完全に無くなれば・・・」
「やつらはエンドレスになる」ジャックが囁くように言った。
アランはジャックを見た、昨晩自分とシルヴィア、バーが経験した恐怖より
遥かに酷い物をジャックは見てきたようだ。
グレーケンは頷いた。
「その通り。我々が向かっているのは光を失った世界、法も理も正気も論理もない世界だ。
夜明けの来ないナイトワールド。我々が何かしない限りは」
「金属を手に入れたら電話してちょうだい」シルヴィアが言った。
アランは通りしなにグレーケンに手を差し伸べ握手すると、バーが扉を抑える戸口に向かった。
「行かないで」張り詰めた声が聞こえた。
アランが戸口で振り返るとニックがキッチンから出て来たところだった。
再びその目が輝き、生き生きと物言いたげにアランを見つめている。
「どうしてだね?」
「あんたたち四人が出て行ったら、三人しか帰って来ない」
 アランの背筋を氷のようなものが滴り落ちた。
吹き抜けを覗き見ると、シルヴィア、バー、ジェフィがエレベーターの前に立っているのが見えた。見ているうちにベルが鳴るとエレベーターの扉が開いた。
シルヴィアとジェフィが中に入り、バーが大きな片手で扉を押さえて待っている。
 アランは一瞬痺れたようになっていた。
三人が外で彼を待っている、アパートメントの中の四人はアランを見つめている。
ここにいたかった、でも・・・出来ない・・・シルヴィアなしでは。
シルヴィアが妥協する筈がない。今はまだダメだ、少なくとも。
肩を竦め、自分でもよく知っている気弱な微笑みを見せた。
「やがてわかる事だ」
そしてエレベーターに向かった、
まるで、外のシープメドウズにある暗黒の深淵に向かって車椅子を転がしている気がした。
ドクター・バルマーの後ろで扉が閉まるとキャロルが行った。「私ももう行かないと」
こんなにすぐに?マグダの部屋から戻ったビルは思った。
「ゆっくりしていかないの?」
キャロルは首を振った。「うちに帰った方がいいの。ネルスンがそろそろ帰るから」
 キャロルは手を振ると出て行った。キャロルと一緒に何かも出て行ってしまった。
ビルは一緒に行きたかったが、ニックがいる。
 ビルはニックをキッチンに連れ戻した。
キャロルの行動も気になったが、ニックの方はもっと気になった。
ニックはまるでデルフィの巫女の様な振る舞いをした、これから起こる脅威を予言した。
頭が変なのか、それとも深淵と接触したものが残っているのか、
グレーケンが言った様にカオスが身体の中に入り込んだのか?
「みんなを脅かそうとしたのかい、ニック?」
「違う」キッチンテーブルの椅子に戻るとニックは言った。その目はもがき苦しんでいた。
「あの人たちは危険だ。あの中の一人が死んでしまう」
「誰だい、ニック?どの人?」
 もし今ニックがピントが合っているならば、また緊張病に落ち込む前にハッキリさせたかった。
ロングアイランドから来た四人・・・それからあの女性。
シルヴィアはなかなかの難物の様だが、だからと言って傷ついて欲しい訳ではない、
子供の方は言うに及ばない。
「誰が死ぬんだい、ニック?誰が危険なんだい?ジェフィかい、あの男の子かな?」
だが、ニックは再びいなくなってしまった、顔は空っぽ、目は虚ろ。
「もうっ、ニック!」ビルは労わるように言った。ニックの崩れ落ちた肩を優しく握った。
「もう二、三分頑張れなかったのかい?」
返事はない、仕方ないな。
 ビルは腹を立てた、ニックの事ではない。あのナッシュと言う女・・・
グレーケンにあんな口を効くなんて。
助けようとしてるだけだ、隠れ場所を提供しようとまで申し出ているのに。
だが、グレーケンは言っていた、真実を受け入れるのは難しい。
グレーケンが何年にも渡り真実と戦っていたのも知っている・・・何十年も。
そしてシルヴィア・ナッシュは何かを恐れている。
それが何だかよくわからないが、ビルの前を通り過ぎて行った時、
その目の中に確かに恐怖があった。
 リビングルームで楽しそうな声が聞こえたので、見に行った。
「あんたをスカウトしようかな」ジャックが老人の背中を叩いた。
「なかなか帰らない客も、あんたがいればあっという間に追い払ってくれそうじゃないかい?」
 グレーケンは笑った、ビル、キャロル、ニック、みんなの事に頭を悩ませながらも、吹き出した。こう言うのはいい、これから先笑うような事があるかどうかわからないから、なおの事。
準備
マンハッタン
「で、どう思うんだ?」
トンプスンはエルンストにくっついてセントラルパーク・ウエストを歩きながら言った。
 朝エルンストに電話をかけ、一緒に「二人共通の関心事」について話し合おうと持ちかけた。
少しばかり話し合った所で、エルンストは、変化が始まった、と同意した。
 朝になってトンプスンはやや気持ちが落ち着いた。多分鳥たちがいなくなったせいだろう。
しかしシティのあちこちに確実に痕跡を残して行った。
「何についてだね?」
トンプスンはパークの方を示した。「これについてさ。この出来事全部だよ」
 警察がパークの南端を立入禁止にし、隣接する通りも封鎖していた。
エルンストとトンプスンは通行可能なセントラルパーク・ウエストの真ん中を南に歩いた。
しかし昨日のカーニヴァル騒ぎは消え失せていた。
縁石にいくらか物売りの店が点在している、
観光客はもっと僅かで、途方にくれたように歩き回っている。
非常線の黄色いテープの所には野次馬が群れていたが、昨日よりずっと静かでしんみりしている。
 穴はひとつのイヴェントだった。穴から噴出したものどもは大したホラーだった。
新種の虫の発生による致命的破壊ぶりが、今朝はあらゆるニュースで報じられた。
死者たちは搬送されたが、パークを見下ろす建物の受けたダメージが証拠となって残っている・・・何百、いや多分何千の破られた窓のスクリーン、ガラスが壊された所もあった。
ただ一つの建物を除いて。エルンストは三十四番地をメモした。
夜の間に受けたダメージが微塵もない。何故だろう?
 日は高く暖かくなった。
いつも着ている白の三つ揃いのスーツは暑さには強いが、もう少し薄手の物を着てくればよかった。
「それは・・・何の事だかはさておいて・・・
ロッジの私のオフィスで話し合ったではないですか?」
トンプスンは肩を竦めた。
「多分な。だが今朝も日の出が遅れた、
出来るうちにいくらかかき集めておいた方がいいんじゃないかと思ったんだ」
悪くない考えだ。エルンストはそう思った。
バリケードを通り過ぎると、また車の流れが復活していた。
「それで何を考えて?」
 タイヤの軋む音と恐ろしい悲鳴が聞こえ、二人は立ち止まった。
目の前で黄色いタクシーがトランクの方を上にして、通りから浮き上がり始めた。
運転手はドアを開けシートベルトを外すと舗石の上に転がり落ちた。
一人の女と子供が後部座席の窓から身を乗り出し助けを求めて悲鳴を上げている。
「神様!」そばにいた女が叫んだ。「誰か何とかならないの?」
 狡猾な顔つきをして、トンプスンは魅入られたように、タクシーが上がり続けるの見ている、
あたりに立ち並ぶ建物の先端を越えると、タクシーはゆっくり回転し始め、
さらに上がり続けて行く。「こりゃ一体何だ?」
「理が変わったのです」
落ち着いて聞こえるよう、突然乾き上がった舌を調整しつつ、エルンストは言った。
「だからこそ、変化、と呼ぶのではないですか」
 オーダーの伝承では、変化、に従って何が起こるのか、乏しく曖昧な情報しか書かれていない。
トンプスンはエルンストを見つめた。「ことわり、だと?だが・・・」
「我々の周りの物理が変化したのです」
 遂に車は建物の先端を通り過ぎ見えなくなった。よかった。
エルンストは傍観している自分が人食い鬼になったような気分だった。
「建物から離れずに行こう」そう言ってまた歩き始めた。
「そうすりゃ何かあった時に掴まれるだろ」
 エルンストは用心深く足を踏み出した、一歩先に重力の穴が待ち構えているかもしれない。
 トンプスンはエルンストをチラチラ見ながら歩道を渡った。「知ってるのか?
一者の奴があんたに何の約束したか知らないが、俺たちは虚仮にされたんだと思うぜ」
ハンクが口にしたのは、エルンストが口に出さないながらも最も恐れていた事だった。
「彼は我々に借りがある」私に、だがな。「我々なしでは、これをなし得なかった筈だ」
「ああ、そうさ、多分な、だがあんたはパーティに招待されてるのに、
俺は表の寒い所に追いやられるような嫌な感じがするのさ。それで全ての可能性を考慮してみた。
もし、俺もパーティに出席させてくれるんなら、最高だ。
そうでないなら、善後策を考えなくちゃな」
 トンプスンは教育がない・・・高校中退で、学校教育を受けたとも言い難い・・・
だがエルンストはこの男の生まれつきの知能指数を認めるようになった、
特に本能に従い生き延びる能力は大したものだ。
来るべき、変化、の世界でも多分かなり生き延びられるだろう、
だが、如何に自分の戦略に磨きをかけた所で、結局の所敗北するのだ。
 エルンストは自分がもし取り残されたとしても、簡単な戦略しか考えていない、
大量のシアン化合物を自宅に用意してあるだけだ。
 八十番街から二人は急ぎ足でパークに入り、芽吹き始めたシェークスピア・ガーデンを横切った、なるべく木のそばを通るようにした。太陽は輝き、小鳥は歌い、蜂の羽音が聞こえる・・・
セントラルパークのいつもながらの春と変わりはない。
エルンストが知る、変化、の訪れる兆しは感じられない。
「何かアイデアがあるのかね?」
トンプスンは頷いた。
「ああ、ずっと考えてた。変化が起こりゃ、何もかもメチャメチャになる。
だがもしかして途中でポシャったら・・・」
エルンストはそうは思わなかった。「どうでしょう、それは・・・」
トンプスンは立ち止まるとエルンストに指を突きつけた。
「何だって終わるまでわかりゃしねえ。
それに俺はデブちんのソプラノがフィナーレを歌いきるまで待つつもりはねえんだ。
お前んとこの一者の奴が人間に手を出したら、人間だって黙っちゃいねえ、な?」
「それはそうでしょうが、人間にチャンスはない」
「お前はそう言うが、クソッタレた事はフェンスの両側平等に起こる」
そう言ってまた歩き始めた。
「ここよ、もし、変化、が半分の所で終わったとしても、世界はもうメチャメチャだ。
完璧にメチャメチャになろうが、半分メチャメチャになろうが、一歩先に行ってなくちゃならねえ。有利な点の一つとして、バックに控える人間ってのがある、俺には控えが沢山いる」
「君のフォロワー達だね・・・もちろん」
「そうよ。キッカー帝国がやったるぜ、ってこった。だがそれだけじゃ足りねえ。
優勢に立たなきゃならねえんだ」
また立ち止まると、今度は木々の間から空を透し見ている。
「何が言いたいのかね?」エルンストはトンプスンに奇妙な新しい力を感じ取った。
その目が熱に浮かされたように光を放っている。
「太陽だよ、ドレクシー。太陽を必要とするもの・・規則的に一定量の太陽を・・・
必要とするものと言えば?」
失礼にも愛称で呼ばれた事は多いに気に入らなかったが、話がどこに行くのかは気になった。
「つまり、植物、だと言わせたいのだね」
「その通り!そして今、時は春だ、芽を伸ばし実をつけるのに、植物は太陽を必要としてる」
エルンストの方を見た。「ガキの頃にゃお袋と農場で働いた。
で、これから何週間も日照時間がどんどん減って行くと、世界中で大量の収穫がダメになる」
「変化、が完了すれば、不作など世界が抱える厄介事のうちに入らないと思いますが」
「だが、変化、が途中でポシャったら、世界的な食物不足に直面する、飢饉になるかもしれないぜ。だろ?」
「何を・・・まあそうですね」
 トンプスンの言わんとする所がわかり、エルンストは仰天した。
目の前に迫った非常事態を気にしているのではなかった。左様・・・
もし一者が失敗し、変化、が・・・トンプスン流に言うなら・・・ポシャったら、
何十億がその余波で飢えるだろう。
敵方が一者をストップさせたとしても、ピュロス王の勝利(あまりに犠牲の多い勝利)になる。
苦々しくも笑い出しそうになった。
世界に冠たる異界帝国Otherness über alles
「むちゃくちゃ正論、そうともよ。で、計画を練り始めた方がいいと思った。
未来を見据えた人間がそこから利益を得るのよ」
「君が市場の先行きとかそう言った事を考えているのではないと思いたいが」
「バカ、ちげえよ。日照時間がこれからどんどん減って行く、株式市場が存続するかもわからねえ。物価は天井知らずだ、だけど何で支払う?」
エルンストは理解した、世界規模の作物不足に直面すれば、金など・・・通貨など・・・
何の価値もなくなる。
「確かに金ではないですな」
「そうよ。金なんざ紙っきれ、紙は食えねえ。
作物がなくなって食料品店の棚が空っぽになりゃ、シティじゃ食い物を争って暴動が起きる。
何より大事なのは食い物だ。食い物を手中に収め・・・人的な守りも持つ人間・・・
そいつが世界を牛耳る。それが俺よ」
「それが君の計画かね?」
トンプスンは頷いた。「そうよ。貯蔵品を集める・・・缶だの瓶だのに入って、日持ちのするやつ、パスタとかもな。冷蔵庫がいらないやつだ。俺たちで街中の店を買い占めようぜ」
「それだけのお金をお待ちなのかね?」
人をバカにするように鼻を鳴らした。「金なんざいらねえ。カードを集めて限度額まで使うのよ。
何もかもクレジット払いだ」ニンマリした。「カード会社が請求も出来なくなるに決まってる」
腕時計を見た。「うちの連中に買いだめさせよう」またニンマリして、ウインクした。
「他の奴らが始める前にな」

CNN
世界中のどの国と言う国にも、巨大な穴が開いています、底なしで、直径はほぼ二百フイート、今日一日で次から次へと開いています。イラン、北朝鮮、中国政府は自国内の穴の存在を否定していますが、衛星写真は違うことを言っています。そしてみなさん全員の心の中の疑問、このそれぞれの穴から、昨夜のマンハッタンと同じく、たちの悪い虫の大群が放たれるのか?もしそうなら、それを止める手立てはあるのか?
マンハッタンでは着々と準備が進んでいます、それは・・・
お待ちください、たった今ホワイトハウスからです。大統領が国家非常事態を宣言しました。

再現映像:国家非常事態です。アメリカ陸軍予備役が配置されました。議会は緊急会議を招集しました。
ジャックはイッシャー・スポーツ・ショップのカウンターに座って・・・
アッパー・ウエスト・サイドに残された数少ないP一文字で綴られた店・・・
外を行き交う人々を眺めていた。
アムステルダム・アヴェニューはいい天気で、普段の土曜の午後よりは少し人通りが少ないようだ。
何もなかったかのように見える。
 しかし全てが変わったのだ。みんなまだ気がついていないだけだ。
ジャックは外に走り出てそこにいる人たちの襟首を掴みまっすぐ顔を見ながら、
昨日の晩の事はある地域の小さな出来事でもないし、ちょっとおかしな異常事態でもないんだぞ、
と怒鳴りつけてやりたい衝動にかられた。これからまた起こる。さらに悪くなる。今晩だ。
 エイブ・グロスマン、ここの持ち主、が、せかせかとカウンターの後ろの食料庫からコーヒーを
二杯運んできた。一つをジャックに渡すと、キャッシュレジスターの後ろのスツールに座った。ジャックは一口啜ってたじろいだ。
「ジーズ、エイブ。いついれたコーヒーだ?」
「今朝だよ。何でだ?」
「ワインじゃあるまいし。年を経てよくなるもんじゃないんだぞ」
「捨てろっちゅーのか?裏に電子レンジがあるんだ、ミスター・始末屋ジャック様が
急に繊細な味覚の持ち主になったから投げ捨てろっちゅーのか?」
 ハンプティ・ダンプティ型の枠組みに二百ポンドを優に超える体重を詰め込んだ身体用に
調整したスツールが軋んだ。後退した灰色の髪、着ているのはいつものタックの入った黒いパンツ、白いシャツに黒いネクタイ。朝食の名残の卵の黄身のカスが胸ポケットについている、
ネクタイに点々とこびりついている赤い色は苺ジャムか。
たった今シャツじゅうに、ジャックが持って来た焼きたてのピアリ(朝食パン)からこぼれた
細かく刻んだ玉ねぎを、振りまいた所だった。
「ぬう?」止まり木に収まると言った。
「お前さんに嘲笑されながらも、長年わしは何と言い続けた?ついにそうなったな。文明崩壊だ。
全てが崩壊する、わしらの目の前でな、言った通りだろう」
 ジャックはこう聞かされるだろうと思っていた。
グレーケンに言われた事をエイブに言えば、言わんこっちゃないモードになるのはわかっていた。
だがエイブには知らせなければ。
ジャックの友達、腹心の友、ニューヨーク・シティに来てから武器の調達をし続けてくれた。
実際、始末屋ジャックと呼び始めたのはエイブだ、ジャックの好むと好まざるとに関わらずだ。
こう呼ばれるのは嫌になって来ている。
「気を悪くするなよ、エイブ、だけどあんたが予言したのは経済の崩壊だろう。
銀行の倒産、インフレの暴走、そんなのだ。覚えてるか?」
「ちゃんと起こったろう、あれは・・・」
「これは違うんだ」
エイブはコーヒーカップの縁からジャックを見た。
「太陽をチェックしたがな。それほど速く動いちゃいないぞ」
ジャックは首を振った。「太陽は動かないんだ、動くのはこっち」
「知っとるわい。だが何かが前より速くなっとる筈だ。
つまり地軸の傾き・・・そいつが一年を通じて昼間の時間の変化を決めとる。
昼間が短くなるちゅう事は、こっちの回転が速くなったか、地軸の傾きが変わったかだ」
「全ての科学がそんな事は起こっていないと言ってる」
「それなのに昼間は短くなってる。パラドックスだ。ありえん事が起こっとる。
それが真実なら不可能が・・・ちゅうかグレーケンがお前さんに言った、
不可能のように聞こえるものが・・・真実なのかもしらん」エイブはジャックを見た。
「これが正念場だと思うか?ナイトワールドだと?そんな事があり得るのか?」
ジャックは頷いた。「だけど不可避とも言えないんだ、グレーケンがつなぎ合わせてくれれば」
 エイブはしばらく黙っていたがやがて口を開いた。
「理由はいくつかあるが、わしも信じるよ。
大人になってからずっとこう言う不測の事態に備えて来たからな。
こんなに長い事備えてたっちゅうに、何も起こらなかったら、自分がえらくシュレミール(まぬけ)な気分になるしな。だがわかるかな、ジャック?
今、その時が来て、わしはシュレミールじゃないのが証明された。嬉しくも何ともないわい」
「まだ隠れ家はあるのか?」
「勿論だ」
 世界一気難しい悲観論者のエイブは、文明崩壊、に向けて、ジャックの知る限りずっと、
備えを固めていた。
エイブはジャックを信用し、ペンシルヴァニアの田舎にある避難所の事を打ち明けた、
鬱蒼と茂った木々の中の農場で、地下室があり、
武器、フリーズドライの食料がふんだんに備え付けられている。
大暴落の時が来たら、ジャックを喜んで受け入れると言った。
ジャックに場所まで教えてくれた・・・誰にも教えた事がない、娘にも教えなかったと言うのに。
「そこに行け、エイブ。シティを出て、そこにこもってろ。出来れば今日中に行ってくれ」
「今日中に?今日は行かれん。明日なら多分」
「多分、じゃダメだ、エイブ。今日がダメなら、明日は絶対だ。絶対だぞ」
「随分心配するんだな、ジャック。どんだけ悪いもんの話をしてる?」
「あんたが夢見たこともないほど悪いものさ」口を閉じると苦笑いした。
「ジーズ、エイブ。あんたのそばにばかりいたから、言う事があんたに似て来たぜ」
「お前さんにカメレオン的な所があるからだろうよ。
だが、わしが夢見たこともないほど悪いだと?わしはかなり酷い夢を見るぞ」
「何の夢を見ててもいいが、信じてくれ。それより悪い」
 シープメドウズの穴の周りの大虐殺場面が目の前に閃いた。
それなのに今は、さらに穴が出来た。
人食い虫が昨夜見た二種類だけに限定されていたにも関わらず、
シティは悪夢の中に叩き落とされた。
しかしグレーケンは、さらに大きくさらに凶暴な物に進化すると言った。
 ジャックはホロコーストの映像を思い浮かべるのをやめた。
「だけど、あんたの好意にすがりたい事があるんだ」
「聞くまでもない」エイブが言った。
「朝イチでジーアとかわいいヴィッキーを連れてここに来ればいい、みんな一緒にお山に行こう」
「ありがとう」
そう言いながらジャックは、このずんぐりした武器商人へと暖かい想いが湧き上がるの感じた。
「何と言ったらいいかわからないよ、ありがとう。だがおれは行かない」
「わしには行けと言って、自分は残るのか?」
「この状況を打開するチャンスがあってね」
「ああ、例のネックレスか。あんたがしてたのを覚えてるぞ。
ヴェーダ時代より前の文字が刻まれてた」
「そうだ。コピーを作らなくちゃならない。ウォルト・デュランを考えてるんだが。どう思う?」
「ウォルトなら適任だ。彫刻の世界じゃシュターカー(凄腕)だ。それに仕事を欲しがってる」
「ほんとか?何かあったのか?」
「コンピューターと新札のせいさ。真っ当な偽金造りにゃ仕事が来ない」
ウォルトは職人で働き者だ。
もしその才能を宝飾業界で生かしていたら、長い目で見て、もっと稼いでいたろうし、
刑務所に入る事もなかったろう。
とは言え、彼が今お茶っぴきだと聞いて、ジャックは満更でもなかった。
と言う事は、ボーナスをチラつかせれば、フルスピードで仕上げさせられるかもしれない。
ウォルトはいい仕事をする分、念入りだから。
「オッケー」エイブが言った。「どうする?」
ジャックはコーヒーをやっと飲み下すと、立ち上がった。
「あんたのヴァンをガソリン満タンにして、夜の間はガレージに入れておけ。
今日の午後、荷物を作って、日の落ちるまでにここに帰ってくる事。
夜の間はここの地下室にいるんだ。上で何か物音がしても見に行っちゃいけない。
ずっと下にいる事。日が昇ったらすぐにジーアとヴィッキーをここに連れてくる。わかったかい?」
エイブはしかめっ面をした。「どうやら物事が下り坂に向かってると言いたいらしいな」
「下り坂?」ジャックは言いながら戸口に向かった。「崖から真っ逆さまだと思ってるよ」
 オーケー、
ローワー・イーストサイドから黒のクラウン・ヴィクを転がしながら、ジャックは独りごちた。
ウォルト・デュランは仕事に入った。
 さて、あとはジーアに街を出るよう説得だ。
 ウォルトは仕事を喜んでいた。明らかに有頂天だった。
狭っ苦しい割高のスタジオで寝起きする程切り詰めていた。
ジャックは絵を見せ、同じ大きさのコピーを二つ作って欲しいと言って、
材料費として頭金を渡した。引き渡しの時間が問題だった。
ウォルトは月曜の朝は、どうやっても無理だと言った。
だがジャックが一万ドルのボーナスを提示すると、ウォルトは考え直した。
多分それまでに間に合わせるだろう。
 ジャックは運転しながらハンドルの上を指で叩いた。
ネックレスをウォルトから月曜の朝までに受け取るなど、
明日ジーアをエイブのヴァンに乗せることに比べれば容易い事だ。
その上説得にかける時間はろくにないと来てる。既に午後の日は傾きかけている。
グレーケンの言う事が正しければ、今晩は昨夜より更に悪い、
となれば説得する事もないかもしれない。説得は穴に任せておけばいい。
 パークの方にカーヴを切って、後始末がどのくらい進んだか見に行くと、
目を見張る改革が行われていた。セントラルパークに、まだバリケードこそ張られていたが、
死体はなくなっていたし、車両の残骸は片付けられ、歩道もきれいになっていた。
車は規制されていたが、歩行者は別だった。
歩道、パークの縁、悪名高いシープメドウズの穴を見よう、
ニュースで見た血生臭い大虐殺の現場をチェックしよう、
とあらゆる年代の人間が好奇心に駆られて集まっていた。
 ジャックは腕時計を見た。まだ時間があったので、二重駐車し、
生い茂った草地を小走りに横切り、もう一度穴を見に行った。
 人垣が厚かった。みんな穴の縁で行われている事が見たかったのだ。
人の頭越しにクレーンが上がったり下がったりしているのが見えた。
ジャックは報道関係者の間を縫って進み、適当な高さの木を見つけ、
穴が見えるところまで幹をよじ登った。
 南側の半分は金網のようなもので覆われている。
残りの開口部をワーキング・クルーが塞いでいる最中だ。
ジャックはしばらく眺めていたが、木から滑り降りた。
「どうなってますか?」誰かが聞いた。
ジャックが振り返ると上等な服を着たカップルが乳母車の横に立っている。
男は心配そうに笑っている。
「半分以上塞ったよ」ジャックが言った。
女の方が溜息をつくと両手で夫の腕にしがみつき、ジャックの方を怯えた子鹿のような目で見た。「またあの虫が戻ってくるのかしら?」
「戻るだろうな」
「金網は役に立つかしら?」
ジャックは肩を竦めた。「多分な。だが穴はここだけじゃない」
「知ってる」男の方が言って頷いた。「だが俺たちに関係あるのはこの穴だ」
女房の肩に手を回した。「大丈夫だよ」言って聞かせている。
ジャックは乳母車のベビーを見下ろした。
十八カ月くらいかな、全身ピンク色、砂色の髪で、ジャックを見上げてニコニコしている。
「あんたたちの住まいに地下室はあるかい?」
ジャックは無邪気な青い目を見つめながら言った。「窓のない部屋はあるかい?」
「う、あるよ。ボイラー室の隣に物置が、そこは・・・」
「日の入り前にそこに行くんだ。朝までに必要なものをみんな持って行け。
日が昇るまで上に行くんじゃないぞ」
ジャックは子供から顔を背けると急いで立ち去った。
 ジーアとヴィッキー。くそ、ジーアを肩に担ぎ上げて、
エイブのヴァンの後ろに放り込んででも、明日の朝町から出るのを見届けてなくちゃならない。
「よお、ババアの後ろに行こうぜ、誰もいねえからよ」
 キャロルが振り向くと、支払いカウンターの列の後ろに四人のむさ苦しい男が並んでいた。
全員二十代後半から三十代で、一人ずつカートに山盛りの食料品を積んでいる。
缶や食料品のケースなど。キャロルはカートの中にある自分の買い物を見た、
ブルベリーとノン・ファット・ヨーグルトが三つ。ネルスンの帰宅が遅れ、別の日になったので、
別に買うものもないと思ったのだ。
男たちのコメントが胸を突いた。
ババア?
 そりゃ彼らよりは随分年をとってるけど、エクササイズを欠かさず、ダイエットにも気を使い、
以前と変わらぬスタイルを保っている。
そろそろ六十代に突入するけれど、鍛え上げられ手入れされた身体は、
そこら辺の三十代よりずっと若く見える。
だけど、彼らのおばあちゃんでもいいくらいの年だわ・・・
おばあちゃん・・・その言葉が胸に広がると、痛いほどに胸が詰まった。
私はおばあちゃんになる事はない。母親だった事はある・・・ある意味。
自分を母呼ばわり出来る立場かしら?子供が生まれたけど、自分の子供じゃなかった。
遺伝的には、そうね・・・DNAの半分は、でもその身体の中に既に意識が存在した・・・
私の中にいた時から。
「何見てんだよ、ババア?」
 そう言われびっくりした。真後ろにいた男だ。
肩のところで袖を切ったワークシャツを着ている、
筋肉質の腕にあるタトゥーを見せたいからに違いない。
男の親指と人差し指の間に、なんだか見覚えのある、クモの巣とタトゥーに気がついた。

街中で見かける。誰でも知ってる。キッカーマンだ。
見つめていたのに気がつかなかった。「ごめんね。それからそんな風に呼ばないで欲しいわ」
「ババア、の事か?何でだ?ちげえか?」
「違います」言いそうになった「運が悪いことにね」だが、引っ込めた。
どんな孫が生まれているか神のみぞ知るだ、ラサロムが父親の生物なんだから。
「だけどそのくらいだろう、ちげえか?」
「そうね」溜息をついた。「そのくらいだわ」
「ヘイ」二番目に並んだ男が低い声で言った。「見かけは悪くねえ。
G-MILF(Grand Mother I'd Like to Fuckコマしたいババア )なんじゃね」
これに一同は大笑いした。キャロルは訳がわからなかった。
「とにかく」キャロルは言った。「見てた訳じゃないの、考え事してたのよ」
 しかし今は見ていた。
後ろのカートには五ケース分のスパゲッティソースが入っている、
その後ろの二つのカートには、いろんな種類、いろんなサイズ、いろんなブランドのパスタが
山積みになっている。
グリスターズのスーパーにはパスタが沢山置いてあるが、もうあまり残ってなさそうだ。
「イタリアン・ナイト?」キャロルが聞いた。
男が笑った。「正確には違うけどな」
「少しは残ってるの?」
二人目に並んだ男が・・・同じく小さなキッカーのタトゥーがある・・・言った。
「俺たちは何にも残さねえ、どこも、サッパリだ」
キャロルはさっきの一言を否定しようとしたが、キャッシャーの順番が来た。
二秒しかかからなかった。
デヴィッドカードを通しピンコードを入力した、後ろの男たちに見られないよう角度に気を遣った。男たちはフレンドリーだが、風が悪い。上っ面から暴力的なものが染み出しているのを感じた。
「カードが通らないわ、奥さん」キャッシャーが言った。
キッカー達が後ろからコソコソ言うのが聞こえた。「ああ、クソ」
「読み損なったのね」キャッシャーに言った。「やり直すわ」
やってみたが、同じ結果だった。拒否。
キャッシャーはしかめっ面をした。「残高不足よ」
その言葉に仰天した。「そんな筈ないわ、十ドルにもならないのに。きっと・・・」
「俺のを入れてみよう」後ろの男が緑色のアメリカンエクスプレスカードをキャッシャーに見せた。
キャロルは他人に払わせるつもりはなかった。「いいえ。わかったわ。現金なら持って・・・」
「持ってるだろうよ、婆ちゃん、だが日も暮れかけて、俺たちゃ忙しいんた。俺らに任せておけよ」
「そんな訳には・・・」
「そこに立ち塞がってんのが迷惑なんだよ」
男はブルーベリーとヨーグルトをキャロルの腕にぶら下がったショッピングバッグに突っ込んだ。
それからキャロルを通路から押し出し、空いた場所に入り込んだ。
「でも・・・」
男は手を振った。「行け行け行け。いい加減にしないとキレるぞ」
 キャロルはたじろぎながら移動した。
キャッシャーは既にコンベアに乗せられたトマトソースのケースに取りかかっている。
 店を出てデヴィッドカードの事を考えた。残高不足?
あり得ない。ネルスンはいつも少なくとも千ドルを口座に入れている・・・
誰かがカードを持ち出してピンコードを入れて空にした・・・あり得ないとは言えないけど。
ネルスンは空にしたままにはしない。必ず補充している。何かの間違いよ。
少なくとも・・・
暗闇迫る中急いで家に戻り、まっすぐコンピューターに向かった、
シティバンクのアカウントにログインする。
デヴィッドのアカウントで取引残高をチェックすると、$2・27。息を吐いた。
誰かかアクセスコードを手に入れて侵入した。アカウントが一つ侵害されたら・・・
 恐るべき疑いが湧き起こり、他のアカウントにもアクセスしてみた。
あれもこれも僅かな残高しかない・・・ネルスンの個人退職積立金まで。みんなすっからかんだ。
電話を掴むとネルスンの短縮ダイアルにかけた。デンヴァーで立ち往生してる筈。返事がない・・・ミーティングか何かの最中ね・・・必死でメッセージを残した。
それからシティバンクのカスタマーサービスの番号を探した。まずここからだわ。
何があったのかしら?
モンロー、ロングアイランド

シルヴィアはドライヴウエイに立ち、大勢の職人達がトードホールの西側の壁にセットした足場で
働くのを見ていた。
「なんとかなりそうですぜ」ルディ・スナイダーが横から言った。
シルヴィアは傾いた太陽と長く伸びた影を見た。
昼間はあっという間に終わった、まるで夏ではなく冬が近づいているようだ。
「約束したわね、ルディ」
アランと一緒に北海岸中に電話をかけ、グレン・コーヴのルディになんとか頼み込んだのだ。
日の入り前までに全部の窓にシャッターをつけると請け合ったわ。
言い訳がましい話をし始めるのはやめてね」
拳を握りしめ不安を隠した。昨晩のような過酷な試練に立ち向かうのはもう嫌だった。
「まさか、ナッシュ夫人」
ルディは正面にジャイアンツ、と書かれたキャップの縁からこっちを見た。
ルディは背が高く恰幅がいい、赤毛で血管の浮き出た丸い鼻をしている。
地面の上の仕事だけを手伝っていた。
「全部やりましたぜ、言った通りでさ。だけど配線はやり切れてなくて」
「配線についてはいいわ。明日やって頂戴。
シャッターがキチンとしっかりついたら、下まで閉めて、そのままにしておいてね」
「ほんとにこれが必要だと思いなさるんで?」
 シルヴィアはルディをチラっと見てから目を逸らした。
私の気が狂ってて、シティから伝わる酷い話に過剰反応してると思ってるのね。
「枠に残る小さな歯を見たでしょ?」
「ヘイ、昨日の晩何にもなかったって言ってる訳じゃないすよ、
でもまた戻って来るとほんとに思うんですかい?」
「わかってるの。それに、今度はセントラルパークの穴からばかり来るんじゃないのよ」
「オイスター・ベイに今朝開いた穴を言ってるんだね?何が起こってると思いなさる?」
「わからないの?世界の終わりよ」私の世界はね、少なくとも。
ルディは用心深く笑った。「いや・・・まさか」
「お願いだから仕事を終わらせて頂戴」こんな話をしてる気分じゃないわ。
「この家を封印して、そうしたら約束したボーナスを払うわ」
「約束ですぜ」ルディは慌てて大声を出し、職人達を急き立てた。
シルヴィアはトード・ホールに戻りながら溜息をついた。
丁寧に手入れされ、古のエレガンスを保ってきたこの屋敷は、防風シャッターで台無しにされた。
でも上質で堅固な鋼鉄の板で出来てる。これが一番よ。
昼間の間は窓の上のシリンダーに巻き込んでおいて、日が沈んだら窓枠に取り付けたレールで
下に降ろししっかり閉じる。
今晩は手動で降ろさなければならないけど、明日からは全自動で閉められる。
巻き上げるも降ろすのも一つのスイッチでパチリ、シルヴィアがやればいい。
特別仕様のモデルで、ハリケーンの暴風にも耐えるデザインだ。
今晩、違う種類の暴風に耐えてもらうことになる。これで十分でありますように、
シルヴィアは祈った。
「後ろは終わった」アランが車椅子でシルヴィアの方にむかってきた。
「こっちに移動してまだの所を手伝うそうだ」
シルヴィアの視線を追って、トード・ホールに取り付けられた場違いな代物を眺めた。
「みっともないね?」
 シルヴィアは微笑んだ、二人の考えてることがいつも同じなのが嬉しかった、
気まずい沈黙の中、シティから帰って来たけれど。
特にアランが、あそこを離れるなんて気違い沙汰だ、と言ったから。
生きて帰って来るのは三人だけ
「言ってごらん、シルヴィア。どうしてそんなに怒ってるんだい?」
「怒ってないわ」
「巻き過ぎた鋼のバネみたいたよ」
 またシルヴィアは黙り込んだ。巻き過ぎ、そうよ、シルヴィアは思った、
でも怒ってるんじゃないの。怒ってる方がよかったわ。怒って済むことじゃないのよ。
「どう思ってる、シル?」ついにアランの方から言った。
 どうしてもやめないつもり?
「何のこと?」
「グレーケン。今朝彼が言ったこと」
「考えてる暇なんてなかったわ、特に変な老人の与太話なんかね」
「僕は彼を信じる」アランが言った。
「そして君もだろう。話を聞いてる時の目でわかったよ。
与太話だと思ってる時の君の顔は知ってる。
グレーケンのアパートメントでそんな顔をしてなかったよ。どうして認めようとしないのかな」
「わかったわ」口元を歪めながら言った。「わたしも彼を信じてるわ。お気に召した?」
 最後の言葉を言った途端に後悔した、しかしアランは気にしなかったようだ。
「結構。やっと話が出来そうだ。じゃあ聞かなくちゃ。信じているのに、どうして出て来たの?」
「信用しきれないからよ。誤解しないで欲しいけど」慌てて付け加えた。
「彼が嘘をついてると思ってるんじゃないのよ。
正直な人だと思うわ、私・・・ただ・・・
彼は自分で考えてるほど物事の行方をコントロール出来ないんじゃないかしら・・・
つまり、私達が信じてもいいくらいにはね」
「そんな事はないだろう。
我々に持ちかけて来たんだ・・・時に君にね・・・ 誰にも納得できないようなある事を。
僕達がそれを納得出来る理由は、既に僕達は、道理をわきまえた人間なら、九十九%あり得ない、と言い切るようなある事で、人生を逆さまにひっくり返された経験があるから」
シルヴィアは囁いた。「ダ・タイ・ヴァオ」
「そうだ。彼が穴を塞ぐ為に、昼間の時間が縮むのを止める為に、
昨日の晩の様な怪物どもに世界が踏みにじられない為に、ダ・タイ・ヴァオが必要だと言うのに、
なぜ君はジェフィを彼から引き離した?ジェフィはダ・タイ・ヴァオなどいらないだろう」
「どうしてそんな事がわかるの?」
「あれがキャリアに対していい物をくれた事があったかな?ウォルター・アースキンをご覧。
僕をご覧。古い歌がタッチを持つ者について何と言っているか覚えているかい?・・・
産み出す重みはその身に立ち返るからなり」
「でもダ・タイ・ヴァオはジェフィを傷つけたりしなかったわ」
「ジェフィはその力を使ってはいなかったからね・・・まだね。あの子は使う機会がなかった・・・まだね。だがそうなったら、使い始めるんじゃないか?」
ついにこの時が来た。シルヴィアの中の圧力が高まった、言わなければならない。
「ジェフィとダ・タイ・ヴァオの関係が違うものだったらどうする?特別なものだったら?」
アランは狐につままれたようにシルヴィアの顔を見た。
「僕には何だか・・・」
「ダ・タイ・ヴァオがいるから、今のジェフィがあるんだとしたら?」
シルヴィアは声を震わせないようにしていたが、抑えきれず、
喋る度神経質なヴィブラートが現れた。
「あの子が他の子と・・・正常な子供達と・・・同じように、ここ何年か、
生き生きと受け答えができて、笑ったり、歌ったり、本を読んだり、遊んだりできる理由だったら?アラン、あの老人がジェフィから、焦点だか、何だかの為に、ダ・タイ・ヴァオを取り去ったら、
ジェフィはうちに養子に来た時に戻ってしまうんじゃない?」
震えは声から身体に広かった。手と膝が震えるのを止められない。
「また自閉症に戻ってしまうんだとしたら、アラン?」
シルヴィアは両手を顔に押し当て、溢れ出した涙を抑え隠そうとした。
「神さま、アラン、私、恥ずかしいわ!」
突然シルヴィアの横に誰かが立っていた。
二本の腕が身体にまわされ、抱きしめられるのを感じた。
「アラン!あなた立ってるわ!」
「まだまだだとは思うんだけどね。だけどその話じゃない。
朝中君を観察して、君の中に何があるのか探ってた、君が何と戦っているのか全くわからなかった。神よ、何たる間抜けだ」
「でもあなた立ってる!」
「立ってるのは前にも見たろう」
「でも平行棒もないのに」
「君が僕の平行棒になってくれてるよ。
ここに座ったまま、君がバラバラになりそうになって、
恥ずかしい、なんて馬鹿馬鹿しい事を口にしてるのを見ていられなかった」
「でも恥ずべき女よ」シルヴィアは向きを変えてアランに抱きついた。
「グレーケンが正しいなら、世界中が危険にさらされている、何十億の人々が危ないのに、
私はここでただ一人の男の子の事を心配しているのよ。
その子に危険が及ぶなら、全世界を放り投げようとしてるのよ」
「だがただの男の子じゃない。ジェフィだ・・・君の子だ、君の世界で一番大切な男の子だ。
一番に考えるのを恥じる事なんてない。そうされるべき子供だ。そう言う子なんだ」
「でも全世界よ、アラン!どうしら、ノー、なんて言える?」パニックがまた込み上げて来た。
「どうしたら、イエス、何て言えるの?」
「その返事は僕には出来ない、シル。出来ればよいのだけれど。
君は何もかもを秤に乗せなければならなかった、
グレーケンが正しくて、彼の話していた焦点の為にダ・タイ・ヴァオが使えなかったら、
ジェフィも他の人々と一緒に滅びてしまう。
ジェフィを傷つける事なしにはダ・タイ・ヴァオを引き抜く事が出来ないのか、
それは何とも言えない。グレーケンがこの恐ろしい悪夢を消し去ってくれたら、
ジェフィは安全な世界で生きていけるようになる」
「何にもならないかもしれない」
「そうでもないよ。何にもならなくて、ジェフィが自閉症に逆戻りしたら、
グレーケンの予言する生き地獄にもシールドを張る事になる。返って恵まれているかもしれない」
シルヴィアはさらにきつくアランに抱きついた。「決めたくないわ」
「わかるよ。生憎、決断を下すにはジェフィはまだ年がいかない」
シルヴィアはアランの痩せた身体を通して震えが伝わって来るのに気づいた。
見下ろすと左足が震えている。見ているうちに小刻みに震え始めた。
アランは手を伸ばして抑えたが手を離すとまた震え始めた。
アランは苦笑した。
「ロバート・クラインのI can`t my leg routineみたいだな」
「どこが悪いの?」
「痙攣だ。あまり長く立ってるとこうなる。
いつもは両足なんだが、今日は左足だけだ。エルヴィスのモノマネもイケるかもしれないな」
「やめてよ。今時エルヴィスなんて誰も聞かないわよ」
「僕が聞くよ。だけどサンレコードの時のと、軍隊に入る前のRCAのやつだけだけどね」
シルヴィアは微笑んだ。アランとオールディーズ。
昏睡状態から目覚めた後のセラピーの一環で、ドゥーワップのコレクションを集め直した。
アランの記憶統合の治療に劇的な効果があった。
「さあ、座って」
アランは車椅子に戻った。体重をかけるのをやめた途端、震えは治った。
「うおー」アランは静かになった脚を叩いた。「これからの課題だな」
「あなたを愛してるって言ったっけ?」
「今日はまだだな」
「愛してるわ、アラン。そしてありがとう」
「何について?」
「抱いて欲しい時に立ち上がって抱いてくれた事。それから話をクリアにしてくれた事。
どうすればいいかわかった気がするわ」
「奥様」
 シルヴィアはバーの声にビクッとした。
近づくときにもうちょっと音を立てるようにしてくれないかしら。バーはまるで猫みたいだ。
 午後のほとんどを潰して、ジャックという人にあげてしまった棍棒の代わりを作っていた、
それを手に後ろに立っている。
前に作ったのと同じように、ダイヤモンドのようなチューワスプの歯が埋め込まれている。
「なあに、バー?」
「坊っちゃまはどこでしょう?」
見えない指で首を絞められたような気がした。 
「あなたと一緒だと思ってたわ」
「ガレージで一緒にいました。
外に行きたいとおっしゃり、奥様とドクターがここにおられるのを知っていましたので、
それで・・・」
バーは言葉を切るとゆっくり振り返り、辺りを見回した。
シルヴィアは裏庭の方を向いた。ジェフィを水辺に放置した事はない。
ロングアイランド湾でジェフィの遺体をさらう悪夢のような光景を思い浮かべ・・・
「あの子はもしかして・・・」
「待ってください、奥様。屋敷の正面から走り出て行かれるのを見ました」
「またうちの中に戻ったんじゃない?」
「おられません、奥様」

 長い影がシルヴィアの方に伸びて来るように見えた。
西側の壁に沿って植えられた柳の向こうは入り日で赤く染まっていた。
喉元の指が引き絞られ、締め付けてくる、パニックを起こしそうだ。
芝生を横切ってルディがやって来た。「終わりましたぜ!」言いながらニンマリ笑っている。
「ジェフィを見なかった?」シルヴィアは尋ねた。「うちのチビさんを見なかった?」
「金髪の子かい?見かけてないな。何時間か見てないすよ。
あたしらはシャッターをつけるのに没頭してたからね。それでボーナスの事ですが・・・」
「全部まとめてあとから払うわ・・・明日。今はジェフィを見つけないと!」
アランが言った。「水辺をチェックして来るよ。バー、壁際の茂みを調べてくれ。
シルヴィアは道を見に行ったらどうかな?」
 アランとバーが別々の方向に向かい、シルヴィアは正面ゲートに続くドライヴウエイに急いだ。
ゲートまで来ると立ち止まり、左右を見回した、
警告するように薄れていく光の中で緊張して目を凝らした。
 どっちだろう?
 ショア・ドライヴは湾に沿ってカーヴしてセンター方向、東に向かっている、西に向かうと、
ラッテイングタウンとグレン・コーヴに続く。
直感的に東に向かった、行く先には薄れゆく明かりの中、半透明の青白い月が見える。
ジェフィはハーバー・フロントにあるおもちゃ屋やアーケード・ゲーム・センターが大好きだ。
ショア・ドライヴを行ったのなら、そこに行ったのだろう。
進みかけて立ち止まる、突然確信がなくなった。
 もしわたしがジェフィなら、どっちの道を行くかしら。
ゆっくりと振り向き、反対方向を見た、太陽が地平線に差し掛かり、後ろにマンハッタンが見える。
マンハッタン・・・グレーケンのいる場所・・・ジェフィと内なるパワーが求める場所・・・
 シルヴィアは西に向かって走り出した。
心臓が胸の監獄に囚われた閉所恐怖症の囚人になって、肋骨の檻にしがみつき必死になって
大暴れしている。
シルヴィアの目は右や左に、道路わきの庭を彷徨って行く。
この辺りの敷地はどこも広く、道路に接する前庭は海岸線の様に長かった。
トード・ホールとは違い、ほとんどの家の敷地は開かれており、
手入れされた庭には木々、生垣、自由な形に刈り込まれた植木が散りばめられている。
ジェフィはリスとか小鳥を追いかけてそこのどれかの中に入って行ったかもしれない。
 どこにでもいる様な気がして来る。
スピードを落として歩き続けた。見逃したくない。
シルヴィアの左側にキーキー音をたてて、ぼろぼろの赤いトラックが停車した。
ルディが窓から身を乗り出した、仲間達はそれぞれの車やトラックで追い越して行く。
「あんたの坊やは見つかったのかい?」
シルヴィアは首を振った。「いいえ、聞いて、ジェフィって言うの。途中で見かけたら・・・」
「連れ戻してやるよ。グッド・ラック」
 ルディはスピードを落とし、シルヴィアはさらにキョロキョロしながら消えゆく太陽のもと、
捜索を再開した。シルヴィアがワンブロック進む前に・・・この辺りのワンブロックは長い・・・
太陽は沈んでしまった。
 神さま、神さま、シルヴィアは思った、
太陽が沈んで、あの恐ろしい虫どもが新しく空いた穴から飛び出して、こっちへ向かってきてるわ。
すぐにジェフィを家に連れ戻さないと、あいつらがジェフィを細切れに刻んでしまう。
そしてシルヴィアだっていつまでも外にいたら、シルヴィアも細切れに刻まれてしまう。
 どうしたらいいの?
WFPWーFM
フレディ:オーライ、エヴリバデイ。公式発表だ・・・また日の入りが早まった。まだ通りにいる君達、直ちに屋内に入って、この放送を聞いててくれ。グレートな音楽を次々アップデートするぜ。
<Frantic Desolation >


 ハンクはダウンのボタンを押すと、外に向かった二つの窓の暴風シャッターが
鋼鉄の窓枠に沿って降りるのを眺めた。それからスチール製の扉に鍵をかけた。
これで安全だ。ロッジの外は花崗岩のブロック、内側は石の壁で出来たちょっとした要塞だ。
鉄と石・・・これ以上のもんがあるか?
 ここはキッカーマンの為に借り受けている・・・
むしろ最近見るキッカーマンの夢のせいかもしれない。
何ヶ月か前から、キッカーマンが鳥達に攻撃される夢を見る様になった・・・
少なくともその時は鳥だと思っていた。
今わかった、地獄からやって来たデカイ虫だと言う事が。
もう一つ違う事がある。
夢のお陰でシャッターと鉄の扉を整えて、どんなクソ虫からも安全になった。
 善良なる古馴染みのキッカーマン。あの本のおかげで、やばい事でもやり過ごして来た。
未だハンクを失望させた事はない。
 しかし食物については・・・あれは全部ハンクのアイデアだ。
ベッドに腰を下ろすと、部屋を見回した。全く大変な一日だったぜ。出たり入ったりして
運び込んだ、五ガロンの炭酸水、バッテリー、プロパン・ストーブ、
そして食物、食物、食物。缶製品を箱買い・・・壁際にはいくつもの箱が積み重なっている。
ベッドルームと言うより倉庫の様だ。
 キッカー達を食料品店に送り出してから、もっといい事を思いついた。
何でちっちぇえ事を考えてるんだ?卸元に行きゃあいいんじゃねえの?
そこでヴァンを借りて流通会社を探し、マジで掻き集めた。
走り回ってロッジに取って返し、キッカー達がここに運び上げて来た。
明日になったら軍用のトラックで買いに行かせ、ロッジの地下室をいっぱいにしよう。
 だが今日、次の戦術を思いついた。
ベッドの下に手を伸ばし二つのキャンバス地のバッグを引きずり出した。ずっしりとしている・・・それぞれ約十五ポンドくらいありそうだ。床に置くとチリンと言う音を立てた。
チャックを開け中に手を入れ、ひと摑みの二十五セント銀貨を取り出した。
 やった。二つの袋いっぱい、1964年以前の二十五セント銀貨だ。
四千枚のそれは全てが純銀だ。六十五番街のコイン商で買ってきた。
そして支払いは。信じられない。物を知らないやつ、全部VISAで支払ってきた!
 みんなわからないのか?昼の時間がなくなっていけば、物の値段は無茶苦茶になる、
このコインは金にもダイアモンドにもなるのだ。
二十五セント銀貨一枚が五十ドルの価値に跳ね上がる。貴金属がどれほど大事なものになるか。
政府発行の紙幣が金銀宝石に取って代わる。
 積み上げられた箱を見回した。だがどんな金属より貴重なのが食料だ。金も銀も食えない。
世界から日の光がなくなれば生えるのはマッシュルームくらいだ、食料より貴重なものはなくなる。食料庫を一杯にした者がキングになるのだ。

夜の翼

「奴らが出てきた!」ビル・ライアンはシープメドウズの穴に双眼鏡の焦点を合わせた。
下にいる人たちがはっきり見える、手が届くほどだ、しかし人間が見たいわけではなかった。
「時刻通りだね」グレーケンがビルの右肩越しに言った。
ビルは穴に張られたバリアの下に羽ばたく奴らが集まっているのを見た、
金網を突き抜けようと必死に羽ばたいている。
明かりの元に勢ぞろいしているのは害虫駆除用に待機している軍隊だ、
大仰なヘルメットとマスクを装備し、トラックに装着した高圧力のポンプを構えている。
どこからかの合図を受けて、全てのノズルが息を吹き返し、金色の液体を発射し始めた。
「何を撒いているんだろう?」グレーケンが言った。
「殺虫剤の類に見えますね」
 グレーケンは唸り声を上げると、背を向けた。
「奴らに毒は効かない。ガソリンに火をつけた方が遥かにいい」テレビをつけた。
「ほら、生放送でやっている。こっちの方がよく見えるよ」
 ビルはグレーケンの隣に行くと、生放送を観た。グレーケンの言った通りなのは明らかだ。
ズームアップした画面で見る限り、金網の下で数を増やす生き物どもに、殺虫剤は何の効果もない、せいぜいずぶ濡れになっている、と言う程度だ。
ソファに座り壁を見つめるニックを見てから、グレーケンに視線を戻した。
「あの金網は一晩保つでしょうか?」
「あんな金網に意味はない」グレーケンは案の定悲観的に答えて来た。
ビル首を振った。
多分悲観的な意見が現実なのだろう、だがあの怪物どもが金網に捕らえられているのを見ると、
もしかして、と、わくわくせずにはいられない。
「どうしてですか?持ちこたえている様に見えます」
「こうして話している間にもスタテンアイランドのクイーンズや
ロングアイランド郊外に空いた穴から、こっちで抑えた以上の虫達が吐き出されている」
「そしたらそっちも塞げばいいでしょう」
「もっと大きなものがやって来る。
動作の早い小さなものが先に出て来るのは、そいつらの方がが素早いからだ。
次にゆっくり飛ぶものが現れる。それから這いずるものが現れる」
 這いずるもの・・・その言葉にビルはゾッとして皮膚が粟だった。
「ではこれはちょっとした時間稼ぎに過ぎないのですね」ビルは言って、がっかりした。
「時間稼ぎですらない。こうしているうちに・・・レヴィアタンが現れる」
 ビルがそれは何だと尋ねようとしていると、パークの穴から遠吠えの様な音が聞こえてきた、
しっかりと密封された窓を通り抜けて聞こえるほどの音量だった。
画面を見ると、駆除隊と監視している人たちが穴から後退っている。
ホースから出る殺虫剤が彼らの顔に向かって逆流しているのだ。
「どうなってるんだろう」ビルは双眼鏡を持って窓に戻った。
シープメドウズの穴から唸りを上げて強風が吹き出し、
重い鉄の金網に虫達を押し付けて膨らませている。「穴が金網を吹き飛ばそうとしてます!」
グレーケンはビルの隣に立った。「いや」静かな声だ。
「何かが来る。何か大きなものだ」
 ビルは双眼鏡越しに目を凝らした、風の唸りがさらに大きくなった。
駆除隊はホースを止め、さらに下がった。
見るうちに、金網を留めていた南側の箍(たが)がいくつも地面から引き千切られた。
金網の端が外れ、殺人虫の大群を解き放った。シープメドウズはパニックに陥った。
「大きな?」ビルが言った。「それは一体・・・?」
 するとそいつが現れた。何かが穴から飛び出して来た。大きい以上だ。
巨大な何か、直径二百フイートもある、真夜中のマリアナ海溝の一番深い淵の様に暗いものが。
鉄の網を、夜行列車が蜘蛛の巣を通り抜けるくらい簡単に破り捨て、
唸りを上げて上空に向かって行く、巨大でぬらぬらした粗削りの杭の様な物が暗い空に向かって、
永遠に続くかの様にいつまでも飛び出して行く。
 ビルは双眼鏡を外した、そいつは穴から抜け出るとどんどん上空に向かって飛んで行く。
畏敬の念にとらわれ、ビルは窓ガラスに顔を押しつけその行く末を追いかけた、
どこまで飛んだら勢いを失い、地上に落ちて来るのだろう、
小ぶりの摩天楼サイズのものがシティに落下したダメージを考えると、目眩がして来た。
 上る速度が遅くなり、それからストップした。
つかの間動かなくなり、サイクロプスの黒い棍棒の様な形になると、垂直に空中に浮かんだ。
次の瞬間傾くと落ち始めた。しかし落ちながら形を変えた。
巨大な羽を開き、旗の様な形に広げ、空を覆い隠し、 星の光が消えて行った。
それから水平になり滑空し始めた。パークに覆いかぶさったと思うと方向を変え飛び去った。
 震え上がると、ビルはグレーケンの方に振り返った。
「あなたの言ったリヴィアタンですね?」
グレーケンは頷いた。「そのうちの一つだ。他にももっといる」
「でもあんなものが、日が昇ったら穴に戻るんですか?」
「その必要はない。夜の部分に留まっていればよいのだから、
日の出の方向に向かって空を彷徨っているのだよ」星々を見上げた。「星座に詳しいかね?」
「いや、それ程は。北斗七星くらいなら、多分・・・でも」
「私もだ。星座も変わった。昨晩とは違っている」
外では、また別の遠吠えが穴から響き渡った。
「別のものが出て来る」グレーケンが言った。
 ビルの中の一部がカーテンを閉め、テレビを消して、ソファの下に潜り込みたがっていた。
だが一方は見たがっている。椅子を窓際に引き寄せると、
恐怖に魅入られた様に次に何が起こるか見守ることにした。
WFPWーFM
地球の各地域からレポートが伝わって来ています、
夕暮れが我が国に何時間か先立って訪れたヨーロッパからのものです。
今晩、昼の間に空いた穴の全てから生き物の大群が吐き出されました、
昨晩我が国を滅茶滅茶にする原因となったと同じものです。
レポートはさらに、生き物は四種類と言っています・・・
この辺りで見たものから二つ増えています。
ローカル・リポートではロングアイランドで特に深刻な状況を・・・


モンロー、ロングアイランド
 暗闇が深まる中、震えながら、シルヴィアはジェフィの名前を、
終いには金切り声になりながら叫んで歩いた。
しかし返って来るのは自分の声のかすかなこだまだけだった。
不慣れな頑張りで息も絶え絶えだった、
 突然カーヴを曲がって赤いピックアップトラックが現れた。
ルディ・・・そして神さま、フロントガラスの向こう、
助手席から覗いているのは小さなブロンドの頭じゃない?
シルヴィアは通りに飛び出し、危うく曲がりかけたトラックに撥ねられそうになった。
ルディはニヤニヤしながら運転席から飛び降りて、
トラックの前を回りシルヴィアの所にやって来た。
「この子だといいが、ナッシュ夫人。違ってたら児童誘拐で誰かに訴えられる」
シルヴィアは安堵のあまり膝が抜けた、泣き出しそうになるのを堪えて言った。
「違わないわ。この子なの」助手席のドアを開けるとジェフィの方に手を伸ばした。
「何とお礼を言ったらいいかわからないわ」
「この道をまっすぐ行った所にいたよ、どこかよっぽど行きたい所があったみたいで、
一所懸命歩いてたよ」
シルヴィアはジェフィを抱きしめた。
「おお、ジェフィ、ジェフィ、どんなに心配したかしれないわ!」
「グレーケンに会いに行きたいよ」
「今すぐはだめよ、坊や。お家に帰らなくちゃ、あの」
・・・あの老人がなんて呼んでたかしら?・・・「チューワスプに捕まらないうちにね」
「でもグレーケンはぼくがひつようなの」
シルヴィアはさらに固くジェフィを抱きしめた。
この子がグレーケンに惹きつけられるのには何か異常な所がある。
ルディは笑った「子供ってのは。何かあるんだよな?
グレーケンってのは誰だい?小さなお友達かな?
お宅のチビさんを連れ戻すのに無理矢理トラックまで引きずって来なくちゃならなかったよ。
あんたもちゃんと教え込んでるんだろうが・・・」
何かが二人の間を風を切って通り抜けた。ルディは慌てて顔を引っ込めた。「何だいありゃあ?」
シルヴィアは震え上がってジェフィを抱きしめた。
「マム、チューワスプだ!」
他の奴も飛んできた。ルディは慌てて頭を屈めたが少し出遅れた。
虫はジャイアンツのキャップに斜めに当たった。
ルディは帽子を取って、嘴で齧られたところを調べた。 「クライスト!」
「走って、ジェフィ!」シルヴィアが言った。「お家に帰らなきゃ!」
シルヴィアが走り出す前にルディがその腕を掴んだ。「トラックに入んな!家まで送ってやる!」
シルヴィアはジェフィを先にして座席に飛び込み、バタンとドアを閉め、窓を巻き上げた。
ルディは運転席に飛び乗るとギヤを入れた。ピックアップは急発進した。
「そっちの窓も閉めて、ルディ!」
ルディはシルヴィアに歪んだ笑みを向けた。「閉まらないんでね」
「じゃあ、今晩はうちに泊まっていった方がいいと思うわ」
「いんや!虫が束になって来たってうちにゃあ帰りまっせ。どんだけデカくたって関係ないね。
どうせただの・・・なんだありゃ?」
ルディがシフトダウンしたのでピックアップはよろめきながらスピードを落とした。
ほとんどトード・ホールまで来ていたが、前方、道路の上に何か浮いていた・・・何かの塊だ。
シルヴィアはそれを見て昨晩のベリーフライを思い出したが、こっちの方がずっと大きかった。
体の上にフットボールサイズの透明な風船状の袋を載せていた。
二枚のトンボの様な羽が横から突き出していて、下に長い灰色の巻きひげがぶら下がっている。
空中に浮かぶカツオノエボシ。ルディは空中の塊を迂回しようとしたが、
風船の様な生き物たちは積み重なったままピックアップの方にやって来た。
助手席側のフロントタイヤが縁石に乗り上げ、シルヴィアとジェフィはシートの上ですごい勢いで
バウンドし、トラックはホバリングするカツオノエボシの方に向きを変えた。
 ピックアップはカツオノエボシに突っ込み、フードやフロントガラスに破裂した袋、
破壊された羽、灰色の液体が飛び散った。
「やった!」ルディが雄叫びを上げた。「ざまあみろ」
ルディはワイパーのスイッチを入れたが、残骸に埋もれて引っかかって動かない。
「こん畜生、見えやしねえ」
トラックのスピードを落とし、窓から頭を出すとフロントガラスに手を伸ばした。
「ダメ!」シルヴィアが叫んだ。「ルディやめ・・・!」
 ルディの叫び声がシルヴィアの声を遮った。
頭と手を引き戻したが、一緒に灰色の巻きひげの塊がくっついて来た。
そいつらは生きていて、のたうち、捻れ、巻きつくと、ルディの手から肩へ、
顔へと這い上って来た。
シルヴィアは近くで見ると、小さな吸盤が一列についていた、
蛸の吸盤に似ているが、蛸と違って、吸盤を小さな歯が丸く囲んでいて
それぞれの真ん中に青白いカールした舌がついていた。
歯が血を吸い出し舌がそれをペロペロ舐め上げている。
 ルディはシルヴィアを見た、その目は痛みと恐怖で見開かれている。
ルディは口を開き、何か言おうとしたか、叫ぼうとしたが、
シルヴィアには伝わらないまま終わった、
開いた窓からさらなる触手の塊が入り込みルディの頭を呑み込んだのだ、
触手の先端がルディの口に流れ込み、鼻腔を埋めた。
飛び出しそうになった目が最後に見えたが、
そのままルディは足を蹴り、振り回し、窓から引っ張り出されて行った。
 ジェフィとシルヴィアは同時に叫び声を上げた、ピックアップは失速し停車した。
シルヴィアは自分の側の取っ手を引っ張りドアを蹴り開けた。
ドアが開いた衝撃で屋根から触手と折れた羽の塊が滑り落ちて来た。
触手が落ちながらも手を伸ばして来たが、シルヴィアは咄嗟に身を引いてそいつらから逃れた。
それからジェフィを掴むと身をかがめ、フロントホイールの側に這って行った。
暗闇迫る空間は、ピックアップめがけ舞い降り飛び回る、飛行生物と、
そいつらの立てる低い羽音で満たされた。
 シルヴィアは用心深く身を起こしルディを探した。
フードの向こう側に、大きく不恰好に蠢く塊がゆっくりと浮いていくのを見て、
シルヴィアは硬直した・・・
一ダースものカツオノエボシが房になって、それぞれの浮袋をぶつけ合い、
触手はのたくる珊瑚のような塊になり、ずるずると・・・
 シルヴィアは、ルディのブーツとデニムの脚が塊の下から突き出ているのに気づき、
唸り声をあげた、舗石の上空三、四フィートの場所で爪先が暴れている。
頭と身体はのたくる飢えた肉食の触手に呑み込まれてしまった。
見ているうちに、ルディの脚が一、二回弱々しく動いて、震えるとぐったり垂れ下がった。
ルディ!おお、神さま、かわいそうなルディ!
 そよ風に吹かれ、飛行する人食いの塊は、薄闇迫る道に降りて来ている。
シルヴィアはあたりを見回し必死に隠れ場所を探した、トラックの運転席に入った方がいいのかしら。通りの向こうにトードホールの壁の角が見えた、歩道の先には鉄の門が開いているのが見える。
 ジェフィはまだタイヤの横に這いつくばっている。
シルヴィアはジェフィを立たせるとトラックの前に引き出し、自分の前に立たせた。
「走ろう、ジェフィ!壁を目指すの!」
 ジェフィを守る様、後ろから覆いかぶさり、通りの向こうの壁に向かって走らせた。
壁まで来ると、門に向かって、壁の石を触りながら走った。
ベリーフライとチューワスプが、新しい種類、
チューワスプと同じ大きさだが槍のような頭をつけたものと一緒に飛び回っている。
全部トード・ホールを目指して飛んでいる。明らかに影にいるシルヴィア達に気がついていない。
だが門をくぐったら話は別だ。門と柳の間のドライヴウエイではまる裸になってしまう。
そこに着くまでは考えないことにした。心配してもどうしようもない。
とにかくまず門まで行かないと。
 何かが視界に入り、シルヴィアは右を見た。
カツオノエボシが三つ、門の前の通りの真ん中に浮いている、長い触手を巻いたり伸ばしたり、
飢えを満たそうと、シルヴィアの進む道筋に、優雅にも執拗に飛んで来たのだ。
 私たちを見つけた!
 叫び声を飲み込み、ジェフィを腕の下に抱え、
抱き上げると最後の一オンスまで両足に力を注ぎ込み、前進した。
門にたどり着く前に割り込んで来た奴らがいた。
突然ベリーフライがシルヴィアの顔めがけて襲って来たのだ、
身をかがめた拍子につまずいたがバランスを持ち直し、走り続けた。
 しかしカツオノエボシがそばに迫って来ている。
動きは遅いが、シルヴィアに狙いを定めている。
こいつらをやっつけないと門まで行けないとわかり、シルヴィアは呻いた。
生きて帰れるのは三人
あの言葉が心の中に這い込んだ。それが本当になるのだろうか?
自分が、帰れない一人なの?それともジェフィ?
 ジェフィがルディのような最期を遂げる恐しい光景が浮かび、反射的にスピードを上げた。
やり慣れない運動に腕はズキズキ痛み、肺は燃え上がるようだった、
足はだんだん重くなったが、がんばった。
 もうそこじゃない!
 だがカツオノエボシがいる。奴らが近づくのを見ながら絶望的なラストスパートを上げた。
胸の悪くなる腐臭がする程近い。触手がシルヴィアに向かって宙を漂って来た。
恐怖の叫び声をあげ、身をかがめ、ほんの一インチの差でゲートポストの角を回った。
 安堵のすすり泣きが喉から漏れた時、触手が髪を掴みシルヴィアを引き戻した。
ジェフィを前に押しやった。「走って、ジェフィ!」
ジェフィは言う通りに走り出したが、肩越しにシルヴィアを見ると立ち止まった。
「マミー!くっついてるよ!」
「ジェフィ!走りなさい!いいから!」
 しかしジェフィはその場所に根が生えたように立ち止まった、
恐怖で動けなくなってしまったのだ。
 シルヴィアは後ろに手を伸ばした、ぬるぬるした触手の塊が髪の毛に絡み付き、
頭の中に這い込もうとしている。何本かは指に巻き付き、吸盤についている鋭い歯を感じた、
小さな舌に食い込まれる前に手を振り払った。
右からも左からも別のカツオノエボシがシルヴィアの方にやってくるのが見えた、
飢えた物欲しげな触手が顔面に向かって伸びてくる。
突然頭に、自分自身がルディの様に浮かぶ死体になった絵が浮かんだ。
 私だ!シルヴィアは思った。帰れないのは私!
 奴らが近づき、シルヴィアは一番近くに来た奴から頭を下げた、頭皮が痛みに燃えた、
奴らが髪を掴んで引き戻したのだ。
ほかのカツオノエボシもほんの数インチに迫り、シルヴィアの顔めがけ触手を伸ばして来た。
手を上げて打ち払おうとしたが、逆に巻きつかれ囚われてしまった。
必死に引き剥がそうと手を捻ったたが離れない。
噛みつかれ血が流れ、小さな舌に舐められたのがわかった。
だが叫び声を封印した。ルディの様に口の中に触手を入れられたくなかった。
触手が腕を這い上がり、視界が揺らぎ暗くなって来た。自分の下の地面が傾き・・・
 バシっという音がして、突然シルヴィアの右腕の触手が緩んだ。
シルヴィアは触手を振り払い、そして見た。
 あの生き物がたるんで、ドライヴウエイに漂っている、
袋は破裂し羽は折れ、力を失いひらひらしている。
そしてシルヴィアは自分がひとりでないのに気がついた。
「バー!」
バーは薄闇を抜けてシルヴィアの方へやって来た、
衣服は裂け、血が付いて、カミソリ状の歯を埋め込んだ棍棒を振り回している。
またバシっと音がしてシルヴィアの左手に食らいついていた触手が緩み、これも振り払った。
「じっとしていて下さい、奥様」バーは言うとシルヴィアの頭に棍棒を振り下ろした。
 シルヴィアが本能的に身を竦めると、背後で三回目のバシっという音が聞こえ
髪の毛も自由になった。バーはシルヴィアを前方に押しやった。それ以上促されるまでもない。
シルヴィアはジェフィを抱えると走り出した。
 空気は唸り声、羽音、奴らが噛み付こうとする音で満たされた。
今や全ての注意はシルヴィアとジェフィに向けられ、虫どもは四方八方から迫って来た。
羽音が顔や髪をかすめ、危ういところで虫の顎が空気を噛んだ。バーがいなかったら絶望的だった。先頭に立ち、背の高い身体から右に左に棍棒を振り払い、大胆に虫達をなぎ払った。
シルヴィアは背後にバーのコートを感じ、その反射神経、リーチの長さ、
暗闇を素早く見透かす視力に驚嘆した。多分音で判断しているのだろう。
どんな教育を受けたのかはわからないが、とにかく恐怖の飛行物体の間に道を開いてくれた。
 うちまで来た。あと二十フィートで扉だ。扉は閉まっている。鍵がかかっていたらどうしよう?
 アランはどこ?神様、まだ彼が外にいて、車いすの上でうずくまっていたら死んでしまう。
 ちょうどその時、一匹のチューワスプがシルヴィアの頬をかすめ、バーの肩に噛み付いた。
バーは痛みに唸ったが走り続けた、前面で棍棒を振るい、道を開く。
吐き気をこらえ、シルヴィアはジェフィを片手で抱き直し、
勇気を出してチューワスプの胴体を掴み、捩じ切った。
虫はバラバラになり、冷たい液体をシルヴィアの腕に流して、バーから歯を離した。
 バーは振り向くと、感謝の目で頷いた、
休む間も無くのたくる触手の塊がバーの首筋に降り立った。
バーはよろめいたが何とかバランスを立て直し、戦いをやめなかった。
扉まで来た。バーがドアノブを探す間、シルヴィアは手の届く限りバーの首の触手を引き剥がした。鍵がかかっていたら死ぬしかない。トード・ホールを目の前にして死ぬのだ。
 だがバーが掴むより早く扉が開いた。光が流れ出た。
車椅子からシルヴィアを見上げ、扉を抑えるアランが見えた。
三人はホワイエになだれ込み、背後で扉が音を立てて閉まった。
バーは棍棒を取り落とし膝をついた、触手の巨大な塊に喉を掴まれている。
シルヴィアとジェフィが助けに駆け寄ったが、アランが二人との間に車椅子を進め、
床に手を伸ばした。
「ちょっと手を降ろすんだ、バー」
 バーが従うと、アランは歯のついた棍棒を振り上げた。
カツオノエボシに振り下ろす、袋を切り裂き、触手を切り離す。
触手は力を緩め、バーが引き剥がし床に叩きつけた。
そいつは大理石の床をのたくり、ジェフィの方に来ようとしたが、
アランが車椅子で二回轢いてやった。とうとう触手は静かになった。
 シルヴィアの後ろでジェフィがすすり泣いている。
地下室のどこかからフェーモスが激しく吠える声が聞こえる。
 バーはよろめいた。首の周りは血だらけ、シャツも破れて血だらけになっている。
バーはシルヴィアの方を向いた、息を切らせ、ボロボロで、フラフラしている。
「奥様、坊や、お二人とも大丈夫ですか?」
「ええ、バー。ありがとう。でもあなたお医者様に行かないと」
「身体を洗って来ます」バーは振り返ると客用のバスルームに向かった。
 シルヴィアはアランを見た。涙を流している。唇はふるえている。
「君は死んだと思った!外にいて助けを求めているのがわかっているのに、
僕は迎えに行く事も出来ない」太腿を叩いた。「くそったれ役立たずの太腿め!」
シルヴィアはジェフィを抱き上げ、アランのそばに行った。
ジェフィを抱いたままアランの膝に座る。アランの腕が二人ともを抱く。
ジェフィが泣き出した。シルヴィアはわかった。今日初めて安全になった気がした。
安心した途端涙腺が緩んだ。すすり泣き始めた、今まですすり泣いた事なんて一度もない。
三人は一緒になって泣いた。
マウイ
モアナ・プカに夕闇が迫っていた。
 コラバティとモキはラナイに並んで立ち、大西洋に沈む夕日を見ていた・・・また早まった。
七時十五分前。下の方に空港が見える。
空港がこんなに慌ただしいのを見るのはコラバティも初めてだ。
「奴らを見ろ」モキが言って、コラバティの腰に腕を回した。
「昼の時間が短くなってあいつら大わらわだ。あの慌てぶりを見てみろ」
「私だって慌ててるわ」
「放っておけよ。
これで日本人買い物ツアーの連中が西の島に帰り、全てのハオレス(白人)どもが自国に帰れば・・・
ニューヨークで、セントラルパークに空いた穴に落ち込んでしまえばいい・・・
その方がずっといい。この島々がハワイ人だけのものになる」
シープメドウズの謎の穴のニュースにはコラバティも興味を持っていた。
あの辺りはよく知っている。
兄のクサムは以前、セントラルパークを見下ろすアパートメントを所有していた。
「私だってハワイ人じゃないわ」
モキは腰を抱く手に力を込めた。「俺と一緒にいる限りお前はハワイ人だ」
自分を抱く手が思ったよりどこか心地よくない。
またしばらく空港を見ていた、
モキはコラバティから手を離し、手摺りに寄りかかり、谷を空を見上げた。
「もうすぐ何かが起こるよ。感じる?」
コラバティは頷いた。「ええ、日を追う毎にそう感じるわ」
「何かステキな事だ」
「ステキな事?」モキを見つめた。何を言ってるの?
貿易風が向きを変えた時から、抵抗し難い圧倒的に恐ろしい何かに悩まされ続けてきた。
「いいえ。少なくともステキな事じゃないわ。何か酷い事よ」
 モキの笑顔は凶暴な感じがした。
「他の奴らには酷い事だろう。だが俺たちにはステキな事だ。そのうちわかる」
 コラバティは最近のモキの作品がよくわからない。
水曜日に自分の手をえぐった傷があまりにも早く回復して以来、態度が異常だ。
少なくとも日に一度は自分の身体を切ってみて、ヒーリング・パワーが健在か確かめている。
その度に前の日より回復力が増している。回復力を確かめる度、目の中の荒々しい光が強くなる。
 日の光が薄らいできたので、コラバティは戸口に向かったが、モキに腕を掴まれた。
「待って。あれは何だ?」
 モキはコラバティの向こう、東側を見ている。彼の視線を追いかけコラバティも見た。
海の中に何かある。白い海水が泡立ち渦を巻いている。とんでもない大きさだ。
コラバティはフックから双眼鏡を外し、焦点を合わせた。
 最初は荒れ狂う白い海水が大変な大きさで渦巻き、無秩序に荒れ狂っている事しかわからなかった。しかし見ているうちに一定方向に渦巻きを形作り始めた。
白い水が一点を中心に揃って左回りに渦巻き始める。
海水の真ん中にくぼみが出来、暗闇に吸い込まれ口が開いた。
「モキ、見て!」双眼鏡を渡した。
「見てる!」そう言いながら双眼鏡を受け取った。
レンズを調節するモキの表情を見守った。笑い顔が広かった。
「渦巻きだ!海流の集中にしては岸に近すぎる。海底に割れ目が出来た。いや、待って!」
双眼鏡を下ろしてコラバティを見た、その顔は興奮に輝いている。
「穴だ!海底に穴が出来たんだ、ニューヨークに出来たのと同じだ!ここに俺たちの穴が出来た!」
二人とも・・・モキは喜びも露わに、コラバティはさらに不安を募らせ・・・
渦巻きが次第に形を成し広がるのを見た。
外の世界から、本土から、コラバティのパラダイスにトラブルが侵入して来た。
不運としか言いようがない。
二人は辺りが暗くなり見えなくなるまで渦を見続け、
それから家に入りテレビをつけてニュースを見た。科学者たちの意見は一致していた・・・
海の底に、マンハッタンのセントラルパークに空いたものと同じ穴が空いたためである。
すでにこの辺りでモアナ・プカの名前がつけられた・・・海の穴という意味だ。
モキは殆ど興奮状態だった。リビングを歩き回り、手を振り回し喋り続けている。
「何が起こってるかわかる、バティ?
海の水が深淵の穴に吸い込まれてる、どこともしれない場所に消えて行く。
となれば海面のレベルが下がる。一定の高さまで下がれば、どうなるかわかる?」
 コラバティは首を振った。世界の終焉の証人にさせられている、やり場のない気持ちだ・・・
全てが終わる。
「グレート・マウイが生まれ変わるんだよ」
戸口まで行くと開かれたラナイの向こうの暗闇に手を振った。
「モロカイ、ラナイ、カフラーウ、小さなモロカイ二も・・・
氷河時代の前は全てマウイの一部だった、谷を隔ててつながっていた、
水路に海の水が入り切り離される前はね。俺にはわかるんだ、バティ。
長い時代を経て、もう一度全部が一つになるんだ。一つの島に、全部を合わせた大きな島になる。
もっと大きくなるかもしれない。そして俺はグレート・マウイの未来に一役買うんだ」
「何の未来?」コラバティは戸口まで追いつくと言った。
「太平洋の水位が落ち込んだら、見えて来るのは世界の終末よ!」
「違う、バティ。終末じゃないよ。始まりだ。新しい世界の始まりだ」
すると空が燃え上がった。
二人のまわりが点滅する光のシートで覆い尽くされたように、夜が燃え上がった。
島の突先、ラハイナ・コーストと西マウイのイアオ・ヴァリーが昼間のように明るくなった。
水路を挟んだラナイ島も同じだった。
燃える瓦礫まじりの高温の空気が吹きつけ、頂上から山裾へ咆哮し、西マウイを震わせ、
ラナイを焼いた、コラバティとモキのいる場所は、
大きなハレアカラに守られた影になった涼しい場所だった。
「シヴァ神よ!」コラバティは子供時代に覚えたベンガルの言葉で叫んだ。
「何をなさろうと言うのですか?」
すると音が聞こえて来た。床が揺れ、コラバティの下で喉の奥から絞り出すような鳴動が始まり、夜が爆発した、それはコラバティの肉、細胞の全てを身体の芯から震わせた。
コラバティは床に転がった、ガタガタゴロゴロ言う音の上から微かにモキの声が聞こえた。
「地震だ!」
モキは床に倒れたコラバティに覆いかぶさり、崩れ落ちる棚やランプ、
彫刻からコラバティを庇った。
 永久に続くかと思われた。
コラバティは片側だけしか固定されていない梁が保つだろうかと思った。
そうなったらお手上げ、この家はスロープを転がり落ちる。
生涯一度だけあった・・・何時間かジャックがネックレスを持ち去ってしまい、
長い年月の重みががいちどきにコラバティに襲いかかって来たあの時・・・
それ以来の生命の危機を感じた。
 地面の揺れ震えは続いていたが、だんだん静かに穏やかになった。
モキはコラバティの上から立ち上がり、コラバティも自分の足で立ち上がった。
「ペヘア・オエ?」
「大丈夫・・・と思う」コラバティは答えた、ハワイ語で返すのは面倒くさかった。
揺れる船の上の船乗りのように手をつなぎあって、揺れるデッキに出た。
コラバティは周りを見回した。リビングはぐちゃぐちゃだ。
モキの彫刻があちこちに散らばっている、彫り込まれた部分が破損しバラバラになり、
溶岩の基部は粉々になっている。
「おお、モキ。あなたの作品が!」
「彫刻なんか問題ないよ」モキは言うとコラバティをしっかり抱き寄せた。
「あれは過去のものだ。自分で叩き壊してしまわなかったのが不思議だよ。
わからない、バティ?これだよ!これがさっき言った始まりさ。始まったんだ!」
モキはコラバティをラナイに連れ出し手すりから身を乗り出すとハレアカラの黒い巨体が
山頂まで燃える光を背後に従えているのを見た。
「ご覧、バティ!」モキは斜面を指差した。
「ハレアカラが息を吹き返した!何百年の眠りから覚めて、生き返ったんだよ!
俺の為に!俺達の為に!」
 コラバティはモキから離れると家の中に戻った。
光が次から次へと瞬いていたが、部屋の中は暗いままだった。
ガラクタの間をテレビのそばまで行ったがつかなかった。電気が止まっているのだ。
少なくとも発電機がある。ちゃんと動くといいのだが。
「バティ!」モキが呼んでいる。
「ハレ・マイ。一緒にハレアカラを見よう。太陽の家に火が灯った。
家に帰って来い、と言ってるぞ!」
コラバティは家の中をとぼとぼ歩き回った。・・・二人の生活・・・
平和な時は終わりを告げ、もう二度と元には戻らない。怖かった。
「ハレアカラが噴火しただけよ、モキ」
そう言うコラバティの声は足元の床と同じように震えていた。
「確かに何か起こっているわ。古い火山が息を吹き返したより、もっと暴力的で破壊的な異変よ」
世界の終焉よ、コラバティは思った。
 骨の髄で感じる、古代のネックレスがコラバティの皮膚に信号を送っているのかもしれない。
コラバティの瀕死の悲鳴が大気を満たし、暴力的な死へと投げ出される。
ハレアカラが目を覚ました、でも何が起こるのだろう?
痛みは去った。残るはエクスタシーのみ。エクスタシーが広がっていく。地上の暗闇の領域で夜のものたちが自由奔放に動き回っている。ラサロムは夜の生き物の目覚めがもたらす恐怖、痛み、恐れ、悲嘆の狂乱を感じ取った。太平洋の火山が吠え声をあげ復活し、死と恐怖がうねりをあげ伝わって来た。 我慢できないほどのうねりだ。
結果、変化の道筋が整った。ラサロムは今、巨大になった。彼を収納する花崗岩の子宮も大きくなった。剥がれ落ちた岩の破片が底なしの穴に吸い込まれて行く。地球の別の場所に空いているたくさんの穴のように、ここもまた底なしだ。だが通じる先は違っている。凍れる炎の場所だ。今も、深みから仄かな明かりが忍び寄って来る。
そして、変化・・・ラサロムの身体が厚くなり、石の固さになる。頭は胴体にめり込み、柔らかく丸く膨らみ中心に集中する、四本の車輪のスポークよろしく肉の中心に向かって行く。
ラサロムは目に見えない触手を遠くに遠くに広げ、さらなる栄養を探す。その食欲はとどまるところを知らない。

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