ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

聖書研究入門編・中級編・上級編コミュの【2/10 人を裁くな 】

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
イエスの公生涯において、山上の説教ほど有名で画期的な垂訓はありません。

★マタイ5:3-12・・・イエスは普通の人々に彼らが神の目に価値があり、幸いであること
★マタイ5:13、14-16・・・彼らは塩、光であり(二つの貴重な生活必需品)であること、
★マタイ5:17-19・・・・・・・神の律法の重要性について、
★マタイ5:20・・・・・・・・・・自分の善行で人の注意を引こうとしてはならないことの警告
★マタイ5:21-28・・・・・・・道徳性は行いによってだけでなく、人が考えることによって決定されると指摘
★マタイ5:29-30・・・・・・・行いも抑制される必要があること
★マタイ5:1〜7:27・・・・聖書全体を読み通す時、イエスが人間の存在と関係のあらゆる面を扱っておられることがわかります。

●マタイ7:1-5
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

 『「人を裁くな、自分が裁かれないためである」(マタ7:1)自分は人よりまさっていると考えて、人を裁く立場に自分を高めてはならない。
あなたは動機を見分けることができないのだから、他人を裁くことはできない。
相手を批判することによって、あなたは自分自身に宣告を下しているのである。
なぜなら、あなたは、兄弟たちを訴える者すなわちサタンの仲まであることを示しているからである。
主は「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」といわれる(2コリント13:5)。これがわれわれの働きである」』(『希望への光』829ページ、『各時代の希望』中巻、24-25ページ)。

キリストがこの言葉を言われた背景にはパリサイ人たちの神の道を外れた自分たち人間の作り出した山のような規律を勝手に作りそれを人々に課していたということがありました。

『自分本位の狭い批判の空気は、けだかく寛大な感情を押さえつけ、人々を自己中心的な裁判官や心の小さなスパイにしてしまう。パリサイ人は、・・・自己の弱さを感じて心を低くすることもなく、神のお与えになった大きな特権に感謝することもあなく、・・・・彼らは、霊的誇りに満たされて・・・彼ら自身の達成したところが、他の人々を裁く標準となった。彼らは自尊の衣をまとい、・・・裁きの座に着き、批判し、断罪したものであった。』(同上)と書かれていました。

人々を導くはずの祭司や役人たちがこのような風潮を作ってしまったので、当然人々も、同じような精神を抱き、人々の良心の領域にまで入り込んで、人と神との間の問題についてまで土足で人の心に踏み込んで互いに裁きあっていたのでした。

 『あなた自身を、標準として立ててはいけないのである。あなたの意見、義務についてのあなたの見解、あなたの聖書解釈を、他の人々に対する基準とし、あなたの理想に彼らが達しないからと言って、心の中で彼らを非難してはならない。他の人々の動機を推測し、彼らに判決を下して、他の人々を非難してはならないのである。』(同上)

次の聖句は興味深いです。
★1コリント4:5
4:5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。・・・


 『私たちは不完全な者であって、さばきの座に着く資格はない。
有限な人間は、外から見たところによってさばき得るだけである。
行為のかくれた動機を知り、やさしく同情をもって処置なさる神にのみ、すべての人間の問題の決定がゆだねられている。』(同上)

★ロマ2:1
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。

この聖句が言っているように、他の人を批判したり非難したりする人々は、自分に罪があることを表しています。人を非難することによって自分で自分の上に判決を下していることになるのです。
神は自分自身に対して下す決定をお受け入れになるのです。

 『泥まみれのこのぶかっこうな足が
どこまでも草花をふみにじっていく。
心は優しいにもかかわらず、
固い手が友の心を傷つけている。』(同上)


人の目に見えるおがくずは簡単に見えるのに、自分自身の中にある大きな丸太は見えないのです。

気をつけたいものです。

■質問:人を裁くことと、彼らの行動の善悪を判断することは、何が違いますか。その区別をすることは、なぜとても重要なのですか。

物事の裁きや判断には基準が伴います。

人を裁く時は、裁きの基準が自分の基準であり、私たちは神ではないので、
すべきことではありません。

彼らの行動の善悪を判断する時の基準は、み言葉です。善悪の基準はみ言葉にあるので、
やってはいけないことを兄弟姉妹がやっているならば、それはみ言葉に反していることになります。
思いやりをもって警告することができるかもしれません。


アーメン!!


コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

聖書研究入門編・中級編・上級編 更新情報

聖書研究入門編・中級編・上級編のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。