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聖書研究入門編・中級編・上級編コミュの生と死・・・・・?

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■死の状態

聖書では死んだ状態を「眠り」と呼びます。

★ダニエル12:2
<2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。>

★ヨハネ11:11-13
<11 そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。
12 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。
13 イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。>

★テサロニケ第一4:13
<13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。>

 死の状態は、「彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない」(ヨブ14:12)。
また、詩篇の聖句「その日にはもろもろの計画は滅びる」(詩篇146:4)のとおりです。

 伝道の書には、「生きている者は死ぬべきことをしっている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いをうけることもない。その記憶に残る事柄さえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」(伝道9:5〜6)と書かれています。
 眠るといっているからには、眠りから覚める時があるように、死には復活があって、死人は眠りから目覚めさせられます。

 『今日キリスト教では一般に、人が死ぬとすぐ天国へ行き、霊魂は不滅であると信じられているが、聖書にはそのような記事はない。ただ、十字架上のキリストの言葉のうちに、人が死んですぐ天国に行くように思われる聖句があるが、よく考えるとそうではないことがわかる』(聖書は・・・、p.238)

★ルカ23:39-43
<39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。>

『このイエスの言葉は、悔い改めた犯罪人が、その日に天国に行くような印象を与えるが、聖書全体の調和ある解釈からみると、そうではないことがわかる。この文章には、今日という副詞を修飾する動詞は二つあり、ギリシャ語の原典では、どちらかを決めることは難しい。今日パラダイスに行くのか、あるいは今日約束するのか区別しにくい。
 パラダイスは、ヨハネの黙示録2:7には、「神のパラダイスにある命の木」とあり、天国のことを意味する。十字架におつきになる前にキリストは、「・・・・私の父の家にはすまいがたくさんある。・・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。・・・場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところにむかえよう。わたしのおるところにあなたがらもおらせるためである」(ヨハネ14:1-3)と言われた。
この犯罪人が迎えられるのは、その天の住居で、キリストが十字架におつきになったその日にはまだ準備ができていなかった。キリストもその日に天国には行かれなかった。』

★コリント第一15:51-52
<51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。>

と示していますが、死人のよみがえりはキリストの再臨の時におこりますが、
この罪人の経験として、死んで意識がなくなり、次に意識が戻るのは、キリストの再臨の時なので、その日に天国に行くということでしょう。それは私たちにとっても同じことが言えます。

ある神学者の言葉・・・・「人が死んですぐに天国に行くとか霊魂の不滅とか言う考えは、一般に広く受け入れられているが、これはキリスト教の最大の誤解である」

何ゆえそのような考えが広く受け入れられるようになったかは、その原因がありますが、ここでは割愛し、後日の機会ある時に調べてみたいと思います。


★使徒行伝2:29
<彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。>

★同2:34
<ダビデが天に上ったのではない。>

『人の未来は生きているうちに決定する。死後にその機会はない。生きている間に、キリストの救いにあずかるならば、死は一時の休息にすぎない。復活の朝、キリストにお目にかかり、また愛する人と再会することができるのである。』(聖書は・・・・242ページ)

もう一つ、ラザロのたとえ話があります。
毎日贅沢して遊び暮らしていた金持ちと、貧乏なラザロの死後の話ですが、

「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」(ルカ16:25-26)

この話の要点は、人間が永遠の運命を決定するのは、この世の生涯においてであって、この世における自分の選択によって、神との間に超えることのできない大きな淵をつくってしまうことを警告されたのです。
キリストは、その当時、多くの人々が死と復活の間に、意識のある状態が続くと考えていたので、それを利用して、重要な真理を教えようとなさったのでした。




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