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宇垣一成コミュの宇垣軍縮

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宇垣は、大正時代後期から昭和時代初期にかけて、陸軍の中心人物の一人として活躍した。
彼は、戦闘の場での指揮官や軍略家ではなく、政治に長けた軍政家と言えます。

大正13年から昭和2年まで、(1924年-1927年)清浦内閣、加藤内閣、第1次若槻内閣まで陸軍大臣を歴任する。
加藤内閣の陸軍大臣在任中に、第一次世界大戦終了、国際連盟発足に伴う軍縮を要求する世論の高まりを受け、陸軍省経理局長・三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けた(宇垣軍縮)。
具体的には陸軍21個師団のうち、高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校も撤廃した。 だが、実はこれにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが宇垣の考えと言われています。
主な近代化の内容として戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、自動車学校・通信学校の開校、飛行機・戦車・軽機関銃・自動車牽引砲・野戦重砲の配備を行った。
連隊旗は天皇(大元帥)より賜った神聖なものとされ、第二次世界大戦における玉砕や降伏の際には連隊旗が敵の手に渡らないようにする「軍旗奉焼」が行われる程、軍人にとっての象徴とされる。
例えば日露戦争で活躍した乃木希典は、明治天皇に殉死した際の遺書で「西南戦争で西郷軍に連隊旗を奪われた」ことを動機の一つとして書き残している。
その連隊旗を連隊廃止により返還させられたことは、陸軍内部に長く宇垣への遺恨として残った。また、ポスト的にも師団長4人分、歩兵連隊長ポスト16人分などの削減は大きな怨念となり、後の宇垣内閣流産へと繋がる事となる。

出典
ウィキペディア

コメント(1)

軍縮というより近代化ですね。
コレは日本人が苦手とするものです。現代においても皆できていない。既得権益という壁がある。其れを壊せない。
先見性と行動力。今の日本人にも欠けているものです。
ただ、近代化は軍縮というのではないですよね。

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