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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾が亡くなっても

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昭和20年8月6日午前、広島に原子爆弾が投下されました。8月9日にはソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日参戦を宣言し、同日長崎にも原爆が投下されました。非戦闘員に対する攻撃に耐えられず、軍部も昭和天皇の願いを聞き入れ「ポツダム宣言」の受諾による無条件降伏を決定しました。天皇は8月9日午後11時40分、皇居内御文庫防空壕内で開かれた御前会議で口を開かれた。「今となっては、1人でも多くの国民に生き残ってもらいたい。自分のことはどうなってもかまわない。戦いを止める決心をした」

昭和20年8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。昭和天皇の降伏の詔勅は、同日正午ラジオによる「玉音放送」の形で行われました。石原莞爾がこの玉音を聞いたのは、県内の講演の旅先である。そのときの側近のものたちは見た。ラジオに向って威儀を正した石原莞爾の目から、とめどなく涙があふれ出るのを。

そのあと石原莞爾は皆に言った。「陛下のご聖断により、わが民族は救われた。おかげで国民は復興できる」こう前置きして石原莞爾は自分に言い聞かせるように「国民総懺悔」を説いた。「敗北の最大の原因は、国民道徳の驚くべき低下にある。たしかに軍閥も悪い。官僚も悪い。しかしこれを阻止できなかったことは、私を含めて、国民全体の責任である。なんといっても、国民の道義、知性、勇気の足りなかったことを懺悔すべきであろう。その上で日本民族としての自覚を取り戻し、新たなる日本人として出直せば、この未曾有の試練を克服することも可能であろう」それから石原莞爾の山形県内遊説がはじまった。

「敗戦は神意である。私は神が世界平和のために反省する機会を与えてくれたことに感謝する。日本は素っ裸の丸腰になって、真の平和国家を世界に先駆けて創造しなければならぬ使命を与えられた」しかし天は石原莞爾に二物を与えなかった。昭和21年、石原莞爾の病が悪化して、東京逓信病院に入院した。病状は膀胱癌に移行しており、切開手術をしたが、排尿に相当の苦痛を感じるようになっていた。入院3ヶ月後、石原莞爾は故郷の庄内に、転地療養することを希望した。

そこで4月中旬に一時、湯田川温泉の佐藤幸一別宅に入ると、同時に遊佐町西山の地に「新しい村造り」をはじめた。ここは吹浦駅から30分ばかり所です。吹浦海岸の防風林に囲まれた砂丘地帯である。石原莞爾のねらいは、集団農場の開墾と経営による、食糧の増産にあった。その面積13・5ヘクタールで、そこに井戸を掘り、スプリンクラーによる畑を行なうものだった。農法は加藤完治の教えに従い、武田邦太郎が実施指導に当り私の父も共同生活していました。

同年10月、その一隅に建てた、畳八畳敷き、板の間六畳だけの粗末な家に、石原莞爾夫妻が移ってきた。同年度における同地区への入届者は、総数28人だった。のち同志の研修に使われる日輪講堂(八角堂)が建てられた。私の父がリヤカーで石原莞爾を証人として、酒田の商工会議所2階ホールで開かれた東京裁判(極東軍事裁判)臨時特設法廷に出廷したのは、昭和22年5月1日〜2日の2日間である。この裁判は昭和21年5月3日からはじまり、昭和23年4月16日に終了したもので、文字通り戦勝者が敗者を、戦争犯罪人として裁くものであった。しかし石原莞爾は、戦争犯罪人に指定されて、裁かれることはなかった。

石原莞爾の家には、各地から沢山の人々が訪れてきた。「戦争が人類社会から絶滅し、世界の統一される時代を、最終戦争時代という。われらは知性、道義性、あらゆる力を動員して、世界統一の大事業をなすべく努力せねばならない」さらに石原莞爾は熱を込めて、くり返した。「世界統一は差別と平等、この簡単なことで実現されるのだ」差別とは、千差万別の人間存在、個のことである。個が自分を作ることで、その主体性と責任の所在を明らかにするとき、世界という願いと連帯感とが確立される。言い換えるなら、世界全体が幸福にならなければ、個の幸福はありえない。個を徹底した平等と自由に解き放すとき、個を尊重するからこそ、全体をめざす思想となる。一人一人の徹底した主体性を互いに受容しあえる思想、それを確立しなくては真の自由はありえない。すべての人間を文句なしに、その本質において愛する気持ちの中から、世界統一の根本理念はうまれる。特権意識のあるところに、この愛は育たない。誰からも愛される人間になることは難しいが、誰をも愛する人間になることはできる。愛とは、人間をないがしろにしない、思いやりのことである。

この間にも石原莞爾の病状は、さらに悪化の傾向をたどるばかりだった。肺に水が溜まっていて、横になると呼吸ができなくなるくらいだった。だから石原莞爾は床の上に積み重ねた蒲団によりかかっていた。8月15日午前5時5分、私の父の自らの血を何度も輸血したのにもかかわらず石原莞爾は最後の息を引きとったのです。石原莞爾は亡くなりましたがその教えは現在も石原莞爾平和思想研究会として受け継がれているのです。

こんにちは、お疲れ様です!(^_^)/
雨が多くなりひと雨ごとに涼しくなってきました。9月は52年ぶりで一番雨が降りました。
昨日は小江戸・佐原へ研修に出掛けお祭りについて勉強しました。
これからタイのバンコクとアユタヤへ出掛けます。
世界遺産や観て、勉強してきます。
また、世界一に輝いた「マッサマンカレー」や「タイスキ」に「トムヤンクン」を食べてみたいとも思っています。
日頃の疲れをいやすためタイ式全身マッサージしてもらってきます。(笑)
秋はいろいろと行事が多くなかなか訪問できなくて申し訳ございません。
何時もありがとうございます(*^^*)\(^o^)/

コメント(12)

思いっきり楽しんできてくださいませ。行ってらっしゃいませ!(^^)/
・・・タクさん 泰緬鉄道なんかも見に行かれるのでしょうか電車僕も外国に行って見聞を深めたいです・・・うれしい顔
>>[1] ありがとうございました。戻りました。テロリストがバンコクで逮捕されました。危なかったです(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
>>[2] まとめた日記を書こうと思っています。外国に行くなら若いうちです。特にヨーロッパに行くことをお勧めします。(^_-)-☆
>>[3] ええーっ!それは危なかったですね。無事に戻られて何よりです(^.^)♪
>>[5] 帰ってきたらタイのプミポン国王がお亡くなりになりました。

哀悼の意を捧げます。
タクさんお久しぶりです。

私は、10/3〜義母と生活しています。

いつでもどこでも義母と一緒です。(笑)
>>[7] みっちゃん。同志、お久しぶりです。
義母と一緒ですか。大変ですね。涼しくなってきました。タイのバンコクとアユタヤへ出掛けていまして、仕事が山積みで忙殺しています。秋はいろいろと行事が多くなかなか訪問できなくて申し訳ございません。10月23日はあきる野市、10月28日は高知に1泊、10月30日は代々木公園、11月5日は迎賓館熱海「木嵐亭」に一泊、11月7日は新宿、11月11日は戸田公園、11月12日は八千代市〜成田山、11月14日は千葉市、11月17日は和歌山氏で一泊します。何時もありがとうございます(*^^*)\(^o^)/
わぁ〜、タクさん、相変わらず忙しいですね。

お体に気を付けて頑張ってください。

私は少々バテ気味です。(笑)( ;∀;)
タクさん 石原さんと三笠宮様と日中戦争の事を直接話されたことはあられるのでしょうか・・・?
>>[9] みっちゃん。同志、ありがとうございます。

今は、九州なのですか?

いろいろなところへ転居しますね。

すごい行動力です(^_-)-☆
>>[10] わかりません。石原莞爾平和思想研究会の古参の方なら知っている方はいるでしょうが。

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