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石原莞爾平和思想研究会コミュの武谷三男氏の物理学人生

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現象論、実体論、本質論という物理学発展の「三段階論」を提唱したのは武谷三男氏 (1911〜2000)です。1930年代、物理学の世界は混沌そのものであったといいます。坂田昌一氏(1911〜1970)はこの頃の状況について、「原子や分子の研究の際、快刀乱麻を断つがごとき勢いを示した量子力学が原子核の問題にふれるや、たちまちその神通力を失った」と表現しています。

大御所のニールス・ボーア(1885〜1962、1922年にノーベル物理学賞受賞)までが、相対性理論が時間と空間の概念に根本的な変換をもたらし、量子力学が因果性の概念を破綻させたように、原子核内部の電子の運動についてはエネルギー保存の法則が破棄されるような事になっても容認しなければならないのではないか、と主張したほどでした。

エネルギー保存の法則は、物理学の根本といっても過言ではありません。その存立が疑われるとなれば、多くの物理学者が動揺するのも無理はなかったのです。武谷氏は京都帝国大学(現在の京都大学)を卒業し、湯川秀樹(1907〜1981、1949年にノーベル物理学賞受賞)の研究チームに加わりました。

混沌とした、ときには神秘主義に陥ろうとしていた物理学の混乱を突き破るストラテジーとして三段階論を唱え、当時の物理学の状況は実体論的段階であると認識することが重要であると主張し、中間子というモデルを提唱した湯川氏の研究を思想的に支えたのです。

同じ時期、物理学だけでなく、世界もまた大変な状況に陥っていました。アドルフ・ヒトラー(1889〜1945)が率いるナチス党が勢いを増し、1933年には合法的な選挙によってヒトラーが独裁権力を握るにいたります。

この年、かのアルベルト・アインシュタイン(1849〜1955、1921年にノーベル物理学賞受賞)までがドイツの名誉市民権を剥奪され、財産を没収されました。イタリアでもファシストが暴威を振るい、それに力を得てフランスのパリでも武装したファシストがデモをするにいたっています。

フランスの労働者は間髪をいれずにゼネストで対抗し、これを契機としてフランス人民戦線運動が広がっていきます。この運動の中で、ジョリオ=キュリー夫妻(夫はジャン・フレデリック (1900〜1958)、妻はイレーヌ (1897〜1956)、1935年に夫妻でノーベル化学賞受賞)、 ロマン・ロラン(1866〜1944)、アンドレ・ジイド(1869〜1951)なども街頭に飛び出してデモに参加しています。

そして1936年の総選挙で人民戦線派が圧勝し、人民戦線政府が成立します。しかしイタリアのファシズム、ドイツのナチズムを抑えることはできなかったのです。日本も暗黒の坂道を下っていました。

1920年代には、選挙で議会の多数を獲得して政権を握る政党政治がはじまり、労働組合運動もなんとか軌道に乗り、革新政党も大衆的な運動をはじめるようになっていました。しかし1931年、日本軍は柳条湖事件という謀略によって満州への侵略を開始し、1932年5月15日には陸海軍将校によるクーデター未遂事件(五・一五事件)が起こりました。

犬養毅首相が暗殺され、産声を上げたばかりの政党政治はわずか8年にして崩壊してしまいました。フランスで人民戦線政府が成立した1936年、日本では陸軍青年将校によるクーデター未遂事件(二・二六事件)が起こります。

武谷氏は自由な市民という立場から、日本全体が狂気に侵されていくのを何とか阻止しようと積極的に運動を展開しました。そして1938年、中井正一(1900〜1952)、新村猛 (1905~1992)らが創刊した『世界文化』に関連して、武谷は逮捕されます。

このときは湯川秀樹が保証人になることによって、七ヵ月後にかろうじて釈放されました。1939年にドイツ軍がポーランドを侵略したのをきっかけに第二次世界大戦が勃発し、1941年には日本軍がハワイの真珠湾を奇襲し、第二次世界大戦が太平洋へと拡大する。

こうしたなか、武谷は医学校に通っていたピニロピ・スワチキナ (1919〜2015)と恋に落ち、卒業後の1944年に結婚します。ピニロピの父親は旧ロシア海軍の将校で、その後、皇帝の侍従武官となり、ロシア革命が勃発すると反革命軍を率いて戦い、それに敗れて日本に亡命した軍人でした。

しかし、新婚4ヵ月で武谷は再び逮捕されてしまいます。持病の喘息が悪化していた武谷は、運が悪ければ三木清(1897〜1945)のように劣悪な獄中生活のため獄死してしまう可能性もありました。

だが、当時、武谷は、日本が原爆を開発するのは絶対に不可能だと知っていたので、軍の依頼で仁科芳雄(1890〜1951一)が進めていた原爆開発に積極的に協力していたのです。軍の最高機密である二号研究に関与していたのです。

仁科からも、武谷は研究のために絶対に必要な人材であるから釈放するようにという要望があったのです。そのこともあり武谷は、逮捕から八ヵ月後に仮釈放され、生きて日本の敗戦を迎えることができたのです。

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