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A//T magazineコミュの#1 (創刊号) コメント

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コメント(8)

”今月の論のトレタマ” By 大浜平 太郎

今月発売された雑誌で特に眼を引いたのは、「A//T magazine」の創刊号。特集は「郊外」。新進の雑誌ながら、アクチュアルなマターにアグレッシブに向かっていく視線はなかなか鋭い。今後の展開に大きな期待がかかる雑誌だ。
 中で、Alan Smithyの論では、駅前商店街が「シャッター通り」に変わってく様と、その「シャッター通り」が全国の商店街で散見されるものだということをまるで新聞記事のようにジャーナルして見せていて興味深い。
 興味深いという点で言えば、同誌に掲載されたゲーリー・トマソンなる気鋭の若手論客による郊外特集も見逃せない。トマソン氏は、郊外が作られた街でありそこに住む”家族”という単位さえも作られた一種の虚構であることを暴きたて、その虚構性を保障するものが<欲望と希少性の近代>としてあるような、絶えず欲望の消費=生産のサイクルを生み出すコードであると鮮やかに断定してみせた。このような消費運動体としての”家族”像からいまの都市再開発の問題へと論をすすめるトマソン氏は、ここで消費の意思表示という側面に光を当てて論を閉じている。
 こうして「郊外」の問題をサーチしてみると、「郊外」がもつ陰影がよりくっきりすると共に、いまに続く深刻なテーマだということが見えてきて恐ろしかった。
 
なお、トマソン氏のトマソン性(=超芸術性)の垣間見える部分として、「郊外=(人為的な)消費欲望の生産/消費の地点」として把握しておきながら、都心再開発という地点においてもまた「まちをつくる意思表示としての消費」というあくまで消費のみにスポットを当てている点にシュールさを覚えた。郊外の虚構性と家族の虚構性を論じたならば、都心においてもそこに住む人口動態(あるいは個人・家庭・法人というような単位)との関連から、意思表示としての消費の論を一歩推し進めて欲しい。都市の住民には非常に多様な生活単位と生活エリアと消費形態が広がっており、それを十把一絡げに論じることはおよそ不可能に思われる。その点で、杉村氏の指摘するオルター・グローバリゼーション下での分裂共生という考え方にも共感を覚えた。原氏の言うディスクリートネスも、広い意味では、911以後の状況下において志向を等しくするものと想定できる。森ビルの森社長も言ってた。
また郊外の風俗についてもいくつかのケースが想定できること、郊外に広がる「新興団地」と「持ち家ファミリー」ではその30年後の姿が微妙にしかも大きく変化していることも含めて、さらに包括的に「郊外」を論じていただきたい。
トマソン氏はまた、近代的核家族の萌芽が大正期にあるとのべられているが、明治の都市を論じた石田氏の論にもあるように、いまだ家父長制に大きく左右され、家督が長男ないし直系男子のみに譲られていた明治憲法下での家族構成についてもさらなる展開を期する。
 
総じて、今月の論壇誌には21世紀初頭におけるある種の「ヴァシレーション」がよく出ていたと思う。そういった状況下で次の一歩、決め手となるベクトルを示すことを僕としては願うものです。まぁ、「やらないことのリスクはやることのリスクより大きい」ですからね〜、うん。


参照・参考文献
・石田頼房「森鴎外の都市論とその時代」(日本経済評論社)
  同  「日本近現代都市計画の展開」(自治体研究社)
・杉村昌昭「分裂共生論」(人文書院)
・「郊外住宅地の今昔」(『都市民俗の生成/都市民俗生活誌 第一巻』)
お詫びと訂正:

大浜平 太郎による上記の記事の中誤りがありました。
訂正してお詫びします。

>トマソン氏は、郊外が作られた街でありそこに住む”家族”という単位さえも作られた一種の虚構であることを暴きたて、その虚構性を保障するものが<欲望と希少性の近代>としてあるような、絶えず欲望の消費=生産のサイクルを生み出すコードであると鮮やかに断定してみせた。

この部分、<欲望と希少性の近代>とあるものを<希少性と欲望の近代>と訂正させてください。

尚、参考文献に以下を追加します。
ニコラス・クセノス「稀少性と欲望の近代―豊かさのパラドックス」 新曜社
”トマソン性”。(爆
脳内劇場炸裂して居りますやう。笑
でも渋谷のカフェーが再度び現前した。
否、あの深夜三時と電脳の此ち方側で論題は補完され斯うやって更にいしは転がってゆくのですね。あたしが既視感は錯覚。遊ホ
ふむふむ。
ほぉほぉ。
なるほどぉー。と一人で関心。

トマソン君が参考資料で挙げてた本にいつのまにやら続編が!

「脱ファスト風土宣言―商店街を救え!」」 by 三浦展
↑
今度は「R」の文字が中に躍ってる!
ここでいいのかな

ここにしよう

1年2組 Nommy

「忘れられた帝国」島田雅彦著について

なのだがとても書きにくい
どこに視点を置くべきなのか、話がそれたらそれたでそこはご愛嬌

自分はこの話にしばしば出てくる「みる」ということについて書こうとおもう

掘っ立て小屋の茶屋のオヤジたちの夢を見たり、帝国が挟まってる「あいだ」は見えにくいとこにあったり、父と母と弟とぼく以外の存在は感じるが見えない「あいつ」であったり、子供たちが軍隊に目をつぶされる神話だったり、学校ではさまざまなものを「みちゃった」り、帝国の散歩道の章では「帝国の道を歩けば、他人に当たる。他人に当たれば、無限が見える。」と記してあったり、ぼくの常識をくつがえす帝国、つまり首都と郊外、この世とあの世、神と人、日本と外国、歴史と歴史のそれぞれの文字通り目に見える「あいだ」にはさまれた帝国だけでなく、光のない帝国が実在することを知る盲目のアンジュと出会ったりと・・・

安易な話だがこのことはどうしても、その場(所)その場(所)をじっくり見ろ、観察しろといわれる気がしてならない
首都を知るために郊外から首都を見てみるといった具合かな

たしかに盲目の人はほかの感覚が鋭くなるという
見ることに頼っている人にはわからないものを感じたり、また、たとえばスティービーワンダーを聴いていると不思議と光を感じられるなど

人間は特に見る、あるいは覗くという欲望が強い
自分が体験したことがない世界や自分が知らない時代の世界を覗きたい、あるいは他の人頭の中を覗きたいなど
だから映画みたり、本読んだり、展示会行ったり、話をしたりする(犯罪を犯すばあいもあるが)

なるほど、そういったものがあふれる東京は目が疲れてしまうところであるようだ
与えられたたくさんの情報について考察すると腹が減るのも納得である

空腹をもたらす都会で飢え死にしない方法は大人から子供へうまく教えられることができるだろうか
結局世の中の問題はつながってるんだ、しかも複雑に絡んじゃってるよ
みればわかるじゃん 道路や地下鉄、むちゃくちゃだよ
端と端引っ張ったって余計に解けなくなっちゃうんだから・・・

読み終わってぱっと思い浮かんだのはこんな感じです
上に付随して・・・

島田雅彦氏の『忘れられた帝国』は、中心に存在する都心に対して、周縁にある郊外を「帝国」とみたてて虚構化した作品です。
ここでは郊外が帝国となる過程や状況が面白おかしく語られていくわけですが、たぶんにデフォルメされ、幻想的なその郊外像が「帝国」として中心化され、逆に都心が植民地のように外部へと追いやられる様が描かれています。そうした反転作用の中で、郊外と都心が、もはや一蓮托生の関係になっている様子が語られていきます。
本体と寄生虫という形ではなく、両方が互いに依存しないことにはなり行かない、90年代的な都市状況を、ひいては時代状況をいくぶん茶化して描いた作品といえるのではないでしょうか。

というわけで、ここからはComte氏にバトンを委ねたいと思います。
というわけで,phony氏からバトンを受け取ったわけですが,というか,恐らくphony氏はバトンを持って1週間トラックを回ってたのか,そのまま置いておいたのかということを考えたのですが,だったら早く拾えよとか自分に突っ込みをいれつつ,まあ話がのっけからそれたので,戻します,というかまだ始まってもいないしみたいな感じで,取り敢えず描いてみます。


「無計画の計画思想」

 島田雅彦『忘れられた帝国』という作品を,「計画化」というキーワードで読み解いてみたいと思う。
 phony氏はこの作品で描かれていた「帝国」を「たぶんにデフォルメされ、幻想的なその郊外像が『帝国』として中心化され」というように,郊外そのものを帝国とイコールのものとして位置づけ,「郊外と都心が、もはや一蓮托生の関係になっている様子が語られていきます。」というように鋭く分析し,このモチーフを 「90年代的な都市状況を、ひいては時代状況をいくぶん茶化して描いた作品といえるのではないでしょうか。」と結論付けている。
 55年体制以降,住宅公団が設立されてから造成されていった<郊外>が,90年代的状況の中で,都市との関係性において,当初意図していたような「本体と寄生虫」ではありえないということを鮮やかに指摘した点に関しては,同意するばかりである。しかし,「帝国」を「郊外」として一括りで位置付けてしまうのは些か早計ではないだろうか。
 まずは,ここで描かれている郊外,つまり島田自身が体験した郊外という場所を考えてみること抜きには,この「帝国」を位置付けることは不可能のように思われる。解説中における,宮台真司の「団地的郊外の歴史は、実は二段階に分けられる。」との指摘に従えば,ここで描かれていた郊外とは初期段階にあったといえよう。
 この段階にあった郊外は,未だ造成が進められる只中にあり,未完成の段階だった。作品中でそれを証明する記述としては以下のようなものが挙げられよう。

「縄文人や地底人を探して歩き回った森の小径は碁盤目の区画に整理され、星ヶ丘一丁目だの美しヶ丘三丁目、五月台だの富士見台だのと名づけられていた。」

「わずか十年のあいだにも散歩者の顔ぶれや建物の密度は大きく変わる。いわば、帝国の道は死者が通る道であり,廃墟へ通しる道である。」

「ぼくが物心ついた時からその商店街は散歩道になっていた。駅前の菓子屋と酒屋が一番古いと聞いたことはあるけど,いつどのようにして商店街と呼べる道になったのかは知らない。」

 つまり,「帝国」とは郊外(前期)であると同時に,そこに存在していた,計画化されていない場所(森,川,商店街等)であったのではないだろうか。
 しかし,翻って90年代以降の郊外を見てみるならば,全く完全にゾーニングされ機能主義思想が貫徹された完成形としてあり,「あいだ」=「帝国」が葬り去られてしまっているのである。このことに起因する社会病理(特に少年犯罪)を暴いたものとしては,三浦展や重松清が挙げられよう。三浦や重松が提起している問題の所在は,畢竟,島田がここで描いて見せた「あいだ」を巡るものであるのではないだろうか。
 <曖昧な存在>や<計画から取りこぼされた場所>が,そこに生きる人々に対する持つ意味。
 これは,コルビジェ以降の近代都市計画の計画思想では全く無視されていた存在であったのである。というよりも,そもそもこの“曖昧さ”を消し去るところに近代都市計画の存在意義があり,機能主義・合理主義が貫徹されていた理想の居住形態として,ハワードの『明日の田園都市』があったのだ。
 しかし,今一度,90年代に青春期を過ごした僕たちが『忘れられた帝国』から,この曖昧な「あいだ」の存立意義を検証してみる試みは,非常に興味深くエキサイティングな経験となるような気がしてならない。
 その足がかりとして「無計画の計画思想」というコンセプトを掲げてみたい。

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