ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

中津藩・中津城・中津藩士コミュの予備知識、小ネタなど

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
とりあえず中津城のご紹介と言うか小ネタなど
知っていると見学するのも面白いと思われるネタ集など

コメント(7)

中津城は昭和39年に萩城をモデルとして鉄筋コンクリート造り五層五階の天守と2層2階の櫓を建設している。
現在は天守があったという説と無かったという説が入り混じっており定かではないが黒田の頃の文献には天守ありとの記録があるためにあったのではないか?と推測される。
しかしながら、城の縄張りの配置図から見ると現在の位置では無いのだけは確かだ。

今、2層の櫓が立っている場所にはそもそも東南隅櫓と言う櫓があり当時の面影を知る写真というのはこの櫓の写真しかない。

これを見ると現在の物とは全く違う事がお分かりいただけるだろう。
ここは合元寺(ごうがんじ)地元では赤壁(あかかべ)と呼ばれている。

豊臣秀吉による今治12万石への所領替えを命じられ、これを拒否した鎮房は黒田家の攻撃を数度撃破。
黒田長政との婚姻・和睦を理由に中津城に出向いた際に謀略により殺害。
鎮房に従い合元寺を宿舎としていた家臣も全員討ち取らた。
その際に白壁に付いた血が何度塗りなおしても浮き出てくることから赤い壁にしてしまった。
そう言う話が残っている。

解りやすい紙芝居は↓
http://www.city-nakatsu.jp/docs/2011083001257/

中には福沢諭吉が長崎に行くときにお願いした「お願い地蔵」もある。
風龍子さん
壁がかなり真っ赤です。
結構前よりなんかペンキで塗ってます的な感じの壁になってますが・・・
昔は白い壁の材料に赤の色を練って塗っていたので見た目があそこまで真赤では無く味があったんですけどね・・・
まぁどうでもいいんだが、ここの息子は同級生なんだな・・・

祟りの概念は後々まで続き
中津城内に城井神社を建てて祀ってますし合元寺の住職であった空誉上人も福岡で別件とはいえ後に殺害されてますからね・・・

どちらも微妙に心霊スポットでありその怨念は今も続いているんだろう・・・
http://scary.jp/supot/ooita/akakabe/index.php
http://scary.jp/supot/fukuoka/kuyo/index.php
こちらは小笠原氏の中津藩初代藩主 (1632年 - 1666年)である墓所である。
場所は中津市のお隣りである福岡県吉富町広津天仲寺山にある小笠原家3代の墓である。
今となっては訪れる人の姿もほぼ無い。

寛文6(1666)年の5月29日、52歳で死亡。
遺言により「甲冑を着せて太刀を履き、手に払子を持たせ埋葬せよ」と言い絶命したらしい。
昭和48(1973)年に天仲寺の公園整備事業の際にこの墓所も整備されると言う事で2mほど掘り下げたところに石棺がありその中には遺言どおりのミイラ化した遺体が座った姿勢で、下半身は漆喰で固められてあり城の方を向き納められていた。

http://map.yahooapis.jp/MapsService/embedmap/V2/?lat=33.60105886105496&lon=131.17324041425374&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=33.5963544&hlon=131.17658647&ei=utf-8&s=133281683371c4b9adf619a3bb64aa24aefbef4f4a&width=480&height=360'
城に行くと天守閣などだけが目立つ存在なのだが石垣などにも注目していただきたい。
まずは現天守と薬研堀を挟む場所にある石垣。(北側)
こちらの石積みは写真で境目がある石の積み方がお分かり頂けるであろう。

なんとなく左側は古そうな感じで右側は切り石で新しそうに見えるが
実際は右が古く黒田時代1588(天正十六)年のもの
左は細川時代の物である。

右側の切り石は福岡県にあった唐原神籠石を再利用している。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

中津藩・中津城・中津藩士 更新情報

中津藩・中津城・中津藩士のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング