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ポーランドコミュの日本ポーランド交流の歴史

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ポーランド・日本関係史
1892−1919年

ポーランドと日本の間に正式な国交が結ばれる前に、ポーランドの地を踏んだ最初の日本人は、ベルリンから単騎でウラジオストックに向かう途上(1892−1893)の福島安正少佐だった。福島は大本営の命を受け、ヨーロッパ陸軍、特に不気味な隣国ロシア軍の情報収集に携わっていた。この時ポーランド人の独立運動指導者やシベリア流刑者たちと接触を持った。19世紀末の日本人が、分割というポーランドが遭遇した悲劇的運命を知ったのは福島少佐の報告に負うところが大きい。

19世紀から20世紀にかけてポーランドの旅行家や探検家がしだいに日本を訪れ始めたが、その中に二人のシベリア流刑者、民俗学者のブロニスワフ・ピウスツキとやはり民俗学者で作家でもあるヴァツワフ・シエロシエフスキがいた。 前者はアイヌ語・アイヌ文化の最も優れた専門家の一人となり、後者はのちに回想録や小説の中で日本について書いた。

日露戦争中(1904−1905年)にポーランド人の日本への関心が大いに高まった。ロシアが負け、再び祖国の独立を回復する望みが出てきたからだ。これが、当時の国民連盟とポーランド社会党の幹部と日本政府代表との非公式の接触につながる。そしてロマン・ドゥモフスキとユゼフ・ピウスツキが会談のため東京に赴くのである。結局、幅広い協力には至らなかったが、その時ポーランド人が日本人に対して抱いた好感情は戦争中だけでなく今日まで続いている。

1919−1945年

第一次世界大戦後の1919年に、日本が独立ポーランドを承認したことをもって両国の正式の外交関係が始まった。 20年代の両国関係は恒常的なものでなかったとはいえ、通商条約に調印し、皇室代表の非公式な訪問につながった。日本赤十字社の援助で約800名のポーランドのシベリア孤児が祖国帰還を果たした。ポーランド人が親日感情を抱いていた証拠となったのは、1925年ポーランドが対ロシア戦の際に軍功のあった51名の日本軍将校に、Virtuti Militari勲章を授与したことである。両国民のお互いの文化に示す関心は大きく高まった。 それに応えて多彩な組織が生まれ(たとえば日本・ポーランド協会やポーランド・日本協会など)、ポーランドに日本語講座が誕生し、純文学が翻訳され、種々の出版物が刊行された。

30年代には国際情勢の変化を背景に、両国関係はさらに活性化された。軍事協力、特に対独・対ソ諜報活動および暗号解読術の面での協力が推進され、この協力は1945年まで続いた。つまり1941年12月11日にポーランドが国交を断絶し、日本に対して宣戦を布告した後まで続いたわけである。杉原千畝領事とレシェク・ダシキェヴィッチ少尉は主にカウナス・ケーニヒスベルクで、小野寺信大将とミハウ・リビコフスキ少佐はストックホルムで協力した。杉原領事のおかげで、約6000人のポーランド系ユダヤ人が確実と思われた死をの免れたのである。

戦争中にもかかわらず、日本ではポーランドのフランシスコ修道会が伝道を継続していた。マクシミリアン・コルベ神父はその伝道の拠点を、ゼノ修道士(ゼノン・ジェブロフスキ)と協力して長崎に設けた。日本の孤児や老人、身障者に対する彼らの献身的な援助は今に続いている。

1945−1999年

ポーランドと日本の国交は、1957年になって再び回復され、タデウシュ・ジェブロフスキと太田三郎が最初の大使として赴任した。以後、とりわけ1989年以後は政治、経済、文化、学術面の協力が発展している。

1990年には海部俊樹首相がポーランドを訪問し、代わりにレフ・ワレサ大統領が日本を訪問(1994年)、1998年にはアレクサンデル・クヴァシニェフスキ大統領、1999年にはイエジ・ブゼク首相が訪日を果たした。日本からの投資規模も徐々に膨らんでいる。

ポーランド・日本両国の芸術家たちも互いに触発、影響し合っているように見える。日本ではポーランド派と呼ばれる映画作品が好評を博し、タデウシュ・カントールの演劇、イエジ・グロトフスキの実験劇場、ポスターやグラフィック、マグダレナ・アバカノヴィッチの作品そしてポーランド音楽の評判も高い。 ポーランドでも日本の古典演劇、前衛演劇、またポスター、グラフィック、音楽、映画などどれをとっても熱烈に歓迎される。

両国文化協力の最良のシンボルは、日本で最もよく知られている映画監督の一人アンジェイ・ワイダの奔走でクラクフに設立された日本美術技術センターであろう。

ポーランドの日本学者、日本のポーランド学者の活躍のおかげで、両国の読者は多くの貴重な文化関係の著作や純文学のみごとな原語訳を手にすることができる。

あらゆる点から見て、21世紀のポーランド・日本関係はさらに飛躍的な発展を見るように思われる。

1999年以降

2000年にブロニスワフ・ゲレメク外務大臣が日本を訪問。翌2001年にアリツヤ・グジェシコヴィアック上院議長、アンジェイ・ジェリンスキ文化・国家遺産大臣が其々訪日。2004年には、日本初の開催となったポーランド科学フォーラムの議長として、ミハウ・クレイベル科学・情報大臣が来日した。

2002年には、天皇皇后両陛下によるポーランド公式訪問が両国史上初めて実現。翌2003年には小泉純一郎首相がポーランドを訪問。「21世紀の日本国とポーランド共和国の戦略的パートナーシップに向けた共同声明」が調印された。更に、2005年1月には、マレック・ベルカ首相夫妻が日本を訪問している。

文化面における両国の交流も一段と活発化している。1999年には日本・ポーランド国交樹立80周年および国際ショパン年記念事業として「ショパン ポーランド・日本」展が東京、大阪、ワルシャワ、クラクフで開催。2001年にはレオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》チャルトリスキ・コレクション展が横浜、名古屋、京都で開催された。翌2002年には、ポーランド国立民族舞踊団「シロンスク」が初来日公演を行っている。音楽では、日本のクラシック・ファンを魅了して止まないショパンをはじめ、シマノフスキ、モニューシコ等も人気を集めている。現代音楽の分野で世界的な活躍を続けるクシシトフ・ペンデレツキは、2004年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。映画では、巨匠アンジェイ・ワイダ監督作品をはじめ、クシシトフ・キェシロフスキ監督作品が知られている。

 

政治:ポーランド・日本関係史

http://www.poland.or.jp/japanese/seiji/polit1jp.html

コメント(3)

欧州遠征のモンゴル軍が1241年、レグニツァでポーランド貴族連合軍と交戦したが、元寇(1274/81年)に先立つ 1268年、元からの国書がこの件に触れて「ポーランド」に言及した。ポーランドの名が日本に伝えられた最初とされる。


<日露戦争>
 ユゼフ・ピウスツキは、日露戦争中の1904年夏、反ロシア決起の武器援助を求めて来日した。ピウスツキのロシア皇帝暗殺未遂事件に連座してサハリンに流刑となった兄ブロニスワフは、ここでアイヌ研究に献身、日露戦争前後の一時期、日本に滞在して二葉亭四迷らと親交を結んだ。




<クレメンスと器械体操>

 1914年7月には第一次世界大戦が勃発したが、同年11月、ドイツ軍がたてこもる青島をめぐって、日独軍の攻防戦が続き、最終的には4千数百名のドイツ兵が捕虜として日本の四国各地の捕虜収容所に送られたが、そのなかのひとりにポーランド系ドイツ人クレメンスがいたのだった。 1971年に79歳で亡くなるまでの間、スポーツ選手として、後にはコーチ、国際審判、スポーツ団体役員として、スポーツ一筋の人生をおくったが、日本の捕虜収容所滞在時に、日本のスポーツ振興にも貢献してます。

 第一次世界大戦、青島で戦闘が始まったが、日本軍は2万4千名、ドイツ軍は4千余名の将兵数であり、3ヶ月にわたる戦闘後に降伏した。クレメンスは捕虜になり、四国の丸亀というところに送られ、道の両側に並んだ子供達が小旗を振って迎えたが、その光景は捕虜を迎えるより戦勝者を迎えるような態度であった。丸亀では道路工事にかりだされ、ドイツ軍捕虜を収容する家屋の建設もしたが、その建設が終わったのちは、スポーツクラブの結成が許され、競技場の建設にもとりかかった。そのスタジアム建設が完了しないうちに、クレメンスは同じ四国の板東というところへうつされた。板東でもスポーツクラブを結成し、クレメンス達が行うスポーツにたいして日本人は大変、好意的な目で見てくれた。1916年7月にはスポーツ競技会を開催し、日本人も多数、それに招待したが、日本の教師たちはレスリングや重量挙げ、器械体操に多大の興味を示したが、それまでこの種のスポーツは日本では知られていなかった。

クレメンスはその競技会でレスリングなどの模範演技を見せたが、日本人も柔術や相撲などを見せてくれた。わたしは漁師の日本人と相撲をとり、ひとり負かしたが、こうした交流の後、スポーツ模範演技のために各地に招待されるようになった。クレメンスともうひとりの同僚が徳島のさる学校へ招待され、その学校で器械体操を教えることを請われた。わたしは10ヶ月にわたり器械体操を教えたが、10ヶ月の後、日本人選手たちによる器械体操競技会を開催した。日本人の技能はわれわれの三級ぐらいに相当したが、その中でも二人の日本人は一級の技能に相当した。かれらには基礎訓練が不足していたが、かれらの進歩は早く、現在、日本器械体操の技能が世界でも最高位にあるのも、充分うなずけるし、またそのことにクレメンスは心より嬉しくおもっている。1917年4月18日のスポーツ競技会では、日本人による器械体操の模範演技がおこなわれたが、その競技会には3千人以上の観衆が集まり、初めて見る器械体操の演技に盛大な拍手をおくられた。

 1919年、戦争は終了した。1919年3月、日本演劇統一協会はスポーツに従事するわれわれを日本全国巡回模範演技旅行に招待してくれた。わがチームは自前の楽隊を持ち、楽器を持参し、スモーキングも着用した。レスリング、重量挙げ、器械体操(鉄棒や鞍馬は持参した)、ダンスなどもその巡回公演で披露することになった。何人かの若手を女装させたが、クレメンスがアクロバット演技を女装で披露したが、だれもクレメンスが女装してるとはおもってもみなかったようである。クレメンスらポーランド人はマズルカやオベルカのダンスを披露したが、ドイツ人もまけずにお国のダンスを披露した。巡回公演は3ヶ月にわたり続けられたが、この旅によってたくさんの記念品や賞状などを持ち帰ることができた。

 時がたち、クレメンスは青島へ来た時と同じルートでポーランドへ帰還できたが、今回は日本船「こうふく丸」で神戸から出港した。





<20世紀初頭の孤児救出劇>

 シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーランドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がいたといわれる。その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否され、窮余の一策として当時国交の無い日本政府に援助を要請することを決定した。

 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断であった。 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストックを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

  日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとして以下を挙げている。ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと、、、到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若い看護婦は、病の伝染から殉職している。1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見された。

 このような手厚い保護により、到着時には痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。





<シベリア孤児達のレジスタンス活動>


 祖国に戻った孤児イエジ・ストシャウが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設けられ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたという。極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていたのである。 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金援助もした。

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく庇護したのである。






<ビザを発給>

 ドイツのポーランド侵攻直前まで日本は独ポ間の危機回避に努めたが、果たせず。日米開戦直後の1941年12月11日、ポーランドのロンドン亡命政府は日本に宣戦布告、形式的にせよ両国は交戦国となった。他方、水面下での日本・ポーランド間の諜報協力は続行された。大戦初期、駐カウナス(リトワニア)領事杉原千畝は、本省の不同意を無視して、数千のユダヤ系ポーランド市民に通過ビザを発効、多くの人命を救った。軍事面の協力がその背後にある。






<ワレサ委員長の来日が実現(1981年5月)>

 「連帯」運動を始めたとき、最初の外国訪問国として自ら日本を選び初めて見る日本に感動した。だからこそ帰国して早速「ポーランドを第二の日本に!」と提唱し、ポーランドが自由と独立を回復して自分が大統領に選ばれたとき、そのチャンスが来たと思って日本に熱い期待を寄せた。し かし、ポーランドの新しい国造りに今こそ日本に助けてほしいのに、日本はそれに応えてくれない。その期待は裏切られつつある。日本からの来訪者にこう苦言を呈し続けてきたが、もう疲れてきた・・・。これは痛烈な一撃でした。」

 世界には、物心両面で日本の援助を必要としている親日国はたくさんある。しかし残念ながらポーランドの例はほんの一例に過ぎない。中国や韓国のように、国民に感謝もされていない巨額のODAを毎年提供している事実、そしてそれは当然であると考えてる節さえもある。日本は歴史教育のあり方を改めない限りは、外交のあり方を改めない限りは困難なのでしょう。





<ワレサ大統領が来日>

1994年12月、ワレサ大統領が来日。村山首相はポーランドの改革支援と経済協力の強化を約束した。1994年、航空協定(96年発効)、外交公用旅券保有者の相互査証免除取決め(94年発効)、91年6月ビエレツキ首相訪日、高円宮訪問。ワイダ監督の寄付、日本民間の援助によりクラクフに「日本文化技術センター」設立(94年11月)





<兵藤長雄ポーランド大使孤児を公邸に招待(1995年10月)>

 高齢の元孤児達が大使公邸に招待された。孤児達の夢であった日本再訪問が大使公邸という狭い日本領土に招かれることで実現した。そこで大使に日本への感謝の気持ちと離日の時に日本人からもらった扇やお守り札を肌身離さず身につけてたこと、そしてその宝物を見せ合ったそうです。
 
  シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介されてます。私の家にポーランドの友人が訪ねて来た時にもその話題が出てました。当時の日本はポーランド人が忘れる事無く憎悪してるナチスドイツの同盟国であったにもかかわらず、一般市民も含めてこの歴史的な事実のおかげで親日です。政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。その一つが極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状です。

日本人はわがポーランド人とは全く縁の無い、地球の反対側に住む異人種である。しかし、不幸なポーランドの児童に深く同情し、心の底よりより憐憫の情を表わしてくれた。ポーランド人はこの事実を肝に銘じて忘れることはない。児童たちを見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、リボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。誇り高きポーランド国民もは高尚な国民である故に、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に伝えたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドだけでなく米国でも広く知られている。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。

また2002年の天皇皇后両陛下がポーランドを訪問された時に、当時のポーランド人孤児がワルシャワの日本大使公邸での答礼レセプションに招かれ、天皇陛下、皇后さま(日赤名誉総裁)と懇談、感謝の気持ちを伝えた。





<「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日>

 約80年前、日本政府や日赤が中心となって救出されたポーランド人元孤児の感謝のメッセージを携え、同国の「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。「シべリアにいたポーランドの子供達を恐ろしい所から日本に連れて行き祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれたことを忘れません」

皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが一番の思い出で、一番大切にしている物「当時の写真」皇室に渡して欲しいと言ったそうです。






<天皇・皇后両陛下のポーランド訪問(2002年7月)

 ポーランド訪問中の天皇、皇后両陛下が12日午後(日本時間同日夜)訪れるワルシャワ大では、日本学科(約100人)の学生らが来訪を心待ちにしている。同大は、日露戦争の日本勝利を機に1919年から日本語教育を始め、「古事記」翻訳などの実績で知られるが、89年の東欧革命以後は自由化の波を受け、大きく様変わりしている。

 「今年の日本学科新入生の半分は、テレビで放映された『ドラゴンボール』など、日本のアニメに影響を受けて入ってきた」と話すのは、32年にわたり同大で日本語教育に携わってきた岡崎恒夫・東洋学部副学部長。日本アニメはここ5、6年ブームで、専門誌「可愛(かわい)い」(発行部数4万)も登場したほど。定員16人の日本学科は毎年、7、8倍の競争率という。

 一方、現地日本企業への就職を目指す学生も。ジェトロ・ワルシャワで働く卒業生のイボナ・モロチェクさん(31)は「卒論のテーマは狂言。畑違いの就職で、日本経済の勉強を一から始めなくてはならなかった」と話す。最近は、経済関係の授業を並行して受講する学科生も珍しくない。

 両陛下を迎える日本学科では、学生がお辞儀の練習までする熱の入れよう。岡崎副学部長は「日本の文化や歴史にロマンを感じる素朴な学生たちの心は変わらない」と強調している。

 両陛下は11日午後(日本時間12日未明)、ポーランド南部の古都クラクフ(浮世絵の収集で有名で日本政府も協力))にある日本美術・技術センター(浮世絵や日本アニメを展示・紹介))を訪れ、私財を使ってまでセンター設立に尽力した映画監督アンジェイ・ワイダ氏(アカデミー賞受賞監督)と懇談された。監督は天皇陛下に、センター隣に日本語学校を設立する構想を打ち明け、陛下も関心を示されたという。





<推薦図書>
善意の架け橋・ポーランド魂とやまと心」
兵藤長雄 著  (文藝春秋 1,762円+税)



 私がオーストラリアと英国に滞在してた時に、ポーランド系の方々が何故私に異常なほどまでに親切だったのか分かった。あの時、一人のポーランド系オーストラリア人とした約束を守ら無ければならないと強く思う。その約束は
「君が困ってるポーランド人を見たら助けってやってくれ。」
この言葉の重みをひしひしと感じます。

http://www.h7.dion.ne.jp/~speed/poland_new.htm
■■ Japan On the Globe(323)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

地球史探訪: 日本・ポーランド友好小史

 遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も
続いてきた。
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■1.善意と友好の地下水脈■

 冬の最中にポーランドの古都クラクフに来ている。ホテルの
窓から見ると、うっすらと雪化粧した街並みを見おろすように
歴代ポーランド王の居城だったヴァヴェル城がそびえている。

 ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人はせい
ぜいショパンやキューリー夫人くらいしか知らないだろう。し
かし両国の間には善意と友好の歴史が百年もの間、人知らぬ地
下水脈のように流れている。

 弊誌142号「大和心とポーランド魂」では、20世紀初頭に
シベリアで困窮していたポーランド人孤児765名を帝国陸軍
と日本赤十字社が救出し、母国ポーランドに送り届けた事。そ
の返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちがポーランド
に招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。[a]

 しかし、両国の交流はそれ以外にも目立たないながらも脈々
と地下水のように続いている。今回は両国をつなぐ善意と友好
の歴史を辿ってみよう。

■2.「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」■

 ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリ
アに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続
けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。

 後にポーランド独立の英雄として敬愛されるヨゼフ・ピウス
ツキは1904(明治37)年7月、日露戦争の最中に日本を訪れ、
明治政府に対して日本とポーランドが手を携えてロシアと闘お
うと呼びかた。ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に
徴発されているポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。

 この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派のドモスキも
来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと日本政府に進言し
た。結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後のポーラ
ンド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを採用することにし
て、松山にポーランド人捕虜のための収容所を作り、特別に厚
遇した。捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の
規模に達したという。日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破
った時には、ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。

■3.「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」■

 後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、19
61年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時
の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。
グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に
呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。

 なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議
に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシ
アに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を
日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親
切にもてなされ、深い感銘を受けた。

 父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、
息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会っ
たらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のよう
に話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、
貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤
氏に語った由である。[1,p13]

■4.「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」■

 阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中
心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。フィ
リペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、
ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験
もあった。

 フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下
のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳
の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制
収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさん
に育てられたが、よくこう聞かされた。

 お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔
術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリン
グよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこ
うにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。そ
の小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつ
けたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、
ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っている
んだ。

 小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポ
ーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカ
のように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして
追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることが
できた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーラ
ンドは独立できたんだよ。[2,p21]

 おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーラン
ド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベ
リアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁と
なって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意
したのである。

■5.「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」■

 ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂
起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられた者はシ
ベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられた。
1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では8万人もの流刑囚
がシベリア送りとなった。その後を追って、恋人や家族がシベ
リアに行った。そのためにシベリアには何十万人ものポーラン
ド人がいたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。

 1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人
たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2千
名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立したロシア提
督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは
失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。

 この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、
長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日
本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏など
と共にシベリアに出兵していたのである。

 赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そう
とした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に
日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は当時の状況をこ
う語っている。

 街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子た
ちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、
クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日
本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメ
ルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎら
そうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはも
う、まったくの地獄でした。[2,p35]

■6.「日本に救援を頼んでは」■

 ポーランド人孤児たちを救おうと立ち上がったのが、鉄道技
師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケ
ビッチさんだった。ボランティア組織「ポーランド孤児救済委
員会」を組織し、自ら会長となった。

 ビエルケビッチさんは、子供たちを救うにはどうしたら良い
か、と委員会で相談をした。一人の委員が、日本に救援を頼ん
では、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(は
りつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれる
だろうか、と質問した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッ
チ副会長が手をあげて発言を求めた。

 僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいった
ポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はい
ませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチュ
ーマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍
じゃありませんか。[2,p42]

 こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外
務省にポーランド孤児救済を依頼する。依頼は外務省から日本
赤十字に伝えられ、17日後には孤児救済が決定され、さらに
その2週間後には帝国陸軍の助力で、56名の孤児第一陣がウ
ラジオストクから、敦賀経由で東京に到着した[a]。

 同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を救
おうと、あちこちの避難所を探し回った。ビルケビッチさんは
語る。

 こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいま
した。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のよう
にして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭で
は、「せめて子どもだけでも、助け出してください。」と
母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。
[2,p57]

 しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、
日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもで
きなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。

■7.6千人のユダヤ人を救った外交官の秘密任務■

 1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により、第2次世界大
戦が始まった。ソ連軍もポーランドに侵入し、国土はふたたび
ドイツとソ連に分割占領されてしまった。

 この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつてウラジオストッ
クで日本に救われたチューマ将軍であった。そしてその指揮下
でレジスタンス(抵抗)運動の中核となったのが、シベリア孤
児だったイエジ青年だった。シベリア孤児たちを中核とするイ
エジキ部隊は、孤児院を秘密のアジトとして様々な抵抗活動を
展開するが、ナチスの捜索の手から孤児院を何度も救ったのが、
日本大使館であったことは、[a]で紹介したとおりである。

 大戦中の日本とポーランドとの関係では、もう一人、意外な
人物が登場する。ナチスに追われた6千人ものユダヤ人に日本
へのビザを発給して救ったリトアニア領事代理の杉原千畝であ
る[b,c]。1939年11月、大戦勃発の直後に日本人居住者のい
ないバルト海沿岸のリトアニアの首都カウナスに日本領事館が
設けられたのは、いかにも不自然であるが、その領事代理・杉
原の任務はポーランド軍との協力関係を築くことだった。

 日本は防共協定を結んだばかりのドイツがソ連と不可侵条約
を結んだことに強い不信感を抱き、独ソ双方の情報収集を強化
する必要を感じた。そこで目をつけたのが、大戦前からドイツ
の隅々に諜報網を張り巡らせていたポーランド軍であった。杉
原はポーランド軍参謀本部の情報将校たちや、リトアニアにお
けるポーランド諜報組織「ヴィエジュバ(柳)」、さらにはロ
ンドンでの亡命政府傘下の軍事組織「武装闘争同盟」と接触し
て、情報を収集した。

 一方、ポーランドの諜報員たちは、日本や満州国のパスポー
トを得て自由に行動し、さらにドイツやバルト・北欧諸国の日
本公館に通訳などの名目で雇ってもらうことで、安全を確保で
きた。さらにポーランドの諜報機関や抵抗組織は、リトアニア
経由でベルリン、モスクワ、東京を往復していた日本の外交ク
ーリエを利用して、ポーランド国内やロンドン亡命政府との連
絡をとることができたのである。[3,p115]

 建前上は敵対関係にある日本とポーランドが、陰ながらここ
までの広範かつ密接な協力が築けたのは、日露戦争前夜からの
長い信頼関係があったからであろう。

■8.日本文化に魅せられたポーランド人■

 文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を欠かす
ことはできない。ヤシェンスキはポーランド貴族の生まれで、
20代には19世紀末のパリで芸術の勉強に打ち込んだ。当時
のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する関心が高く、ジャ
ポニズムという流れが若い画家たちに強い影響を与えていた。
ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて6500
点にも上る日本美術の一大コレクションを築き上げた。

 ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を集めたのではな
かった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに分割統治されて
いたポーランド民族の独立を夢見て、独自の民族文化に生気を
吹き込むという使命に全力を捧げていた。そこから2千年に渡
って独立を守り通し、独自の文化を発展させた日本に魅せられ
ていったのである。

 日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱はます
ます激しく燃え上がる。これほど非凡であり、洗練されて
おり、大胆かつ精緻で、しかも感動的で魅力の溢れる芸術
がほかにあるだろうか。[1,p48]

■8.友好の象徴、日本美術・技術センター■

 ヤシェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立
博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部
が公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アン
ジェイ・ワイダだった。

 ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、87年に
京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、ヤシェン
スキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。ワ
イダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して
94年に完成したのが日本美術・技術センターである。ヤシェン
スキは「北斎漫画」からとった「マンガ」をミドルネームにし
ていた機縁で、このセンターは「マンガ」館と愛称されている。

 筆者がセンターを訪れたときは、かなりの数の青年たちが日
本の掛け軸の展示を見ていた。喫茶室では何組かの若いカップ
ルが日本茶を飲みながら、会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大
なガラス戸からは、ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル
城が望める。日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンタ
ーから、ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城
を見上げつつ、私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(142) 大和心とポーランド魂
 20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した
日本の恩をポーランド人は今も忘れない。
b. JOG(021) 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
 日本経由で脱出を願うユダヤ人6千人にビザを発給。「バン
ザイ、ニッポン」誰かが叫びました。「スギハァラ。私たちは
あなたを忘れません。」
c. JOG(138) 届かなかった手紙 〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜
 世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと
文明国だということを知らせましょう。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 兵藤長雄、「善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心」★★★、
文藝春秋、H10
2. 手島悠介、「日本のみなさん やさしさをありがとう」★★、
講談社、H14
3. 渡辺克義・編著、「ポーランドを知るための60章」★、
明石書店、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「日本・ポーランド友好小史」について

瑠璃子さんより
 こうして読んでみると、「日本は他国に対してかなり手助け
をしてきてたんだなあ〜。お金だけで手助けしてるんじゃなく、
命がけで手助けしてきたんだ。」とすごく感動しました。現在
はイラク派遣が問題になってますが、私はアメリカとテロ組織
の戦いに巻き込まれたイラクの一般市民の為に、「エルトゥー
ルル号事件」や「日本・ポーランド友好小史」の時の様に「命
がけ」とまでは言いませんが、今の日本が出来る精一杯の手助
けをして上げてほしいと心から強く願います。

 こうした事によっての「精神的な友好関係国」を1つでも多
く作ってほしいものです。そして、いつまでもその歴史を受け
継いでいってほしいです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 ポーランドの親日感情は、我々の先祖の善行のお陰です。我
々自身は、子孫にどのような遺産を残すのか、考えねばなりま
せん。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog323.html
Japan On the Globe(142) 国際派日本人養成講座
_/_/
_/ 地球史探訪: 大和心とポーランド魂
_/
_/ _/ 20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出
_/_/ した日本の恩をポーランド人は今も忘れない
-----------------------------------------H12.06.11 25,171部

■1.ポーランドからのメッセージ■

 平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年
少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団はヘンリク・サドスキさ
ん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条
件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行
き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく
れたことを忘れません。……(合唱団は)私たちの感謝に
満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、あ
りがとう。

 サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡し
て」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后
陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
と話したという。[1]

 20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったの
だろうか?

■2.せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい■

 シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。

 しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
とを決定した。

■3.日本赤十字社の決断■

 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
した。

 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
れば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。

 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

■4.手厚い保護■

 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
て以下を挙げている。

 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
って悔しかったこと、、、

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
い看護婦は、病の伝染から殉職している。

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

■5.「アリガトウ」と「君が代」斉唱■

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
戻した。

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

■6.シベリア孤児の組織「極東青年会」■

 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
いう。

 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
在代理公使となっていたのである。

 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
館員が出席して応援し、また資金援助もした。

■7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
した」といって直ちに引き上げた。

 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
庇護したのである。

■8.長年の感謝の気持ちをお伝えできれば■

 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
いた。

 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
かしもうそれは叶えられません。

 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
ことはありません。

と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
あった。

■9.われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
した礼状の中で次のように述べている。

 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
れることはない。・・・

 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
度や二度ではない。しばしばあった。・・・

 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
る。・・・

 ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
っていることを伝えしたい。

■10.大和心とポーランド魂■

「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
不憫で涙が止まらなかった、という。

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。

 4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
しをしたのである。

■リンク■
a. JOG(102) エルトゥールル号事件のこと
 難破船救助から始まった日本とトルコの友好の歴史。

b. JOG(113) 日本・ベルギー交流史
 第一次大戦と関東大震災を機縁にした友情の歴史

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 毎日新聞、H11.08.04、大阪夕刊、8頁
2. 「善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心」★★★、兵藤長雄
  文芸春秋、H10.3

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「大和心とポーランド魂」について
                         桜さんより

 私には、夢があります。学生時代に磨いた日本舞踊を通じて、
世界各国を自由にまわり、様々な人々と、心と心で交流をして
いきたいのです。それが自分にできる世界平和へのひとつの行
動であると信じています。

 本号のようなお話を伺うたび、その想いはますます募ります。
ポーランドの方々に、私達こそ感謝していかねばならないと感
じます。報恩の心を形にし続けるポーランドの方々のようなひ
とがいるからこそ、その真心に触発されて、私達も心をゆさぶ
られるのですから。

 感謝の心を忘れず行動し続ける人間がひとりでもいるかぎり、
かならず平和の方向へすすんでいけると確信しています。

 今、私の胸のなかに、ポーランドの方々への熱き思いが灯っ
ています。行動で示していきます。

■編集長・伊勢雅臣より

 力強いお便りに心うたれました。80年前の恩を忘れないポ
ーランド魂に負けないよう、日本舞踊を通じて大和心を示して
あげて下さい。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html

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