ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

新生!琉球独立党コミュの印度散人曝書録・七

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
印度散人曝書録・七

竹中労『琉球共和国―汝、花を武器とせよ!』(三一書房、一九七二年)
竹中労『琉歌幻視行―島うたの世界』(三一書房、一九七五年)

府川充男

この三月六日、L協(レーニン主義者協議会)の同志であった池田憲二の七回忌で高尾の墓地に行ってきた。池田は私の次のマル戦系高校生のキャップで、一九六八年から六九年ころ、他党派批判を早口でまくしたてる私と要所要所でぼそぼそっと纏めを入れる池田とのコンビは戦後高校生運動史上最強のオルグ・コンビを自称した(あくまでも自称です)。どちらかというと肉体派気質でボス交・根回し政治が得意の私に対して池田はずっと理論派気質であったが、組織活動をやめてからは市井の一庶民になりきって残りの生涯を終始した。高尾には清井礼司をはじめ昔の仲間たちが二十名ほど集った。L協がなくなってからも早大の赤ヘル無党派部隊で機動隊や革マル派との激突を共に担った連中もいて、当時のことを久しぶりになつかしく思い出した。いつもはへらへらしていても本番には滅法強い部隊だったが、実際にはそれぞれが空手の道場に通ったりしてトレーニングにはげんでいたということは今回はじめて聞いたのかもしれない。しかし今やもう皆五十代、ただのオッサンである。
一九七四年であったかその翌年であったか、学生運動と土方のアルバイトから足を洗った私は新宿でセラヴィという飲屋をはじめた。客は元全共闘から愚連隊まで。高校生・浪人・学生時代、ゲヴァルトは二百回以上こなしたが、基本的にそれらはあくまで集団戦であり、個人的感情もさして入るものではなかった。まあ「仕事」だったのだ。それとは全く違う街場の喧嘩というのを飲屋街ではじめて知った。愚連隊からは「正しいビール瓶の割方」をコーチされた。振下ろして割ると全体が割れて自分の手を怪我する、力を入れずに机の下に先をこつんと打ち上げて割り、すばやく持替えて顔面を狙えと。七〇年代前半、新宿の飲屋街には唐十郎、篠原勝之、足立正生といった豺狼{ルビ★さいろう}のごとき三十代が徘徊していた。寺山修司も強かった。彼等は相手が若年だからといって手加減するようなことは全くなかった。夜の新宿は若者にとって油断も隙もない街だったのである。嫩{ルビ★わか}い衆が少しくらい調子に乗っても滅多にひどい目には遭わなくなったのは七〇年代末になってからであろう。いつだったか二丁目の文壇バーで飲んでいて、私が何か生意気を言ったのだろう、背後で歌人の福島泰樹が立上がり私にいきなり殴りかかろうとして自分の左手のギプスに一瞥をくれ我にかえって「そうか、やめた」と呟いてまた坐ったと目撃者に聞いたことがある。まあそんな場所だったのだ。
いろんな客が来たが最も印象の強かった人物といえば竹中労である。一九七六年あたりだったろうか。恰幅が良く太り肉{ルビ★じし}、大きなチェックの派手目のジャケットを羽織って見るからに上等な鞜を履いていた。江戸期の男ぶりの形容に「油壺から抜出たような」というのがあるが、顔はてらてらと光沢があった。新左翼の党派活動家の雰囲気とはまるで違っていた。そのとき居合せた少林寺拳法の有段者・前山博志(元月刊『ジャズランド』編輯者)が二段蹴りについて講釈を垂れたところ労さんは「いやあ、君たちがまとめてかかってきても僕には勝てないよ」とにこにこしながら言放った。そこに居合せた連中は労さんの武勇伝を種々知っていたから「そらま、そうでしょうねえ」ということになった。 終戦の年、労さん十五歳にして甲府中学で全学ストライキを指揮、“戦犯教師”を追放するが、みずからも退学処分になる。十代からの逮捕歴約十回、刑務所にも数回行っている労さんの経歴を見てみると、もともと焼跡闇市で街場の喧嘩も左翼の武闘も区別の付かないような混沌のなかで育ったことがわかる。竹中半兵衛の子孫というが、親父の代には零落して父英太郎は水平社、炭鉱労働者同盟で活動したアナキスト系の自由労働者だった。東京外事専門学校(現・東京外語大)露語学科も除籍。一九五一年、労さん二一歳のときには自由労組を指揮して生産管理、県議会乱入など労働運動に奔走。共同工芸社争議では家宅侵入・器物損壊の共同謀議容疑で英太郎とともに被告となっている。翌年、淀橋警察署焼打ち事件に連累し検挙されるが釈放後山梨県下に潜行、一二月再び逮捕され甲府刑務所に収監されている。山谷の玉姫公園で私服刑事たちをちぎっては投げ、投げては殴り、殴っては蹴り、と大乱闘を繰広げたのは六八年だったか。腕っぷしも強かったが声も大きく恫喝も絶品だった。八〇年代であったか、深夜のテレビ番組で自民党国会議員だった柿沢弘治に「ナニこの小僧っ子がァ! 笑わせんじゃねえ」と呶鳴{ルビ★どな}っているのを見たことがある。次の引用は現代史シンポジウム第六回(一九八一年)でのやりとりである。

  新島「アノネ、全然わかってないよ中国革命が、あんたには」
  竹中「わかっているよ、馬鹿野郎」
  新島(会場にむかって)「僕は、こういう右翼的なふんい気が」
  竹中「何が右翼的だ。おまえは左翼かよそれでも? 学者面して笑わせるなノータリン。おまえには自己批判がないよ、まず第一に文革のときに何をやった、何を書いた?」
  会場から「そうだ、それは言えるぞ!」
  竹中「他人を批判するのなら、まず手前の責任をあきらかにしろ、文革万歳と言ったのは誰だ? お前の書いたものを持って来て読み上げようか、ここで」
  新島「本なら、そこに並べてある」
  竹中「そいつは、今の本だろう。何とでも言いぬけるさ、だが、文革を反革命だという資格がお前にあるのかよ、新島淳良!」
  会場から「司会者、討論を秩序のある形に戻してください」
  玉川「私は口を出しません」
  竹中「……太田が民衆蔑視だと、そういう手前はいったい何だ! すくなくとも太田は革命をやってきた。オレがこの男と仲直りをしたのは、一緒に革命をやりたいからだよ。新島、お前みたいな乞食野郎のごたくなんざ聞きたくねえ、出てゆけ!」
  新島「それなら、オレは帰る」
  竹中「ああ、帰れよ。最後に一言だけいっておくがな、文革で死んだ人間がいることを忘れてやしないのか? 斉藤龍鳳はどうして死んだんだ、あいつはオレの友達は! 東大の安田講堂に毛沢東思想万歳と垂幕たらして水をぶっかけられて、列品館で片輪になった学生のことを忘れていないか、新島! 何をぐすぐずしてやがる、さっさと帰れ、出てゆけ腐れ外道」(『同時代批評』第六号所載「“毛派”イデオローグの戦争責任」より)

いやあ品はあまりよろしくないが、なかなかスゴいでしょ。罵倒がそのまま藝になっておる。存命中の「文化人」にしてアドリブでこれだけの啖呵を切れる奴ぁ誰もいねえ。新島淳良、六〇年代には中大か明大の教授で毛林(ケバヤシと読んじゃいけない)路線万歳を触れ廻っていたおっさんだが、このころはヤマギシ会に入ったころだったろうか。ま、下等物件には違いないが。明大の赤軍派活動家の娘でヤマギシ会で育ったという子が聚珍社にいて、「子供のころ新島のおいちゃんに可愛がられた」と聞いた事がある。
琉球弧の島唄に前山や菅野英二(元中核派)といった店の常連や私がのめりこんだのは七〇年代中葉からであって、その導きの糸は何といっても、『琉歌幻視行―島うたの世界』に纏められていた労さんのルポルタージュであった。「余のウチナー狂い、おそらくは生涯とどまることなし。もし死なば余の骨は名護湾の薔薇の落日に投げすてよ」。しかし労さんはきわめて多忙だったから私たちの直接のコーチは、六〇年代に法政大のアナキストで、蝶恋花舎、島うた企画を経てこのころ『新譜ジャーナル』の編集長をしていた岩永文夫さんだった。 岩永さんは一九七三年三月に沖縄コザ闘牛場の「ジェームス・ブラウン沖縄でうたう!」というイヴェントを制作していて沖縄には五十回ほども出かけ、「重症の沖縄病患者」を自称していた。もっとも八〇年ころに労さん曰く「岩永は音痴だからいけねえ」。岩永さんを介してすでに若手というより大家となっていた知名定男、まだおとなしくて恥しがり屋で線が細かった照屋林賢、チャンプルーズのドラマー當山安一、琉球独立論者の名護宏明といったウチナンチュも来店していた。私が企画して荻窪ロフトで知名定男のコンサートをやったこともある。名護さんは、七〇年前後、保守革新のいずれもが自明とした日本への「復帰」と復帰協の許{ルビ★もと}で昂揚した復帰運動の大波に抗し狂者{ルビ★ふりむん}と呼ばれながらも孤立した悪戦を挑んだ琉球独立党主野底{ルビ★ぬか}土南の同志だった侠気の人、酔っぱらったときの口癖は「沖縄が独立したときには東京湾にフリゲート艦で迎えに来るからな」。ブント系の論客では桝本純(筆名川田洋)が六〇年代から『叛旗』第二号や『情況』で近世・近代琉球史の智識に基づく沖縄独立論を展開していて、私も森秀人『甘藷伐採期の思想』や川満新一、新川明ら沖縄智識人たちの著作とともに川田の論攷は読んでいた。私が編輯長をやっていた季刊『音楽全書』は七七年、第五号で島唄と沖縄ロックの特輯を組み、島唄のシングル盤の総リストや琉球独立党の資料をまとめて掲載した。当時セミ・メイジャーの雑誌で琉球独立党の綱領や論文、琉球共和国旗を掲載したのはこれくらいのものだったろう。が、発行部数一万ほどの雑誌で四千も売れず、私はあっさりクビになって、自費で『同時代音楽』という雑誌を創刊しようとしていたところだった。
労さんは私の半生で出会った豪傑のなかでも飛抜けてスケールが大きく恩誼に篤くて情にもろい最高の任侠、無頼漢であった。だが尊敬はしていても親しいつきあいをしたわけではない。編集者として何回か原稿をもらったくらいだ。なんだかエネルギッシュに過ぎて近寄りがたかったということかもしれない。生涯を闘いまくり暴れまくり、ニッポンの裏社会・キューバ・琉球・香港・韓国・東南アジア・中南米・中東と駆抜けながら最期までスピードをゆるめることがなかった。ミネラル・ウォーターなんざ糞食らえ、どこの国に行っても現地の人と同じ水を飲み、同じものを食すというのがモットーであった。たぶん、そのために労さんは命を縮めたのではないかと思うが後悔はしていなかっただろう。生涯過激だったが大杉栄の例を引きながら「左右を辧別せず」と言い右翼の野村秋介とも平気でつきあったし、裏社会の住人をバカにすることは決してしなかった人だからヤクザとのつきあいもあったろう。田中角栄が首相のときにはピストルを手に入れていたと聞いた。よく分らなかったのは太田竜などという、大言壮語するだけで現場にはとことん弱く疎く、義侠心などとは無縁の下等物件に妙なコンプレックスを持っていたことで、八〇年ころに雑談の折「俺には太田のような思想がないからなあ」と言われ、びっくりしたことがある。太田の「思想」など私には終始漫画としか思えなかったし、抑{ルビ★そもそ}も新島淳良が毛派の戦争責任を免れ得ないとするなら太田は東アジア反日武装戦線に関してA級戦犯ソノモノではないか。私には労さんのほうが遙かに思想が豊かだと感じられたのだが。
一九六九年、労さんは「復帰」前の沖縄を訪れた。労さんの取材の流儀はどこであっても観光名所なんてもなべらぼうめ、ひたすら陋巷、紅灯の衢{ルビ★ちまた}を巡ることであった。かくして沖縄ニッポンではない、あんな「低国」に「復帰」すべきではないと労さんは確信する。

  余はほとんど毎日、沖縄の海と空を眺めて歩き、琉唄・琉舞・琉酒に酔い痴れて娼婦の巷{★字形差替え}を徘徊せり。デモに参加せず、“活動家”諸君と行をともにせず、三絃{ルビ★さんしん}のリズムと、まるっきり理解できぬ沖縄方言{ルビ★うちなーぐち}の町辻{★字形差替え}に沈淪したるのみ。
  波の上、泊一丁目、拾貫瀬{ルビ★じゆつかんじ}、コザの吉原、エトセトラ。女郎{ルビ★じゆり}の里をへめぐって、スタミナの続くかぎり沖縄の底辺を探訪し尽せるなり。当地“新”左翼諸兄諸嬢、余の放逸無慙な言動に驚きあきれ、マスコミ反戦の某君のごとき、「トップ屋と同席せず!」と席を蹴って立ち上る態たらくなりき。
  遮莫――サモアラバアレ。余の見聞したる沖縄について語ろう。(『琉球共和国―汝、花を武器とせよ!』)

労さんの文章には独得のリズムがある。トップ屋(週刊誌のトップ記事のライター)などということばはもはや死語となってしまったが、週刊誌の記事を大量に書くことと講釈の稽古に通うこと、それにたぶん幼少の砌{ルビ★みぎり}からの漢籍、というより『水滸伝』をはじめとした稗史小説の素養の所産であろう。『琉歌幻視行―島うたの世界』には「島唄の魔王」嘉手刈林昌との出会いを誌したくだりがある。

  ねじり鉢巻に大あぐらをかいた嘉手刈がやおら、大きなスコップのような左掌で、そこにあった三絃を把みとって、チン・テントンと絃を合わせるともう、右の掌から早くも音が転がり出て、うたになっていた。怪物を見るような目つきを、そのとき私はしていたと思う。(『琉歌幻視行―島うたの世界』)

この出会いが「琉球フェスティバル」という日比谷野音で行われた例年のイヴェントとCBSソニー、ビクター音産、日本コロムビアなどの島唄のLPへと繋{★字形差替え}がっていく。それらの実務を労さんは律儀に果した。四十代までは恋と酒と喧嘩に無頼の途を歩んだ嘉手刈林昌も七〇年の春、ぷっつりと酒を絶ち白髪の翁の相となったという。七七年の秋に私は前山、菅野等とともに岩永さんに連れられて沖縄を訪れたが、そのとき三日目にムーン・ビーチで林昌を見ている。どこやらの海遊び{ルビ★アシビー}の企画だろう、五十人くらいの団体の前に民謡クラブ「なんた浜」のメンバーが出演していた。林昌は白い半袖シャツにネクタイ、スラックス姿、どちらかといえば側でにこやかに三絃小{ルビ★ガー}弾いちょるという趣で、なんた浜のオーナー饒{ルビ★よ}辺{ルビ★へん}愛子、林昌の息子でまだ紅顔と言ってよさそうな林次が主に歌っており、宮城清子が舞っていた。清子が本当に綺麗だったと記憶している。私の見た嘉手刈林昌は労さんのつくったアルバムで聞いた「スゴい林昌」ではなく、一人だけ洋服で、一歩引いて若い連中のバックアップに徹している老人だった。その林昌もいまはない。
なんた浜には初日の梯子酒の二段目で出かけていた。三絃二本、ベース、パーカッションの構成で聞かせる、なんた浜のショーにはやはり林次が加わっていた。今では知らないが、当時のコザではディスコよりも民謡クラブのほうがずっと数が多かった。ただヤマト化の波は民謡クラブにも押寄せていて、たとえば男が三橋美智也風の着物に女が琉球風の髷を結って同じく着物というコスチュームは七〇年代以降に一般化したものという。それはさておき、泡盛は沖縄で飲むのに限る。新宿の西武門や慶良間で泡盛の味を覚え、その後いくつかの銘柄を試してやや多寡を括っていたのが恥しいくらいで、連日朝までの泡盛オンリー、いやもうすこぶるの美味であった。泡盛に沖縄料理、耳にテンシトリトテンと三絃、目に沖縄の美童{ルビ★ミヤラビー}ときてはこちとら飲ん兵衛言うことなし。沖縄の夜は遅く始り朝まで続く。飲屋も八時か九時から客が集りだし、十二時過ぎに調子が出てきて、朝まで開けているというところが多かった。今でもそうなのかも知れないが。その調子が出てきたという時刻になって照屋林賢がやってきた。さらにサロンに繰込んで朝方まで痛飲。なるほどこれがかの「沖縄タイム」の原因かと得心した。沖縄がこれほど綺麗な女人の多いところとはつゆ知らず、実際何日目か那{★字形切替え}覇の歩行者天国を行交う人並を眺めながらの小一時間、あの子が綺麗の、いや向うのほうが可愛いのと我等一同阿呆面下げて、目からは鱗がボロボロ、口からは涎がダラダラこぼれ落ちる為体{ルビ★ていたらく}を呈したものである。
訪沖二日目、具志川の名護さんの自宅敷地で琉球文化村開村式があり、毛{ルビ★モ}遊び{ルビ★アシビー}をやってみようということになっていた。我々が赴けば既に火が焚かれ、そこで喜納昌吉とチャンプルーズの面々らが集ってレコードを鳴らしていた。第一次島唄ブームをリードした楽譜集『工工四{ルビ★クンクンシー}』(通称滝原本)を滝原康盛氏とともに出した島唄界の長老、昌吉の父昌栄の姿も見えた。去年か一昨年アソシエ二一の雑誌で喜納昌吉が知名定男を批判していたが、このころすでに両者の間にははっきりした距離が見て取れた。かつて権力の禁圧をかいくぐって太平洋戦争まで生延びた毛遊びを偲びつつの文化村開村式、人数も多く、どうも毛遊びというより十五夜遊びのどんちゃん騒ぎに近付きそうな気配であったが、知名定男と大工哲弘を毛遊び頭とする我等一行は、焚火から二百メートルほど離れた砂糖黍畠の脇に居場所を定め、泡盛の紙コップを手にまずは思い思いの姿勢でひっくり返った。定男曰く「毛遊びってのはひっそりと目立たないようにやらなくちゃいけねえ」。夜だというのに空が青い。まさに「月の真昼間{ルビ★マピローマー}」という八重山の唄そのものである。あたり一面の虫声と砂糖黍畠を渡ってくる涼風、早くも大感動の前山に定男曰く「ノリの早い男だ」。暫くして定男と哲弘が三絃をつまびき始めた。当時のメモを見てみると、まず「御縁節」続いて「下千鳥」「ハンタバル」「ナークニー」「月の真昼間」とやって一休み。大工哲弘はスランプだったそうだが、定男言うところの「アイ・ジョージが後ずさりし上条恒彦が裸足で逃出す」朗々たる美声いささかも澱みなく、定男ももちろん絶好調、泡盛をグビリグビリとあけながらのコール・アンド・レスポンス、「もう一度やれと言われても出来んよ」という名唱が続いた。『琉歌幻視行―島うたの世界』を引いておこう。

  知名定男と大工哲弘、この二人の若いうたい手がいる限り島うたに絶望することはない。……(中略)……(知名定男は)すぐれたうたい手であると同時に、プロデューサー、構成者としての才能を持っている。作曲家であり作詞家でもある、そして何にもまして、ふるさと沖縄への熱い心がある、したたかな庶民の生きざまを、ブルーズをうたうことができる。若手の中で嘉手刈林昌に、その魔のごとき名唱にせまりうる者があるとしたら、知名定男をおいて他にはないのだ。……(中略)……(大工哲弘は)ひょっとすると不世出の大歌手と自他ともにゆるす師匠の山里勇吉をすらこえているのではないかと(いくぶんのひいき目をまじえて)私は思うのである。すくなくともその力強さ、素朴さ、生活感において、島うたの本然の姿に迫りえているのだ。技術をしのぎ情念をすらしのぐもの、それは生活者の感覚である、まさに祖{ルビ★おや}たちがうたうように大工はうたうのである。(『琉歌幻視行―島うたの世界』)

そうだ、祖{ルビ★おや}たちのように―{★天地200パーセント拡大}。我等一同は訪沖二日目にして戦後世代の実力者双璧の名唱に際する幸運を得たが、当夜の定男をかくも張切らせ哲弘を燃上がらせたもの、それは外ならぬ毛遊びへのおもいであった。沖縄を離れるまでの日々、更にはキャニオンでのレコーディングで来日したときも、定男は幾度となく既に祖たちの世代で潰えてしまった毛遊びへのあこがれを語った。定男も哲弘も林賢も毛遊びを知らない世代であり、それゆえにこそ島唄、とりわけ春歌や狂歌の原点たる毛遊びへの想いを断ちがたいのである。毛遊び、直訳して野原遊びとやってしまっては身も蓋もないが、かつて南島にくりひろげられた若者のフリー・ラヴ・コミュニティの謂である。一日の野良仕事が終り、夕餉も片づいた日暮時から、気のあった者同士が三々五々と砂浜に、あるいは砂糖黍畠の中へと集って三絃をつまびき酒を飲み、うたい愛し合ったかつての良風今はなく、有数の毛遊び頭であった定繁を父にもつ定男など、話はさんざん聞かされてはいても、もはや毛遊びを見ることもできない。とりわけあくまでもうたい手としてあることを第一義にとこころざす知名定男にとって、唄の中でいつも出会っている毛遊びへの期待、「どうなるかわからんが、ともかくはやってみよう」という想いはやはり大きかったことだろう。結果は、私の知る限り、途中で席を抜出して一時間ほどの後、やや腰をふらつかせながら帰ってきたカップルが約一組出たのみであり、定男の毛遊びへのイメージも形を取ることはなく、後から長谷川ひろしや加藤登紀子も加わっての「なごやかな開村式」にその晩はあくまで終始したのだった。
その年の一二月、すでに一枚目のメイジャー・アルバムを成功させていた喜納昌吉とチャンプルーズ、遂に中野サンプラザに登場。昌吉の歌声あくまで雄渾、またチャンプルーズの三人の美姫あくまでもあでやかに、超満員の客席を相手に一歩も退かずの二時間半であった。ステージにのぼってカチャーシーを踊った人びとの殆どは若いウチナンチュであったと思うが、彼等がスピード感溢{★字形切替え}れるステージと押せ押せで迫るチャンプルーズのパワーを堪能したことは確かである。カチャーシーといえばステージ上のヤマトンチュ、あらかたラインダンスかゴーゴーのごとくであったが、名護さんによれば一般にヤマトンチュが踊ると盆踊りか阿波踊りになるとのこと、それはともかく昌吉が民謡の大事なるべきを説き、かまわねえからじゃんすか乗れと煽{★字形切替え}動してもあらかたのヤマトンチュはちんまりと腰を下ろして拍手を送るのみ、シティ・ボーイにシティ・ガール、ニュー・ファミリーとやらが蔟生した七〇年代後半の東京、ナウな感性というやつは行動的な共同性に関与する途をあらかじめ塞いでおり、自然発生的な能動性などかけらも見当らないかに映る情況は中野サンプラザも例外とすることなく貫徹していた。とまれ昌吉たちの公演は大成功の裡に終った。知名定男のレコーディングも順調に進んでおり、翌年には、コザ暴動でアーミーの背をナイフで突刺して逮捕されたカッチャンをリーダーとするロック・バンド、コンディション・グリーンの東京登場も予定されていた。沖縄ブームが来るかもしれない、七〇年代前半、労さんが踏ん張って東京に播いた種がようやく大きな実りをつけようとしているのかと思った。
しかし、そうはならなかった。定男のアルバムは島唄とレゲエやブルース、ロックを融合させた斬新なものだったが、商業的な成功には結びつかなかった。八〇年代にどこかの航空会社が沖縄旅行のキャンペーン・ソングに定男の「バイバイ沖縄」を採用したくらいか。コンディション・グリーンの東京登場は惨憺たる失敗に終った。「何が起るのか」と固唾を飲む雰囲気は三十分ほどで消え、舞台廻しが冗長に感じられてくる内にステージ上の四人もやりきれなくなっていくのが見て取れた。確かに彼等はビビっていた。コンガは客席に落してしまうし、人間ブリッジは忽ち崩れ落ちてしまった。ハブが瀕死の青大将に変り、刃物と火の使用を禁ぜられ、しかし、それ以上に沖縄でアーミーを前にしているときの彼等と違っていたのは、客が逃げ廻るほどの暴力性を持つバンドが愛嬌をふりまくニコニコ・バンドに近付いてしまい、しかもそれが空転していたことにある。生ギターの弾き語りが出るに及んで前山(彼はコルトレーン、山下洋輔トリオに続く衝撃の出会いとして辺野古のコンディションを挙げていた)はトイレに遁走した。終演後、前山やキャニオンのディレクターら顔見知りとの酒はお通夜みたいな雰囲気だった。
沖縄ブーム到来どころではなかった。コンディション・グリーンは間もなく解体した。チャンプルーズがバラけたと聞いたのもいつであったか、當山安一は地元で沖縄ナショナリズムを掲げて嫩{ルビ★わか}い衆を集め頭目に納ったと風の噂{★字形切替え}に聞いた。定男は八〇年代以降、もはや自身で東京に攻込むという姿勢は見せず沖縄ローカルの音楽家という地位で自足したようだ。もっとも定男のプロデュースしたネーネーズは八〇年代末から快進撃を開始したし、一皮剥{★字形切替え}けて逞しくなった照屋林賢のりんけんバンドも九〇年代には怒濤の勢いを見せた。だが七〇年代の連中で「本土」でもメイジャーの地位を確保し続けたのは喜納昌吉唯一人だけだった。
七〇年代末、客の付けが多すぎるのに閉口した私は店を畳んだ。常連達もゆるやかに散開していった。編輯の仕事も縮小し、労さんに会うこともあまりなくなった。私は行動者の世界から百パーセント足を洗ってしまい、八〇年代中葉から六年間、図書館に籠ってしまう。

一九八七年労さん五七歳。一月、「マタバ/環太平洋国際革命家フォーラム」準備委員会のためリビアへ。二月、フィリピン革命一周年取材に東南アジアへ。四月、リビアで開かれたマタバの議長として基調報告。帰国途中立ち寄った大英帝国では査証拒否強制退去。八月、三井記念病院入院。胃癌、肝硬変、重度の糖尿病に食道静脈瘤も発見され余命三年長くて五年の宣告を受ける。九月、『美空ひばり』(朝日文庫)上梓。一二月、「緑の書シンポジウム」予備会議のためリビアへ。
八八年一月、リビアで開催された緑の書シンポジウムに出席。六月、胃痙攣、呼吸困難、肝性脳症を併発し三井記念病院に緊急入院。腹膜炎も併発し入院一箇月。このころか、テレビで労さんを見て、そのあまりの窶{ルビ★やつ}れぶりが信じられなかった。元気だったころの労さんの半分くらいの横幅しかなかった。
九一年一月、「唄白書九一/南島歌謡論」取材のため沖縄・奄美へ。二月、「沖縄・魅惑のサウンド」(NHK衛星テレビ)のため沖縄へ。「たまと世紀末」(NHKラジオ)を語る。三月、「実践ルポライター入門」(『ダカーポ』)連載開始。四月、遺言書を作成。「通夜葬儀一切無用、死に顔は見せるな」。「島うた特集」(『エスクァイア』)取材に沖縄へ。『ダカーポ』『噂{★字形切替え}の真相』連載休止。那{★字形切替え}覇で食道静脈瘤より出血、三井記念病院に再入院。五月一九日二一時五八分、肝臓癌のため死去。享年六一。
労さんは老荘風の東洋的アナキズムを標榜し、小国寡民の分立を理想としていた。が、自分の目の黒いうちに何らかの展望などが生じようとは信じていなかった。労さんには琉球独立の現実的なプログラムなどなかった。いや、そんなものは当面絶対にないのだということを肝に銘じていた。その上でまぼろしの琉球共和国に理会し、最後まで一味同心しようとしていたのだ。

  ……俺はユミヌ・チョンダラーだ。琉球の独立を、まぼろしの人民共和国、汎アジアの窮民革命をゆめみる。
  政府なき国家を、党派なき議会を、官僚なき行政を、権力の廃絶のための過渡の権力を。
  琉球共和国を……、ゆめみる。

[図版キャプション]
コンディション・グリーンのシンキ
コンディション・グリーンのカッチャン
コンディション・グリーンのエディ
{★三枚の画像を一緒につかってください。}実際のキャプションは「コンディション・グリーンの、左から……」という具合に。
そしてそのキャプションの末尾に改行して次の文章を入れてください。「琉球とは差別の重畳し錯合する島弧でもある。鹿児島が奄美を差別し、奄美がより南の島を差別する心性は、沖縄本島と奄美、本島と宮古、八重山、石垣との間にも、先島相互の間にも見出される。本島における米軍相手の商売は、娼婦からロック・ミュージシャンに到るまで、先島出身者を抜きにしてありえなかった。コンディション・グリーンも一人を除いて先島出身だった。」

知名定男と前山博志。セラヴィ店内にて。

PFLPのポスターを背に照屋林賢。当時はまだ白皙細身の美青年だった。セラヴィ店内にて。

左から宮城清子、嘉手刈林次、嘉手刈林昌。

饒辺愛子と宮城清子。

写真はいずれも撮影=菅野英二

コメント(2)

何年か前の『理戦』に掲載しました。
■府川充男様。徳島の小西昌幸です。
■良い文章を読ませていただきました。これが今度の単行本に収録されるのですね。以下のことはどこにも書いたことがありませんが、この際なので書かせていただきます。
■私は学生時分、「アジア懺悔行」の名古屋での上映会であいさつをする竹中労さんを拝見したことがあります。催しのあとそばに行き、握手していただきました。
■ちょうど石井輝男さんの「恐怖奇形人間」を見たあと(翌日?)だったので、「『恐怖奇形人間』を見ました。面白かったです」と随分飛躍したあいさつになりました。労さんは「そうですか」といってしっかり私の手を握り返してくれました。ふくよかな暖かい手でした。たったそれだけの対面でしたが、当時『キネマ旬報』の連載をしっかり読んで、強い共感をおぼえていたので、大変印象深い思い出になりました。今でも手の平の感触を覚えています。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

新生!琉球独立党 更新情報

新生!琉球独立党のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング