ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

離島・田舎の医療コミュの奄美水害で消えようとしている診療所があります(追記あり)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
今、奄美にある最大の被害を受けた住用地区に唯一ある診療所の灯りが消えようとしています。
まったくの想像ですが、離島医療でどれだけ儲けることができるでしょう。
正直言って赤字だと思います。
そんな中で高額の医療機器を借金して購入してドクター、奥さんが看護師として共働きで必死に離島の医療を支えてきたのだと思います。

住用の避難所にいる一人の少女が、テレビでインタビューに答えていました。



テレビが


「お父さんお母さんに会えなくて寂しくないの?」



「少女は、お父さんお医者さんで頑張っているから私も頑張るの。。。。。。。。。。」




多分、激甚災害の指定になると思いますが、個別の住居の補償が300万円です。

残念ながら事業所の補償はありません。

300万円じゃ医療器具をそろえることは不可能ですよね。

結局のところ、このままでは、この診療所は間違いなく倒産せざる得ないのです。

なくなってしまえば、年金暮らしのお年寄り達は高額な交通費を負担して遠くの病院に通わなきゃなりませんが、残念ながら年金で、その交通費を捻出することはできないでしょう。

診療を断念して寿命を縮めることにならないでしょうか。。

私は、なにがなんでも、この診療所がなくなることを認められません。

全国から義捐金が集まっているでしょうが、それは被災者が当分に分けるために医療機器が買えるほど診療所に渡らないでしょう。

だから、この診療所を皆さんの力で救ってもらえないでしょうか。

金銭的な援助は、ちょっと無理という方は、この現状をMIXI日記、ブログ、ツイッターなどでいろんな人に伝えることだけでも大いに価値があることです。

いや募金より今は伝えることの方が大切かもしれません。

多くの人に伝われば微々たる募金を集めても何千万円という医療機器は揃わないですが、政府がなんらかの支援に乗り出すかもしれません。

協力してください。

この日記や下記のブログを、そのまんまコピーしても構いません。

祈るような思いでお願い致します。




診療所を応援しにいっている医師からのブログから引用します。
災害3日目に当たる昨日の朝、大きな問題なく当直を乗り越え、
私の連続勤務25時間目にさしかかった時、初めて被災地の医療情報が入りました。

院長『住用町(最も被害が深刻と言われる町)は、医師が野崎先生1人のようです。
   この2日間2時間しか寝てないとの連絡が入りました。
   2人くらい医師を派遣してくれないかとの要請です。
   行ける先生はいますか?』

『行きます!』HOT先生、Natu先生、自分の3人が同時に答えました。

住用の被害が大きかったことは知っていましたが、
現場の医師が1人とは知りませんでした。
同じ島にいながらも、交通、通信の途絶えた地域から正確な情報は
伝わっていませんでした。

1時間程度で必要最低限の医療資機材を集め、医師3人、看護師1人、
ドライバー1人のチームで現地に向かいました。

住用にある体験交流館(住用地区最大の避難場所)に着き、
真っ先に野崎先生と合流しました。
我々の到着より少し前には、赤十字から医師1人、看護師3人、
事務3人が到着していました。

野崎先生『連絡が取れず、状況が分からない集落があるんです。
     グループに分かれて集落の人々を診て来てくれませんか。』

HOT先生、Natu先生、赤十字のDrに、それぞれ看護師、
役所からのガイドで3チームを編成し、集落の訪問をスタートしました。

私は体験交流館に残り、2日間を2時間の睡眠で戦っている野崎先生には、
大島郡医師会病院までドライバーに送ってもらい、休息をとってもらうよう
お願いしました。
しかし、野崎先生は、目の下にクマをつくり、憔悴しきりながらも、
現場を離れて休息を取ることを中々承諾してくれませんでした。

野崎先生が何とか承諾したものの、看護師である野崎先生の奥様は、
同じくまともな休息を取っていないにも関わらず現場に残るとおっしゃり、
野崎先生が休息から戻るまでのあいだ、100人の被災者1人1人に声をかけ、
怪我、体調不良、持参薬があるかの確認を共に行ないました。

夕方までに、急性心不全、狭心発作、脳出血疑い、発作性心房細動、
多発肋骨骨折、COPD急性増悪の6人の患者を名瀬の医療機関へ搬送させ、
数百人の安否確認、数十人の診療を終えることができました。

全集落の内、半分の集落は翌日訪問する計画を立て、
19時前には、医療チームを一旦休息に返す方針となり、
体験交流館には当直を立候補した私と、薬剤師1名、薬局事務1名、
看護師1名、保健師2名を残し、他の全医療者が撤収しました。

撤収組の中でも、最後まで現場を離れなかったのは、5時間の休息で現場に復帰した
野崎先生と、コーヒーを飲みながらひたすら働き続ける野崎先生の奥様でした。
結局、21時頃まで患者の定期薬を処方し続け、ほぼ全患者の定期薬を
処方しきったところで近くの民家へ休息に移動されました。

昨晩の急病者は軽症の数名に留まりましたが、畳に毛布という環境での睡眠は
非常に浅いもので、何度も雨の音、突風の音で目を覚まし、熟眠感は0でした。
被災者の方達も同じく、この環境の中、3日目の不安な夜を越えました。

大きな問題なく本朝を迎えましたが、自分の連続勤務は48時間に達しており、
疲れはジリジリと蓄積していました。

朝10時から、医療チームに消防代表、自衛隊代表、役所の代表を交えて、
本日の医療活動についての会議が行なわれました。

本日は、7つの集落をまわることとなっていましたが、昨日の予定とは
いくつかの変更がありました。

市(いち)、戸玉(とだま)の集落は道の寸断により陸路でのアプローチが
不可能だったため、海路でのアプローチを検討していましたが、
天候が悪過ぎて舟が出せない結論に達していました。
結局のところ、自衛隊のヘリコプターにより医療チームが入ることになり、
HOT先生が率いる1チームがヘリに乗ることとなりました。

残りの5集落は住人が多かったのですが、本日、飛び入りで現地入りした
南部の保養院と、本日から予定通り現地入りした徳之島徳洲会、私の所属する
大島郡医師会病院と、日赤で混成チームを作り、計4班で集落をまわることと
なりました。

私の率いるチームは比較的被害の少なかった美里集落をまわることとなり、
47世帯を一軒一軒まわり、安否と傷病者の確認を行ないました。

昨日とは違い、本日はどの集落にも重症患者が出ず、緊急搬送は0で
夜までを乗り切りました。
また、夕方からは職員の健康チェックを初めて行ない、数十名の診察を
することができました。



            ↑診療のために私たちが運び入れた物資

災害4日目の今日、医療チームにより1600人を抱える住用地区の全集落の訪問を終え、
重症患者の搬送をやりきっただけでも上出来だったと思います。
しかし、被災者は、24時間体制の医療を受け、さらには持って逃げれなかった
定期薬が行き渡りました。

この規模の災害で、被災者が定期薬の処方までしっかり受けることができたのは、
日本でもおそらく前例のないことでしょう。
それらを実現できたのは3つの要素によるものでした。

1つ目は、元々無医村だった住用町に野崎先生は唯一の医師として診療所を
開かれており、6年間、1600人の町人の健康を1人で守り続けたため、
被災者の多くを元々把握していたということ。
野崎先生のカルテには、多くの患者を把握するために、一人一人の顔写真が
添付されていました。

2つ目は、野崎先生の診療所のとなりに開業する、住用薬局が災害3日目には
薬局としての機能を果たせる十分な薬剤を体験交流館まで搬入し、
薬剤師を含む職員が徹夜で調剤を手伝ったということ。

3つ目は、野崎先生がノートパソコンの電子カルテを避難所に持って来ていた
ことでした。

これにより、町中の患者の正確な処方内容を把握することができ、
薬を持って逃げられなかった多くの患者に定期薬を処方することができました。

ここで、伝えなければいけないことは、野崎先生、住用薬局職員自体が
被災者であるということです。

野崎先生の開業されている住用診療所と隣の住用薬局は、マスコミで繰り返し
放送された車がプカプカと広場に浮いている住用支所からわずか200mの場所。
住用地区に多量の土砂が流れ込んだあの日、普通に仕事をしていた住用診療所
には、外から『逃げろー!!』という大きな声が響き、あっというまに土砂が
診療所、薬局内に流れ込み、数十分で頭上の高さまで水浸しとなったそうです。

1年前に買った車が沈み、診療所、自宅が壊滅的な状態になるのを目の当たりに
しながら、銀行通帳も、印鑑も持たず、靴も履かず命かながら野崎先生が
とっさに持ち出したものが、この電子カルテだったのです。

そこからは、睡眠を取った2時間を除き、2日もの間、電子カルテをもとに、
唯一の医師として孤立した1600人を守り続けました。

果たして自分だったら、他の貴重品も持たず、カルテを持って逃げたでしょうか。
私は今まで、優秀な医師というものを沢山見て来ましたが、
“この先生のようになりたい”と、本気で思った医師はいませんでした。

でも、今は野崎先生のようになりたいと本気で思います。
これほど患者を想う医師に今まで出会ったことがありません。
正に医師の鏡だと、そう思います。

一番上の写真は左から、野崎先生、奥様、そして、
徹夜で調剤を続けた薬剤師の波多さんです。

私の連続勤務は、58時間でひとまずの休息をいただくことになり、
今夜、久々に家に戻りました。

明日は朝から再び現地に入ります。
被災者も、救助者も、今が頑張るべき時なのだと思います。

ブログを見て下さっている奄美の方々、ちばりましょうね。
昔からしてきたように、皆で手を差し伸べ合って復興しましょう。
固い絆で結ばれた奄美ならできますよ。絶対。
皆、自分にできることを探しましょうね。
http://ameblo.jp/konoshimanotameni/

October 29, 2010
現在の住用診療所
テーマ:豪雨災害



本日、休みを取って住用にボランティアに行っていたHOT先生より
住用診療所の被害状況が写真に収められました。

写真からは分かりにくいのですが、頭上を大きく越える高さまで浸水の跡が
残っていたようです。
浸水の高さも、土地により違いが有ったようですが、“頭上”というのは、
聞いた中でも最悪の浸水です。




診療所に揃っている電子機材から、野崎先生が地域で出来る限りの医療を
提供しようと尽力されていたことが伺い知れます。

胃カメラ、レントゲン、滅菌装置、心電図などなど・・・

レントゲン写真を取り込むコンピューターのみ保険がきくそうですが、
その他の高額な医療機器は、全損とのことです。

医療者の方はご存知かと思いますが、医療機器ってなぜこんな高いの?
と、思うほど高価なものばかりです。
精密さや、安全さなどを追求していくと、どうしても高額になるのだと
思いますが、新車のポルシェが買えるくらいの値段のものなんて
ザラではないでしょうか。




ここのところ、日に日に電話の声からも疲れが感じられる野崎先生です。
しかし、休日なしの診療を続けながら、診療所の復興も同時に行い、
肉体的にも、精神的にも辛いはずなのに、絶対に弱音を吐かれません。

なぜここまで強く気丈にいられるのか?

災害後の野崎先生を見ていて、いつもそう感じていました。
職場と自宅と愛車が壊滅的な被害を受けて、愚痴1つ言わずに働き続ける
人がどれだけいるでしょうか?

やはり、元々無医村だった町を、6年間1人で守り続けるということは、
大きな責任を感じながら、生半可な気持ちで出来ることではないのでしょう。

だからこそ、頭上まで流れ込む濁流の中で、カルテだけを濡らさないよう、
落とさないよう、必死に守って逃げられたのだと思います。


住用診療所復興義援金は、『小額ですが・・・』と言いながら、
私の周りだけでも続々と協力を名乗り出ていただきました。

いつの日か、野崎先生が通帳を打ち出すとき、彼を一番励ますのは、
貯まった“額”よりも、応援をして下さった人々の“数”なのではないかと、
私は思っています。

多くの人々が住用診療所を応援していると伝わることが、
情に深い野崎先生の、復興の原動力になるのではないでしょうか。

応援をしたいお気持ちをお持ちの方は、是非、募金にご協力下さい。
そして、すでにご協力下さった方、本当に有り難うございました。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

住用診療所復興義援金口座

奄美信用金庫
長浜支店 普通 0129388
ギエンキン スミヨウシンリョウジョ ノザキ ヨシヒロ

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

11月24日追記
http://ameblo.jp/konoshimanotameni/
住用診療所復興義援金の最終結果
テーマ:豪雨災害

多くの方々から、ご支援をいただいた住用診療所復興義援金の公募は、
11月20日をもって終了となりました。

最終金額は297万9765円

日本全国から温かい真心が積み重なり、ここまで数字を引き上げました。

ご協力して下さった皆様、本当に有り難うございました。

住用診療所は、民営なのですが、スタートは公設であったため、
再出発に関しても行政からの援助を、ある程度は期待できるのかと思います。

しかし、当然損害の全ては賄えないので、この度、ご支援いただいた義援金は、
大切に復興の資金として当てさせていただくことになります。

現在も、避難場所となった体育館での診療が続いているのですが、
2~3週間で西仲間の仮設診療所に引っ越しが検討されております。

そこからは、じっくり時間をかけて再出発の準備がなされるようです。

そもそも、元々の診療所は、20年前の水害でも浸水があった建物であり、
立地からの再検討が必要かと思われます。

元々老朽化していた建物が、天井近くまで土砂に浸かった訳で、
衛生面から考えても建物自体の引っ越しが必要になるでしょう。

さて、そうなると、完全に再出発するまでにはかなりの時間を
要すると思いますが、話が進む都度、このブログで状況の報告を
行なって行こうと思います。

この義援金が、どのように使われ、どのように地域の人々を支えるか、
しっかりとレポートさせていただこうと思います。

最後に、野崎先生より、ご支援いただいた皆様へのコメントを
掲載させていただきます。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

このたびは多くの方々よりたくさんの義援金を頂き
こころから感謝もうしあげます。

10月20日、記録的豪雨による災害発生直後から、わだつみ苑の取り残された
入所者と彼らを必死に両手で2時間以上もつかんでいた男性職員の方の
救助のため携帯での連絡(夕方には不通)、救助後は頻回のよってみ停への
往診。その帰りに寄った診療所と自宅の壊滅的な状態。

 私は喪失感を感じる間もなく、検死のために真っ暗な中変わり果てた診療所の
中で泥水をかき分け、定規や注射器、針、パッキングされたガーゼなど使えるものがないか探していました。

 定期薬を切らした方は翌日からおられ、ともに避難した薬局の波多先生のおか
げで定期薬を3日ずつでしたが処方して渡すことができました。避難時に骨折さ
れた方もおり、臨月の妊婦もいることは孤立した状態でこれからどうなるのか不
安でした。おまけに妻とは往診しているあいだに、はぐれてしまいました。子供
たちは学校に足止めになり学校で避難生活することになりました。私がいないあ
いだ妻は骨折の方の応急処置をしたあと炊き出しに西仲間の公民館から見里の公
民館に薬局の方と行っていたようで一晩会えずに携帯もつながらず心細かったで
す。ところどころでがけ崩れが発生したようで情報もなくただひたすら名瀬の街
へ優先して搬送すべき人は誰か考えねばなりませんでした。透析の方や私が検死
中に産気づいた方、骨折した方などがけ崩れの横の陸路を歩いて行ってもらうこ
ともありました。

 10月22日、NTTのおかげで電話設置され、施設入所者の患者受け入れ先に電話を
かけまくりました。医師会にも次週週3日の医師支援要請(私自身も災害モード
になっていなかった)し、保健所長には災害時の保険診療の件で電話をかけまし
た。その日の午前中に日赤の医療チームと医師会病院、徳州会の救急医が
駆けつけてくれました。「とりあえず眠ってください」といわれ仮眠をとりました。そのあいだも妻は避難所を回診してくれていたようです。

 救急医の皆さんは初期の対応がすばらしかったです。災害時の戸別訪問、安否
確認や救急判断、患者搬送に関する取り決め、マスコミ対応や早急な職員スタッフ
の健診、インフルエンザ予防接種、義援金等私ひとりではできないことを一挙に
推し進めていただきました。
 
 私はひとりでこの住用町をみているつもりでしたが一人では成し得ないことでした。多くの方々に力を合わせることの大切さをおしえていただきました。その後も開業医の仲間や徳州会、保養院、中央病院、県病院、ICLSの皆さんにもいっぱい協力いただきました。住用町のためには私一人ではなく、みなさんの協力が今後も不可欠なのだと思い知らされました。

 あっという間に1ヶ月がたちやや落ち着きがもどりました。診療所の復旧にむけ
てやっと時間を取れるようになりました。公設の診療所なので国保年金課の方に
所手続きをしてもらっております。この1ヶ月間は多くの皆様の善意をこれまでの
人生の中でもっとも濃密に頂いた期間でもありました。

 これからは自分だけの住用ではなく皆さんの住用でもあります。皆さんの義援金
を皆さんの住用のため大切に使わせていただきたいと思います。まずはお礼まで

*********************************
    野崎 義弘
 奄美市住用国民健康保険診療所
   amami1@nozaki-y.com
**********************************

コメント(1)


その後いかがでしょうか? 気にしております。

               奄美瀬戸内ダイビング宿愛する白鳳

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

離島・田舎の医療 更新情報

離島・田舎の医療のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング